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笠井 叡さんの新刊『金鱗の鰓を取り置く術』、11月27日発売に決まりました!
現在、刊行案内パンフレットを配布中です。PDF版はこちらからどうぞ。

笠井 叡『金鱗の鰓を取り置く術(きんうろこのえらをとりおくじゅつ)』
A5判貼函入り、総832頁、定価(本体20,000円+税)ISBN:978-4-329-10007-8 
 

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第92回 2017年11月





 雨が降っていた





鈴木創士


イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』(エートル叢書24)
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』(エートル叢書19)
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(エートル叢書20)

 雨が降っていた。私は間違ったのか。朽ちてしまったような窓辺に季節外れの大きなアゲハ蝶がとまってこちらを見ている。ぼんやり外を眺めるでもなく、窓辺近くに腰かけて、さっきから私は居眠りをしていた。雨がずっと降っていた。何度となく私は大きな間違いを犯してきたのだろうか。漆黒の羽をした蝶は誰の眠りにも動じる気配がない。眠りから引きずり出されるまでもなく、私の半睡半醒のなかで、すでに胡蝶はこの世がこの世であることをあらかた証明してしまっていたが、この世がこの世であることはすでに夢のなかにしるされていて、妥当性を失っている。区別がつかないのは夢かうつつであって、蝶や私ではない。蝶の黒い羽には白と黄色の斑点があって、そこから払暁の薄明かりが少しずつ漏れ出していた。薄明かりのかすかな光は、もう眼前から消えてしまった闇の名残りであり、蝶という闇の装いであり、自分を否定しにかかったかつての嘘なのだ。雨がやんで、光が射してきた。ときどきブラームスのピアノ幻想曲が聞こえる。CDをかけっぱなしで音楽はずっと鳴っているのに、とぎれとぎれにしか聞こえてこない。私はだらしのない身なりで、一日中ずっと喪に服している。支離滅裂な独り言が何度となく心臓を鷲掴みにする。窓から捨てたはずのものが健忘のなかでよろめいている。さもあればあれ、と昔の誰かが囁く。不愉快な悪魔の囁きに耳を傾けてはならない。あれは自分を最後まで知り抜いたかのような罠なのだ。ああ、手遅れだ。歌など詠むには及ばない。背中に冷たいものが走り、いつも遅きに失した言葉、それが口にされようとする刹那が時間の澱となって全身の血管のなかを駆け巡る。この世のものとは思えない蝶が私を見ている。雨が止んでも、蝶は窓辺からじっと動かない。母が亡くなった部屋にも蝶が舞っていた。

 大空を裂いた秋日の影なれやよそ見のみぎり恐ろしからむ
 玉の音など消えなば消すさ絶縁状君生まれこし破滅の月日に
 咲かぬなら花と錯乱散りぬるを君切り倒す去年(こぞ)の梅の木

 蕭蕭と雨が降っているのに、昨日の深更、西の空に月が出ていた。視線が焦点を結ばずに少しずつ二重になっていく。私はそれでも凝視する。壁にくぼみが現れる。猿のように笑っていた、歯のない老婆の姿はもうない。額にやった手が半分消えかかる。ほんの少しだけ床から浮いてしまったみたいだ。暗闇のなかでカサカサと衣擦れの音がする。横たわったチャイナ服のスリットからまっ白な脚がむき出しになっているのがわかる。下着はつけていない。まっ暗のなかに唇の真紅のルージュだけがぼんやりと浮き出ている。そいつは生きて息をしている未知の小動物のようだ。女が寝返りを打って、からだの向きを変える気配がする。生暖かい息づかい。びしょ濡れになった闇。私はそれをむなしく手探りする。愛の幻滅のなかで私の息はもう切れている。紫煙。遠のく意識のなかで二股になった爬虫類のような舌と舌をからませたのか。見知らぬ者どうしの夢のなかで、匂い立つように生々しい接合。一段と大きくなった雨の音がずっと聞こえている。
 
 死は冷たい。だからまだその時ではない。
 存在の皮が剥ける。神はいない。くたびれ果てた不吉さ。お前の暗い骨にもう一度、光は射すのだろうか。わたしはなぜお前を愛していたのか。イレ? ああ、何という、何ということだ。お前の小さな神は、今お前に尋ねている。エウッド。他にも女たちがいたのではないか? それなのに、どうしてあなたは私を選んだのか。

 ひとたび死んでしまえば、いつも欲しいと思っていた色彩を手にすることになるだろう、サフランの紅、掛け値なしの赤、煉瓦とイチゴとセピア色と影と中間色、あなたの側でわたしは気難しく真紅、二人ともお終い、だって死んじゃったのだから、わたしたちの手は大がかりな儀式から離れることができず、わたしの手はあなたの高貴な肉体に触れている、あなたの肉体は生と死の境界を引けそうもない色艶をもち、私の舌には甘美すぎて、日が経つごとにますます甘くなり、純粋な蜂蜜のように、あなたの口がわたしの上に、ハチドリでいっぱい、わたしたち二人はある日に死に、不朽の永遠を得る、人々は井戸が開通したときのように、それに眼を見開くだろう。
(イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』)

 鈍色に垂れ込めた空の向こうは夜のアギトに食われようとしていつまでも悪臭を放っていた。夜のアギトは吐き気がするようなけばけばしい色をしていた。この想像を絶する悪臭、何も感じはしない、岩間の清水を啜るようにこのアギトの臭いをあたしは嗅がねばならない。十分間だけ眠る。黄昏時、犬も狼の姿もぼやけてゆき、ともに穴に隠れてしまったように見えなくなりかけた頃、密雲が散らばり始めた。あたしは外に出て、母の形見だった古いコートを脱ぎ捨てた。コートの下はすっ裸だった。冷えきったどこまでも白い肌と、あんたの好きな黒々とした陰毛。あんたと会うのは今日が最後になるはずだった。雨が降っていた。あたしはあたしをあんたにちゃんと見せてやろうと思っていた。でもあんたにはいくら欲情の放電が起ころうとも、あたしの墓穴に触れることなんかできないわ。あたしの体の穴という穴。でもいくら凝視しようとけっして見ることのできない穴。墓穴を掘るのはあんたの役目だったけれど、墓掘り人夫の手際良さなんて男のあんたにはあるはずがなかった。あんたはそうやって自分の穴を見つめていると思っていた。あんた自身のすべてが節穴のような穴で、そんなものはあんたのお粗末な目には見ることができないというのに。穴が面(おもて)だったことは知っているでしょ。俺には見えている、俺には見えているさ、なんて能書きをいくら口にしても、そんなものはあんたのどっちつかずのつまらない虚勢にすぎなかった。あんたはあたしの目の前をうろうろすることで、いちいち都合のいい不在に去勢を施していたのよ。あたしはあんたをもう愛することはできない。

 美術館の前に着いてみると、雨が降っていた。西日も射さず、そうであり得たかのように、やくたいもない思い出のなかでだけ夕日が射していた。
 古い美術館はそうでもないが、私はたいていほとんどの美術館が嫌いである。それが安藤忠雄などの建築物であれば、汚いコンクリートがあまりに陰気すぎて、殺伐としていて、なかに入ると安物の金ピカが剥げたようなどこかの霊廟にやって来た気分になる。ここはバカでかいだけが取り柄の殺風景な墓なのだ。誰のものでもないのに、誰ソレの文化、文化とつぶやきながら、さえない死霊や半透明の幽霊がいそいそとうろついている。ベルニーニやボロッミーニのような建築家でなければ、建築家などもう存在しないほうがいい。大工の棟梁で十分間に合っている。どうしても見たい絵があれば、ここに来るしかないのだが、こんな美術館は、ひとりで来たりすると、気が滅入ってものを考えられなくなる。今日、私はひとりだ。おまけに身体障害者にとってはあまりにも安易に思いついた迷路のようで、えんえんと歩かされるし、最悪である。座るところもない。人をなめているとしか思えない。

 エル・グレコのいく枚かの絵のなかで、描きこまれた光に照らされ、ぼやけた部分がどんどん広がっているのが見受けられる。そこではあたかも何かがたえず眠りから引きずり出されているように、絵画は、空間に休止という性質がそなわっていないことから、むしろむりやり断行されたものに映る。そこでわたしは、夢のなかで、現実の形姿(フィギュール)や人物たちがどう変装しているかよりは、仮構体験にもたらされたあの奥行、というか、見かけの奥行の方に思いを馳せる。夢はそこに一種の要約、あるいは、プログラムを一緒に盛り込んでいる。その要約ないしプログラムの謎は、形姿たちの起源や意味、その出所や場面の配置に所在するのではなく、あれほどしっかりと規定されているのに見抜けない使い方や、活用不可能なプログラムにあって、真っさらに描かれた、あの未来にしか所在していないということだろう。
(ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』)

 シェフールの言う「ぼやけた部分」は、それを見ている者の体験の奥行であると同時に、体験をすでに呑み込んでしまっているはずの何か、夢のなかからかろうじて眺められた現実の奥行であるに違いない。現実のなかには、ぼやけた部分が広がることによって、瞬時に所在してしまうくぼみがあることがわかる。夢はこのくぼみの裏側である。この夢ははじめからの一種の覚醒であり、眠りのなかの目覚めであって、ロマンチックな意味をすべて剥奪されていることは言うまでもない。夢にあとさきがあるのは、シェフェールの言うように、それが夢の盛り込んだ要約であり、誰が操作しているのかついにわからないプログラムの謎の起源でありその終局であるからなのだが、その使用方法とは、いつも目の前にあって、毎日そうとは知らずにわれわれが用いているかもしれないものでありながら、誰もそれをそれ自体として見知った自覚がないのである。なぜならどんな使用方法であっても、このくぼみをどうすることもできないからだ。こうして私は途方にくれざるを得ない。そしてプログラムがあらかじめ活用不能であるということは、それがどこにでも、いつでも、たぶん接続可能であるということなのだ。時間は、この場合、可逆的でしかない。しかしその後は? いや、この事態は今げんにここで起きていることである。未来は今存在している。だが光はすでに描きこまれ、そこにあって、しかもここでは光は観察されることによってひとつの光となるのだが、未来は、未来にあっては、髪の毛一本先を逃げているし、今見た光をたずさえたこの未来はどうあってもその刹那に存在できない。おまけにそれを確かめるすべがないだけではなく、ここではそもそも未来は過去と見分けがつかないのだ。私は何かのタブローを前にしているとき、ぼんやりと照らし出された光源のそばにいるようにしてその未来のタブローを見ているのだと思っていた。私は間違っていたのかもしれない。私は今ここにいながら、美術館に入ることもなく、ただ過去のなかに雨が降るのを見ているだけなのだ。

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評者は橘川武郎さん(東京理科大学大学院教授)です。

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第91回 2017年10月





桃花一樹 ―― 幻滅について





鈴木創士


エドモン・ジャベス『歓待の書』(エートル叢書15)


最後までユダヤ的な詩人であったエドモン・ジャベスは遺著となった最後の本のなかにこんなことを書いていた。
 《私に追いつけ》、とある賢者は書いていた、《おまえがもう私を探さないところで》

 彼の手紙は、ちょうど私が自分の住まいを去って、彼を探しに行こうとしていたときに私に引き渡された。
 《これらの言葉を列挙する者は》、と彼は私に宛てた手紙に書いていた、《私ではなく、かつて頑固に彼自身のために書き続けていた、私であった人間である。
 《そしてあたかも彼のペンがまだ書きつつあったことすべては、実際にはかつては私の現在であった過去のなかでのみ書かれているかのようなのだ、私にはその日付を明確にすることができない、突然の、そして決定的な決裂の前に。というのも私には憶い出も言葉もなく、多くの困難をもって私が自分を駆り立てようとしているときには、時間は廃棄されるからだ。
 《私の回りには、震えるものは何もない。
 《鉛より重く、空気よりも軽い不動性。
 《書物の外には、空虚だけがある——その諸々の語(ヴォカーブル)を奪われたひとつの書物の空虚、ひと度言われ、それから飛び立った事柄が残した、白色の広大な空間。
 《解きほぐせない最後の諸瞬間。
 《おお、無が告発する無の重荷》。

 そして昼に決着をつける、このおぼつかない手。
(『歓待の書』)
  どっちつかずの昼に決着をつけるようにして、僕は君を、ちょうどこの手紙を書いていた男のように、最後にはもう誰なのかわからなくなる君を、探していたのだろうか。あのはげ山のような小高い丘の上には、桃の木が一本だけあった。桃はまだ花をつけてはいなかった。君を見つけた場所でしか、僕は君を探すことができなかったのだ。木には朝の光が当たっていた。夜明けの薄暗がりのなかに突っ立った裸体などではない。偶然は見つけることと探すことのどちらに介在するのか。偶然は、時の経過とともに、後から考えるなら、使われなくなって引き出しのなかにしまわれたサイコロのように必ずや廃棄されていたではないか。その木の枝には、枯れ枝であっても、決まって小さな鳥がとまりにやって来る。幾人かの君、すべての君は、まだ読んだこともない未知の作家、それでいてそのつど、解きほぐせない最後の瞬間を前にしていたかのように、もう書くことができなくなった作家に似ているのかもしれない。それでも僕には白く霞む広大な空白が向こうにひろがっているのが見える。鷹が旋回していた。ここでは時間が空間になることはないだろう。どんな最後の瞬間も、この手紙を書いた男が言うように、やはり解きほぐせないのだろう。魔法の糸玉を解きほぐしても、脱出できるのは鷹の旋回するあの空虚のなかへだけかもしれない。君はアリアドネではないし(アリアドネはやむにやまれず僕自身を導いた僕の幻影であったかもしれない)、そしてなおさら僕はテセウスではない。迷宮は一本の糸、つまり一本だけしかない線でできているか、存在しないかのどちらかだ。かつては、かつてなかったが、今、今はない。丘の上の明るい木の枯れ枝に鷹がとまることはもうないだろう。枝が折れてしまうことを鷹は知っているからだ。

 主人はどこにもいない。
 明るいだけの部屋。
 絵から抜け出したような本物の静物。
 イーゼルの上の描きかけの油絵。
 散乱する不在は何度となく剥がれ落ちた薄い雲母のようだ。
 もっとも薄いもの。
 テーブルの上はきちんと片付いている。
 壊れた窓の外から見ると
 不在には窪みがあって
 内側に光が当たっている。
 死後の生のような今生の生。
 もう後はない。
 光は沖合に群がる雲のようにすぐに変化するのだから。
 肉のような陶器の上に指の跡が残っている。
 触れることのできるものとできないものがあったのだ。
 この部屋に入ってこようとしているのは
 消えてしまった黄昏のなかでじっとうずくまった
 それとも黎明の焦点のような
 黒猫なのか。
 どの幽霊なのか。
 君なのか。

 江戸時代の漢詩人、大工の棟梁をやめて漂白と遊行の詩人となった柏木如亭に倣うなら……

 青邨(せいそん) 喜び対す 好風光
 復(ま)た雪花の草堂を囲む無し
 岸脚(がんきゃく) 波を生じて魚は躍在し
 田頭(でんとう) 麦を露(あら)わして鳥は飛揚(ひよう)
 桃源記裏(とうげんきり) 渓山老い
 盤谷(ばんこく)図中(ずちゅう) 日月(じつげつ)長し
 筆を援(と)りて 明窓 適意を書す
 研池(けんち) 日暖かにして未(いま)だ昏黄(こんこう)ならず

 晴れた村里にいて心地よい風光に向き合っていると嬉しいものだ。舞い散る雪が私の草堂を囲むことはもうない。岸辺には波が打ち寄せ、魚は跳ね、田んぼから麦が芽を吹き、その上を鳥が飛んでいる。晋の陶潜の「桃花源記」にあるように、山川は長い年月を経てきたのだ。唐の李愿が隠居したというバンコクを描いた画がそうであるように、月日はゆっくりと流れる。いま筆をとって、明るい窓辺で、この心地よさを書いているが、夕方までまだ時間があるし、硯の墨だまりに暖かな日差しが差し込んでいる。

 僻地 年来 新(しん)ならざるを奈(いか)
 芳(はな)を栽(う)ゑて苦唫(くぎん)の身に伴はんと要す
 無名の野草 顔色有り
 且(しばら)く当(あ)つ 桃花一樹の春

 辺鄙な土地で何年か過ごしていると、毎日がちっとも変わり映えしないので、どうしたものか。花でも植えて詩作に苦しむこの身に添えたほうがいいかもしれない。名もない草にも美しさはある。花が咲けば春の到来を告げる桃の木のかわりに、しばらくはこの草でも当てがっておこう。

