
お知らせ
3月31日~小田まゆみ作品展 於:清滝ギャラリーテラ - 2012.02.20
2月5日 東京・中日新聞に『プルラモン』が紹介されました - 2012.02.06
第23回 文学の泥棒について - 2012.02.01
第23回 2012年2月
文学の泥棒について
鈴木創士
ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』
「いわゆる剽窃」という文章のなかで、林達夫は、輝かしき理論家だった三木清をこともあろうに人の著作を盗んだ破廉恥きわまる「剽窃家」として弾劾した仮借ない批評家、眉目秀麗(かどうかは私は知らないが)にして頭脳明晰な(この場合は、自分が間抜けであることを知らない単なる形式主義者という意味だ)女性警世家をたしなめたことがあった。つまり剽窃的行為を文化的観点からそれなりに擁護することで林達夫はその文章をやんわりと始めているのだが、その一方で、学問の共有と私有という観点からすれば、学説や思想も資本主義社会においては商品となったのだから、剽窃は一種の財産的犯罪であり、この文化的共有と所有権は資本主義社会においては矛盾し続ける事柄となってしまうと言うのである。つまり氏は、剽窃は多くの場合正当な、あるいは伝統的な行為には違いないが、自分もまた職業的作家(つまりそれで生計を立てている人)であり、著作権所有者であるという矛盾に引き裂かれているわけである。
だが、林達夫ほどの批評家であれば、物書きとしての自分の首を絞めかねないこれらの危険な両領域に知識人としてきわめて良心的に目配せを怠らないのは当然の話かもしれない。
だが、そうはいってもだよ、諸君! かいつまんで言えば、剽窃的行為に目くじらを立てるのであれば、そもそも「文化」や「学問」など存在できなくなる、それにそれらがいったい何ほどのものなのか、物を知らないにもほどがある、と氏は感じていたに違いないし、実際それを随所に感じさせる文章の仕儀となっているのだけれど、まあ、そういうところが第一級の知識人だった林達夫らしいと私は思うのである。知的な面では言うまでもなく、多くの点で洒脱な林達夫のことだし、このエッセイのそもそもの動機は、明らかに、衆人環視のなかで囚人を監視するようなことは、いくら篤志な批評家であれ実際は軽蔑に値するのだということをあえてそれとなく言うことにあったと私はあえて誤読しようと思っている。誤読? あ、あ、あ、正直に言えば、私はそんな風にはまったく思ってはいないし、誤読もまた一種の剽窃と言えないこともないのだから、それが味噌であることは読者である皆さんをさておいて私自身が先刻ご承知なのである。ちなみに、漱石もどこかで剽窃について擁護していたが、こちらのほうは、私の記憶が定かであれば、杓子定規で、生ぬるいものだった。
だが林達夫が言外に臭わせているとおり、「剽窃」はじつに奥深いものであるし、この点では、申し訳ないのだが、私はこのエッセイの林達夫を剽窃しようとは思わない。私が剽窃したいのはジャーナリスト出身である現代フランスの博雅の作家ジャン=リュック・エニグのこの上なく確信犯的な『剽窃の弁明』である(もうかなわないことではあるし、言わなくても不可能であることはわかってはいるが、林氏には、もう一歩すすんで、つまり遥かに確信犯的に、ぜひともこの本の書評でもやっていただき、それをゆっくりと読んでみたかったものである)。
剽窃とは一種のポエティックである。人にもよるが、人の文章、それも「ぶよぶよの大頭ども」(イジール・デュカス)が結局は絶対に書けないような形で誰かの文章をかっぱらってくることは、ひとつの詩の技法である。あたりまえの話だが、不良は不良行為に習熟しているものである。もちろん剽窃の対象としてはぶよぶよの大頭の書いた文章を盗んでもいっこうにかまわないし、剽窃の相手は人間が書いたものである必要すらないのだが…。
剽窃の弁明! これこそソクラテスの弁明に匹敵するものではないのか。私はこのエニグの本がとても好きである。思い出したらぱらぱら読むことにしているが、読むたびに新たな発見と、たまには言い知れない悦びをもたらしてくれる。勿論、解説や要約は阿呆のすることだから、私はここでこの本の要約をやるつもりは毛頭ない。第一、私にはその能力がないし、あらゆる「変則的書物」はまずは要約を峻拒する態のものであるからだ! 実際、本書には、随所にじつに味わい深くて、閃光のようにすばやい考察と、そして言うまでもなく目の覚めるような剽窃と引用がちりばめられている。文章に限らない。文章家は縫い子でもある。モードは儚ければ儚いほど完璧なのだから、ココ・シャネルは自分のデザインを盗まれても一切動じることがなかった。言葉、色、光、音、石も木も青銅も生きている芸術家のものだ、ルーヴルを略奪せよ、くたばれ、オリジナリティー!(バロウズ)、というわけだ。だがココ・シャネルもエニグの本も含めて、これほどのオリジナリティーにはめったにお目にかかれるものではないではないか。違うだろうか?
というわけで、細部に立ち入ることはこの本の妙味を損なう裏切り行為なのだから、著者の冒頭の決意表明だけを次に引用することに――あまり秘密をばらさないために、あえて著者の言い草としてはかなり平凡な箇所を引用することにする。その前にあえて言い添えておくなら、誰が書いたかということをここでみんなにばらしているわけだから、これは引用には違いないのだが、広く平たく言えば、まったく別の文脈とリズム的錯乱のほうへ人の文章をかっ攫ってしまおうというのだから、そして著者の涙ぐましい思考の筋道、その緊張の糸を無残にも断ち切って、オデュッセイアの魔女の煮こごりみたいにいかがわしい別の釜に入れてゆでて冷まして人の文章をゼラチンみたいに固めてしまおうというのだから、引用もまたひとつの立派な剽窃なのである。もちろん皆さんがよく目にする立派な著者の立派な「学問的引用」には、自分の貧しい文章を権威づけるためであることが見え見えの場合があり、これほど恰好の悪いことはない。
という次第で私はここに、現代のぶよぶよの大頭ども(ロートレアモンの言葉)に向けて手短な美学を、つまり剽窃のエロティシズムを素描したいと思う。というのも、私はこれまで剽窃し、また剽窃されてきたが、この〈オカマホリ〉! とか、よくも魂を奪ったな! とか、俺の実体を盗みやがって! とか、そんなくだらないことを叫んだためしはないからである。私は他人の傘下で、他人の傾きに沿って、他人の仕立てで(縫い子が言うような意味において)それぞれの本を書いてきた。しかしそこにはまた手当たり次第、気の向くままに耽った周辺的な読書の記憶が加わっている。そうした読書のなかで私は文の断片を、ときには語を掠め取ってきたが、こんどはその掠め取った文や語のほうが、知らぬがままに行きたがっている場所へと私を引っ張っていってくれた。こうして、すでに書かれた文が、私の未来のエクリチュールになっていったのである。というのも、文章はつねにそれ固有の意味以外にも無数のことを語っていて、剽窃とはアナモルフォーズ〔意図的に歪めて描いた絵画〕の技法以外のなにものでもないのだから。(『剽窃の弁明』、尾河直哉訳)
ところで、実際には剽窃と引用はどこが違うのか。
あるいは、もっと先にまで行くなら、剽窃の機微のなかを深く潜行するならこういうことになる。剽窃とはあえて偽装された引用、あるいは不当きわまりない引用に他ならない。それは名乗らない引用なのだから、「第二の手」、それ以前の手によって残された痕跡を消す「第二の手」である。手淫をやるかどうかはまた別の問題である。普通の引用とは違って、ここでは著者の名前は隠蔽されたり、騙し取られたりして、どこかへ消滅してしまう。残るのはただ、砂に埋もれたように行方不明になったテクストの記憶だけ。したがって実のところわれわれの眼前にあるのは、作者のないテクストか、テクストのない作者なのである。
例えば、ボルヘスのように、嘘の作者、間違った自分からの引用、存在しない書物からの引用だってあるじゃないか。剽窃者はまるで略奪者であると同時にその獲物のようなものであり、女神の裸を見てしまったがために自分の猟犬に噛み殺されるアクタイオンであり、自分を消して文によりよく同化するためにのみ文を横領しているみたいである。いい眺めである。何故に自分を消したいなどと思うのか?