 詩集から行き当たりばったりに拾ってみたが、先の「硯の墨だまりに差し込む暖かい日差し」も、この「無名の草」も、詩人にとって時間に逆らうものとして現れている。ゆっくりと時が流れ、山河にそのような悠久の時間が流れていることを諦め気味に喜ばしく思ってはいても、突然、硯に光が当たる。如亭がそれを見る。見ざるを得ないのだ。だからといって彼や私はその事態をうまく書くことができない。桃花一樹の春を今はまだ感じることができない。あるいは桃の木は枯れてしまっているかもしれない。少なくともいまこの瞬間にそれを感じることができなければ、このぱっとしない生活はいかんともしがたい。代わりにあてがわれた無名の草などといっても、そいつは変わり映えのしない生活のなかで呻吟する俺にそっくりではないのか。如亭の言う心地よさとは何なのだろう。ただの春眠なのだろうか。遊び暮した後の如亭の諦念は幻滅へと変わるのだろうか。

 あるいは、唐突だが、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の一節を思い出す。
 「彼は大きな檞(かし)の木の下に先生の本を読んでゐた。檞の木は秋の日の光の中に一枚の葉さえ動さなかつた。どこか空中に硝子の皿を垂れた秤(はかり)が一つ、丁度平衡を保つてゐる」。
 これだけの一節である。尊敬すべき先生。だが秋の木立の下で、幻滅の向こうに秤が見える。弱々しい秋の光が射している。この透明な幻覚には理由らしきものはないが、秋の日の光のなかの秤にはどこか厳しさを感じさせるものがある。最後には結局自殺した挽歌詩人たちが自分のことをかつては棚に上げていたように、思わず芥川にも感覚の十月が到来したのだろうか。皿は、ありえないことだが、透き通ったガラスでできていて、上には何も載っていない。ジャベスのように語るなら、分銅より重く、空気より軽いもの。せめて風に揺れていればまだしも、風はそよともしない。何を天秤にかけるのか。何を天秤にかければいいのか。何を天秤にかけることができるのか。秤は息を呑むような平衡を保って静止している。この静けさは狂気じみている。

 レバノン出身のフランス語作家サラ・ステティエはランボー論である『ランボー 第八番目に眠る人』のなかで、ランボーに幻滅はなかったと述べていた。
 「ランボーには幻滅はないが、あの怒りがあって、それは不良少年であり見者である彼とともに生まれたように見える、しかもそれをランボーは自分の作品と生のなかに引きずって行ったのである、あたかもその怒りが、彼の言語の奪取と餌食の澄み切った非実体性に、それらの合体不能性に、ついで世界の過酷な合体可能性に、唯一の可能な答えをもたらすかのように」。
 真の生が不在であれば、真の作品も不在だったのか。詩人ルネ・シャールは「よくぞ出発した、アルチュール・ランボーよ!」と言っていたが、この繰り返された「出発」は、しかし私にはとてつもない幻滅をともなっていたとしか思えないのだ。ランボーの言語の獲得は自分を餌食にしたのだし、あらゆるもの(田舎の暮らし、学校での毎日、母親、先生、読んだ本、自分自身が行った失敗続きの出奔、あらゆるものからの自発的逃亡、敗北したパリ・コミューン、自分の知り合った有名無名の、うぞうむぞうのパリの詩人たち……)に対する彼の怒りは、つねにこの出発の真の裏面をなし、つねにこのやみくもの出発の原因であった長い幻滅に裏打ちされていたとしか思えない。ほんとうのところは誰にもわからないにしても、幻滅とそれにともなう怒りの発作は彼を道からそらせ、彼の行く手を誤らせたかもしれないが、たしかに「ランボーは自分を欺かなかったし、自分に嘘をつかなかったのだ」。別の観点からすれば簡単なことだった。だから少年の彼は出発したのだ。少年ではなくなったときにいたるまで出発は繰り返された。言葉は外に投げ捨てられた。言葉は刺青のようにすでに彼の肉体に彫られていたのだから、余計なものは捨ててしまえばそれでよかった。彼は、この繰り返された出発を停止したとき、三七歳で死ぬことになる。
 ほんとうによくぞ出発したものだ。ほれぼれするような出発だったよ。『イリュミナシオン』(そして『ある地獄の季節』)の輝かしい詩句には、砕け散ったガラスの乱反射のきらびやかさと、みずみずしい怒りと、発作をともなった熟慮があり(彼の思考のスピードはとても早かった)、やがて砕け散ってしまう「透明なガラスの皿のついた秤」のように冷徹なところがあるが、その反射が世界を散文によって引きずりまわし、「自由な自由」を地で行く散文を、われわれにとっていずれ未知の秤となる散文を、要するにこれ以上ない「世界の散文」を生み出す万華鏡となるには、大いなる幻滅をともなったあの彼独特の観察が必要だった。その観察は不良少年のくせに老成してしまった者のそれだった。
 ランボーは歩き回って丘の上まで来ると、疲れ切って腰を下ろした。朝になっていた。彼は薔薇色に染まりはじめたまだ眠る街々をじっと見ていたのだ、このあまりに非現実的な現実のまっただなかで、幻滅の向こうに、不眠の言葉とともに何が到来するのかを。そしてそれは、語の真の意味において、そのつど、ほぼ一度きりのことだった。そうであれば、後には書くべきことが何も残らなかったとしても驚くにはあたらないだろう。

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  第90回 戦争と麻薬 - 2017.09.04

第90回 2017年9月





戦争と麻薬





鈴木創士


シャルル・フーリエ『四運動の理論』上・下
フィリップ・ソレルス『セリーヌ』エートル叢書21
《アリストテレス、われわれの賢者たちのなかでも名声とみに高いこの人物にしてからが、己れの学識に対しては憐憫の情を抱いていたものだ。彼の標語は「われ何をか知る?」というのであって、これこそはおそらく彼のいいえた最良の言葉であろう。》――シャルル・フーリエ『四運動の理論』
 タレントやスポーツ選手や有名人が覚醒剤で逮捕されると、知ったかぶりのバカのひとつ覚えのように連日マスコミが大騒ぎを繰り返しているさまはほとんど日常的に見ることのできる光景になってしまった感があるが、他に取りあげるべき重要なニュースはご存知のとおり山のようにあるのだから、これは滑稽なだけでなく、いささか常軌を逸していると言わざるをえない。いい歳をした大人が口角泡を飛ばしてする全員一致の過剰な反応は、おおむね本質的問題を回避し隠蔽しようとするわれわれの本性の裏面のようなものだから、こんなことはみっともないし大概にしておいたほうがいい。ついでにマリファナに関して言っておけば、早く解禁にして、薬理的見地からしてもアメリカやカナダやイスラエルのように大麻研究を進めて、マスコミはけっして伝えないが世界中がそうしているように医療用大麻を合法化したほうがいいと思われる。

 覚醒剤(アンフェタミンおよびメタンフェタミン)は「恐ろしい」クスリであるということだが、現在では立派に麻薬に昇格したとはいえ、もともと日本でも諸外国でも「向精神薬」(つまり睡眠薬や精神安定剤や躁鬱病の薬などのカテゴリー)に分類されるおとなし目の薬だった。かつてハーバード大学を受験するアメリカの高校生たちにとって、眠いまなこを覚ます勉強用のおクスリだったくらいだから、こんなクスリは、マスコミに登場するご立派な先生方やくだらないコメンテーターがなんと言おうが、どれほどのものであるのかはおして知るべしである。医療用で日本でも使用されているモルヒネやヘロインのほうがはるかに怖いクスリであることは言うまでもない。覚醒剤で殺人を犯すような人間はアルコールでも同じことをやってしまうだろうと私などは考えている。
 それはそうとして、しかし覚醒剤の社会への蔓延がすでにして動かしがたい事実であるのなら、他にやるべきことはいくつもあるだろう。日本の政府や行政は中毒患者の本格的治療や社会復帰にはほとんど関心を示さないではないか。実際に中毒患者に手を差し伸べているのは民間のNPOであるし、こんなことは先進国では聞いたことがないしあり得ない話である。言いっ放しの無責任ぶりを見ていると、行政もマスコミも世論もどこまでが本気なのかよくわからない。

 ところで、ドラッグの王様は、すでにギリシア神話に登場する阿片から精製される罌粟科アルカロイド系麻薬モルヒネとヘロインであるが(オウィディウスの『変身譚』には、罌粟の花が咲き乱れ、そこから阿片を抽出し、世界に振りまくきわめて美しい描写がある)、覚醒剤への異常ともいえる反応は、もしかしたら日本でヘロインが蔓延しなかったという事実が根底にあるからで、かわいそうなパブロフの犬の嗅ぎ鼻みたいなその反作用というか裏作用のようなものなのだろうか。日本にもヘロインが流行する土壌と条件は諸外国と同じようにあったのだから、不思議といえば不思議である。俗説では関西のその筋の今は亡き大親分がヘロインの密輸入を堅く禁じたからだとも言われているが、あまりに畏れ多く確かめたわけではないし、定かでないとはいえ、あり得ないことではないし、この大親分に日本社会は感謝すべきなのかもしれない。

 ともあれ、日本人の覚醒剤コンプレックスには幾つか理由を考えることができるのではないかと思う。別段、私や君たちにそんなコンプレックスがあると言いたいわけではけっしてないが、麻薬に関する汚いスパイ活動を繰り広げてきた元マトリですらも堂々とテレビに登場できるこの結構なご時世、マスコミや世間の反応を見ていると、そうとしか言いようがない。どうやらこのコンプレックスの元には歴史的なトラウマがあるらしいとしか考えようがないのである。
 ひとつは咳止めである覚醒剤の原料エフェドリンはもともと明治時代に長井長義博士によって発見され、そこからメタンフェタミン(覚醒剤の成分)が同じ長井博士によって抽出されたということ。つまり覚醒剤はわれらが日本人による誇るべき発明なのである! もうひとつは、覚醒剤が第二次大戦前後の日本帝国軍部との抜き差しならぬ深い関わりがあったという点である。
 近代における麻薬と国家の関係は何も阿片戦争のイギリスに限ったことではない。戦前の日本はある時期世界一のアヘン生産国であったし、列強はみな中国への阿片系麻薬の輸出をさかんに行っていたが、最後にそれを一手に引き受けた感があったのは日本である。日本のみならず諸外国の誰もがこれで大儲けしようとしたこの国際的問題が裏にあったからこそ、日本の国際連盟からの脱退まではひとっ飛びだった。しかしアヘンだけではない。この満州その他への阿片政策とは別に、軍は覚醒剤を大量生産したのだ。戦闘用の麻薬としてである。覚醒剤の薬理作用には、人を元気にする、恐怖心をなくさせるという効果があることがよくわかっているからである。
 特攻隊の「別れの盃」に覚醒剤が入っていただけではない。例えば、海軍のK中尉はB-29を続けて五機も撃墜したすこぶる優秀なパイロットとして有名だったが、出撃前に覚醒剤を注射されていたことを後に述懐している。彼は自分は中毒患者だったと告白している。より正確にいえば、軍部の上官によって中毒にされたのだ。だがこの大量の備蓄品は戦闘用だけで済んだわけではない。

 戦中戦後の日本の「市販の」覚醒剤ヒロポン(メタンフェタミン)やゼドリン(アンフェタミン)は、大量に貯蔵していた軍の覚醒剤が元になっていたのだし、軍部は流通にも関与していた。中国にあった余った大量のアヘンを横流しして、関西(特に神戸)あたりの一部の戦後成金をつくっただけではなかったのだ。これらの軍の戦闘用のクスリが戦後の日本の覚醒剤大流行をつくりだしたのである。覚醒剤の使用が覚せい剤取締法によって厳しく制限されだしたのは昭和二十六年になってからであるし、その後も不法な製造と密輸が続いたことは言うまでもない。
 戦後へと延命し続けた軍と製薬会社の関係は何もあの悪名高いミドリ何とかという会社だけではなかったはずだが、オスカー・ワイルドに倣うなら、そもそも「緑色研究」には「毒」が含まれていたのだし、誰もがそのことを知っていたのに知らんぷりを決め込んだのである。最近でもまともな人間なら誰もが薄々感じているように、日本とはそういう国である。

 もちろん、戦争と麻薬が密接な関係をもっていたのは日本だけではない。こちらは戦闘用というよりも罪悪感を失わせるためであるが、ベトナム戦争では、あまりにも有名なソンミ村の虐殺を含めてベトコンや民間人を殺戮するためにアメリカ兵はヘロインを投与されていた。キリスト教徒には原罪があるのだから、なおさら罪悪感の問題は由々しき問題だつたのだろうか。東ティモール紛争では、CIAの研究と入れ知恵で特殊なドラッグが民衆を殺戮するテロリストたちに配られ、使用されたと言われている。もちろん、キリスト教徒でない人間にも罪悪感なしに平気で誰彼かまわず人殺しをできるようにするためである。あるいは、筆者の考えでは、天安門事件の際に、丸腰の学生たちを射殺し戦車で轢き殺した中国の人民解放軍の兵士たちは覚醒剤を摂取していたと思われる。
 イスラム系ゲリラ(後のビンラディンたち)を支援するためにアフガニスタンでまず最初にCIAがやったことは、麻薬をめぐる極秘作戦であり、麻薬輸送のルートをつくることだった。これは後に武器輸送のルートとなった。面白いことに、武器・麻薬・美術品の国家的あるいは国際的シンジケートの密輸ルートは同じひとつのラインであるという説があるが、そうでなければ例えばイラク戦争のさなかにどうやってあれほどのメソポタミア文明の美術品を国外に持ち出すことができたのか説明できない。あれらのシュメールやバビロニアの遺物はきっとそのうちアメリカやイギリスのオークション会場に登場することだろう。

 さらにごく最近の話ではフランスやベルギーでテロをやったイスラム国ISの戦闘員は「カプタゴン」(アンフェタミン)を摂取していたようである。そしてかつて哲学者サルトルが服用していたことで有名なこのカプタゴン(そのために『弁証法的理性批判』を書いた後サルトルはぶっ倒れてしまったとボーヴォワールは回想していたはずだし、最近ではフィリップ・ソレルスが『天国』を書くときに使用したことがあるとインタビューで答えていた)は、かつては処方箋があれば合法的に買うことのできたヨーロッパにおいてもすでに禁止薬物に指定されているが、現在ではヨーロッパ産のこのクスリがシリアやサウジアラビアに大量に貯蔵されているというのだから、ISの戦闘員たちは戦闘用に限らずあらゆる活動領域でこれを使用しているということなのだろう。他には、北朝鮮が国家規模で覚醒剤を製造し密輸出し、それがあちこちの売人たちの手に渡っていることは周知の事実である。

 テロリズムが国家を背景としているとすれば、同じように戦争への麻薬の関与はかつても今も国家レベルで行われたのである。まさしく日本軍も戦争で「仕事」をさせるために覚醒剤を使用したのだった。このことを強調しておきたいと思う。現在でも、なんと自衛隊法には「麻薬及び向精神薬取締法等の特例」というのがあって、部隊や保管所での麻薬および向精神薬の譲り受けや所持が認められているのだ!!! もちろん覚醒剤もオーケーということになる。一般人や作家やミュージシャンが覚醒剤を使用したら、人間をやめろとまで言われるのに、兵士のためにはこれを使用することが今も法律的に許されているのである。戦争と麻薬。その永遠の関係はこれほどの覚醒剤コンプレックスの国でもまるで摂理のように変わることがないらしいのだ。

 かつて日本の覚醒剤は戦中戦後を通じて「労働のための薬」であった。まだ合法だったヒロポンの戦後の使用者は285万人に達していた(何しろ285万人だぜ!)。すでに覚醒剤取締法が設けられた後の一九五四年に始まる第一次覚醒剤乱用期には、中毒患者は、再びなんと、50万人いたと言われる(でもこの信じられない数の使用者や中毒患者たちのうちのいったい何人が、人殺しや無差別殺人などの大罪を犯したのかマスコミに教えてもらいたいものだ、大山鳴動して鼠一匹……)。当時、作家の坂口安吾や芸人のミヤコ蝶々や正司歌江さんたちがヒロポンを常用していたことは有名な話である。この頃はみんなまずは「仕事」のために覚醒剤を使用したはずであるし、やめる気になった人はみんなやめたのである。ヒロポンの語源は恐らくギリシア語のPhiloponosであろうと思われるが、これは「仕事好き」、「仕事への愛」を指している。
 覚醒剤禍。日本人は仕事が好きなだけなのか。寺の小僧が覚醒剤をやったら、一日中日が暮れても庭の同じ場所を箒でずっと掃いている、というアレなのだろうか。いや、日本人だけではない。ナチスの絶滅強制収容所の入口には、銘として「労働は人を自由にする」というスローガンが掲げられていたが、それは単なる血塗られた冗談ではなかったのだ。戦後フランスの作家ボリス・ヴィアンは、「戦争は労働のなかで最も困難で、最も堕落したものだ」と言ったが、戦争を遂行する国家はそれを知らず知らずのうちに軽減させ忘却させるために麻薬を使ったのである。なんとももったいない話である…。そのことを今後も忘れず心に留めておきたいと思う。
(本稿は、残念ながらさる左翼系の新聞によって掲載を拒否された「戦争と覚醒剤」という文章が元になっていることをお断りしておきたい)

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第89回 2017年8月





ボリス・ヴィアン





鈴木創士


鈴木創士『魔法使いの弟子 批評的エッセイ』エートル叢書17


 ボリス・ヴィアンが二十近い職業を持っていたからといって、作家たるものがどうやって食っていけばいいのか、という由々しき問題の答えにはまったくならない。永続的な喫緊問題ではあるだろうが、その点で時代はますます悪化の一途をたどっている。
 ボリス・ヴィアンがほんとうにずっと金に困っていたのかどうかはつまびらかではないところがあるが、理科系に強かったボリス・ヴィアンは最初、公務員の技師になった。でもそれもやがてやめてしまい、ほぼ同時に、つまり一度に、詩人、小説家、翻訳家、劇作家、ジャズミュージシャン、シャンソン歌手、作詞作曲家、ジャズ評論家、オペラやバレエの台本書き、映画監督、映画脚本家、俳優、レコード会社のディレクター、画家、美術評論家となった。
 ボリス・ヴィアンは「職業がひとつなんて、売春婦みたいだ」と悪態をついていたが、しかし彼は結局のところ作家であり、プロのミュージシャンであるにすぎなかった。やったことはほとんどひとつ事なのだ。あとの職業は、よくある話だが、一儲けしようと企んだ当時のサン-ジェルマン-デ-プレの人間関係その他が、才能溢れる彼を利用しついでにほとんど彼に無理強いした余禄みたいなものだった。つまりこんなものはどれもやる必要のない仕事だった。
 彼はずっと心臓を患っていたが、コカインをやっていた気配はなさそうだし、医者に止められていたトランペットを夜毎サン-ジェルマン-デ-プレの地下クラブ、穴倉「タブー」で吹きまくっていたことだけがたぶん唯一の死因などではないだろう。仕事、仕事、仕事。彼は働きすぎたのだ。こんな忙しい毎日こそが彼の寿命を縮めてしまったことは想像に難くない。見たくもなかった映画、自分が原作を書いたのにその出来に不満を抱いていた映画(その原作とはヴィアンのデビュー作『墓に唾をかけろ』で、もう少し正確に訳せば『お前らの墓に唾を吐いてやる』)の試写中に心臓発作で亡くなったのだから、ボリス・ヴィアンはほとんど殺されたも同然なのだ。

 ところで、フランスは第二次世界大戦の戦勝国だったとはいえ、戦後直後のフランスの若者にとって、いつの時代も同じようなものだが、やはり未来はあやふやなものだった。いや、たぶんそれどころではなかっただろう。未来の行動も思想も混乱と幻滅のなかにしかありえなかった(彼らにとっても、広島と長崎によって「原爆の世紀」はすでに始まっていたし、われわれが想像する以上に、彼らがそのことを強く意識していたことは間違いない。ボリス・ヴィアン自身、「原爆のジャヴァ」という曲を歌っていた)。
 レジスタン派の勝利によって、ナチス・ドイツの占領からパリは解放されたが、パリ全体も、もちろんサン-ジェルマン-デ-プレも、そして人心も、荒廃の極みにあった。フランスには対独協力というごく近い過去があった。町のあちこちで住民によるリンチが頻発した。処刑も行われた。戦争犯罪者たちと無名戦士の墓…。不思議なことに誰もが突然抵抗運動マキの英雄になった。えっ? かつて密告が横行したように、嘘も逃亡も横行したに違いない。すべてがマロニエの下ですっかり泥水をかぶってしまったのだ(後にヴィアンはレジスタンス神話を徹底的にこき下ろした戯曲『屠殺屋入門』を書き上げるが、芝居は二流の劇場でしか上演されることはないだろう)。フランスは旧約聖書の時代のようにさながら二分されたままだった。フランスとフランス人にとってヴィシー政権と戦後のアルジェリア戦争は二十世紀の二つのトラウマだったのだし、その問題は間違いなく今も尾を引いている。
 文学者はどうなのか。文学者も多くのツケを支払わされることになった。ナチス占領下でヴィシー政権支持の文章を書きまくったブラジアックはあれこれあった末に銃殺刑に処せられた。セリーヌは亡命し、ジャン・ポーランに代わってガリマール社の『NRF』誌の編集長におさまっていたドリュ・ラ・ロシェルは結局自殺した。九死に一生を得たブランショはやがて極左に転向するだろう。ドリュ・ラ・ロシェルは元パリ・ダダのメンバーだったことがあったのだし、戦前の右翼だった彼らはみんな「共産主義かファシズムか」の世代だったのだ。

 ボリス・ヴィアンは戦後のサン-ジェルマン-デ-プレのスターになったが、彼は戦争に深く刻印されただけではなく、まぎれもなく戦争を心底憎む戦後作家のひとつの在り方だった。それが彼の真骨頂だったと私は考えている。ボリス・ヴィアンの悪ふざけが何らかの反抗のしるしか発作でなかったことは一度もない。当時はただのジャズだって普通のフランス人には受け入れ難いものだった。おまけに彼は「脱走兵」の歌もうたったし、こんな詩も書いている。

  俺はくたばりたくない
  夢も見ないで眠りこける
  メキシコの黒犬
  むき出しの尻をした猿たち
  熱帯をむさぼり食らう
  あぶくでいっぱいの巣にいる
  銀色に光る蜘蛛たちと
  知り合いになるまでは
  俺はくたばりたくない…

 人生において誰もがその人のうちでその人を完結せざるを得ないことはわかり切ったことだ。ボリス・ヴィアンの場合は生き急いでいたように見える。そうはいっても、戦後のサン-ジェルマン-デ-プレの生活は愉快だったはずだ。ボリス・ヴィアンは『サン-ジェルマン-デ-プレ入門』という本を書いているくらいだから、ここに彼が「場所と公式」を求めたことは間違いない、というかそれしかなかったはずである。場所と公式は探し当てられたのだろうか。誰にとってもその問いに答えるのは難しいが、彼はここで生き急ぎ、そして死ぬことになった。
 サン-ジェルマン-デ-プレには、ご存知のとおり、多くの有名人が顔を見せていた。サルトルとボーヴォワール、カミュ、メルロー-ポンティ。だが黒ずくめの若者たちは、全員が実存主義の学生ばかりではなく、誰もがサルトルの信奉者だったわけではない。実存主義一色のサン-ジェルマン-デ-プレなど、ヴィアン自身が言うように、三文ジャーナリストが苦し紛れにでっち上げたいいかげんな話にすぎない。
 レイモン・クノー、ジャック・プレヴェール。フランスの暗黒小説の叢書、つまり探偵小説のことだが、「セリー・ノワール」の総指揮官だったマルセル・デュアメル。たしかにセリー・ノワールの哲学があったのだし、フランス映画はすぐ隣に位置していた。サン-ジェルマン-デ-プレには古参の連中もいた、アルトーや、ピカビアや、アメリカへの亡命から戻ったブルトン、コクトー、バタイユやツァラもいた。画家のヴォルスや、ジャコメッティ、マッタ。ジャン・ジュネ。エジプト出身の放浪作家アルベール・コスリー。アルトーの弟子だったロジェ・ブランや多くの俳優たちとその卵。ボリス・ヴィアンと並び称される戦後サン-ジェルマン-デ-プレの寵児、役者で歌手だったジュリエット・グレコ。それに名だたるアメリカのジャズミュージシャンたちがこぞってやって来ていた。デューク・エリントンも、少し後にはマイルスも。シュルレアリストの残党、そして後に五月革命を準備するシチュアシオニストの源流となったイジドール・イズーとレトリストの詩人たち。独創的にしかなりえなかった映画監督、五月の革命家となるかのギー・ドゥボールもそこにいた。後にウィーン幻想派の画家になったエルンスト・フックスも。
 一日中カフェにたむろし(この点で有名なカフェはいくつもあったし、今もまだ残っているものもあるにはあるが、いちいち列挙するのはあまりに空しいので、やめることにする)、夜はクラブ「タブー」で踊り狂い、安ホテルの部屋や泊めてもらえる寝ぐらがなければ、メトロの駅で野宿する多くの若者たち。戦争孤児たちもブルジョワの子弟も。彼らによって未来は拒否された。精神錯乱は保証済みだし、不必要といえば不必要なのだ。はっきり言って、こんな連中は最近では絶滅危惧種である。私があきらめ気味に日々そのことにいら立っていないと言えば嘘になるだろう。かっぱらい、麻薬の売買、その他の犯罪に近いこともたまには。まあ彼らは、言ってみれば、フランスのビートニクス、フーテン族やヒッピーのハシリとも言えるのだが、その魅力的な風貌は、エルスケンの写真集『セーヌ左岸の恋』やその他の写真、ジャック・パラティエの記録映画『想い出のサン-ジェルマン-デ-プレ』でも見ることができる。

 それらの中心にほんとうにボリス・ヴィアンがいたのかどうかはわからないが、ヴィアンが日常生活のなかで彼らを鼓舞し、そそのかし、元気づけるようなことをやっていたのは、伝記作者たちの筆致からしても、確かなことなのだろう。彼自身、自分を鼓舞していたフシがある。なぜなのかはしかとはわからない。生き急いだボリス。退屈だったボリス。そうとしか言いようがない。ボリス・ヴィアンの最初の作品は、はじめのほうで言及したように、セリー・ノワール風の「えげつない」小説『お前らの墓に唾を吐いてやる』だったが、これはヴァーノン・サリヴァンというアメリカ黒人作家の作で、ボリス・ヴィアンが翻訳と序文を担当したことになっていた。真っ赤な嘘だった。このほとんど冗談みたいな処女作は、出版社「スコルピオン」の社長ジャン・ダリュアンとの退屈な会話から生まれた。もちろんそれが彼らの日常的な悪だくみの一環だったことは言うまでもない。
 「なんかいい作品はないかなあ」
 「あるよ、ヴァーノン・サリヴァンという黒人作家だ」
 「原稿はあるのか」
 「今から俺がでっち上げるさ」
 「じゃ、そいつで一儲けしようぜ」
 実際、本は五十万部の戦後最大のベストセラーとなったが、暴力描写及び過激な性描写ゆえに風俗紊乱の廉で発禁処分の憂き目をみる。バタイユやブルトンが法廷に立ち、出版人ジャン・ジャック・ポーヴェールが被告になったサド裁判よりずっと前の話である。

 ヴィアン自身が言うように、内容とは何の関係もない表題をもつ小説『北京の秋』に敬意を表して、最後に中国北宋代の詩人蘇東坡の詩をヴィアンに献じよう。

  人生いたるところで知りぬ何にか似たる
  まさに似たるべし飛鴻(ひこう)の雪泥(せつでい)を踏むに
  泥上にたまさか指爪(しそう)を留(とど)むるも
  鴻飛んでなんぞまた東西を計(はか)らん

 ボリス・ヴィアンは心臓発作によって三十九歳で亡くなったが、人生の漂白を知るために、つまり書くために、北京をわざわざ彷徨うには及ばなかった。彼はサン-ジェルマン-デ-プレにとどまって、ペットを吹いていた。音楽もまた原則としてその場で消え失せるものである。誰もまともに読もうとしないのだから、書かれたものだって同じだ。素晴らしい詩人で失脚した政治家だった蘇東坡が語るように、人生のさすらいは何に似ているのだろう、舞い降りた雁が雪解けの泥を踏むようなものではないのか、泥の上に偶然足跡を残しはすれども、飛び立った雁の行方は誰も知らないからである。

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第88回 2017年7月





ミイラのように





鈴木創士


河村悟『舞踏、まさにそれゆえに
宇野邦一『詩と権力のあいだ』エートル叢書6
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍


 私の印象はこうです。舞踏家・室伏鴻の静止した肉体はとても美しく見えます。吉田一穂の『海の聖母』という詩集のなかの言葉を借りて、室伏さんのことを日時計の上でじっとしているトカゲだと書いたことがありますが、さっきま で闇を食らっていたこのトカゲは、日を浴びていまさっき死んだように微動だにしないのです。
 だから私には、まるで舞踏家は思考の外で一度ならず動きを止めなければならないかのように見えるのです。身体から身体が抜け出すためにです。

 土方巽は「肉体のなかに梯子をかけて降りてゆく」というようなことを言っていましたが、どのようにして肉体のなかに降りて行けばいいのでしょうか。身体は動こうにも動けません。土方の語る子供時代があります。田んぼでイズメのなかに閉じ込められた赤ん坊の手足が硬直して動けなくなったあのからだが、舞踏家をいまでも責め苛むのでしょうか。たぶんそれは決定的な出来事だったのでしょうが、そんな記憶の身体は、今ある身体のなかにねじ込まれたかつての身体だったのでしょうか。

 しかし果たしてあの時にはぐれてしまった肉体を探すことだけが舞踏なのでしょうか。東北のあの世に身体を探しに行けばいいのでしょうか。少なくとも室伏さんのダンスからはこの土方の子供時代、イズメのねじ曲がった手足を感じ取ることはできません。室伏さんの出発は、「ニーチェのダンス」であり「ランボーのダンス」であったと言っていました。それにしても何という違いでしょう。
 それとも600年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方巽の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念のようなものがあったのでしょうか。私は世阿弥のことも同じようにしか、一種の暗黒舞踏家としか考えられないからですが、前々から世阿弥の次に土方巽が来たのだと考えていました。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにしてみなさんがご存知の夢幻能は成立したのです。

 動きにおいてすら不動である、ということがあります。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、そんなものがあったのだとして、この手強い強迫観念は、すべての舞踏家の意識の外で暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。少なくとも別の動きをからだの外に引きずり出さねばならなかったのです。土方の最も優れた弟子のひとりであったと思われる室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望、動きの外にある動き、動きの外に出ていこうとする動き、つまり動きながらの不動性があったように思われるからです。不動性への予感によって、震えによって、激突、痙攣によって、動かないことそれ自体によって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするかのようです。これは絶対に様式などにはなり得ないものです。

 健康であれ、病気であれ、身体は、誕生後の眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。われわれ全員が死体の次元をまるで未来の妄想のようにすでにからだのなかに持っているからです。昨日見た注連寺のあの即身仏、鉄門海のミイラが目に浮かびます! だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。そわそわと動き回るからです。われわれは記憶の動物です。普通に歩いたり、走ったり、食べたり、たぶん泣いたり笑ったりするのも、誕生してほぼ最初の動体記憶というか、運動記憶によるものなのです。

 別の身体の状態、通常の身体の変性状態も、必ずやわれわれ誰にでも訪れます。われわれの身体は衰弱し、病んでしまうからです。
 今年の冬から春の終わりまで、病床の母の状態をずっと見ていました。僕は若い頃から滅茶苦茶をやっていて、ずっと親不孝者だったので、最後だけは看取ろうと思っていました。母は重篤でした。しかしほとんど動かなくなった身体のなかでも様々なことが起きていました。体が描く稜線はかすかに振動する山並みのようにつねに微動を繰り返していました。寝返り、咳、ほとんど無意識の痛みによるヒステリー・アーチ(ゴダールの映画『マリア』のなかで、ベッドの上でからだをよじっていた妊娠した聖母マリアを思い出してください)、不快感による小さな動き…。もちろんそれは土方が言ったような意味での「衰弱体」の諸様態のようなものであるのでしょうが、普通にこれが生体的には病んだ身体の最後の姿であるのかもしれません。
 しかし死はどこにあるのでしょうか。病と死はまた別のものです。そして身体と生命もおそらくまったく別のものであると思いますが、身体の衰弱がほんとうに生と死のせめぎ合いによるものなのかどうか、私にはわかりませんでした。生命と死がそこでどのように区別されるのか、死の床にある母の姿を見ていて、私にはまったくといっていいほど理解できませんでした。死がどこで生命とすり替わるのか、死がいつなんどき生に襲いかかるのか、などという問いの立て方はそもそも全部間違っているのかもしれません。
 そして彼女の現働態にあるからだは、生というか死というか、それらのものと共に彼女の内側にも外側にもありました。内側の身体、外側の身体です。それは間違いありません。誰が見ても、こうして病は実現されたかに見えました。でも私には、病んだ母の身体からもうひとつ別の身体が出ていこうとしているように思えたのです。

 それはそうと、哲学者の江川隆男が言っていることですが、「身体の身体」というものがあるようなのです。この概念を適用すれば、舞踏の最初にあったのは、身体によって「精神のうちに外の思考を発生させる要素」、身体の隠れた、知られざる力能であり、これはこの身体であると同時に「身体の身体」によるものでもあるのです。たしかに身体から身体が抜け出すためには、身体の身体がなければなりません。これは実に都合のいい、というか、新しい概念だと思います。スピノザ風に言えば、身体の延長としての身体。だけどスピノザに反して言えば、これは「まったく別の身体」でもあります。ここからアルトーの言う「器官なき身体」まではそう遠くありません。