結局のところ、西洋の最近の有名人に限っても、モリエールやサド、モンテーニュやスタンダール、ネルヴァル、ミュッセ、ボードレール、ロートレアモンから、コンラッド、サンドラール、バロウズ、ソレルス、ブレヒトにいたるまで、他人から盗もうとしているのはじつは自分なのだ。たしかにそうである。作品の背後に姿を消すことと、自分の思考を追いかけることはここではまったく矛盾しない。
ちなみに、ソレルスの訳者としてソレルスの勇気を讃えてぜひとも言っておきたいのだが、句読点のまったくないソレルスの『H』という小説には、ヘルダーリンについてのピエール・ジャン・ジューヴの文章が、引用符も著者名もなく句読点を抜き取っただけで、そのまま何十行か盗用されていたはずである。
自己に対する、自己についての、闇雲の、あるいは殺気立った、親密なるアポカリプス的啓示(暴露という意味で)は、その度ごとに、自己喪失という形で成就されざるを得ないわけである。まるで剽窃者は自己のなかにもともと己れそのものの消失を準備しているみたいではないか。またまたいい眺めではある。すべてが逃亡の一事をひたすら夢見ているかのように。だが人は何から逃亡するのだろう。そこまで行くと、こういったことはどれも、もともと書くということの出発にあったもの(それがほんとうに欲望なのかどうかは私は知らないけれど)と見分けがつかないようにも思えるのである。
一方、引用符のなかに入れることによって、引用は借用してきた恩義を打ち明ける。これはある観点からすれば時間的にも金銭的にもかなりの恩義、また別の見方をすれば安上がりの恩義だが、それによって思考による不法侵入をいわば保障しようというのである。だが、そうは言っても、引用による「容喙」は一種の妖怪を生み出すこともたまにはあるのだし、引用によって聞かれもしないのに横から唖然とするような差し出口を挟むことは、こちらが辛抱さえすれば、話を終らせないで、別の話にすり替えてもらうことでもある。それはそれで結構なことである。
大急ぎで断っておくが、例えば、学生や助手の書いたものやデータをそのまま自分の所有物のように論文に盗用したり、したり顔で自分の考えたことですという振りをしているつもりの卑屈な学者先生や大学教授はこの限りではない。私が彼らを軽蔑していることは言うまでもない。この手の人たちは自分のけちくさい「業績」と、言うも恥ずかしいことだが、どう見ても哀れにしか見えないしょぼい「出世」のためにそれを行うからである。これは第一、子供でもわかるほどみっともないことだし、学者であれば、少しは誇りくらいもってもらいたいものだ。
あるいはこういう人たちもいる。こちらは職業作家たちである。いつ頃だったか、エッセイストなるものが巷に流行したとき、名前も忘れてしまったが、ある女流エッセイストが、私は他人の本は読まないと嘯いて、それを自慢にしているのを読んだことがある。あ、あ、あ、それはないだろ! そんなことをわざわざ断ってもらわなくても、読めばわかるんだよ。もともとヘボ作家なんだから! これは自分が文盲ですと言うに等しく、これでは職業的作家としては読者の水準に立つことはできず、そんな体たらくで売文をやるなんてことはただの詐欺行為でしかない。不良がけっして不良品を売ってはならないことは鉄則である。このような発言を新聞に堂々と載せるわれわれの文化とはいったい何ほどのものなのか! これは読者に土下座をすることでもある。例えば、新聞記者による事実をめぐる新聞記事の盗作はあまりいただけない行為だと目くじらを立てる人もいるが(微妙な点を言えば、実際にはほとんど誰もがやっていることだ。事実は共有できると誰もが信じたがっているのであれば、歴史的事実などというものもそんなものではないか。だからこそ物語と歴史は同じものだと言い出す人たちも出てくることになるし、私は彼らに反論するつもりにはなれないのである)、こんな作家たちに比べれば、盗作のほうがまだ愛嬌がある。あまりにも児戯に等しい、こんなくだらない文化的戯言に付き合わされたり、してほしくもないのに「土下座」されることなど、読者としては御免こうむりたいものです。閑話休題。
ここまで書いて、われわれの和歌の世界にも本歌取りという素晴らしい伝統があることを思い出した。古歌の一句か二句をかっぱらってきて自分の歌をつくるわけである。古今集や新古今に見られるきわめて上品な「伝統」であるが、これは立派な剽窃的行為である。だがその後で定家のやった小細工がよくない。定家は、先人から借り受ける句は二つまでとするなどとした本歌取りの規則とやらをつくったのである。あの定家にしてからが臆病風を吹かせているとしか言いようがないではないか。これでは剽窃が台無しである。
最近知ったことだが、寺山修司の盗作話が笑える。詳細は高取英の『寺山修司』(平凡社新書)を読んでいただくとして、寺山氏は「自作の」俳句から数句を取って「自作の」短歌にアレンジしたといって非難されたということがあったらしい。あほらしいのでノーコメント! とはいえ、一言。楠本憲吉の言がふるっている。「同一の素材の俳句から短歌ができるなどということは、ジャンル固有の性格を崩しているものであり、それぞれが散文化の危機に…」。ジャンルは壊すためにあるのだよ、おっさん! これがひとつ。
もうひとつは寺山修司が中村草田男や西東三鬼から盗用したというもの。これは明らかに本歌取りであり、寺山氏の「読み」であり、ほんとにぱくって知らん顔をするなら、こんな誰もがわかる有名人からは拝借したりはしないだろう。雑誌『短歌』の当時の匿名時評が面白い。言いえて妙とはこのことだ。「老生の訓戒をバカにして、対象を変えて模倣巡礼を続けるなら、君は文字通り〈自己なき男〉(これは君の好きな語句らしい)のレッテルを貼られてしまうだろう」。……。
寺山修司のほうがまっとうだったと考える後世の若輩者としては、これを、この匿名時評家が自己のすべてを賭けて主張したこととは逆しまに、つまりまったく反対の含意として受け取るしかないのだから、この匿名時評家もまた「自己」を喪失し、自己なき男になってしまったのである。自己喪失は単なる物好きの事故ではなかったのである。
最後に、エニグの本にも取り上げられていなかったので、ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボーのじつに惚れ惚れするようなフランソワ・ヴィヨンをめぐる剽窃「シャルル・ドルレアン公のルイ十一世への手紙」を挙げておこう。これは中学校(コレージュ)の修辞学級の課題のために書いた作文なのだが、ランボーの作文が一等賞だったことは想像に難くない。
「陛下、時は雨の外套を脱ぎ捨てました。夏の前触れが到来したのです。憂い顔には出て行ってもらいましょうぞ! 詩歌とバラード万歳! 教訓劇と笑劇万歳! 願わくば法律屋の書生どもが気違いじみた阿呆劇をどうかわれわれに見せてくれんことを。(…)折り返しのある襟飾りをつけ、装飾品と刺繍をまとったご婦人方に栄光あれ! 陛下、空が青い衣を身に纏い、太陽が明るく輝くとき、木陰で、甘いロンドーを口ずさみ、高らかに明るくバラードを歌うのはまことに心地よいことではありますまいか? わが愛の鉢植えの木ありて、あるいは、せめてひとたび我に許しの言葉を、わが奥方よ、あるいは、富める恋人はつねに勝者となりて、などと… しかしいまこうして私は楽しんでおります、陛下、私と同じように陛下にもまた楽しんでいただきたいものです。善良なるお調子者、これらの詩のすべてを書きなぐった優しき嘲弄家、フランソワ・ヴィヨン先生は、手錠をかけられ、丸パンと水を与えられ、シャトレ監獄の奥で涙を流して、わが身を嘆いているのです! ……」(『ランボー全詩集』、河出文庫より)。
ここに最後まで書き写すのはいかにも大変なことなので、もし暇でもあれば、ぜひ全文を読んでいただきたい。
既存の歴史解釈に一石(多石?)を投ずる - 2012.01.24
10数年前に出会った「解読 謎の四世紀」を読んだ衝撃は今も続いています。氏の著作は既存の歴史解釈に一石(多石?)を投ずるもので特に古代中国、古代朝鮮、シルク・ロード、オアシス国家群との関連を通しての考察は私には自然に受け入れる事が出来ました。(40数年前東洋史中央アジア文物研究を志……挫折した自分にとって)氏の著書1冊、1冊は必然性を持って時空間的に連鎖し日本古代史を照射して止みません。2011年大震災の現在、東北古代史を新めて見なおす展望の視座さえも氏の著書は語りかけてくる様です。健康と健筆を願ってやみません。 草々
堀野 茂
『サブ・ローザ』読了――すばらしい! - 2012.01.23
鈴木創士「サブ・ローザ」読了__すばらしい! 2012年 01月 21日
鈴木創士氏には縦書きハードカヴァがよく似合う。
webで読んでる第一部がメインなんだろうと油断しているあなた、
本の形で再読してごらんなさい。書き手の思考の速度に引きずられて、
読み手もスピードアップする気持良さは、開きのいい単行本の形である
からこそ得られる。横組のwebでも内容理解はできるが、身体的読書の
快楽は、単行本ならではのものである。書かれた言葉が読者の身体へと
浸透する。
音を聴いているときの状態にも似た読書体験だ。彼は日本文学史上
初めての、音楽の感じられる作家ではないかしら。クラシック・ファン
の小説家は多いだろうが、作家の身体にしみ込んだ音楽性という面では、
誰も鈴木創士氏には敵わない。近代文学に疎い奴の言うことだが、直感的
真実って存在するの!
そして、ビート。彼の文体を特徴づけるものである。
ジグザグにヨタりながら(?)、読者を阿呆船に乗り込ませる魔術的
レトリックの乱打__快楽には素直に負けましょうね。
「ルネッサンスについての若干の覚書」二篇が、今回、面白かった。
エートル叢書14巻/イヴ・ボヌフォワ「ありそうもないこと」が
読んでみたくなった。
(現代思潮新社 2011初 帯 J)
3月3日 『サブ・ローザ』発刊記念対談:神戸映画資料館 - 2012.01.23
神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外
第8回 ものかき放談─世界と小説と自由
刊行記念
鈴木創士著『サブ・ローザ 書物不良談義』(現代思潮新社/1月29日発売予定)
いしいしんじ著『ある一日』(新潮社/2月下旬発売予定)
2012年3月3日(土)16:30〜(終了予定18:00)
対談:鈴木創士 × いしいしんじ
「神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外」では、1、2ヶ月に1回程度のペースで、さまざまな講師をお招きし、幅広いテーマで講座を開いています。
今回は、関西在住の作家、鈴木創士氏といしいしんじ氏の異色対談が実現しました。
鈴木創士
作家、翻訳家。 著書に、『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』(現代思潮新社)、『中島らも烈伝』(河出書房新社)、『ひとりっきりの戦争機械』(青土社)など。翻訳書に、『アルトー後期集成』(共同監修、河出書房新社、共訳)。エドモン・ジャベス『問いの書』(水声社)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』(河出文庫)など。現代思潮新社「エートル叢書」監修。
いしいしんじ
作家。大阪生まれ。現在、京都に在住。著書に小説『四とそれ以上の国』(文藝春秋)、『東京夜話』、『ぶらんこ乗り』、『トリツカレ男』、『いしいしんじのごはん日記1~3』、『ポーの話』(新潮社)などがあり、エッセイ・対談に『その辺の問題』(中島らも共著/角川文庫)、『人生を救え!』(町田康共著/毎日新聞社)などがある。「Words&Bonds」(「復興書店」内メール&WEBマガジン)編集担当。
《参加費》 1000円
*ご予約受付中
info@kobe-eiga.net 宛に、お名前、連絡先(電話)、参加希望日を書いてお送りください。
追って予約受付確認のメールを差し上げます。
《割引》
講座参加者は当日の映画鑑賞料100円引き
鈴木創士の部屋 - 2012.01.01
毎月、現代思潮新社の本から気になる本をピックアップします。
第1回「石井恭二という人」から第21回「最後のエドモン・ジャベス」は、鈴木創士著『サブ・ローザ』(2012年1月発刊)に収録いたしました。本書をご覧ください。
第1回 2010年4月 石井恭二という人
石井恭二著 『正法眼蔵覚え書』 『花には香り 本には毒を』 『心のアラベスク』
第2回 2010年5月 幻の『アントナン・アルトー全集』
アントナン・アルトー著 『アントナン・アルトー全集』第1巻、 『神経の秤・冥府の臍』
第3回 2010年6月 ブルトンとユダども
アンドレ・ブルトン著 『シュールレアリスム宣言集』、『ナジャ』、『シュルレアリスム簡約事典』
第4回 2010年7月 私はボルヘスであった、私はボルヘスになるだろう
ホルヘ・ルイス・ボルヘス著 『アトラス-迷宮のボルヘス』
第5回 2010年8月 重力をさまよわせること、など (一)大野一雄・土方巽・笠井叡
笠井叡『銀河革命』
『ニジンスキーの手記』『その後のニジンスキー』『ニジンスキーの芸術』
第6回 2010年9月 重力をさまよわせること、など (二)大野一雄・土方巽・笠井叡
笠井叡『銀河革命』
『ニジンスキーの手記』『その後のニジンスキー』『ニジンスキーの芸術』
第7回 2010年10月 メキシコのアルトー
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍』
鈴木創士『アントナン・鈴木創士アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』
ミシェル・レリス『成熟ミシェル・レリスの年齢』、『闘牛鑑』
ギー・ドゥボール『映画に反対してギー・ドゥボール 上・下』、『スペクタクルの社会についての注解』
第8回 2010年11月 ジャコメッティ覚書 (一)
ジャック・デュパン『ジャコメッティ、あるアプローチのために』、吉田加南子訳
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』、與謝野文子訳
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと』、阿部良雄監訳
第10回 2011年1月 ローリング・ストーンズ
フランソワ・ボン『ローリング・ストーンズ ある伝記』、國分俊宏・中島万紀子訳
第11回 2011年2月 髑髏のこと、など
古典文庫『撰集抄』
石井恭二『心のアラベスク』
第12回 2011年3月 ロートレアモンの失踪(一)
ロートレアモン『マルドロールの歌』
ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』
ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『ナジャ』『シュルレアリスム簡約辞典』
第13回 2011年4月 ロートレアモンの失踪(二)
ロートレアモン『マルドロールの歌』
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』
第14回 2011年5月サブ・ローザ――陰謀について
ギー・ドゥボール『映画に反対して』上・下、『スペクタクルの社会についての注解』
ブランキ『革命論集』(絶版)
大杉栄『青年に訴う』
ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』
第15回 2011年6月『ナジャ』のように?