 ところで、20世紀は、手当たりしだいに、そしてもうそれしか残されていないかのように、「存在」と「身体」の思想を探し求めましたが、それにはある意味で、当然のことながら歴史的条件が裏地のようなものになっていたと考えることができます。
 われわれは、一方では、19世紀に名乗りを上げた医学的知見の爆発的進化の世紀、他方では、大量殺戮の世紀の「後」を生きています。短時間のうちにあれほどの死体の山が築かれたことはありませんでした。無意識と遺伝子は、瞬時にして大量生産される夥しい数の死体とほとんど対になっているかのようでした。ご存知のように、無意識も遺伝子も死体も、「人間」についての観念にとって完全なる他者でした。この点は重要であると思います。そもそも病んだ身体も健康な身体も死んだ身体もまた、われわれにとって他者であるからですが、無意識や遺伝子や死体となった身体はなおのことそうです。
 しかし歴史的条件というものは、ご存知のとおり、たいていがほとんど負の遺産ですが、「存在」の後に、決まって再び「身体」が到来するというのはじつに奇妙なことではないでしょうか。17世紀にスピノザとボシュエが語っていたことは、所与の条件などではないように思われます。
 スピノザは「われわれの身体の能動と受動の秩序は、本性上、われわれの精神の能動と受動の秩序と同時である」、と言っています。本性上、身体と精神は相互依存しないのです。蛇足ながら、これは心身平行論と呼べるものであることは間違いないですが、心身平行論と称したのはむしろライプニッツのようです。ですが、まあ、それはどうでもいいでしょう。
 一方、ボシュエのほうは、『死についての説教』のなかで、「死体はいかなる言語のなかにも名前を持たない」と言っています。小野小町九相図などの日本の古い絵巻物にもあるように(たしかにそれぞれの死体の状態には、中国や日本では、名前がついているとも言えますが、すべての状態を示す言葉は「死体」以外にありません)、死体もまた刻々と変化し、腐って、骨となり、最後には塵になるからです。元の身体はどこに行ってしまったのでしょうか。われわれはほぼそこから一歩も抜け出せないままですし、そこにあって、スピノザとボシュからあらためて一歩を踏み出さねばならないままであることはご承知のとおりです。
 スピノザの面白いところは、この心身平行論から、「身体は身体にしか関わらない」ということが帰結されるところです。つまり身体と精神は存在論的には同等であるということです。これは中世スコラ学の神学者、ドゥンス・スコトゥスによる「存在の一義性」の考え方の発展形であると考えることもできますし、先ほどの江川氏によるなら、アルトーの「器官なき身体」もこのラインにあるものだと考えることができます。そして誤解のないように改めて急いで付け加えておくと、いくら身体のあるところには精神が発生するといっても、「身体から抜け出す身体」は、「精神」とは似ても似つかぬものであることは言うまでもありません。

 少しだけついでに、若い室伏さんに、そしてその後もずっと彼に影響を与え続けたアルトーのことに触れておきたいと思います。
 アントナン・アルトーは、どこで、どのようにして、どこから「身体」を発見することになったのでしょうか。彼の生涯の記録や証言を繙けば、いろいろと思いつくことがあります。
 彼の「病」、思考の不能性、分裂症、パラノイア、麻薬、エスニックな旅を含めた外への旅……。しかしアルトーの血の滲むような「発見」へといたる経験、あの「場所と公式」の問いは、アルトーのいわゆる精神病の「病跡」を軽々と超えてしまっていると私は考えています。
 結論を先に言うと、精神病者、分裂病者として精神病の「病跡」を超えるには、アルトーの「身体」はアルトーの身体から外に出てゆかねばならなかったのです。極東の地で土方巽のような人物の心を動かすことができたのはまさにここです。アルトーは自分の「存在」と「言語」にまるで拷問を加えるようにして書きました。晩年の彼の手記『カイエ』を読むとそのことに特に注目せざるを得ません。言語はハンマーで殴られ、叩きのめされ、分断され、切断され、解体され、別のからだのなかに分娩され、砕け散り、断絶し、彼独自の身体の叫びと化しました……。
 だがそれはただちに別の意味を帯びます。アルトーにとってこの「書く」ということが「生きる」ということとほぼ同義であったことには大いに注意を払うべきでしょうが、それが彼の「病跡」を超えてしまっているだけではなく、このことは優れた幾人かの詩人や作家においてすでに見られたことであると言っていいと思われます。しかしアルトーが特異であるのは、言語と生、形式と内容の一致が、ある種の身体のテクノロジーのようなもの、ある種の「公式」によって鍛えられ、それを原理としていたように思われるところなのです。この「公式」にはアルトー自身の長い苦難の歴史が関わっています。
 再び誤解のないように急いで付け加えておきますが、このことは芸術や文学の形式や形式化とは何の関係もありません。そしてそのことがどうして舞踏家たちの琴線に触れないわけがあるでしょうか。優れた舞踏家はダンスの「技法」ではなく、どうしても不可能な「身体のテクノロジー」のようなものを意識せざるを得ないからです。
 アルトーのこの「公式」は、同時に、つまりアルトーのあらゆる「分裂」と同時に、彼の役者・演劇理論家としての経験、彼の「演劇」についての観念のなかにすでにあったのではないかと私は考えています。彼の生涯の中期において、つまり演劇理論書『演劇とその分身』や歴史小説『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』のなかにそれを見て取ることができます。おまけに何とこれらの特異な本はそれ自体が戯曲のようなものなのです。
 アルトーには、外で起きている動乱、混乱、革命の秩序(アルトーは面白いことに「革命の秩序」と言っています)、天変地異などなどは、同時に役者の身体のなかでも起きなければならないという確信と信念がありました。アルトーには精神病院への監禁の凄まじい日々があったのですが、そこにいたアルトーの身体の内部で起きていたことと、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の推移が同時に起きていたことは、まさしくこのことを証明してあまりあります。
 そして例えば、『ヘリオガバルス』というローマの少年皇帝についての本のなかで描き切ったように、すでにローマ帝国の歴史の破綻は演劇の破綻であり、身体とともにあるほかはない演劇の破綻は、身体の横断であるほかはない歴史の破綻であって、それ自体が、アルトーが考え、提唱し、熱望した演劇であり、彼の言う「残酷の演劇」であることに留意しなければならないのです。アルトーの演劇の最初のイメージがペストやルネッサンスの終末的絵画のなかにあったこと、アルトーの演劇が「失敗」だったと伝えられていることは、偶然ではありません。
 アルトーの芝居を見た者は、日本では寺山修司を含めて誰もいません。だからこそ、ある意味で、室伏鴻を含めた暗黒舞踏あるいは舞踏は、このアルトーの「失敗」から出発したのだと言うことができるでしょう。舞踏家たちは「演出」ではなく、「演出がほぼ不可能となる地点」において「身体のテクノロジー」に対峙せざるを得ないからです。

 ところで、室伏鴻の言う「外の身体」とはなんなのでしょうか。結論から言えば、外の身体とは、瞬時に現れる身体の身体、身体から抜け出した身体であると私は考えています。それが彼の言う、「ダンスの外に、踊りの外に出る」ということなのです。そして先ほどの重篤な状態に陥った私の母の身体ではないですが、少なくともこの身体から抜け出そうとしていた身体は、明らかに生きていると同時に、しかしながら死を内包し、死を体現するものなのです。
 そして室伏鴻が語り、踊ったミイラは、これに新しい次元を付け加えていると思います。室伏さんは子供の頃、死んだふりをするのが得意だったそうですが、無論、このこともミイラや彼の修験道と無関係ではないと思います。室伏さんとは別に、かく言う私も体験したことがあるのですが、修験道もまた一度死んで蘇るあくまでも身体的体験だからです。

 室伏鴻のダンスは、動かない舞踏です。激しく踊っている時、優雅に踊っている時でさえ、そうです。なぜなら動いている身体は別の無数の身体からなっていて、これもまた身体から抜け出してしまった身体であるからです。これが死体に近いものなのかどうかここで即断することはできませんが、彼がいつも死の方向に、即身仏のミイラを含めた死体の方向に、自分の身体を意識していたことは間違いないでしょう。そしてそれが室伏さんの身体の思考に独特の哲学的次元を与えていたのかもしれません。
 彼の舞踏の身体は石になったり、岩になったり、金属になったりします。死体になったり、そう言ってよければ、ミイラ、時間の外にあるミイラになったりもするのでしょう。矛盾しているようですが、なぜか生きている死のブロンズ像を思わせた時もありました。そしてこれは彼の身体が非人間的な動物になったり、赤子になったり、トカゲになったりするのとまったく同じことなのです。

 私の言いたい「身体から抜け出す身体」という考えもまた、もともとは直接土方巽から来ています。『病める舞姫』のなかで土方はこう言っています。「もう一つのからだが、いきなり殴り書きのように、私のからだを出ていこうとしている」。
 なぜ殴り書きなのか? なぜなら出て行く身体は、あるときは痙攣であり、あるときは震えであり、もとの身体にダブったり、ずれたり、再びはぐれたり、あるいは突然死んだりするからです。それは、最高の形においては、優れた能の演者のかすかな動きと同じように、室伏の言葉を借りれば、「大挙して押し寄せる幻影」からふるい落とされた動きであり、その動きを排そうとする一種の動きつつある不動性なのです。

 「身体から抜け出す身体」というテーマは、すでに私自身の身体のなかにも巣食っています。すでにこのテーマで書いたことがありますし、このテーマが私から消えることはないでしょう。これは何と言っても、かつて最初に土方巽や室伏鴻の踊りが私にそっと無言で伝えてくれたことなのです。これは秘密の言説に属するものかもしれませんが、じつは私自身、自分にとって他者であるほかはないこの身体をどうにかしたいと思っているからなのです。

 山形にて。

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椹木野衣さんに、ジョレス・A・メドヴェージェフ著『ウラルの核惨事』を紹介していただきました! (朝日新聞2017年7月2日読書欄

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  第87回 真の生活 - 2017.06.05

第87回 2017年6月




真の生活



鈴木創士


ギー・ドゥボール『映画に反対して  ドゥボール映画作品全集』エートル叢書2・3
ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』エートル叢書9
フィリップ・ソレルス『セリーヌ』エートル叢書21


Le ciel bleu sans nuage ni mémoire.

 青空。雲ひとつない。記憶の切れ端を探そうとも、記憶もない。

 このような眩暈の例をあげることはそうそうできない。記憶がないのだから、思い出す必要もないし、思い出すことはできない。プルーストのようにマドレーヌやあのくぼんだ階段を思い出すことは、プルーストでなければ、つねに人を鬱陶しい不埒な生と、見てきたような嘘のなかに引きずり込む。喚起された記憶のなかで、西洋風であれ東洋風であれ、明鏡止水の境地など新手の虚偽である。われわれの脳髄は忘却のノイズで破裂しそうなのだ。たまに警察沙汰になることだってある。プルーストはそのためにあれほど大部の本を書かねばならなくなったのだ。ほんとうは何のためだったのだろう、と思うこともあるにはある。プルーストは暗い部屋に引きこもって、時を「見出す」ことができるまでそれをやり遂げたのだから、拍手喝采、たいしたものである。

 ほんとうのことを言えば、今日はやや曇り空である。やがて空は晴れるだろう。間もなくだ。この擬似戦時下にあって、私はひとりっきりで平和を感じている。落胆と絶望と怒りと諦念そして平和。未来の、未聞の愛。空の下。空の下で何が起こっているのか。何も起こりはしない。少なくとも、たいしたことは。誰もが個人的なことで忙しいらしい。生活だって? ほんの少し微風を感じる。風景を見る人が風景そのものになることがある。いや、そうではない。それは記憶のなかでいつもいたずら娘のようだった母のように、つねに遠のいてゆくひとつのイマージュにすぎない。むしろどちらかといえば風景が風景を見る人そのものになることがある。
 西行ならこう詠むだろう。

 惑い来て悟り得べくもなかりつる心を知るは心なりけり『(山家集』)

 そこに新しい意味はないかもしれない。ずっと同じシャンソンが聞こえている。ただしほんとうにそれを幻想の耳ではない鼓膜のそばで聴いた者はひとりもいないだろう。われわれは風景をただぼんやりと見ているのだと勘違いしている。ともかくこの自分が外の風景を見ていると思っている。そうではないかもしれない。感覚の論理のなかに何らかの新しい大きな意味、外側からやって来る目覚ましい意味を探すことは無駄かもしれない(他から完全に独立し、運動しているのはただイマージュだけである)。そこには未来の詭弁に似た、すぐに忘却の彼方に消え失せる錯乱の開始の震えのようなものがあるばかりなのだ。つまりいつだって手遅れだったし、今もこの震えはいつも遅きに失している。言うまでもなく、われわれが瞬間に対してつねに遅れをとっていることはわかっている。

 惑い来て見ることさえもなかりつる君を知るは君なりけり

 昨日、隣人が亡くなった。救急車、三台のパトカー、消防車、私服刑事のセダン、オートバイ。道をふさぐように二つの非常線が張られた。ただ家族の肖像に突如悲しみが襲いかかっただけなのに、その光景は記憶に穴を開けるようにして突然侵入してきた。私の記憶。他人の記憶。
 今日の昼、司法解剖されたらしい遺体は家に戻されたようだった。夕方、おもてで近所の子供たちの遊ぶ声が聞こえている。

 『ある地獄の季節』のなかで、ランボーは「なんという生活でしょう! 真の生活がないのです」と言っていたが、この言葉は後にシュルレアリストたちによって別の使われ方をされることになる。「真の生活がない」は「真の生は不在である」と訳すことはもちろん可能である。なんと真の生がないのだ。なんとしても求めるべきであるのは、真の生活、真の生なのか。もちろん、そのとおりだ。シュルレアリスム以降の世代である、シチュアシオニストたちの運動を先導したギー・ドゥボールは、自分が監督した映画のなかで、恐らくかつての荒れ狂った青春時代(その情景のひと幕はエルスケンの『セーヌ左岸の恋』という写真集のなかに見てとることができる)を回想してこう語っていた。


 「真の生活への道半ばで、われわれはある暗い憂鬱(メランコリー)に取り巻かれていた」(『映画に反対して ドゥボール映画作品全集』下、木下誠訳)。
 スティーブンソン『宝島』の海賊の歌を引いて、「酒と悪魔が他の者たちを片づけた」ともドゥボールは言っている。暗いメランコリアは、ヴェネツィアでジョヴァンニ・ベッリーニと友だちになったアルブレヒト・デューラーの時代、芸術的でまだ神学的であった時代に人々を襲っただけではない。だがこの芸術とやらがいつも悲惨と背中合わせだったことを忘れてはならない。いつの時代も嘘がはびこっているが、暗いメランコリーは嘘ではない。おまけにメランコリーにとらえられているのは、デューラーが描いたような天使だけではなかった。ところで、先の引用の少し先でドゥボールは「無の箱」と「友情」についても語っていた…。
 ドゥボールの「真の生活への道半ば」と「メランコリー」は比喩ではなかった。喩えるべきものなど何もない。喩える者と喩えられる者たちが、この場合は一致しない。ドゥボールは喩えられる者たちのひとりだった。私もまた喩える者ではないことを自負している。なんの教訓もない。ドゥボールはたぶんそれに同意してくれるだろう。ギー・ドゥボールは、それは嘲りと悲しみが入り混じった多くの言葉が言い放ったのだ、と語っている。これらの若者たちが「天が興じるゲームの駒」だとも。あのドゥボールが! だけど、誰もがすべての息の根をとめることを渇望していたとはいえ、実際に、その瞬間、誰が自分のことを駒だと考えただろう。そんなことは無理であるし、実際、無理だったのだ。

 もっと別の不埒な生活がある。われわれは別の生活を強いられている。
 「わたしが今日の独裁政権を恐怖に感じるのは、それがまったくこれまでにない現象を形成しているからです。人はその結末を予測することができません。過去においては、どの専制政治も、いつの日か、最終的には転覆されました。でなければ、少なくとも倒されましたが、それはそのように「人間の自由な気質」が、当然のこととして、自由を熱望し、そうなることを欲したからです。しかし、この「人間の自由な気質」が変質しないと保証するものは何一つありません。まったく同様に、自由を渇望しない人種を創造することも起こりうるのです、角のない種の牛を作り出したようにです… ラジオと報道検閲に規格化された教育、そして秘密警察とで、すべては変わります。群衆操作はこの二〇年の間に生まれた科学で、わたしたちはまだそれがどこまで進歩していくのか知りません」(フィリップ・ソレルス『セリーヌ』、杉浦順子訳からの引用)。
 ジョージ・オーウェルはなんとこれを一九三八年に言っているのである。小説は、残念ながら、小説ではない。机上の空論が空論だったことは一度もない。ディストピアがどんな形態を取ろうがユートピアだったことはないが、ディストピアが現実でなかったことは一度もない。オーウェルは『一九八四年』を書くことによって、その恐怖を自らのカレンダーの上に読んだのである。それをカレンダーにナイフで彫刻するように刻んだのである。いまこそ君の周囲を見渡してみたまえ。オーウェルが旧ソビエトについて書いたこと、オーウェルが一九三八年に言ったことを、われわれもまた自分のカレンダーの上に読み取るほかはないのだ。なんということだろう!
 さらにソレルスが引用しているオーウェルの一九四九年のメモを書き写しておこう。
 「なんという声だろう! あまりに激しすぎる一面、愚直な安心感、どんな言葉に対しても向けられるはじけるような笑い、そしてなによりも本質的な悪意と結びついた、飾り立てられた重々しい言葉遣い。連中は… 彼らを見なくても本能的にそれを感じ取ることができるのだが… あらゆる知性と感受性と美の敵なのだ。誰もがこれほどわれわれを憎むのも無理はない」。
 それにしても完全に正面だけを向いてボケてしまった精神異常の敵があまりにも多すぎる! 小中学校の教科書に載せるべき文章のなかで坂口安吾が言っていたあの「馬鹿とキチガイ」のことである。

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第86回 2017年5月

 

 

 

生の終わりについて
私の知らない二、三の事柄

 

 

 

鈴木創士


石井恭二『心のアラベスク』『正法眼蔵覚え書
ノヴァーリス『日記・花粉
バタイユ『無頭人

 肉体は肉体ではない。
 肉体は肉体をつくりだし、病み、やがてそれを衰亡させる。肉体の滅却は肉体が望んだことであって、肉体のプログラムはそれ自体ただのプログラムではないし、恐らくプログラムとは死がつくりだしたものだと私は考えていたが、それは一刻一刻と、刹那に変貌を繰り返してきた。だが肉体は変幻するとはいえ、肉体それ自体は自在ではない。『心のアラベスク』という本のなかの石井恭二の言葉を借りれば、肉体はぐずぐずしていても、死の時に臨んでも、つねに直下の今を生きるほかはない。肉体は今を生きているからこそ、死に際に「早く、早く」と言う。「われわれは、愚図々々していても常に直下の今を生きている。先の念仏僧安楽は河原に斬られた。あの女性たちは山野に白骨を晒したかもしれないが、死生の狭間に連なる今を生きたのだろう」。肉体に涅槃はない。なぜならそれはこの狭間にあるからである。生から死へと何かが移行したように見えるのは、ただ肉体がそこにあるからであり、それが生み出す幻影なのかもしれない。生の終わりは、肉体の軽業なのか、それとも生命の苦痛に満ちた手品なのか。

 かつて肉体はあった。
 時間のなかに出現したかに見えた永遠は「かつてそれがあった」のなかでしか永久に消えない一瞬の光芒を放つことはできないし、いつまでも到来することのない未来の闇雲の行動を照らし出せないが、それも現在の肉体にとっては今この時の錯覚でしかないのかもしれない。肉体は肉体の衣を纏って玄武岩のように実在したのだが、もはやそんな肉体はどこを探そうともありはしない。肉体は自分で自分を証明できないし、ただ自噴し、自奮することもあるだけである。自噴したのちに、自滅するだけである。

 生はどこにあるのか。肉体を取り巻く生はどこにあったのか。
 恋人ゾフィーを失った後、ドイツロマン派の詩人ノヴァーリスは、その『断章』のなかに「生命の理想的分解から肉体と霊魂が生じる」と記しているが、まったく理想的とはいえない離接的綜合を絶え間なく繰り返してきたのはむしろ肉体のほうである。それは医学的事象を越えている。そうであれば、霊魂もまたそれを越えるという意味で医学的事象である。たしかに生の終わりに肉体と霊魂が分離したように思えるのは、ただ肉体が肉体であることをやめて、別の名前をもつようになるからにすぎないのか。そう思ったのも一昨日のただの早とちりでしかなかったのだろうか。ノヴァーリスが言うように、ほんとうに生命は分解したのか。では分解とは喜びなのか、生命の苦痛なのか。そうはいっても、霊魂が分解して生命と肉体が生まれたのではなかったのか。誕生はどこでどんな風になされたのか。生命は分解したりするのか。私は生きているではないか。私は自分の肉体をもてあましているし、自分の霊魂におずおずと問いかけることしかできない。そいつは私から離れたところで明後日のほうを向いたままだ。霊魂と生命は同じものではないのか。違うものなのか。
 私は頭(こうべ)を上げる。私は頭を垂れる。もう一度頭を垂れて、肉体を想う。消えない肉体を想う。そして消えた肉体を想う。

 生はいつも死を前にしているのだろうか。
 バタイユは『死を前にした歓喜の実践』をこんな言葉ではじめている。「世界が破壊や苦痛をもたらすことなく幸福に自分のうちに反映されているような状況に置かれているときに――例えば、あるうららかな春の朝――、人間は、その結果である陶酔や素朴な喜びに思わず身を任すかもしれない。それと同時に、彼はまたこの至福の意味する空虚な平安の重々しさと無駄な心配にも気づくかもしれない。そのとき残酷にも彼のうちに沸き起こるものは、一見穏やかで澄んだ青空のなかで自分よりも小さな鳥を噛み殺してしまう猛禽に比肩し得るものだ。彼は仮借のない運動に身をゆだねずには生を完遂できないことに気づくのだが、その暴力が、彼自身の最も閉ざされたところに、彼をたじろがせる厳しさをもって行使されるのを感じる」。
 私はバタイユではない。生の終わりには何かしら厳格で荘厳なところがあることは承知しているつもりだが、生の暴力が私をたじろがせることはない。生の終わりが美しいのは、それが残酷であり、どんな形で終わるのであれ、同時にある穏やかさを帯びているからである。この穏やかさは至福ではなく、悲しみである。そしてそれが美しく思えるのは、この生の終わりが肉体の、肉体という観念と実体の終焉でもあるからだ。バタイユの神秘主義のなかには厳として肉体と肉体の苦痛が居座っているが、このキリスト教的身体から私は容易に身をかわすことができる。生は不埒である。不遜で不易で不毛で不浄で不潔で不快である。あの鬱陶しい生! 私はそれが完遂されないことを知りながら、寝転んだままそれに挑戦してみたい。そんな風に思うことがある。

 人は死ぬためにこの世に入ったのか。ここから出て行くために。
 しかし道元は『正法眼蔵』の「行仏威儀」の巻で言う。「だが、知るべきである。人はそれぞれの尽界に出、彼の尽界とともに死に入る。人の出生は出と云いうる。生死はその始めから終わりまで、珠を転がすような自ずからの在りようである。行仏によって得る悟りを有たらしめているのは、それが乾坤大地を覆っているからである。人の生死去来はその人の尽界である。それは微小な場でありながら、蓮華のような広がりである。人界であり仏土である、この微小な場、蓮華のような場が、人にとってのそれぞれの尽界なのだ」(石井恭二による現代語訳、以下同様)。
 行仏威儀。いい言葉だ。少なくともバタイユよりはいい。意味など問わない。行け、行け! 生のみを、死のみを伝えることはできない。行くだけが取り柄だ。喋っているよりはましだ。シャトーブリアンは、時間がアル中の手の震えのように震えるのであれば、飛び去るのは魂なのだと言っていた。
 再び、道元。「全機」の巻。「生は来るのではない、生は去るのではない。そのままの即時的な生を成というのではない。そうであるが、生は六根全身の活らきの現れである。知るべきである。自己は無限の現象を内在しており、そのなかに生があり、死があるのだ」。
 生は去来しない。死は来ない。ただそこにあったのである。この死は存在しないも同然である。釈迦が言うように、この世が幻影であれば、死もまた幻影である。道元は、涅槃を生から死に移ることだと考えるのは誤りだ、とも言っていた。生から死への移行はそんな風に見えるだけで、存在しないかもしれない。われわれの限られた世界が蓮の葉っぱのような広がりをもっているのであれば、死は誕生と同時にわれわれとともにあり、遥か昔から泥のなかでわれわれと同棲していたことがわかる。死は蓮の葉っぱを転がる水滴である。肉体は衰弱し、その水滴をとり集めて、肉体を変化させてきた。肉体の業を離れた水滴のへんげは自在でもなくまた自在でもあったのだ。肉体は滅却し、水滴は蒸発したのである。

 ここでは今年は寒い日が続いて、桜の咲くのが遅かった。私の母の容態が重篤になったとき、山麓の病院へと向かう並木道は桜が満開だった。やがて桜の花もすっかり雨で散ってしまい、並木道の青葉の新緑が目にしみたまさに最初の日の夜に、母は亡くなった。

 願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ

 西行法師は自分の詠んだこの歌のとおりに桜の咲く頃に逝ったのだから、高野の山奥で人骨を集め、反魂の術を使ってそれを蘇らせたあと怖くなって逃げ出したとはいえ、死が喜ばしいものであることを証明したのである。

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映画評論家であり詩人である
あの四方田犬彦が
満を持して朗読に挑む!

四方田犬彦朗読会『わたしの犬の眼で』
2017年5月13日(土) 16:00~(途中休憩あり)終了予定19:00
参加費1000円
神戸映画資料館 お問合せ078-754-8039(FAX兼)
http://kobe-eiga.net/

チラシ(PDF)はこちらからダウンロードできます。

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評者は江口洋子さん(常葉大学外国学部講師・ブラジル現代文学)です。

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第85回 2017年4月

 

 

不動の曲線に永遠が…

 

 

鈴木創士

  

宇野邦一『詩と権力のあいだ』エートル叢書6
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに
ベルナール・ラマルシュ・ヴァデル『すべては壊れる』エートル叢書23

 

「ひとつの動きの曲線に永遠が押し寄せ…」
ジャン・ジュネ『薔薇の奇跡』

 

 宇野邦一の新著『土方巽 衰弱体の思想』を読んだ。上のジュネのエピグラフもこの本からの孫引きなのだが、土方巽の舞踏と言語をめぐる、注意深く繊細な、急いで書評すべきこの宇野邦一の本について私はいま書評めいたことが何も言えない。私はこの本を最後まで読みながらまとまった思考がまったくできないでいたし、この本で深く掘り下げられた土方の言語作品、もう一度しっかりと何度目かの再読をしようと前々から考えていた『病める舞姫』の読書も果たせないままでいる。

 宇野邦一の土方本を読みながら、私はいわば完全に引き裂かれてしまった。「衰弱体の思想」をめぐるこの本を病院のなかで通読するはめになってしまったからだ。ここのところある病院に見舞い客として通っていて、私は死の床についたある人を毎日ただ眺めて時を過ごしている。ベッドに横たわるその人を見ることに疲れると、病室かロビーに出て、できるだけ集中してその本を読んだのに、私は空っぽのバケツのままである。ずっしりと重ささえ感じる宇野邦一の本を手引きに、土方の舞踏と彼自身の言葉の謎について考えようとしても、土方の「衰弱体の採集」(採集といはいえない採集)のあの暗がり、土方の身体を降りていったところにあったはずのあの深い井戸の在りかは、もうありもしないみすぼらしい舞台の向こうに霞んでしまい、土方の舞踏を何とか思い浮かべようとしても、はじめから迷子になっていた「はぐれた肉体」の幻影がいまは時々この身を霧か透過物のようによぎるだけである。私は思い直して、何とか立て直そうとしてみる。衰弱体の身振りの採集。しかしバケツはいっこうに満ちることはない。この読書に何かしらバイアスがかかってしまったということではない。
 病院の広い窓から光が射している。ひとつの斜光。それがページの紙を照らし反射している。病にも光に似たものがあるのかもしれない。すぐ近くに山の緑が迫っていて、反対側にはいつも穏やかにきらめく海も見える。

 ジュネは先のエピグラフのくだりで、監房のなかでの身の動きについて述べていて、ほとんど無意識かもしれない身振り、悲惨と栄光をまとった囚人としての身のこなし、いってみれば「新しいダンス」によって、監房のなかでの時間と思考を支配し、それを自分のものにすることで、絶望を少しだけ、しかしまったく別のものに変えることについて語っているのだが(よくよく考えれば、ある時期ジュネは生粋の演劇人だったのだし、最初から最後まで彼のルネッサンス的とも言える幾つもの本は演劇の構造を持っていたのかもしれない)、ひとつの動きがあれば、そこにはひとつの不動性があるはずなのだ。
 病のなかに見え隠れするある種の容赦のない動き。そして病人のからだのもつ、偽の、見かけの不動性。それらは両立するかに見えて、鋭く対立し、仮象を退けるように(そのひとつは有機体である)、互いが互いを欺くように分裂を繰り返している。だがジュネのように監房を拡大し、そこに突進するような力はこの明るい病院のなかにはさすがにみなぎってはいない。私は監房のなかにいるわけではないが、それでも病室のなかでまぎれもない一個の身体を目の当たりにしていることに変わりはない。

 からだは曲線を描いている。この曲線に、時間の否定、永遠が押し寄せる。それを見ようとして、それを何とか確認しようとして、私の思考は停止する。私はぼうぜんとする。思考はもう身体から抜け出して、宙をさまよっている。この思考は身体とダブり、それから染み出しながら、ぼんやりと身体の形になろうとしていたはずではなかったのか。だがこの空気状の身体の形はからだ自身の知らない形かもしれない。私のからだ。病人のからだ。衰弱はさまざまな様相を帯びている。交感は起こりそうにない。奇跡はない。だけどここにダンスのようなものは存在しないのだろうか。踊っているものはないのか。

 ここではとんでもなく衰弱しつつあるからだが確かに目の前にあるのだが、寝返り以外にほとんど何の動きもないといっていいこのからだにも、何かが絶え間なく押し寄せているのがわかる。ひとつの動きは曲線を描くが、動こうとしても動けない不動もまた曲線を描いている。横たわったからだは不思議なひとがたの稜線の上で曲線を描くのだ。それは時間を否定するようにして同時に時間のなかにあり、この時間は一見円環をなしているように見えるが、じつはそうではない。永遠が続くことはない。永遠は続かなかったし、これからも続くことはないだろう。永遠が一瞬のなかにかいま見えたとしても、永遠は一瞬ではないからだ。時間と永遠は別のカテゴリーに属している。永遠は一瞬をあざ笑ってさえいる。いや、あざ笑っているのではなく、段違いの生と死の境界を敏感に感じているつもりになっているわれわれ自体を完全に否定しているのだ。曲線はじっとしているか、時間の外でただ無関係に震えているばかりである。
 閉じた目。やにわに開かれ、遠くを見る目。何も見ていないかのように、何も見るものがないかのように(実際、そうなのだ)動かない瞳。瞬き。まるで自分のからだがどこかへ墜落するのを阻止するかのようにベッドの柵をつかんだ痩せさらばえた手。土方巽は「からだの中には、際限もなく墜落してくものがある」と言っていた。重ねられ、折り曲げられた足。寝息。小刻みな呼吸。半開きの口。まだ少し喋ることも少し食べることもできる。しかし言葉はいま見えている幻覚をとらえようとするかのように唐突で、いつも私の知らない別のコンテクストのなかにあるほかはないし、言葉自体の中心から少しずつ、だが完全に逸脱しようとしている。そして食べるという行為はどこか人間離れしていて、酷薄で荒々しいところがある。

 ある力が身体に及んでいることは確かである。死の欲動のことを言っているのではない。この力は論理的に不可解なものだが、なぜこの場に及んで、それは速度を増しているように見えるのか。身体には実際の欠損、そうでないものも含めて、穴が開けられ、そこに生命とは恐らく別種のものが侵入し、部分的に壊死し、小さな死を繰り返し、誤作動を起こした細胞があちこちでゆるやかな増殖と占拠を開始している。意識などただのカカシにすぎない。だが誤作動といっても、それは生がもたらした賜物なのだろうか。そのように考えることもできるが、身体には物質から遠ざかる一方である深みのようなものがあるのかもしれない。生がときには急降下のようにカーブを描きつつ、それが露わになろうとしている。そしてそれはからだの表面に、からだの内部の表面に浮かび上がり、自分で自分を食い破ろうとしているのがわかる。
 こんなにも多くの出来事がからだのなかで起きている。それにつれて時間が振動を繰り返し、ただ脳のなかでだけそれが起きているかのように、その人にとっての時間の質が完全に変質しているのが手に取るようにわかる。不動のまま、その人のものでありながら、非人称的で、もはや素材ですらない何かがからだのなかに開かれ、本人が知らないうちに、からだ自体が無言のままそれを凝視している。私もまたそれをぼんやりと見ているだけだ。だがこのいうところの眼差しでさえ、時間の渋面、ただの見せかけがもたらす錯覚のなかの斜視でしかないのかもしれないし、むしろ絶えず断言を繰り返し、それを反復しているのはその人のからだのほうである。その人は、痛みを訴えているときでさえ、寝返りを打つときでさえ、そのことによって時間に打ち勝っているようにすら見える。私はそのことに安堵する。

 ここはひとつの劇場だ。幕は上がった。もはや手遅れだ。幕はすでに上がったのだ。幕という漢字は、目が悪いのか、墓という字に見えなくもない。そうはいってもここにあるのは生の力なのか、それとも死の力なのか私にはよくわからない。この何かへの移行、この何かの過程は、美しく、残酷で、穏やかで、悲しい。それが生の過程であることはたぶん間違いない。醜悪な生。臭気。いびき。血。悪血。そこにはまぎれもなく生が混じっている。あの鬱陶しい生が! だが私は消えゆく「生」を見ているのか、それとも死に侵された、死という病に冒され、衰弱の下降線をたどる身体、前段階の姿をした死体を見ているのか、もうよくわからないのだ。