アンドレ・ブルトン『ナジャ』、『シュールレアリスム宣言集』
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍』
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』
ロートレアモン『マルドロールの歌』
W・メニングハウス『敷居学』
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』
第16回 2011年7月ルネッサンスをめぐる若干の覚書(一)
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと-存在の詩学-』
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍』
第17回 2011年8月ルネッサンスをめぐる若干の覚書(二)
イヴ・ボヌフォワ 『ありそうもないこと』 阿部良雄監訳
第18回 2011年9月ルイ・フェルディナン・セリーヌ
フィリップ・ソレルス『セリーヌ』
第19回 2011年10月バルセロナ
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』
第20回 2011年11月カタロニア讃歌からエル・スールへ
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』
第21回 2011年12月最後のエドモン・ジャベス
エドモン・ジャベス『歓待の書』
ベルナール・ラマルシュ‐ヴァデル『すべては壊れる』(近刊)
ミシェル・レリス『成熟の年齢』『闘牛鑑』
第22回 2012年1月ベケットは美しい人だった
アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』
第22回 ベケットは美しい人だった - 2012.01.01
第22回 2012年1月
ベケットは美しい人だった
鈴木創士
アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』
奇妙なことが起こる。ブリジット・フォンテーヌはまだ若かった頃にそう歌っていたのだが、奇妙なことが起こるのはまさに人生のさなかのことであるとはいえ、それは場所ではないのだから、自分がそこにいたのかどうかさえ結局はわからなくなる。だが、人生にはそれしかできないから、それが取り柄だから、それがいいから、そのことだけが、私をあの気違いじみた倦怠と泥沼と延々と続く偽善と嘘から救い出してくれるのだから、と言いたくなるのは私だけだろうか。
男と男が出会う。老人と若者。ありふれた通りで。申し合わせたように。蒼白い閃光のような、見たのか見なかったのかわからないくらいの稲光のような合図。誰も何も見てはいない。ほんの少しの身振り。手が動き、首を傾げ、膝が揺れて、腕が不意に下ろされる。彼らはまるで「静止したフーガ」のように視線を交わす。奇跡が起こったのだ。私はこの美しい本の上に身をかがめてみる。本に接吻しようとやってみる。耳をすます。静寂の中にはあの騒擾の予兆がある。何も聞こえない。何も感じない。いや、実際、そんなことはない。すべてが震え始めるように、ここにはすべての優しさ、夜、困惑、時間がもたらす機微、躊躇、苛立ち、沈黙がある。
友情とは、それがありそうにないもの、歴史をもたないものであるとき、なんと神秘的であることか。その場所はかすかな光に包まれている。かすかな光、どこに光源があるのかわからない光に包まれている。友であった二人そのものが光源であると見紛うほど、光は遠くからやってくる。(『ベケットの友情』、安川慶治・高橋美帆訳)
彼らの年齢差はほぼ半世紀もあった。ひとりは田舎から出てきた学生、もうひとりは大作家サミュエル・ベケット。ベケットの顔の深く刻まれた皺は多くのことを物語っているだけではない。この美しい証言は、著者とそのあまりにも著名で年老いた友人がどんな風に時を過ごしてきたかをひそかに物語っている。ここではなく、他処で。お互いを知らなかったときも含めて! 薔薇の下で行われる陰謀の慎ましさのように。アンコニト。そっと。それだけでいい。それだけあればもう十分だ。ベケットは鳥に似ている。(フォークナー風に言えば――…ジキタリスの匂い、死棺の匂い、だが雀たちがバタバタといっせいに飛び立つ。あとにはざわめきの、ある高貴さの、悲しみの、埃のような静寂が…)
かれとともにしばらくくつろいでみればよい。一瞬(ひととき)の空虚、そしてまた活気、この後退する明暗が一つの同じ態度の二つのあらわれにすぎないことがよく感じられるはずだ。かれの不思議な美しさが、なによりもそれを証している。そう、不思議な美しさであった。ベケットの美しさは鳥の美しさ、鷲の美しさに似ているとよく言われたものだ。急に振り向いたり頭を下げるときの敏捷さ、ある状態から別の状態へといきなり移るそのしかたが、よく知られたあの顔立ちとあいまって、ベケット独特の佇まいを作っていた。
身振りはここにあって、ここにはない。すべての身振りは上の空だ。だけど、彼らの出会いはその都度繰り返される突然の出会いであり、そんなことはわれわれの眼前、結局は何も見てはいないわれわれの前では、そう頻繁に起こることではなかった。反復は別の反復を証言することしかできないなどと誰が言ったのか。さっきも言ったように、この退屈で悲惨な人生にはたしかに奇妙なことが起こるけれど、そうざらにあることではないのを誰もが知っている。わかりきったことだ。天を仰いで唾でも吐くように、しぶしぶそう認めざるを得ない。
わたしはよく街頭でばったりベケットと出くわした。事実、そうしてわたしたちは知り合ったのだ。しかし、先に着いたわたしが、かれがやってくるのを余裕をもって眺めているときでも、かれの現れはなにかしらわたしの先を越すところがあった。かれが扉を開くや、不思議な加速が生じる。戸口から挨拶するためにかれの手が高く上がるのが見える。そして次はいきなり、もう軽く抱擁を交わしている。あの朽ちることのない十年。わたしの感動はこの出会いと無関係ではない。しかし、その成りゆきは、まさしくベケットのテクストのなかの出来事のようだった。
「かれの現れはなにかしらわたしの先を越すところがあった」! 出現は何かを追い越すことである。消滅の手前で、ある現存がそれ自身の中に入り込む。つまらない、どうということもない仕種。と同時に、神学的な意味をすら持ち得るかもしれない挙措。というか神学的なものでしかありえない、生きているもののささいな動きの瞬間の記憶。そう言えば言いすぎだろうか。誇大妄想は私の得意とするところではない。だが結局は同じことなのだ。手が、舌のようなものが、火のようにちらちらと燃えていた…。ジョイスが自分の作品に『エピファニー』というタイトルをつけた理由がよくわかると言っておけばいいのだろうか。
ピアノを弾く手。ベケットは80歳近くになってまたピアノを弾き始める。だがハイドンのソナタのほうはあの手この手のことなど考えたりはしない。ソナタ。ソナタの弾き方。身振りが宙を舞う。宙を舞って、消滅する。ひらひらと落ちてくるひとひらの雪。食器や洗濯物を洗う手。性器をつかむ手。壁を殴りつける拳。ランボーは手の世紀を唾棄していた。ジュネは身振りについて書くとき自分のことをほとんど忘れているようだった。
ドアを開けるとき、ベケットは体全体が手になったようだった。身をかがめ、耳を突きだす。手のひらをドアに押し当てると、すかさず頭をあげ、抜き足から身を起こす。まるでドアがさしたる抵抗もなく開いたのに驚いたかのような趣だ。――遥かなるこれらの瞬間(とき)。遥かさとは、そのかなたに進むあらゆる可能性の消失に等しいなにものかが出現するところだ。これらの瞬間はすでに遠く己れ自身のなかへと後退し、あとに続く不在とさまざまな閾の無限の回帰を先取りしている。
ブニュエルの映画『昼顔』のなかのピエール・クレマンティの歩き方をなぜか思い出す。なんという違いだろう。ベケットの歩き方。己れ自身のなかに退却したのは神である。というかかつて神であった。何か気詰まりなもの。行く手を阻み、理由もなくあらゆる悔恨の邪魔しようとする大気の精。われわれを見捨てる何かが宙ぶらりんの糸の上に引っかかっている。バランスを取りながら。だが糸もロープもない。ずっと昔に大変なことが起こったみたいに、そ知らぬ顔で。
デカルト以来、騒擾はさらに激しさを増している。だが、騒擾はそこから帰結する沈黙を覆いつくすことはできない。どの時代でも同じことだ。道はない、然り。測りしれないもののなかにいつ沈むとも知れぬ、つかの間の道程をのぞいては。ときおりベケットは逝った友人の運命を思い起こすことがあった。そんなとき、かれは決して亡き友の相貌を固定してしまうような観点をとらなかった。
道はない。いたるところが道だらけだった。サミュエル・ベケットはパリ六区を散歩する。友人の運命。知られざる運命。冬の吐息のように白っぽく、それから消えてしまう。この本の中にはデュシャンやジョイスも出てくるが、彼らもまたまるでわれわれの隣部屋で暮らす名もなき老人のようだ。いつ仕事しているのか。真夜中なのか。彼はまだそこにいるのか。
著者のアンドレ・ベルノルドは以前ドゥルーズをストア派になぞらえた素晴らしい追悼文を『哲学』(エディシオン・ド・ミニュイ)という雑誌に書いたことがあった。ベルノルドの恩師はドゥルーズとデリダだったらしい。そんなくだりを読むと、この本は中世ではなく、最近書かれたことがわかって、ベケットがよけいに身近に感じられるのかもしれない。だが、ほんとうはそんな感じ自体がじつは奇妙なことなのだ。