 だがここにはやはり死体があるわけではない。からだは刻々と変化する。死ぬ前も、死の瞬間も、死後も。
 十七世紀にボシュエは、『死についての説教』のなかで、「からだはもうひとつ別の名前を持つでしょう。死骸という名前でさえも彼のもとに長くとどまることはないでしょう」と語っていた。「それはいかなる言語のなかにももはや名前を持たない得体の知れないものとなるだろう、そうテルトゥリアヌスは言っていたのです」。なぜならそれほどまでに実際すべてが彼のうちで死に絶えるからである。死に絶える? そんなことは承知の上だ。だがボシュエはほとんど脅迫じみた言葉で畳みかける。「ただ一瞬がそれらを消し去るのであれば、百年や千年が何だというのでしょうか」。やれることをやりなさい、それすらも無駄になるでしょう。「あなたの日々を重ねなさい」。美化しなさい。やってみなさい。虚しいことです。私の「実体」はあなたたちを前にして何ものでもない。わかってるさ、わかってるさ。
 いまここで、その人の実体が私の目の前で何ものでもないことを自ら証明していることを私はよく知っている。私は無知のなかでそれを確かめようとさえしている。だがそれらを一瞬で消し去るのはほんとうにあなたたちがよく知ると主張する「死」なのだろうか。それはどこにあるのか。どこからやって来るのか。いま私にそれを言ってもらいたい。ジャック・ベニーニュ・ボシュエはかつての自分の壮麗で犀利な説教によって、自分の死に際して、自分を救ったのだろうか。自分で自分を救うなど、言葉の矛盾でしかないではないか。なぜならこの自分とその自分は一致しないからである。
 身体はない。身体の制度はない。肉体はない。肉体の言語はない。身体が実践したことなど夢うつつの四肢、あのカカシがやったことにすぎない。衰弱がはじめにあった。後からは、死が迫ったときに、からだからじょじょに抜け出すからだがあるだけだ。
 私は病院の窓の外を眺める。その人のからだは、光のなかにあっても少しばかり悲しげな風景に似ていて、抜け出す前のからだが空中に描いた殴り書きのようなものかもしれない。

 

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  第84回 蒼ざめた女 - 2017.03.04

第84回 2017年3月

 

 

蒼ざめた女

 

 

鈴木創士

  

アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』
アンドレ・ブルトン『ナジャ
アンドレ・ブルトン編『シュルレアリスム簡約辞典
鈴木創士『サブ・ローザ

  

 

マルセル・デュシャン

「毎日は調子の狂った振舞いとともにめざめ、
 わが祈りのなかに取り囲まれる
 (…)
 居酒屋でお前ははぎ取る
 お前の悲劇という趣味の悪い服を、
 森はなく、戦利品はなく、大天使たちはいない…」

                    トーマス・ベルンハルト『こんにちはウェルギリウス』

 最近、ダダ・シュルレアリスムについての対談(『現代詩手帖』2017年3月号)のなかで、朝吹亮二氏がロベール・デスノスの詩「ローズ・セラヴィ」で駆使されたcontrepèterieコントルペートリ、つまり語音転換による語呂合わせの技法について言及しているのを読んだ。これは文字や綴り字の順序を逆にしたり、入れ替えたりする言葉遊びのことであり、ダダイストやシュルレアリストの発明によるものではなく、古くから、よく知られているところでは、すでに16世紀にはフランソワ・ラブレーによってしばしば試みられていた。

 「ローズ・セラヴィ」という名前はもともとマルセル・デュシャンの別名であるが(デュシャンの分身というよりはむしろひとつの別人格かもしれない)、このローズ・セラヴィという言葉自体、「Eros, c’est la vie」の言い換えの可能性があるのだし、音としてはたしかによく似ている。エロス、セ・ラ・ヴィ! 「エロス、それが人生だ」……「愛欲? どうしようもないじゃないか」。デュシャンは女装することによってそう言いたかったのだろうか。
 デスノスは当時シュルレアリスム運動の「眠りの時代」の詩人の第一人者であったのだから、デスノスはデュシャンの人格、美術家としてあまりに堅固だったために私生活ではあえかであるほかはなかった人格に憑依し、それと入れ替わることによってこれを書いたのである。デスノスは、後にアルトーを精神病院から救い出すために奔走した後、ナチの強制収容所で亡くなった。もちろん言葉遊びにもそれなりに重々しい時代があったのである。

 「ローズ・セラヴィの眠りのなかには井戸から出てきた小人がいて夜にはパンを食べに来る」(デスノス)。

 デスノスはデュシャンの可憐な眠りの井戸のなかに棲まうひとりの小人だったわけであるが、夜になればパン食う虫も好き好きであるとは言わない小人がここに存在してしまうことになる。『シュルレアリスム宣言』のなかでデスノスの詩についてブルトンが述べるところでは、パンと小人、井戸と夜はそのままシュルレアリスムの分類できないイマージュの一例となるのであって、詩に託されるべき、ふんだんで、時宜を得た、調子っぱずれの諸契機を与えるという点で、詩の「気まぐれ」はシュルレアリスムの「至高点」と関わりがなかったわけではなかった。

 しかしその詩を読んでしまった私にとっては、すでにコントルペートリはどこかへ消え失せていて、これはまぎれもないひとつの「現実」的な意味を帯びざるを得ないものとして現れてくる。それは精神の些細な作用にとっては明白な矛盾である。読者である私にとって詩がひとたび書かれたものとなったのであれば、いずれ小人(nain)はパン(pain)となり、夜(nuit)は井戸(puits)に変わるかもしれないのだし、つまりあるとき小人とパン、夜と井戸は同じものとなり、またあるときデスノスは、デュシャンの口を通して自分自身を食べ、デュシャンとともに自分から出て行ったのだということになるのだ。
 しかもcontrepèterieは否応なくcontre-péterという言葉を連想させる。つまり「近くで、もしくは反対向きに、屁をひること」、誰かにぴったりくっついて、もしくはさかしまに、反対向きに、逆立ちして(?)、おならをすることでもあるのだ。いや、逆立ちではない。そもそもおならは外に向けて発射されるのだから、この場合は、つまり反対向きということは、でんぐり返しをしながらおならを自分に向けて発射することのほうがより正しいかもしれない。まだ小さかった頃、私の姪っ子がみんなの前で勇んででんぐり返しを披露したとき、プッとやってしまい、大人たち全員が爆笑したのだった。しかし詩を読むわれわれ、「私の悲劇という趣味の悪い服」を脱ぎ捨てねばならないわれわれにとって、爆笑する権利はないと言ってもいいのである。

 

 それはそうと、せっかくだからcontrepèterieを辞書で引いてみた。有名なラブレーのこんな言葉が紹介されている。

 

 femme folle à la messe(ミサ狂いの女)

 

 それをラブレーはこう変える。
 femme molle à la fesse(柔らかい尻の女)

 

 私はラブレーに敬意を表してこれを次のように変えてみる。
 femme pâle à la passe(通りすぎると蒼ざめる女)

 

 詩の語句の出来としてはいかにも凡庸すぎるし、ラブレーのユーモアも何もかも台無しにしていることはわかっているばかりか、しかもコントルペートリとしても不完全で出来そこないとしか言いようがないが、いまのところほかにどうしても良き戦利品が思いつかないのだし、悲劇にも色々あるとはいえ、ともかく悲劇その他の悪趣味な衣装を脱ぎ捨てねばならない我々のことなのだから、いまではシュルレアリストではあり得ない私に免じてご寛恕願いたい。戦利品も収穫も盗人のぶんどり品もどのみちどこにもありはしないのである。つまり趣向を変えることだって何だってわれわれには可能なのかもしれないのである。

 

 通り過ぎるたびに蒼ざめる女
 通り過ぎるたびに
 あそこに窓があった
 きっといつかは
 薔薇の内部が
 君を蝕む日没が
 こじ開けられるだろう
 七つの辺が
 同じ薔薇色に輝いてはいるけれど
 この棘のなかに
 この傾きのなかに
 何年も前から君がいたのであれば
 僕は昨日そこからやって来たばかりなのだ
 仮借ないものとは
 最初の日に手袋のように裏返ったものとは
 ルビー色に変色したシャンパンのように
 この広場に続くうらぶれた小道だったのだろうか
 奏でるたびに
 しだいに色香も褪せる
 未知の楽器のように
 指から指へと
 喪失が瞬いているのが見えるのだ
 自分の胸腔の深い淵で
 君は少しだけ笑っていたっけ
 いろんな事があった
 空色をした蝶
 艶のない青銅の梯子
 糸のように細い時間のたゆたい
 まるで何かを浪費するような
 どうしようもない諍い
 告白すべきではなかったカムフラージュ
 それが何かの含有量ででもあったかのように
 君は激怒していたっけ
 僕たちが好きだった森
 あそこから西日が差してはいたけれど
 慈しみとともに
 取り返しようのない過ちとともに
 僕は思い出すのだ
 だが惨憺たる偶然と同じように
 そんなものなど何でもないのよ
 君はそんな風に僕にむかって語気を強めていた
 玄関で靴下を履きながら
 午後二時の陽の光にさらされた
 君の心のなかには
 紫外線のように
 市街戦のように
 穏やかな水のおもて
 ラファエロの自画像のように透明で
 昨日という最悪の日が隠してしまった
 最後には残酷なものとなるほかはない水が
 流れているのだ
 窓はとっくに開けっ放しだった
 銀色の船の航跡が
 むせび泣くように
 遠くに見え隠れしていた
 陰気なくせに呆けた街角だ
 頭上には一羽の烏が旋回し
 鈍色のアンテナの上
 昔の哲学者のように
 そこにいる白い鳥は
 じっと動かない
 だがそれが飛び去るとき
 光を放つ沼沢から望む
 紫色のアーチが消してしまう奇妙な風景
 そいつがここからも見えるのだ
 そのとき君は
 そのぼんやりとした向こう側に
 帰ってくるのだろうか

 

 

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第83回 2017年2月

 

 

すべての帝国は滅亡するだろう

 

 

鈴木創士

 

ゲルツェン『向う岸から』古典文庫
サント・ブーヴ『プルードン』古典文庫
E・H・カー『バクーニン』(
ブランキ『革命論集』(上・下)古典文庫(*現在は絶版)
ギュスターヴ・ジェフロワ『幽閉者 ブランキ』

 

 

 

 

  ロシア・ナロードニキの先駆けだった十九世紀ロシアの思想家アレクサンドル・ゲルツェンは、のちにヨーロッパ中を転々とすることになったが、さながらヨーロッパという断崖絶壁の上を彷徨う亡霊のようであった。社会主義の父であるこの亡霊はアナーキズムの父プルードンと協力し、アナーキストの亡霊でもあったわけだが、自治政府がプロレタリアート独裁を宣言したパリコミューンの最後の蜂起の前年にパリで没している。もちろんこれは偶然などではなく、歴史のなかから廃棄されるはずのない偶然がいっとき廃棄された証であった。モラルについては「非凡」であったこの作家の文章は、かつてのモラリストたちに似ていなくもない。かのバクーニンは若い頃ゲルツェンに影響を受けただけではなく、一八六一年に、シベリアの流刑地を脱出した後、当時ロンドンにいたゲルツェンのもとに身を寄せている。ロンドンのゲルツェンの家に入っていったとき、バクーニンはこんなことを言ったらしい、「なんだよ、牡蠣を食べているのか、いいなあ、だったら俺にもいろいろ教えてほしい、えっ、いったいどこで何が起きているんだ?」

 『過去と思索』とともにゲルツェンの主著と並び称される『向う岸から』のなかでゲルツェンはこんなことを言っていた。

 

  ――(…)背後には死が迫っている。死なんとする人のところに呼ばれた聖職者が、何をするというのだ? 看病もせず、うわごとに反駁もせずに、臨終の祈禱を読むだけだ。祈禱書を読みたまえ。ペテルブルグのツァーリの専制政治も、ブルジョア共和国の自由も、死刑宣告を下されたものは誰ひとり死を免れないということを、これを最後に確信したまえ。そしてそのいずれにもあわれみをかけないことだ。それよりむしろオーストリア帝国の崩壊に拍手を送り、半共和国の運命にはらはらしている軽薄で皮相な連中にこう言って説得するがいい。すなわちかかる共和国の瓦解はオーストリアの崩壊と同じように、人間と思想の解放にとって巨大な一歩を意味するものであり、いかなる例外もいかなる寛恕も不必要であって、寛容の時代は来なかったのだと。(…)テロルは人びとを処刑した。しかしわれわれの仕事はもっと容易なものだ。われわれは議会制度を死刑に処し、信仰を破壊し、古い世界に立脚した希望を一掃し、偏見を破り、決して譲歩したり容赦したりせずに、以前のすべての聖域に踏み入るように運命づけられているのだ。生まれつつある世界、昇りつつある朝日にだけ、ほほえみを送り、挨拶を送ろう。そしてたとえわれわれがその到来の時を早めることができないとしても、少なくとも、それを見ることのできない人に、それが近いことを教えてやることはできるはずだ。

 ――夜ごとヴァンドームの広場で、通行人にはるかな星を見るように自分の望遠鏡をすすめている、あの老乞食のようにですか?

 

 余談ながら、望遠鏡をつねに持参するこの乞食のことが妙に気にかかるのは私だけだろうか。この老いたる浮浪者とは誰のことなのか。天体好きのオーギュスト・ブランキのことなのか。たぶん違うだろう。まあ、とにかく星を眺めようではないか。

 ところで、一言述べておくなら、このところ日々私たちが見聞しているのは、白人至上主義のアメリカ帝国の瓦解が始まったということであり、あのお笑いツァーリ(君主)がツィッターで何を言おうが、帝国自体がもうそれをとどめるすべはないということである。最近では、笑ってしまうが、君主といえどもどん底まで落ちぶれることがあるらしい。君主の側近たちも、女性を含めて、理屈どおりにご立派なものである。歴史の教訓は無駄ではない。これがわれわれの時代の最低の現実、その禍々しい漫画なのだ。そしてこのぶざまな犯罪的漫画の存続にはわれわれの首相も一役買っていることを忘れないようにしよう。

 ***********************

 

帝国は滅ぶ

 

 ローマは一日にしてならず
 千年にしてならず
 昨夜、ローマ帝国は滅んだ
 黒焦げの大地よ、猛烈な渦よ
 底なしの忍耐よ
 血の色をした満月が天頂にさしかかる
 天を汚す月、月経にまみれたポイペ
 俺たちはけっして働かないだろう
 おお、火の夜よ
 地獄の女は
 帝国の仮の守護神などではない
 玉座にはひからびた団栗がひとつ
 目のない栗鼠が一匹
 オリーヴの大木が轟音をたてて倒れたのだ
 砂塵をあげる駿馬のいななき
 そいつが遠くでさらに灼熱の陽を浴びている
 少年の王よ
 護衛の兵士に喉をかき切られ
 半身を虚しく探し求め
 あるいは自分の頸動脈を食いちぎる王よ
 おまえは玉座からころげ落ちる
 溝(どぶ)のなかへ
 厠(かわや)のなかへ
 未来永劫、空位は王の座である
 
 いかにアテナイが陥落しようとも
 いかに農奴ヘイロテスが生き残ろうとも
 スパルタは存続できないであろう
 頭上を旋回する禿鷹よ
 ハドリアヌスも
 蛮族でさえも
 スパルタの存続を渇望したのだ
 あの大地
 腕を切り落とされ
 首を切られ
 ごぼこぼいう喉の血で窒息した兵士が
 一面のヒースに顔を埋めたあの荒野
 花の匂いを嗅ぎ
 喜びいさんで
 図面を引かれた偽の至聖所、あれらの列柱のあいだで
 襤褸(ぼろ)でつくった深紅の垂れ幕みたいに
 随喜の深淵に落ちていった無数の死者たち
 予言者たちは
 顔を曇らせる
 荒廃した
 ゴミの舞う町はずれで
 冬の大熊座はカサカサ音をたて
 地平線を一周する
 かつてカエサルの見た空
 くだらぬ芝居かもしれぬ
 小枝が折れる音がする
 歴史を寝取られた間抜けどもがいる
 俺たちは昼も夜も広場をうろつき
 けっして働かないだろう
 おお、穢れた血の色をした樹液よ、朝よ
 