わたしはベケットに、とりわけドゥルーズとデリダに賛嘆の気持ちをいだいていることを話していた。ベケットはかれらの仕事について何度かわたしに尋ねていた。とりわけかれの関心を引いたのが、二人の講義のスタイル、かれらの声の質、それから、哲学を語る声を聴くことで人々がどのような利益を感じているのか、という点だ。(…)デリダにおいては、なによりあのたゆまぬ細心さ。そこでは、一歩一歩進められる長い分析を経て、突如としてまばゆいばかりの視界が開ける。そしてその光は、静かに退いていく波のように、探究されるテクストの相貌を顕かにする。いまや驚くほど異質になった相貌だ。一方、ドゥルーズは、ほとんど歌うように構築を進めていく。ゆっくりと用意された概念の各々から、王侯を思わせる落ちついた仕種で、そのもっとも美しい相貌、もっとも見事な意匠を選び出し、それを無垢の布面(クロス)のうえに配置していく。視界のかなたにまで広がる、このまばゆい布面(クロス)は、概念そのものの展開にほかならない。わたしはまた二人のこのうえない慇懃さについて話した。いささかのアイロニーというか、人目を避ける野性が一瞬顔を見せることもあるあの慇懃さ。そして、底知れぬ忍耐力、法外なまでの寛容さ。ベケットは深く満足した様子で大きく頷きながら、注意深く耳を傾けてくれた。あのときわたしは、文字通りこうした言葉で説明したわけではなかっただろう。はっきり覚えているのは、つまるところ二人の哲学者はどんな人物なのか、とベケットがわたしに尋ねたことだ。わたしの考えを要約する真実をここに繰り返しておこう。つまるところ、二人は気高い人物(edle Menschen)である。ベケットはこの答えに満足した。眩いばかりの才能、あるいは音楽的ともいうべき厳密な精神のさらに奥底に、人間の善良さを探り当てること。これはベケットがわたしに教えてくれたことだ。
蛇足ながら、ベルノルドのこれらの言葉は、現代の哲学者について書かれた最も美しい言葉のひとつであると思う。
美術手帖1月号が『プルラモン』を紹介 - 2011.12.18
品切れの『古今名物類聚 上・下』新装版で復刊 - 2011.12.12
12月11日東京・中日新聞が『往きて、還る。』の書評を掲載 - 2011.12.12
10月1日号 図書新聞が『セリーヌ』の書評を掲載 - 2011.09.26
小林惠子 日本古代史シリーズ 全九巻 刊行開始! - 2011.06.14
本シリーズは『記紀』とも古代史の常識ともかけ離れている。しかし中国・朝鮮・日本の史料を綿密に比較検討することによって、古代の日本がいかに国際社会の一国であったかを検証した私説古代史である。
【第一巻】三世紀・三国時代 2011年6月24日発売!
江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武
【第二巻】四世紀・五胡十六国時代 2011年9月発刊
海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝
【第三巻】五世紀・南北朝時代 2011年11月発刊
広開土王の謚は仁徳天皇
【第四巻】六世紀・騎馬遊牧民全盛時代 2012年1月発刊
継体朝とササン朝ペルシア
【第五巻】七世紀①・隋から唐へ 2012年3月発刊
聖徳太子の正体
【第六巻】七世紀②・初唐時代 2012年5月発刊
史上から消された聖徳太子・山背王朝
【第七巻】七世紀③・盛唐時代 2012年6月発刊
「壬申の乱」――隠された高市皇子の出自
【第八巻】八世紀①・盛唐時代 2012年9月発刊
すり替えられた聖武天皇
【第九巻】八世紀②・衰退に向かう唐 2012年11月発刊
「安・史の乱」と藤原仲麻呂の滅亡
本シリーズは、文藝春秋から出版された九冊の単行本を、全面的に加筆・訂正し、一部タイトルをあらためた新装版です。
■「小林惠子 日本古代史シリーズ 全九巻」案内パンフレットご要望の方は、弊社までご連絡ください。お送りいたします。
PDFでご覧いただけます。kobayashi_P.pdf
5月22日 東京・中日新聞が『逃げる男・追う女』の書評を掲載 - 2011.05.24
5月21日(土)紀伊國屋新宿本店で『潮汐の間』の著者・フィスク氏のトークイベント - 2011.05.16
フィスク・ブレット氏『潮汐の間』刊行記念トークイベント
――「たった65年前、アメリカと日本は戦っていたんだ。
・・・・あの戦争はいったい何だったんだろう?」戦争とは? 人間とは?――
アメリカ人である著者が日本語で戦争時代小説を執筆しようという思いにいたった経緯や、多方面から注目されている「日本空襲デジタルアーカイブ」について、映像も交えつつ語っていただきます。

『潮汐の間』(現代思潮新社)
46判 並製 348頁 定価1680円
http://www.chosekinoaida.com
■【出演者プロフィール】
フィスク・ブレット (Bret Prescott Fisk)
1972年アメリカ合衆国に生まれ。ユタ州とカリフォルニア州で育ち、1991年に初めて来日する。倫理学や日米関係史に興味をもち、「戦争」についてではなく「人間」を描きたいと小説を書き始める。
2010年「日本空襲デジタルアーカイブ」設立。
アメリカでは、「上空からの情報しか知るすべがなく、地上の人びとに何が起きていたかは知らなかった・・・」。
「東京大空襲・戦災資料センター」を訪ねた時、たまたま研究のために同センターを訪れていたニューヨーク市立大学のカラカス准教授(39歳)と出会い、二人でアーカイブを思いつく。アメリカ軍側の空爆資料や日本の被災者の体験などの資料を全世界に公開し閲覧できるようにしようと、昨年11月、「日本空襲デジタルアーカイブ」http://www.japanairraids.orgを設立した。
■日時 5/21(土) 15:30~17:00/開場15:00
■会場 紀伊國屋書店新宿本店 9階特設会場
■定員 30名(お申し込み先着順。定員になり次第受付終了)
■入場料 500円 (当日会場にて、現金にてお支払い下さい。※前払い不可)
事前ご予約の上、当日直接会場までお越し下さい。
■参加方法 紀伊國屋書店新宿本店5階人文書レジカウンター、またはお電話でお申し込みの上、当日会場までお越し下さい。 ※整理券はございません。
■お問合せ・ご予約 新宿本店5階直通 03―3354―5700(10:00~21:00)
◎営業時間は、急遽変更となる場合がございます。
◎イベントの出演者・内容については急な変更等ある場合がございます。予めご了承ください。
◎定員になり次第、受付を終了させていただきます。尚、当サイトでの受付終了のご案内は遅れる場合がございます。予めご了承ください。
http://www.kinokuniya.co.jp/store/Shinjuku-Main-Store/20110409100001.html
紀伊國屋書店新宿本店5Fで『潮汐の間』フェア開催中 - 2011.05.16
5月15日 東京・中日新聞が『潮汐の間』の書評を掲載 - 2011.05.16
『潮汐の間』 どのようにして、これほど達意の日本語が書けるようになったか知りたい - 2011.05.14
素晴らしい作品である。こゝ数年、読んだ小説の中で、最も感銘を受けたものの一つである。最初は単なる興味(新聞コラムで、アメリカ人が独学で日本語を習得し、その日本語で小説を書いた、という)から読み始めたが、忽ち作品世界へ引きつけられ、一気に読んでしまった。
とても外国人がかいた日本語とは思われなかった。実に自然な、こなれた日本語であって、これほどの文を書ける作家は、日本の小説家の中にもそう多くは居ないであろう。文と共に、その物語り性も充実していた。作者は登場人物から、絶えず一定の距離を置き、過剰な感情移入を行わず、物語りを完結させている。
私見で、最も成功したと思われるのは、ラミールという人物の描写である。日本とフィリピンの両方にまたがりながら、決してどちらかに傾かない、ごく平凡な人物像が実に生き生きと描かれている。この人物像が物語全体の骨格をなし、国家と個人という不可思議な関係に、ある暗示を与えている。
次作も期待しているが、著者に是非、日本語習得について書いてもらいたい。どのようにして、これほど達意の日本語が書けるようになったか、知りたいものである。
フィスクさんへ
前の読後感の続きです。日本語の巧みさも、さることながら、プロット設定の上手さも見逃せない。
前半の主人公森武義の生長過程は、過去と現在(小説舞台での現在)の並列として描かれ、それが少しも無理がなく読む者の頭に入るのは、驚くべき作者の技法である。
森をめぐる人物も、皆、生き生きと描かれている。作者はどんな人物も粗末にせず、血の交った人間として丁ねいに描いている。
軍隊内のシーンも、不自然なものはなく、納得できるものであった。古兵(古参兵)による新兵へのいじめも、淡々と描かれ、さもあらんと思わせる。作者は、いたずらに感情移入することは避け、客観的ともいえる態度で、それぞれのシーンを描いているが、このことが、読む方に考えるヒントを与えている。もし、いじめ抜かれた新兵が、対象の古参兵を、巧みに報復したとすれば、読むものに痛快感は与えるが、ただそれだけとなってしまう恐れもある。戦場という極限状態に置かれた無数の人間像を、作者は丁ねいに、誰に肩入れするというわけでなく、物語として縦横に動かしている。
日本も戦後、戦記文学というようなものが流行し、野間宏や大岡昇平など優れたものは沢山あるが、いずれも、自己の体験に基いていた。そして戦後に生まれた者には、戦争の場面は描けない、などの俗論が罷り通っていた時期もあったが、それは誤りだったことはいくつかの作品で明らかになった。
例えば、奥泉光の「石の来歴」の中の兵隊の描写は、優れたものだが、奥泉は戦後生まれである。体験した者でも書けない人は居り、体験しなくても書ける人も居る。畢竟、知的好奇心と想像力の差かもしれない。
それは、太平洋戦争は、昭和二十年に終わったが、すぐ朝鮮戦争、ベトナム戦争、など起り、戦場という極限状態は絶えず人々に提示されたという歴史があったからかもしれない。
それにしても、著者の探究心は驚くべきものがある。戦争中に大衆を締めつけていた皇国史観(というか、神がかりのイデオロギー)もよく調べている。どうしてあんなオカルトじみた風潮に皆、乗ったのか、今だに分からないが、日本独特とも言えるし、人間皆そうなり易いとも言える。
次作は、どのような展開になるのか、楽しみである。発刊されたら、すぐ購入して読みたいと、わくわくして待っている。
五月十一日 梁瀬浩三
『潮汐の間』-天才というか、人を越えているというか - 2011.04.27