 いかにマルクス・アウレリウスの声音をまねようとも
 またいかに彼の叡智をまねようとも
 そんなものはスカンクの屁にも値しない
 エリュシオンの野に悪臭が満ちるだけだ
 やりきれない歳月、千三百年の徒労の日々よ
 血が流れたのは
 青髯の家だけではなかった
 神は歴史ではなく
 歴史は神ではない
 神々はいつも居留守の番人にすぎない
 竃の上で鼎(かなえ)がぐつぐつ湯気を立てるにも
 もはや手遅れなのだ
 裏切りはあったのか
 時を追い越せ
 追い払われたエリニュス、復讐の女神たちよ
 真鍮の爪は研がれていたのか
 すべての復讐はどこへ向かうのか
 何もないし、どこでもない
 民主主義は奴隷の民主主義である
 畸形の熱狂
 惑星は誘惑などされはしない
 俺たちはけっして働かないだろう
 あれよあれよという間に
 民族は歴史の夢から締め出される
 痩せ衰えた亡霊たちよ
 それが無数の民の白昼夢だったのだ
 
 神殿の残骸には風の音がわだかまり
 うずくまる
 老人がうずくまる
 こいつが悪魔の化身だ
 円柱は折れ、粉々になる
 大理石は汗をかき
 汗をかき
 うっすらと血のミルトの汗をかき
 手は震え
 塩の柱が崩れる
 神々の像は八つに割れる
 かけらの断面からは奇怪な顔が生え
 陽の光に溶けてしまうだろう
 昨日の朝露のように
 ゴエティアの書に記されていた悪魔の祖先よ
 夜になれば
 淫靡な仕事を始めねばならぬ
 そこはオアシスなのか
 地底のオフィスなのか
 俺たちはけっして働かないだろう
 腐った食糧が
 悪臭のする古い血が
 青い鼻汁が
 唾が
 汚物が
 糞尿が
 穴のなかに投げ込まれる
 詩人が追い出されたのではない
 そこから出て行くのは
 テレンティウスの喜劇を演じるあの役者どもだ
 むこうに霞む砂漠よ、涸れた井戸よ
 小石が舞い上がる
 神殿は砂と泥に埋もれて
 とっくに跡形もない
 
 パラティヌスの丘には
 ネロの亡霊などはじめからいない
 骨だけになった死骸もない
 猫の死体もない
 だが歴史は歴史が過ぎ去らないことを予見するだろう
 そう言い張ったのは
 神々だ
 すべての予兆は
 破壊されたおびただしいただの彫像のかけらである
 かけらを操るコンスタンティヌス
 世界の首はどこにある
 玉座の上にはぺんぺん草が生えている
 気持ちのいい風が吹いている
 緋色の蛮族たちよ
 迷信をたずさえて
 君たちはここまでやって来たのか
 寂しい八岐の庭園までは
 そう遠くはない
 おお、残骸よ
 もうカラカラの浴場が血に染まることはないだろう
 血のあぶくを水に映る空のなかに見たからといって
 民は何ひとつ感謝しないだろう
 汚れたティベリス河が滔々と流れている
 それが何だというのか
 ヘドロのなかには何があるのか
 俺たちはけっして働かないだろう
 血潮のなかに溺れなば
 我はいかに強からん
 強大なのはそんなものではない
 ミネルヴァの神殿は
 夕暮れにしか開かない
 見えるのは葡萄畑だけだ
 珍妙な祭礼があった
 裸体の若者がいた
 生贄は無駄だった
 ユピテルの月までは生き長らえられないだろう

(後半の詩文「帝国は滅ぶ」は雑誌『HAPAX 06』(二〇一六年、夜光社刊)からの転載です)

 

 

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  第82回 くぼみ - 2017.01.04

第82回 2017年1月

 


くぼみ

 


鈴木創士



渋谷哲也・平沢剛編『ファスビンダー』エートル叢書16
ロラン・バルト『神話作用』 
ロラン・バルト『零度の文学
鈴木創士著『サブ・ローザ 書物不良談義』 
ジャン・ルイ・シェフェール著『エル・グレコのまどろみ』エートル叢書19

 「紙でできた雌鶏や、船や、矢や、飛行機、小学生たちが学校の机でつくるそんな折紙をそっと広げると、新聞のページか白い紙に再び戻る。私はずっと前から漠然とした気まずさに悩まされていたのだが、そんなとき私の人生――つまりしっかりひろげられ、目の前に平たく置かれた私の人生の波乱の数々――が一枚の白い紙にすぎず、それを必死に折って新たな事物に変形できていたつもりが、山や、断崖絶壁や、犯罪や、死亡事故という外観をもつ三次元のものとしてそれを見ていたのはどうやら私ひとりだったことに思いいたったとき、私の茫然自失は極めて大きなものとなった」。
 パレスチナ革命の地にフェダイーン(パレスチナゲリラ戦士)たちとともにいた経験をもとにした本のなかで、ジャン・ジュネはひとり人知れず唖然とした後にこう続けている。
 「こんな風に私の人生は、大胆な行為のうちに微妙にふくれ上がった取るに足りない仕草からなっていたのだ。ところが、このことを、私の人生が窪みのうちに書き込まれていたことを理解したとき、この窪みは深淵に劣らず恐るべきものとなった。象嵌術と言われる仕事はハガネの板に酸で凹状に図柄を穿つことだが、そこには金の糸を嵌め込まねばならない。私にはこの金糸が欠けていた。私が孤児院に遺棄されたことは、たしかに他の人々の出生とは異なる出生だったが、より恐ろしいものだったわけではない。牛飼いをしていた農夫の家での幼年時代はどんな幼年時代とも好対照をなすわけではなかったし、泥棒と売春をやった青春時代も、実際にあるいは夢で盗みを働き売春をやる他の青春と似たり寄ったりだった。目に見える私の人生は巧みに仮面をかぶった見せかけにすぎなかったのだ。監獄は私にはむしろ母のようなものだったし、アムステルダム、パリ、ベルリン、バルセロナの騒然とした街路以上にそうだった。そこでは殺されたり餓死したりする危険はなかったし、監獄の廊下は私の知る限り最もエロチックだが最も心休まる場所だった。合衆国でブラックパンサーと過ごした数ヶ月もまた、彼らと私の間に彼ら自身が気づかなかった共犯性がなかったのであれば、というのも彼らの運動はラディカルな変革の意志という以上に詩的な演じられた反乱であり、白人たちの活動の上に漂うひとつの夢だったからだが、パンサーたちが私を反逆者として見ていたとすれば、私の人生と私の本についての誤った解釈の証拠となるだろう」。



 ジャン・ジュネはもちろんここで自分を貶めているのではない。実際、彼自身は自分の人生を三次元として体験していたことに変わりはない。登攀が不可能に思えた山岳地帯、人を自殺に誘い、あるいは思わず足を滑らせてしまいかねない断崖、深い渓谷、殺人以外のすべての犯罪(ジュネは殺人を犯していない)、自発的であって同時に受動的だった悪事、泥棒、脱走、逃亡、物乞い、多くの死体…。だが彼は自分の人生が、ブラックパンサーのもとにあっても、パレスチナゲリラのキャンプにあっても、ひとつの窪み、ひとつの空洞であり、突如としていままでは想像もできなかったひとつの陰気な窪みに、浅いだけが取り柄の空洞に変化してしまうことを感じ取っていた。救いはない。ジュネのような生き方の例は滅多にないどころか、まったくの例外だったのだとまさに言うことができるにしても、ジュネにしてからがそうなのだ。つまりこの一枚の白紙、この窪み、この空洞は、われわれにとって普遍的なのである。



 フランスにいた頃、モンパルナスのカフェでコクトーの友人だったとかいう老人と知り合いになったことがあった。名前も忘れてしまったが、少しでっぷりしていたように思うその老人は見るからに男色家という風貌だった。家に遊びに来ないか、コクトーたちが来ていたサロンに案内するよ、と言うのでちょっとした好奇心にかられてついて行った。私はそれほどコクトーが好きなわけではなかったが、ファスビンダーの映画を知ったばかりだった。居間にはすでに何人かのゲイとおぼしき若い人たちがいた。彼らはお喋りで、落ち着きなくうろうろ歩き回っていた。あの落ち着きのなさはどこから来るのだろう。裏面だけでできているような、やけくそだが、あのほとんどぺらぺらの信仰に似たものは? 音楽がかかっていたように思うが、私の趣味ではなかったはずだ。夢想家はいないし、大胆な行為もない。虚構のなかで枕を高くして眠っていたのは誰だったのか。私だけが場違いだった。その場に自分をそぐわせるすべはまったくなかった。案外安っぽい感じのするサロンには見るべきものなど何もない。不潔な感じすらしたように思う。「ジュネも来ていたのよ」、誰かがそんなことを喋っていた。ジュネはこんなところにも出入りしていたのだ。朝吹登水子と石井好子がパリでずいぶんおとなしそうに見えるジュネに出会ったときのエピソードを思い出した。気詰まりで窒息しかけの私は早々に引き上げたのだった。



 雲が西から東に吹き飛ばされてゆく。電線から滴っていた雨垂れはもう跡形もない。さっきからものすごい風が吹いていた。雲のなかにはマンテーニャもジョットもピエロもグレコもいなかった。不穏な空。不毛なだけの、「自発的偽装者」の夜。だが不毛なのは夜でも空でもなくむしろ私自身のほうだった。ジュネはパレスチナ人が彼を受け入れたとき、パレスチナ人たちは彼のなかにこの「自発的偽装者」の姿を認めたのだろうかと自問している。
 この私にしてからが、自分の人生が裏返しになるような場面に何度か出会ったことがあった。そこには「自発的偽装者」がいたのか。だが白紙は何度も裏返されたのだから、どれが表なのかわからないし、そのような場面をここでデッサンでもするように素早く描くことはできないのだから、裏返しになったものは結局のところ何も描かれていないただの一枚の白い紙にすぎなかったのだ。カラヴォンの谷間はあまりに遠い。鳥の囀りは聞こえない。だがその谷間に行ったことはないし、それがどこにあるのかも私は知らない。白紙は白いまま、どんな複雑な記号によっても優雅なデッサンによっても埋まることはないだろう。どうやら白紙をこじ開けることはできないらしい。虚構に内部はあるのだろうか。だがこの紙を破ってしまうことはできるのか。



 人生は一枚の白い紙であるか、はたまたひとつの窪み、ひとつの空洞である。何をどう取り違えることができるだろう。だから私はこの観念に固執する。



 この窪み、この空洞には時間が流れ、あるいは流れ込んだまま淀んでしまったのだろうか。昨日、たまたまバルテュスの画集を見ていたのだが、ある絵に目が止まった。いままで私はバルテュスの絵画は人が言うほどエロチックではないと思っていたし、エロティシズムと言うよりはそこに描かれている「時間」にむしろ惹きつけられていた。私にはバルテュスの絵に物語を感じ取ることができなかった、たとえリルケが相手でも、それが『嵐が丘』の挿絵であっても……。物語はもうなしだ。物語ではなく、時間。停止してしまったと錯覚しかねない永遠の現在。それが粒子状にぼやけ始めることもある。何かがかすかに動き始めることもある。色彩やその他の面で、明らかにバルテュスはピエロ・デラ・フランチェスカに影響を受けているが、ピエロの絵の「時間」とはまた別物である。
 その絵を見ていて、私ははっとした。思いがけず、絵に描かれていた少女の胸の膨らみが妙にエロチックなものであることに気づいたのだ。乳房はむき出しではなく、下着の下にあって見えないが、普通、画家たちは、ルーベンスであれ、アングルであれ、誰であれ、こんな風に女性の胸を描いたりはしない。他の事物、部屋や少女のからだの他の部分やそれ以外のものの描き方はまったく違う感触で、そんな風には描かれていない。こうしてバルテュスの絵のなかの時間は停止した。時間は消えていた。ロラン・バルトの言う「プンクトゥム」は、絵画にもプンクトゥムがあるとして、この場合、それがただの錯覚にすぎなかったとしても、胸の膨らみなのか、それともカーテン越しの日差しだったり、謎めいた人物の後ろ姿がそこにあったりするかつて私を凝視させていたかすかに黄色か緑色がかった「時間」だったのだろうか。エロチックなもの……。それがこの世に存在することはわかっている。私は画集を閉じる。だがこの胸の膨らみといえども、ひとつの空洞のなかにしかないのかもしれない。



 勇気などという言葉は、ニーチェのために取っておこう。だが元はと言えば、われわれはすでにすれっからしだからである。自殺未遂も谷底からの山の登攀も経験済みだ。水は生きていた。木も生きていた。だがあの松、あの柊、あの杉は、近くから見ても遠くから見ても死んでいる何かにつながってしまう。風景の細部が、それだけが目に焼きついているとしても、終わることのないものは細部に宿るはずがない。それは細部を抹消してしまう。神は細部に宿りはしない。神はどこにも宿ることはない。それなら風景は私を拒絶しているのか。憂鬱、軽い発作、理性の不埒な選択……、金輪際、それが終わることはないだろう。エロチックなものも窪みにしかない。誰がこの場所に来たのだろうか。君は死を前にしてあらゆることを反省しようとしたのか。それが何になったのか。怖くなったのか。それは恐怖とはまた別物である。断末魔、死、金銭、風景、政治、女……などなど、どれに執着しようが、この模像を前にしては、生命を伝えようとするものなどありはしない。あらゆるものは陥没し、水没する。生は窪みで水浸しになっているではないか。私の「中」から見れば、たちどころにその「中」は消えてしまい、私の「外」のものがあるように思えるにしても、それは窪みをだまし絵のように彩る擦り切れた装飾だったりする。それに一秒先にはもう存在しない生命などとは、そもそもわれわれは口にすることができないではないか。



 あの日、ものすごい地震があった刻限のこと、私はなぜか鬱屈した気分のまま眠ることもできずにベッドに横たわっていた。横になったのはもうずいぶん遅い時刻で、午前四時くらいだったと思う。ものすごい揺れで家が完全に崩壊したとき、ああ、これはもう駄目だと思ったことをちゃんと覚えている。目は見開いていた。見えたのは真っ蒼な青空だった。外は真っ暗だったのに、稲妻が走り抜けたのだ。パドヴァの青。十四世紀初頭にジョットがスクロヴェーニ礼拝堂の壁に描いた空の青。私の目の前にあった壁が一気に崩れ落ちたのだった。まず本が蝶々のように飛んでいった。ついで本棚が水平にぶっ飛んだ。あれはたぶん安物の本棚だった。法外な力が破壊のさなかにあって破壊の瞬間を後退させたように思えた。破壊されつつ、速度を上げながら、破壊が遠のく、そんな不思議な経験だった。そしてそんな風に破壊はずっと続いた。たぶんほんの何十秒かのあいだだったのだろう、私はほぼスローモーションのなかにいた。時間は遅れに遅れていた。手探りでコートと眼鏡を探した。寒かった。人生の窪みはめちゃくちゃになっていたが、それもまた別の窪みでしかなかった。



 僕はいまは足が悪くて、あちこち徘徊することができなくなってしまいました。僕は禁断症状の麻薬中毒患者のように耳をすます。まったく飽き飽きすることですが、夢のなかにいるように音はまったくしないか、ごぼごぼ水が流れるか、ときには耳をつんざくような恐ろしい機械音がします。耳鳴りが星空のほのかな明かりのようにありそうにない不可視の窓から侵入してくる。窓は電気を帯びています。古い円卓の上には本があります。円卓には染みのついたレースの小さなクロスがかかっている。あのダンテル! 血のダンテル! 切り落とされた首から数珠つなぎの花の首飾りのように血が流れたのだ。いま星空がかき消えたので、僕は目を開くことができる。
 最近は、生まれたときからみたいに歩くことを知らないので、いつもは平気です。僕は窪みのなかで大げさなことを言っています。でもたまに外でかけっこをしたり、神社で鬼ごっこをしたりしたくなります。みんなが走り回っているのを見ると、たまにいいなあと思うときがあります。
 鬼ごっこの鬼にもなってみたいなあ。ほんの愛嬌で、暗くなってみんながおうちに帰っても、神社の大木にもたれて、ずっとおじいさんの鬼をやっているんだ。木をさすったり、爪で木に小さな傷をつけたりしながら。おじいさんは死んだし、いまでは絵のなかにいるみたいな死者です。頭のなかで誰かが喋っている。あのマルカム・ラウリーの大傑作小説『火山の下で』のアル中の主人公の頭のなかにいるように、いかに人がそれを幻覚だと呼ぼうと呼ぶまいと、頭のなかにあるものが一目惚れのように現実と遭遇してしまい、帳尻を合わせるようにそれらが収束して、ただひとつの決定的な現実となる。ふと気がつくと、われわれはそこに投げ込まれている。我が身を見ないまでも、そういう風になると相場は決まっています。鬼ごっこはなかなか終わろうとはしません。赤鬼、青鬼。安吾の女の鬼だったりして。殺されるのか、殺すのを諦めるのか、それはわからない。いきなり見てしまったものがあります。それに星空を後ろに、コツコツ木を叩く音がする。もういいかい。まあだだよ。暗くなると、きっとこわくなるね。でも窪みのなかに隠れているからへっちゃらです。

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 http://www.asahi.com/and_w/interest/SDI2016120842321.html