本読んだよ
すごいね
天才というか、人を越えているというか
あまりにリアルで、怖くて、通しては読めなかったよ
読んでいると、自分が森やラミールになってしまって、ドキドキして悲しくなって、悔しくなって、読み続けられなくなる
だけど、また、気になって本を開いてしまうよ
だから、飛び飛びに読んで、また前に戻って読んだり、一番後ろを読んだりしちゃっているんだけど、どこを読んでも、すぐ感情移入しちゃって、のめり込んじゃうね
なんか、興奮しちゃって、朝一番でメールしたくなっちゃったよ
日本人は何も知らないんだね
すごく悲しいし、残念な事だね
これからも、応援していますと、お伝えください
サインもらっておいて良かったよ
Kさん
『潮汐の間』-これほど心に強く伝わってきた作品に出会ったのは初めてでした。 - 2011.04.27
ブレット・フィスク様
「潮汐の間」を読了しました。読み始める前に私は「日本に居る一人の米国人が日本語で書いた小説を、日本の出版社が出版を決意するからには、その作品が今まで如何なる日本人も書いたことの無いような極めて画期的な作品であるはずだ。そうでなければ出版社はそんなリスクは冒すはずがない」と考えました。そして結果は、正にその通りでした。
●「潮汐の間」は米国人が日本兵から見た「大東亜戦争におけるフィリピンでの陸上戦」がその内容ですが、とにかくストーリーの構成も内容も素晴らしいと思いました。フィリピンと日本の交互の書き方もとても印象的でした。「実戦の中の兵一人一人の意気込みや絶望や諦め」とか「日本の兵も一人一人はみな死にたくなかったのだ」ということが「潮汐の間」ほど、心に強く伝わってきた作品に出会ったのは初めてでした。
●全体に現在の日本人の文章より表現が正確で的確であり、そのためとても判りやすいと感じました。日本語を非常に大事に扱っていると感じました。たったの340頁内に大東亜戦争に関する重要事項が殆どもれなく盛り込まれていることも、これまで日本人の書いた作品に見られない重みのある内容だと感じました。野間宏の有名な日本陸軍を扱った「真空地帯」は「日本陸軍内の単なる内務班内」のお話に過ぎないのに対して、「潮汐の間」は「戦争の惨めさ、戦争の複雑さ」を重点においた非常に素晴らしい作品であると感じました。その根底にはキリスト教の精神が流れているのでしょうか。
●この作品が素晴らしいものになった理由はフィクスさんの能力が尋常でなかったからに他ならないと思います。フィスクさんが1991年に日本に来てから20年しか経っていないにもかかわらず日本語を「会話力」「文章解読力」「作文力」を完璧にマスターしただけでなく、「日本の歴史」、「社会習慣」、「日本人の特性」までも含めて幅広く、かつ、深く学習し習得したからに他ならないと感じました。そして私は何よりもフィスクさんのパワーと能力に驚きました。テレビに出てくる日本語の極めて上手なデーブ・スペクターさんでもフィクスさんの力にはとても及ばないのではないでしょうか。
●フィスクさんの文章で感心した具体的な例を挙げれば「日本陸軍内の内務班内の厳しい様子・使用用語」「新兵の教育」「軍人勅諭」「武士道」「宗教」「日本の教育制度(旧師範学校の先生は教授であったなど)」「太平洋戦争の戦況の流れの正確さ」「日本人の家庭内の作法」「闘鶏の様子」「貧しいフィリピンの現地人の家庭内の様子」です。「首都高速度交通営団」は戦時中の昭和16年7月4日にできた「帝都高速度交通営団」が母体であることには驚かされました。「本当の武士道は死ぬ覚悟でなく、何があっても必ず勝つという精神だ」までにも踏み込んで理解されておられるのにも驚きました。
●中でも特に感心した表現の一つはp183の「大人になっても三人は、同じ思いを抱いていた。家、人、匂い、味、細かいところまで全てを共に経験していた」でした。フィスクさんにすれば「何それ?」というかもしれませんが、現地に行っていないのに、どうしてこのようにリアルな表現ができるのか私には不思議に思いました。なかなかこういう表現はできないと思いました。
●“「国家にとっての戦争」ではなく「個人にとっての戦争」、「移り変わる歴史の背景」ではなく「人間一人ひりとりに及ぼされる影響。これらこそが重要な歴史課題であるようなきがしてならなかった。それであるなら、学問的な歴史書を志すよりは、「小説」という形で追求した方が適切であろう”とフィスクさんが最後に語っていることに感銘を受けました。
●フィスクさんは私が人生で巡り会った最大の天才ではないかと感じる次第です。
丹 信義
4月22日 日経新聞・文化面が『潮汐の間』を紹介 - 2011.04.22
4月17日毎日新聞が『潮汐の間』の書評を掲載 - 2011.04.18
3月27日 日経新聞が『エル・グレコのまどろみ』を紹介 - 2011.03.30
4月16日(土)ジュンク堂池袋店で『潮汐の間』の著者・フィスク氏のトークイベント - 2011.03.22
『潮汐(ちょうせき)の間(あいだ)』発刊記念
日本空襲の惨状を世界にむけて
フィスク・ブレット(日本空襲デジタルアーカイブ創設者)
■2011年4月16日(土)19:30~
「65年前、アメリカと日本は戦っていたんだ。
……あの戦争はいったい何だったんだろう?」
第二次世界大戦中の日本への空襲の様子を世界に伝えるサイト
「日本空襲デジタルアーカイブ」の設立者フィスク・ブレット。
米ソ冷戦の時代のアメリカに生まれ育ち、物心がついてから感じていたのは熱烈な愛国心だった。
そんな彼が来日して感じたこととは。日米戦争の歴史を研究しはじめ、戦争歴史小説
『潮汐の間』を書くことによって彼の考えはどう変わったのか。アーカイブを立ち上げた動機や
きっかけについて語りながら、大きな歴史問題にも取り組む。
――「人類はこの過酷な歴史を乗り越えられるのだろうか?」
『潮汐の間』46判346頁
定価1680円 現代思潮新社
http://www.chosekinoaida.com
●比島軍政写真など秘蔵の『潮汐の間』に関する未公開写真を映写
●日本空襲(空からと地面と)は写真だけではなく、動画や音声も
◆講師紹介◆
フィスク・ブレット(Bret Prescott FISK)
1972年アメリカ生まれ(現在38歳)。
1991年に来日。翻訳家。独学で日本語を覚え、
大学で勉強した倫理学のほか日米関係の歴史に興味をもつ。
「戦争」についてではなく「人間」を描きたいと小説を書き始める。
「日本空襲デジタルアーカイブ」を設立
本書『潮汐の間』を書くために神田の古本屋を歩いて資料を集めていたところ、
東京大空襲を知り衝撃を受けた。アメリカでは、
「上空からの情報しか知るすべがなく、地上の人びとに何が起きていたかは知らなかった……」と。
「東京大空襲・戦災資料センター」を訪ねた時、たまたま研究のために同センターを訪れていた
ニューヨーク市立大学のカラカス准教授(39歳)と出会い、二人でアーカイブを思いつく。
アメリカ軍側の空爆資料や日本の被災者の体験などの資料を全世界に公開し閲覧できるように
しようと、昨年「日本空襲デジタルアーカイブ」http://www.japanairraids.orgを設立した。
☆会場・・・4階喫茶にて。入場料1,000円(ドリンク付)
☆定員・・・40名
☆受付・・・1階サービスカウンターにて。電話予約承ります。
ジュンク堂書店 池袋本店 TEL. 03-5956-6111 FAX.03-5956-6100
3月13日東京・中日新聞が『エル・グレコのまどろみ』の書評を掲載 - 2011.03.13
3月9日読売新聞二面「顔」が『潮汐の間』・フィスクさん紹介 - 2011.03.10
図書新聞10月30日号 『蒐集行為としての芸術』の書評 - 2010.10.25
9月24日読書人 四方田犬彦著 新刊2冊紹介 - 2010.10.01
美術手帖10月号 蒐集行為としての芸術を紹介 - 2010.09.16
毎日、東京・中日新聞が『俺は死ぬまで映画を観るぞ』を紹介 - 2010.08.23
60年安保闘争から50年 待望の復刊 - 2010.06.15
サド「悪徳の栄 続」発禁から50年――朝日新聞5月28日夕刊 - 2010.05.29
サド裁判から50年 書店でフェア開催中-産経新聞(5月9日)が紹介 - 2010.05.11
1959年 6月 『悪徳の栄え 正』発刊
12月16日 『悪徳の栄え 続』発刊 2000部
1960年 4月 7日 差し押さえ 押収419部
1961年 1月20日 起訴 被告人 石井恭二、澁澤龍彦
罪状 猥褻文書販売同所持
8月10日 第1回公判 東京地方裁判所刑事第18部
1962年 7月16日 第15回公判 論告・求刑
石井恭二 罰金10万円
澁澤龍彦 罰金 7万円
8月 2日 第17回 被告人最終意見陳述
10月16日 判決 無罪
1963年11月21日 東京高等裁判所 第一審判決破棄 有罪
1969年10月15日 最高裁判所 裁判官十三名 有罪
上巻 目次
Ⅰ (第1回公判~第2回公判)
起訴状
求釈明書
釈明書
検察官冒頭陳述
質疑
弁護人冒頭陳述
弁護人意見陳述
被告人意見陳述
渋沢龍彦
石井恭二
特別弁護人意見陳述
白井健三郎
遠藤周作
Ⅱ (第3回公判~第4回公判)
検察側証言
田崎敏子
清水貞助
生江義男
内藤文質
橋本政東
Ⅲ (第5回公判~第14回公判)
弁護側証言
大岡昇平
奥野健男
吉本隆明
大井広介
森本和夫
針生一郎
粟田 勇
中島健蔵
大江健三郎
下巻 目次
弁護側証言・続
中村光夫
埴谷雄高
白井健三郎
江熊・畑・松沢・大野・有坂・植木広瀬各氏の弁護側証言を割愛させて載きます
伊藤正己
被告人特別尋問
渋沢龍彦
石井恭二
Ⅳ (第15回公判~第18回公判)
論告・求刑
弁護人・特別弁護人最終意見弁論
大野正男
埴谷雄吉
白井健三郎
中村 稔
新井 章
柳沼八郎
被告人・最終意見陳述
渋沢龍彦
石井恭二
判決
Ⅴ サド裁判をめぐって
三島由紀夫
受難のサド
埴谷雄高
サド裁判を傍聴して
大岡昇平
禁書への道を閉ざせ
文芸家協会声明
若林真
二十世紀を支配するサド
森本和夫
サドとチャタレー
不思議な情況
法廷は自壌する
粟田勇
一体なにが起つたのか
石井恭二
裁判随想
渋沢龍彦
発禁よ、今目は
裁判を前にして
不快指数八〇
サドは無罪か
埴谷雄高
サド裁判その後
あとがき
毎日新聞(4月25日)が『サド裁判』復刊を紹介 - 2010.04.26
金子國義 「悪徳の栄え」をインスピレーションの源泉にした作品展覧会 - 2010.01.21
2月3日から14日まで、渋谷Bunkamuraにて。6日と13日にはサイン会も行われるとのこと。
大島渚作品が連続上映されます 2010年1月5日より - 2009.12.05
東京国立近代美術館フィルムセンター(京橋)にて、大島渚の作品が連続上映されます。監督デビュー以前の珍しい作品をはじめ28本が取り上げられます。2010年1月5日(火)から1月29日(金)まで。
ロシア・アバンギャルド展「ロシアの夢 1917-1937」開催中 - 2009.10.30
「21.1世紀の音楽会」を10月1日~1月14日まで開催! - 2009.10.28
★『リュック・フェラーリと』の著者ジャクリーヌ・コー女史が講演。
★映画『リュック・フェラーリある抽象的リアリストの肖像』ほかを上映。フェラーリ作曲の演奏会。
★『シュトックハウゼンの「モメンテ」』ほかの映画上映と、日本で初めて演奏されるコンサートなど多数催される。
ギー・ドゥボールの映画6本すべてが上映されます、山形国際映画祭にて - 2009.09.18
10月10日~12日、山形市民会館小ホール
関連書籍 ギー・ドゥボール著
映画に反対して 上――ドゥボール映画作品全集
映画に反対して 下――ドゥボール映画作品全集
スペクタクルの社会についての注解
ゲルツェンなど19世紀ロシア青年の苦悩、「コースト・オブ・ユートピア」上演中 - 2009.09.18
蜷川幸雄演出 Bunkamuraシアターコクーンにて
関連書
ゲルツェン「向う岸から」
8月1日 日経新聞が大島渚を特集 『著作集』を紹介 - 2009.08.11
8月9日『日々是写真』が東京・中日新聞に紹介されました - 2009.08.11
7月12日 日経新聞が『日々是写真』を紹介 - 2009.07.13
12月24日 朝日新聞(文化面)が『大島渚著作集』を紹介 - 2008.12.25
12月14日読売新聞が『大島渚著作集』第2巻の書評を掲載 - 2008.12.15
11月24日 産経新聞が『大島渚著作集』の書評を掲載 - 2008.11.27
11月23日 日経新聞が『大島渚著作集』を紹介 - 2008.11.27
11月5日 読売新聞が『大島渚著作集』を紹介 - 2008.11.06
11月2日 東京・中日新聞が『大島渚著作集』を紹介 - 2008.11.04
大島渚著作集 全四巻 刊行開始! - 2008.09.13
第一巻 わが怒り、わが悲しみ
第二巻 敗者は映像をもたず 好評発売中!
大島渚著作集 全四巻
この著作集は、映画監督である大島渚の半世紀以上にわたる著述のなかから、四つの主題の系列を選び、四巻に再録編集したものである。
第一巻 わが怒り、わが悲しみ 第一回配本 2008年10月
著者の自伝的な文章を軸として編み、その初期における達成点ともいうべき脚本『深海魚群』を収録。
第二巻 敗者は映像をもたず 第二回配本 2008年11月
著者のドキュメンタリー映画体験から導き出されたこのテーゼを中心に、映像と歴史、映画と政治の関係をめぐって執筆された文章を収録。
第三巻 わが映画を解体する 第三回配本 2009年1月
松竹時代から『御法度』まで、著者が監督したフィルムについての自註的文章を収める。東映のヤクザ映画『日本の黒幕』の幻の脚本を初公開。
第四巻 敵たちよ、同志たちよ 第四回配本 2009年3月
内田吐夢から若松孝二、足立正生、ゴダールにいたる、同時代の映画監督についての論考を収め、さらに幻の大作『ハリウッド・ゼン』の脚本を本邦初公開。
◆各巻に四方田犬彦解説。ゲスト解説としてローランド・ドメーニグ、宮田仁、マリア・ロベルタ・ノヴィエッリ、宮尾大輔が執筆。
◆各巻に大島渚の写真一葉を口絵として付す。
◆各巻予価 2800〜3600円(税別)
◆体裁 四六判上製本 280〜340頁
案内パンフのPDFはこちら osima1.pdf osima2.pdf
大島渚著作集のために 四方田犬彦
イタリアのパゾリーニ、ドイツのファスビンダー、そして日本の大島渚。かつてファシズムの盟友として枢軸を構成した国々は、第二次大戦での敗北の後に、他に例を見ない映画監督を生み出した。彼らはともに、父親の世代が行った罪障をそのまま隠蔽して繁栄を続ける祖国を告発し、スクリーンを死者のための服喪の空間に変えた。おのずから彼らは孤立を強いられ、大手の映画会社から追放された。だが世界の映画史にあって彼らは、永遠に妥協せざる人々として、栄光の星座を形作っている。
大島渚は戦後の、いや二十世紀の日本映画においてもっとも重要な映画監督である。その作品は毀誉褒貶に満ち、その行動のことごとくが公序良俗を乱すスキャンダルであった。彼は日本社会と日本映画をめぐる偉大なる罵倒家であるとともに、芸術の契機としてのエロスと暴力の擁護者であった。大島は『日本の夜と霧』で前衛党の偽善が置去りにした死者について告発し、『絞死刑』で在日朝鮮人青年の国家への対決を語った。『愛のコリーダ』では生と死の境界にあって光り輝くセックスの美しさを描き、猥褻で何が悪いのかと権力を弾劾した。その二四本に及ぶ映画作品は、喧騒と混沌、革命への期待、そして欲望の突然の噴出に満ちている。
その輝かしい業績にもかかわらず、大島は巨匠の神話を拒み、ノスタルジアの思想を排して、今なお屹立する直接性としてわれわれの前に立っている。ここに彼の莫大な著作のなかから四巻の文選が編まれる。映像の政治について、他者の表象とその道徳について、そして何よりも自作の批判について、読者はここに偉大なる批判者としての大島渚を発見することであろう。
(大島、……)渚のフィルムの光と力、――1~2ミリ。小枝が、フィルム=物の基底を打ち砕いた。(大島、…)渚のフィルムの光と力、―― これがなかったら「時代」などなきにひとしかった、なきにひとしかった。『少年』よ。『白昼の通り魔』よ。『コリーダ』よ。(大島、……)渚のフィルムの光と力、――の、アンドロメダ衝突は、(大島、……)渚のフィルムの光と力は、おそらく、ひとつの、奇蹟であった。その「奇蹟」の砂地に、いまひと枝が、残る。光の枝が、――。
このところ、日本人の話す姿を見るにつけ「日本人はこんな言葉をしゃべっていなかった」という思いを強くする。若者だけじゃない。老いも若きもだ。そんな時、無性に大島さんの『日本青春残酷物語』や『新宿泥棒日記』を見たくなる。なんて美しく輝いていたんだろう。ぼくは今まで昔を懐かしむことなんて、一番最低なことだと思って生きてきたけど、最近は何が悪いんだろうって思うことがある。大島さんが描いた日本人はもういなくなった。
大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』でラロトンガ島に行った時の話なんだけど、監督がトカゲが岩の上を走るというカットを撮りたいというんで、トカゲを置いて、「ヨーイ、スタート」って何度やってもうまくいかない。でもって大島監督はトカゲに向かって「何でできないんだ。ちゃんとやれ!」って本気で怒鳴っているの。その姿がコントみたいでとても可笑しかった。今思えば、あの時が自分が映画監督をやりたいと思った最初かもしれない。
各巻目次
第一巻 わが怒り、わが悲しみ
京という鋳型
悲しみの街を歩く
Kyoto, My Mother’s Place
京都大学時代の回想
政治的転向について
『我が青春に悔なし』
わが青春残酷物語
日本映画の曲り角
戦後日本映画の状況と主体
脚本『深海魚群』
解説 四方田犬彦
ゲスト解説 ローランド・ドメーニグ
第二巻 敗者は映像をもたず
明後日の作家から―主として批評家に
「眠れる獅子―松竹大船」を批判する
絶えざる自己否定の上に―新しい作家の態度
〝ヌーベルバーグ"撲滅論
過渡期の日本映画とわれわれの立場
金嬉老と私たちの八八時間
『松川事件』とその周辺の問題
方法だけを論ずる者は頽廃する
〝私的”創造行為への侵害
私にとって記録とは何か
韓国 国土は引き裂かれたが
テレビの出現
映像と現実のバングラデシュ
人はなぜ外国映画を日本映画より
敗者は映像を持たない
東宝争議への疑問
映画にとって戦争とは何か 田坂具隆
日本映画の描いた戦争
解説 四方田犬彦
ゲスト解説 宮田仁
第三巻 わが映画を解体する
『日本の夜と霧』虐殺に抗議する
太陽の墓場
疑問に答える
明後日の作家への手紙
自由への道
魔の思想と運動の思想
『忍者武芸帳』製作メモ
『日本春歌考』へ
『日本春歌考』に参加する諸君へ
『無理心中・日本の夏』へ参加する諸君へ
『絞死刑』について
『新宿泥棒日記』のシナリオについて
困難な時代における我々の作業
感度が鈍いことは罪悪である
状況と運動のなかで
残る問題ひとつ
『少年』おぼえ書
七〇年代をどう死ぬか
『夏の妹』について
『愛のコリーダ』最終陳述
体験的ポルノ論
『愛の亡霊』と日本の自然
『御法度』インタヴュー
『戦場のメリークリスマス』を語る
『マックス、モンアムール』インタビュー
脚本『日本の黒幕』 大島渚・内藤誠共作
解説 四方田犬彦
初めに性があった マリア・ロベルタ・ノヴィエッリ
第四巻 敵たちよ、同志たちよ
映画体験
内田吐夢
それは突破口か? ―日本映画の近代主義者たち
政治オンチ克服の軌跡=三島由紀夫
差別と殺戮=若松孝二
闘争と脱落=小川紳介
『仁義なき戦い』=深作欣二
足立正生〈永久運動者の美貌〉
戸浦六宏
最期の日々=寺山修司
独創的な、影一族のキャラクター=白土三平
解体と噴出=ゴダール
ゴダール/三島由紀夫
零からの出発
友よ―東松照明
弔辞―田村孟
『ハリウッド・ゼン』はなぜ実現できなかったか
脚本『ハリウッド・ゼン』
大島渚・ポール・マイヤーズバーグ共作
解説 四方田犬彦
『ハリウッド・ゼン』解説 宮尾大輔
フィルモグラフィー
覆刻日本古典全集完全復刊 - 2008.08.29
覆刻日本古典全集 完全復刊 !
日本古典全集15セット、文学編8セット 179点
四大楽書復刊(楽家録、体源鈔、教訓抄、続教訓鈔)
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これまで品切れで復刊した書目
字典一(あい嚢鈔、塵袋、倭玉篇、節用集)
字典二(伊呂波字類抄二、三巻)
字典三(倭名類聚鈔 、仮字遣奥山路、片言・物類稱呼他、言塵集)
字典四(類聚名義抄 仏・法・僧・索引一・索引二)音楽一(楽家録、教訓抄、続教訓鈔、信西古楽図)
音楽二(体源鈔一~四巻)芸能風俗(歌舞品目上・下、人倫訓蒙図彙)
歴史(江家次第、延喜式一~四巻)
本草(本草和名、重訂本草綱目啓蒙、医心方一~七巻)
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中・近文学(神皇正統記 元元集)
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古典文庫 復刊
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1956年のハンガリー革命 - 2008.08.14
ローリング・ストーンズ ある伝記 - 2008.08.14
読書人3月31日号
朝日新聞(2月26日)
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日経新聞・読書欄に書評(2月12日)
知られざるスターリン - 2008.08.13
ハンガリー事件と日本 - 2008.08.13
一本の樹が遺したもの - 2008.08.01
目録 書目一覧はこちら - 2008.07.01
| 書目一覧 | ||||
| 備考欄 *印 稀少本美本なし | ||||
| エートル叢書 | ||||
| 書名 | 著者 | 本体(円) | 備考 | |
| 黒魔術による世界の没落 | カール・クラウス | 3800 | ||
| 魔法使いの弟子 批評的エッセイ | 鈴木創士 | 2400 | ||
| ファスビンダー | 渋谷哲也・平沢剛編集 | 3400 | ||
| 歓待の書 | エドモン・ジャベス | 2400 | ||
| ありそうもないこと | イヴ・ボヌフォワ | 4600 | ||
| テロル機械 | ローラン・ディスポ | 3800 | ||
| 剽窃の弁明 | ジャン=リュック・エニグ | 2400 | ||
| ルイ・アルチュセール 訴訟なき主体 | エリック・マルティ | 3000 | ||
| アトラス-迷宮のボルヘス | ホルヘ・ルイス・ボルヘス | 3000 | ||
| スペクタクルの社会についての注解 | ギー・ドゥボール | 2200 | ||
| 数の怪物、記号の魔 | 澤野雅樹 | 3000 | ||
| 在るものの魅惑 | 前田英樹 | 2800 | ||
| 詩と権力のあいだ | 宇野邦一 | 2800 | ||
| ジャコメッティ | ジャック・デュパン | 2000 | ||
| 無頭人(アセファル) | G・バタイユ他 | 2800 | ||
| 映画に反対して 下 | ギー・ドゥボール | 2400 | ||
| 映画に反対して 上 | ギー・ドゥボール | 2800 | ||
| シュトックハウゼン音楽論集 | シュトックハウゼン | 4200 | ||
| 文学・思想・芸術 | ||||
| 文学・思想・芸術 1 | ||||
| 書名 | 著者 | 本体(円) | 備考 | |
| 天空からの使者 | 小田正行 | 2800 | ||
| 八軒長屋 | 岩淵達治 | 1600 | ||
| コチシュ・ゾルターン | ファーイ・ミクローシュ,コチシュ・ゾルターン | 3800 | ||
| アントナン・アルトーの帰還 | 鈴木創士 | 2000 | ||
| 書 | 栗原明志 | 2000 | ||
| 場所の心 時のすがた | 稲垣真澄 | 1800 | ||
| 写真と日々 | 清水 穣 | 2600 | ||
| リュック・フェラーリと ほとんど何もない | ジャクリーヌ・コー | 2800 | ||
| ローリング・ストーンズ ある伝記 | フランソワ・ボン | 8000 | ||
| 音楽的時間の変容 | 椎名亮輔 | 2600 | ||
| ガイアの園 | 小田まゆみ | 2300 | ||
| 銀河革命 | 笠井 叡 | 3800 | ||
| 白と黒で――写真と…… | 清水 穣 | 2400 | ||
| 一本の樹が遺したもの | ジュリア・バタフライ・ヒル | 2800 | ||
| 心のアラベスク | 石井恭二 | 1601 | ||
| 花には香り 本には毒を | 石井恭二 | 2000 | ||
| 正法眼蔵 覚え書――続 正法眼蔵の世界 | 石井恭二 | 2000 | ||
| フェミニズムの古典と現代――甦るウルストンクラフト | アイリーン・J・ヨー編 | 3000 | ||
| 女神のこころ | ハリー・A・イーグルハート | 4700 | ||
| 敷居学-ベンヤミンの神話のパサージュ | ヴィンフリート・メニングハウス | 2400 | ||
| 文化のなかの野性 | 中島 智 | 3500 | ||
| 女神たち | 小田まゆみ | 3000 | ||
| ロマンを生きた女たち | ギゼラ・ホーン | 2500 | ||
| 輪舞 | シュニッツラー | 2200 | ||
| 文学・思想・芸術 2 | ||||
| グラマトロジーについて 上 | ジャック・デリダ | 3800 | ||
| グラマトロジーについて 下 | ジャック・デリダ | 3800 | ||
| 神話作用 | ロラン・バルト | 2200 | ||
| 文学空間 | モーリス・ブランショ | 6400 | ||
| 悪徳の栄え 正 | マルキド・サド | 2800 | ||
| 悪徳の栄え 続 | マルキド・サド | 2800 | ||
| 悲惨物語 | マルキ・ド・サド | 2000 | ||
| サドは有罪か | シモーヌ・ド・ボーヴォワール | 1600 | * | |
| サド裁判 下 | 現代思潮社編集部 | 3000 | ||
| ニーチェについて | G・バダイユ | 3700 | ||
| 有罪者 | G・バダイユ | 3200 | ||
| 内的体験 | G・バダイユ | 3600 | ||
| バタイユ | 酒井 健 | 2800 | ||
| 零度の文学 | ロラン・バルト | 2000 | ||
| ナジャ | アンドレ・ブルトン | 2000 | ||
| シュールレアリスム宣言集 | アンドレ・ブルトン | 2000 | ||
| シュルレアリスム簡約辞典 | アンドレ・ブルトン | 3000 | ||
| 神経の秤・冥府の臍 | アントナン・アルトー | 3500 | ||
| 成熟の年齢 | ミシェル・レリス | 2600 | ||
| 闘牛鑑 | ミシェル・レリス | 2000 | ||
| かくも不吉な欲望 | クロソウスキー | 2600 | ||
| イレーヌのコン・夢の波 | ルイ・アラゴン | 2600 | ||
| 蝋燭の焔 | バシュラール | 2500 | ||
| マルドロールの歌 | ロートレアモン | 3800 | ||
| ニジンスキーの手記 | V・ニジンスキー | 2400 | ||
| その後のニジンスキー | ロモラ・ニジンスキー | 2000 | ||
| ニジンスキーの芸術 | G・ウイットウォース | 2500 | * | |
| 黒馬を見たり 付・サヴィンコフの告白 | ロープシン | 1600 | * | |
| 同時代人の肖像 上 | アンネンコフ | 1400 | * | |
| 同時代人の肖像 中 | アンネンコフ | 1400 | * | |
| 道標 | ブルガコフ | 1400 | * | |
| ロシア民話集 2 | アファナシェフ | 1800 | * | |
| ロシア民話集 3 | アファナシェフ | 1800 | * | |
| ロシア民話集 4 | アファナシェフ | 1800 | * | |
| シナの民話集 下 | 及川恒忠編 | 1600 | * | |
| 文学・思想・芸術 3 | ||||
| 思想のマルチリンガリズム | 小島亮 | 2800 | ||
| 白夜のキーロパー | 小島亮 | 2800 | ||
| 虚空 | 埴谷雄高 | 2800 | ||
| 不合理ゆえに吾信ず | 埴谷雄高 | 2200 | ||
| 孤独な探究者の歩み | 高知 聰 | 4800 | ||
| ヘーゲルとマルクス | 黒田寛一 | 3500 | ||
| 資本論への私の歩み | 梯 明秀 | 3000 | ||
| 我が青春、苦悩のおらびと歓喜 | 玉川信明 | 2600 | ||
| 過渡期の意識 | 梅本克己 | 2000 | ||
| 婚姻の原理 | 森本和夫 | 2000 | ||
| 文学の主体と現実 | 森本和夫 | 2000 | * | |
| 幻妖のメルヘン | 澁澤龍彦編 | 2000 | * | |
| 地獄のメルヘン | 笠原伸夫編 | 2400 | * | |
| 夭折 | 大久保典夫編 | 1000 | * | |
| 笑い | 浜田泰三編 | 1000 | * | |
| 歌集 こうしなければ生きていけなかった | 小西 啓 | 1400 | ||
| 芥川龍之介の芸術論 | 山敷和男 | 2500 | ||
| 詩的なるもの | 寺田透 | 2000 | * | |
| 蒼氓の叛旗 | 神津陽 | 1200 | * | |
| 戯れのエクリチュール | 足立和浩 | 1800 | * | |
| 西洋古典文庫 | ||||
| 四運動の理論 上 (新装版)古典34 | シャルル・フーリエ | 2800 | ||
| 四運動の理論 下 (新装版)古典39 | シャルル・フーリエ | 2800 | ||
| 阿呆船 上 (新装版)古典22 | ブラント | 2600 | ||
| 阿呆船 下 (新装版)古典25 | ブラント | 2600 | ||
| エレジー・唄とソネット古典36 | ジョン・ダン | 2500 | ||
| 言語起源論 古典37 | ジャン=ジャック・ルソー | 2500 | ||
| 疫病流行記 古典2 | ダニエル・デフォー | 2800 | ||
| テスト氏・未完の物語 古典3 | ポール・ヴァレリー | 2400 | ||
| 唯一者とその所有 上 古典6 | マックス・シュティルナー | 2000 | ||
| 唯一者とその所有 下 古典21 | マックス・シュティルナー | 3200 | ||
| 夜警 古典7 | ボナヴェントゥーラ | 1600 | * | |
| バスチーユ回想 古典8 | シモン・ニコラ・アンリ・ランゲ | 1400 | * | |
| 太陽の都・詩篇 古典11 | トンマーゾ・カンパネッラ | 1800 | ||
| 幻視者 上 古典16 | ジェラール・ド・ネルヴァル | 2000 | ||
| 幻視者 下 古典23 | ジェラール・ド・ネルヴァル | 2400 | ||
| 悲劇の哲学 古典18 | シェストフ,L.S. | 2400 | ||
| キリスト教の精神とその運命 古典30 | ヘーゲル | 2400 | ||
| 日記・花粉 古典35 | ノヴァーリス | 2400 | ||
| 不運な旅人 古典40 | トマス・ナッシュ | 1200 | * | |
| ピレネ紀行 古典48 | テーヌ | 2400 | * | |
| 歴史・政治 | ||||
| 書名 | 著者 | 本体(円) | 備考 | |
| スターリンと日本 | ロイ・メドヴェージェフ | 2400 | ||
| ブダペシュト史 | 南塚信吾 | 2800 | ||
| 誠実という悪徳 | ジョナサン・ハスラム | 6400 | ||
| 僭主政治について 上 | レオ・シュトラウス | 3800 | ||
| 僭主政治について 下 | レオ・シュトラウス | 4200 | ||
| 21世紀を見抜いた男-トクヴィル物語 | 中田 豊 | 2000 | ||
| ハンガリー1956 | A・アンダーソン | 2400 | ||
| 1956年のハンガリー革命 | リトバーン・ジェルジュ | 2800 | ||
| ソルジェニーツィンとサハロフ | ロイ&ジョレス・メドヴェージェフ | 4600 | ||
| 知られざるスターリン | ジョレス&ロイ・メドヴェージェフ | 6800 | ||
| プーチンの謎 | ロイ・メドヴェージェフ | 1500 | ||
| ロシアは資本主義になれるか? | ロイ・メドヴェージェフ | 2800 | ||
| ロシア危機 1998年夏 | ロイ・メドヴェージェフ | 1500 | ||
| 1917年のロシア革命 | ロイ・メドヴェージェフ | 2500 | ||
| 市場社会の警告 | ジョレス・メドベージェフほか | 2500 | ||
| 新版 都市と蜂起 | 高知聡 | 3000 | ||
| ハンガリー事件と日本 | 小島亮 | 2200 | ||
| ミッキー・マウス | カルステン・ラクヴァ | 2800 | ||
| 全体芸術様式スターリン | ボリス・グロイス | 2800 | ||
| わが生涯 Ⅰ | トロツキー | 4200 | ||
| わが生涯 Ⅱ | トロツキー | 4200 | ||
| 文学と革命 2 | トロツキー | 1600 | ||
| 裏切られた革命 | トロツキー | 3200 | ||
| ソヴィエト経済の諸問題 | トロツキー | 1600 | ||
| スターリニズムとは何だったのか 1917-1939. | リ・バンチョン | 4800 | ||
| パリ・コミューン 上 | リサガレー | 2500 | * | |
| 幽閉者-ブランキ伝 | ジェフロワ,G. | 3600 | * | |
| コミンテルン・ドキュメント 2 | ジェーン・デグラス | 4200 | ||
| コミンテルン・ドキュメント 3 | ジェーン・デグラス | 3600 | ||
| 無政府主義の哲学 2 | 大杉栄 | 1600 | * | |
| 青年に訴う | 大杉栄 | 1600 | * | |
| 褪色 異邦のコミュニスト | 沢 清兵 | 1600 | * | |
| ロシア革命関連書 | ||||
| コミンテルン最初の5カ年 上 | 第1期トロツキー選集 第1巻 | 5100 | ||
| コミンテルン最初の5カ年 下 | 第2巻 | 5300 | ||
| 左翼反対派の綱領 | 第3巻 | 3500 | ||
| レーニン死後の第3インターナショナル | 第4巻 | 4000 | ||
| 中国革命論 | 第6巻 | 3800 | ||
| 社会ファシズム論批判 | 第7巻 | 4900 | ||
| スペイン革命と人民戦線 | 第8巻 | 3600 | ||
| ソヴィエト国家論 | 第9巻 | 4400 | ||
| 第4インターナショナル | 第10巻 | 3900 | ||
| 文学と革命 Ⅰ 現代文学 | 第11-1巻 | 3400 | ||
| テロリズムと共産主義 | 第12巻 | 2700 | ||
| 偽造するスターリン学派 | 補巻1 | 4200 | ||
| 1905年 | 第2期トロツキー選集 第2巻 | 4700 | ||
| わが第一革命 1905年革命論文集 | 第3巻 | 5300 | ||
| 革命はいかに武装されたか Ⅰ | 第10巻 | 4400 | ||
| 革命はいかに武装されたか Ⅱ | 第11巻 | 4900 | ||
| 戦時共産主義期の経済 | 第13巻 | 5200 | ||
| 文化革命論 | 第16巻 | 4400 | ||
| 1905年革命 結果と展望 | トロツキー | 2300 | ||
| 永続革命論 | トロツキー | 3200 | ||
| 亡命日記 | トロツキー | 5300 | ||
| 過渡期経済論 | ブハーリン著作選 1 | 2800 | ||
| 経済学者の手記 | ブハーリン著作選 2 | 2600 | ||
| 世界経済と帝国主義 | ブハーリン著作選 3 | 3300 | ||
| 新しい経済 | プレオブラジェンスキー | 5900 | ||
| コミンテルン・ドキュメント Ⅰ | デグラス編 | 5400 | ||
| ロシア共産党党内闘争史 | ダニエルズ | 5500 | ||
| 「過渡期経済論」評注 | レーニン | 2600 | ||
| ロシア・ナロードニキのイデオローグ | ガラクチノフ | 3000 | ||
| クロンシュタット1921 | アヴリッチ | 3500 | ||
| 大スパイ 革命のユダ | ニコライェフスキー | 3300 | ||
| 向う岸から | ゲルツェン | 2800 | ||
| マルクス主義の現実的諸問題 | ルフェーブル | 2100 | ||
| 哲学の危機 | ルフェーブル | 7000 | ||
| カタロニア讃歌 | オウエル | 2700 | ||
| 日本古典・歴史 | ||||
| 書名 | 著者 | 本体(円) | 備考 | |
| 日本古典偽書叢刊 第一巻 | 小川豊生責任編集 | 3800 | ||
| 日本古典偽書叢刊 第二巻 | 千本英史責任編集 | 3800 | ||
| 日本古典偽書叢刊 第三巻 | 深沢徹責任編集 | 3500 | ||
| 『記紀』史学への挑戦状 | 小林惠子/井沢元彦 | 1800 | ||
| 白村江の戦いと壬申の乱 | 小林惠子 | 2400 | ||
| 倭王たちの七世紀 | 小林惠子 | 2400 | ||
| 天皇と鍛冶王の伝承 | 畑井弘 | 3600 | ||
| 論集・平将門研究 | 林陸朗 | 3800 | * | |
| 史話 日本と朝鮮 | 吉留路樹 | 1600 | * | |
| 信長記 上 古典58 | 小瀬甫庵,神郡周 | 2000 | ||
| 信長記 下 古典59 | 小瀬甫庵,神郡周 | 2000 | ||
| 続日本紀 第三分冊 古典77 | 林陸朗 校注 | 2500 | * | |
| 続日本紀 第四分冊 古典79 | 林陸朗 校注 | 2500 | * | |
| 続日本紀 第七分冊 古典83 | 林陸朗 校注 | 2500 | * | |
| 最暗黒の東京 古典53 | 松原岩五郎 | 1600 | ||
| 塵塚談・俗事百工起源 古典54 | 小川顕導,宮川政運 | 2400 | ||
| 八軒長屋 古典56 | 村上浪六 | 1800 | ||
| 備前老人物語 武功雑記 古典57 | 松浦鎮信撰 | 2400 | ||
| 比古婆衣 上 古典69 | 伴信友 | 2600 | * | |
| 比古婆衣 中 古典71 | 伴信友 | 2600 | * | |
| 比古婆衣 下 (オンデマンド版) | 伴信友 | 3300 | ||
| 第二世夢想兵衛胡蝶物語 古典72 | 服部撫松 | 3800 | * | |
| 袁世凱伝 古典73 | 佐久間東山 | 3600 | * | |
| 狂雲集 付・狂雲詩集 | 一休宗純 | 5000 | * | |
| 古典文庫 | ||||
| 狗張子 | 釈了意 | 2800 | ||
| 古事談 上 | 小林保治 | 3200 | ||
| 古事談 下 | 小林保治 | 3000 | ||
| 新猿楽記 雲州消息 | 藤原明衡 | 2900 | ||
| 陸奥話記 | 梶原正昭 | 3500 | ||
| 将門記 | 林陸朗 | 2700 | ||
| 承久記 | 松林靖明 | 2800 | ||
| 浦島子伝 | 重松明久 | 3000 | ||
| 撰集抄 上 | 安田孝子 | 2900 | ||
| 撰集抄 下 | 安田孝子 | 2800 | ||








































































































