歴史を学び、共有するきっかけに。『ルポ京都朝鮮学校襲撃事件』ほか

  • 文・松本秀昭
  • 2016年12月12日 
     

撮影/猪俣博史

 2016年5月24日、ヘイトスピーチ解消法が成立しました。この法がどれほど重要で、当事者たちがどれほど望んでいたか、理解している日本人はどれほどいるでしょうか? 今まで日本人は積極的に在日朝鮮人に対する差別の問題に関わることをせず、むしろ黙殺してきたと言えるでしょう。そのことによってヘイトスピーチやヘイトデモがまかり通る社会になってしまったのです。

共通して描かれる冷酷さや横暴さ
そして無関心

 今回お勧めするのは、『ルポ京都朝鮮学校襲撃事件』と『ヘイトデモをとめた街』。『ルポ京都朝鮮学校襲撃事件』は事件から3年後のインタビューに基づいたもので、3回にわたるヘイトデモによる襲撃、在日朝鮮人にとってけっして一筋縄ではいかない司法手続きの決心、十分な結果を得られなかった刑事訴訟、それに続く3年半にわたる民事訴訟での勝訴までが描かれています。事件や裁判の様子が記述される合間合間に、朝鮮学校や在日朝鮮人の歴史的経緯が織り交ぜられ、歴史的事実に関する自分の無知に気付かされます。

 『ヘイトデモをとめた街』は、多文化共生を実践してきた神奈川県川崎市桜本を主な舞台として、当時の現地でのリアルな声を伝えるとともに、ヘイトスピーチ解消法成立、そしてヘイトデモを中止に追い込むまでのドラマチックな展開を体感することができます。絶望的状況の中で確認された地域の強いつながりやそれを超えて集まった人々の輪、それが読後にすがすがしさと希望を感じさせてくれます。

 2冊に共通して批判的に描かれているのが日本の行政、警察、司法の一貫した在日朝鮮人への冷酷さや横暴さです。そして人権に対するそれら権力の鉄面皮を通して見えてくるのは私たち日本人の無関心。おそらく「無関心である」という事実にさえ私たちは気付いていないのではないでしょうか。というのも私たち日本人はマイノリティーである在日朝鮮人の気持ち、痛み、恐怖というものをまったく理解していないからです。脅威をあおるような北朝鮮のニュースが報じられるたびに、憎悪をまき散らす雑誌広告を見るたびに、緊張が走り、身の危険を感じ、周りの目が変に気になり、おびえている隣人たち。そんな存在をマジョリティーは普段意識することはないのではありませんか? 『朝鮮人はあなたに呼びかけている』(彩流社)の著者、崔真碩(チェジンソク)さんはその関係を「光のなかからは、影のなかが見えない。」と表現しています。

こんな状況を許しているのは、私たちである

 行政も警察も法が存在しないからヘイトデモに関して「何もできない」と言い訳をする場面は両書で繰り返し描かれます。刑事告訴で名誉毀損(きそん)を訴えるには「表現の自由」を理由に困難が伴います。差別が表現の自由であり犯罪扱いされない日本。当事者たちは「差別を取り締まる法さえあれば」と願いながら、ヘイトデモの発する罵声を前に何もできず、何もしてもらえず、ぼうぜんと立ち尽くします。こんな状況を許しているのはマジョリティーである私たちです。これはヘイトデモをする一部の人たちの問題ではありません。ヘイトスピーチとその規制の問題は私たちの社会に決定的な問題がある、落ち度があるという私たち自身の問題なのです。ヘイトスピーチ解消法はそんな私たちにとっても救いなのではないでしょうか。実際この法によって行政と警察の態度は一変し、「問題」は改善の兆しを示しました。

 1923年9月「朝鮮人を殺せ」と扇動し虐殺を起こしたこの日本の社会が、90年近くを経てまた同じデマと憎悪の扇動を繰り返しています。私たちはもう二度とこれを許してはいけません。そのためにも1905年の日韓協約に始まり敗戦にいたるまでの在日朝鮮人の歴史、そして敗戦=解放の後から今日に至る在日朝鮮人の歴史、それらを学び共有することはとても重要なことです。『ルポ京都朝鮮学校襲撃事件』『ヘイトデモをとめた街』はその歴史を学ぶきっかけになってくれるでしょう。

 

 

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第81回 2016年12月

 

 

天使が通る

時間の反故についての若干の考察

 
鈴木創士

 

 

宇野邦一『詩と権力のあいだ

 

 

 Le temps passe où est-il passé sans être perçu passe l’ange.

 Au temps figé gelé mais coulé que s’est-il passé alors que rien ne passe.

——Kuniichi Uno, RENGAINE OU MOU RIRE

(時が過ぎるどこに過ぎたのか気づかれることなく天使が通る。

 凝固し凍てつきしかし流れた時間に何が起きたのか何も過ぎ去ってはいないのに。)

 

  つねに時間の「問いはついで二重になり波打ちズレてしまう」。知らぬ間に時間が過ぎる。そのことが確かかどうかはわからない。死線がただ続くだけだ。一見、死に向かうかのようなライン。それは分岐するのだろうか。分岐は収束するだろうか。死線を分断すると瞬間が現れ、すぐさま消え失せる。時間のなかで死はヤヌスの双面の片割れとなり、もう一方の顔のなかに紛れ込む。それは何かの入口ではあるが、どこを見渡そうと出口はない。見ると、実際、顔はひとつしかない。外観としても、仮象としても、死は生とそれほど異ならない。たしかに時間の問いは白けた問いである。いつも大きな空白が現れ、それが時間の基底となる。こうしてわれわれもまたそこで立ち止まったのだと考える。だがわれわれは瞬間のなかに何を弁別しているのだろう。別の瞬間への移行はすでに過去のなかに隆起したひとつの虚偽である。ひとつの過去。ひとつの虚偽。

 シオランが言っていたように、時間から失墜することなどできるのか。この失墜は人間を脅かしはしない。時間からの失墜は別の時間への失墜とほとんど同義である。それはほぼ無際限に繰り返される。私は思い出す。私は失墜する。たとえこの不毛な状態のなかに小さな欲望がきざしたとしても、時間を回復することはけっしてできないからだ。時間がとつぜん凝固することがあるとしても、時間は流れてはいないし、止まってもいない。時間を感じ取ることなしに時間を認識できるとすれば、これはほとんど一種の痴呆状態である。明後日のほうを向いても、何をしようと、どうなるものでもない。私の血と私の時間が交わることがないとすれば、ほんとうにそうであれば、人はただ時間を観察していることになるのだろうか。だがそんなことはありえない。

 

 私はただ時計の秒針だけを見つめている。一秒、また一秒。一秒、また一秒と。時は過ぎゆくように思えるが、実際に起きているのは、私がそのとき厳密に何もしていないということだ。時計の針は動いているようで、何も過ぎ去ってはいないも同然である。何も起こらない。何も過ぎ去らない。秒針が過ぎ去っているとすれば、それはわれわれが何もやってはおらず、ささやかな行動への焦燥を感じているからである。そんな風にしてときには悔恨や慚愧や放心のなかにいるからである。そして時間が人に悔恨を迫るのは、未来を変える可能性が現在の不変性のなかに不意に現れるときだけである。かくして何かしら根源的な同一性らしきものがほんの小さな差異のなかに現れては消えてゆく。だから時間は無為のかたちをしている。そのとき私の血は血管のなかを流れているのだろうか。時間が回答であれば、私にはこの問いを問うことはできない。これはただの抽象的な問いにすぎない。私はその瞬間に決定的に時間を奪われている。この世の始めに時間を創造した神が、自らの時間を想像できないあの状態、あの沈黙を私は聞いている。

  

 かつて私は時間に属していたのだろうか。時間は存在も非在も知らないが、永遠の現在はたえず自らを否認し続けている。凍結した時間のイマージュはそのつど私をこの世の時間から締め出そうとする。過去へのノスタルジーがあるとしても、一度に与えられる時間の全体はこのノスタルジー自体を排除する。未分化のものが生起していたとしても、そのことを私はすでに「知らなかった」し、今となってはいかなる確信も持ちようがない。そのことはわかっている。少なくともわれわれはわかったふりをしている。われわれはぼやけた両立不能性である。それには曖昧さの余地はない。時間には復讐などない。恩寵もない。地獄を愛惜するふりをしながら、われわれは大きな思い違いをしているのかもしれない。人は記憶の病のなかで自分を看病しながら、死を誤魔化している。もしそうであれば、もし時間のなかですべてが死んでいるのであれば、実のところ、逆に生きることを潔しとしない理由はないではないか。

  

 メキシコの作家フアン・ルルフォの『ペドロ・アラモ』は、現在と過去が混在し、それ故に生者と死者が同一の時間の反復のなかに存在してしまう小説である。この反復のなかには「かつて在ったもの」があるが、それは回帰しないものでもある。それは同時にそこにあって、回帰する必要がないのだ。ここでは生者と死者が時間の迷宮のなかで交錯しているのではなく、生と死が、むしろ死が、あるプラトー、町も自然も風土もそこに含まれるある時間のプラトーを形成している。開かれた眺望、そのなかで死が死を生じさせる。そのことが生をつくりあげる。したがって生はもはや死の一様相でしかない。

 その町はいろんな谺でできている。軋る音や笑い声さえ聞こえてくる。古くてくたびれたような笑い声。声も長いあいだに擦り切れてしまうのだろう。壁の穴や石の下からそんな音がずっと聞こえている。風の日には木の葉が舞い上がる音がするけれど、ここには木など一本もないのだ。祭のどよめきが聞こえることもある。夜のどこかで犬が吠えている。気味の悪いことに、割れ目のなかからときどき人の声が漏れ出てくる。時間とはこの割れ目のようなものである。

 

 時間の純粋な形式というものがあるとすれば、それは死がいたるところに継起しているということである。なぜならこの冷酷な形式は経験的なものとは相容れないからである。しかもこれらの時間の諸形式、死とそっくりな諸形式はそれぞれ共存することができない。反復は、この場合、行動の内的諸条件に即してはいるが、しかし実際にはかつて経験されたことのない死のイマージュであり、ここでの生と死の差異はこの反復のさまざまな類型のうちのひとつでしかない。反復そのものが反復の経験によっては知覚されないのはこのためである。世界の記憶を反復できないのは、経験の主体、あの主人公が夢を見ていて(あるいはわれわれの観念のなかでは夢を見ているのとまったく同じ状態にあることを反駁できないということである)、自らの未来の行動(あるいは錯乱?)を夢からの覚醒だと錯覚するからである。それにどうして時間がこの錯覚の連続を自分のことだと錯覚してしまわないことがあろうか。われわれは後ろを振り向いたり振り向かなかったりする。恐怖がきざす。世界の記憶に対してその記憶と同一の行動が可能だというのであれば、彼は発狂するかもしれない。そしてこの錯覚は未来のその先までずっと続くのである。おそらく死もまたそれに関与することはできないのだ。

 

……………………………………………

 

 ここでは奇妙なことが起きている
 夜のイダルゴ公園
 コヨーテ像の前で
 インディオの女シャーマンが煙の杯を掲げた
 光は横に流れ
 煙が凝固する
 眼鏡の上にむこうの光暈が反射する
 煙は残像だ
 騒音のなかで夜が遠のく
 一瞬前の
 だが今ではない
 今は一瞬前となり
 今は一瞬後となる
 言葉はいつも途切れてしまう
 耳のなかには断末魔の蟬の声
 擦過音
 天使がうずくまり
 その両脚が半分向こう側に消える
 天使が通ったのか
 誰が見ていたのか
 反吐のように吐き出された沈黙の耳が聞いたのだ
 けっして知覚されないこと
 誰にも気づかれることなく誰かが見る
 誰にも気づかれることなく誰もが釘づけになる
 ここで
 うわの空のまま
 白けた暗がりのなかに
 踊りは空漠を拡げ
 円は寸断される
 それがいかに強いリズムに刻まれていたとしても
 力づくで
 絶望的に
 彼らは死んでいる
 踊りの間隙を縫って
 死者たちが次々と消え失せる
 輪になって踊りながら
 誰も踊ってはいない
 通りすがりに
 亡霊がおまえを見る
 人の波、おまえにそっくりな死者たちの波
 太鼓の音は分解されずに怒りに満ちている
 反故の合図
 一瞬前の
 一瞬後の
 大気は不穏なままだ
 何かが起きたのか
 時間などサボテンに比べれば何でもない
 ピラミッドの下には
 傷ついた栗鼠
 埋葬された彫像
 新しい骨
 そいつは愛をもって砂のなかに見捨てられるだろう
 それなら掘り出された夜が降りてきたのか
 死人の穴だらけの皮膚の上に
 取り返しがつかないほど透けてしまった
 大気の紙のような皮膚の上に
 だが何も起きてはいないのだ

   

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                                   『山梨日日新聞』11月6日

 『秋田さきがけ』11月6日

                                     『高知新聞』11月6日

『岩手日報』11月6日

                                   『南日本新聞』11月6日

北原みのり氏の書評は下記の新聞にも掲載されました。

「東奥日報」「河北新報」「山形新聞」「下野新聞」「上毛新聞」「京都新聞」「山陰中央新報」「中國新聞」
「徳島新聞」「宮崎新聞」「熊本日日新聞」「沖縄タイムス」「琉球新報」「山陽新聞」(以上11月13日)
「新潟日報」(11月27日)
「長崎新聞」(12月4日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第80回 2016年11月



日時計の上のトカゲ
舞踏・室伏鴻・アルトー



鈴木創士




アントナン・アルトー『神経の秤と冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『サブ・ローザ

 

 

  

 


 室伏鴻が言うように、身体のなかに、身体にとって、「外の思考」があるならば、舞踏家はこのからだをどこに連れ去ろうとしていたのでしょうか。


 初期のアルトーを即座に理解した土方巽は、肉体のなかに梯子をかけて降りて行くと言っていましたが、このことは、アルトーの言う「思考の不能性」と深くむすびついていて、それは明らかに踊るためではなく、踊らないためであったように思われます。身体を掘り進むには、一度動きを止めなければなりません。身体の縁をかろうじて示すはずの痙攣はそこからしか生じないからです。この痙攣は時間のなかにあって、それに穴を穿つものとしてあります。
 健康であれ、病気であれ、身体は、誕生と眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。


 いかにして肉体のなかに降りて行けばいいのでしょうか。身体は動こうにも動けません。六百年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念があったのでしょうか。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにして夢幻能は成立しました。
 動きにおいてすら不動であること。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、この強迫観念は暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。土方の最も優れた弟子のひとりであった室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望があったように思われるからです。不動性への予感によって、動かないことによって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするからです。別の次元とは、この場合、歴史の別の次元のなかにあることは言うまでもありません。身体が政治のなかにあるとしても、政治とともに踊ってはならない。動いてはならない。


 すべてのものが兆し、顕現し、産出されるのは、自然のなかなのでしょうが、一方、身体はそのままで別の自然の歪形を指し示します。器官なき身体、すなわちあるときは無機的な身体、様々な意味において有機体ではない身体をわれわれがすでにもっていることは、アルトーとともに了解済みです。だが室伏鴻の踊りがわれわれに見せる身体には、さらに「生まれる前のもの」、「生まれる前のものの苦しみ」があって、これこそが不動性への彼の渇望の中心にあるのだと私は考えています。


  「踊りとは命がけで突っ立った死体である」。 Butoh est un cadavre qui se met debout à corps perdu. この土方の教えは文字通りの意味で受け取らねばなりません。死体。はじめに死体があった。死体はいまここで生きている身体とともにあった。そして死体は身体であった。死体であること、死体になること……。死体とは一個の分身です。
 死体の振りをすることは、ここではそのことと矛盾しませんし、死体のほうこそが文化に形態を与えたのですから、それは外から与えられる残骸、言うところの文化的形態とは何の関係もありません。室伏の回想によると、すでに子供の頃、彼は死体の振りをするのがとてもうまかったらしい。


 室伏は、出羽三山の湯殿山で即身成仏の身体に出会います。鉄門海のミイラです。鉄門海はあるとき人を殺し、寺に逃げ込み、出家します。彼を慕って山を降りてくれと懇願する女郎に、切り取った自分の男根を与えて下山を断りました。彼の決意は揺るぎません。その頃、日本中で地震が起こり、疫病がはやりました。病気平癒のために、彼は左目を自分でくりぬき神仏に祈願します……。そして最後に死期を悟った鉄門海は木食の行に入り、即身仏となったのです。われわれが見ることのできるこの即身仏とはミイラです。
 しかし重要であるのは、この鉄門海が何者であったかということではなく、それがある決定的なイマージュ、質感も臭いもあるイマージュ、一個の生々しい分身を室伏にもたらしたということです。影は身体から出たり入ったりします。ここには絶えず振動し、変性状態にあるもうひとつ別の身体があって、身体の限界と不分明な境界を指し示します。
 このミイラのからだはただ死んでいるわけではありません。それは同時にわれわれに、われわれの無にむかって、贈与されています。無のポトラッチはじつに身体の次元においてこそ生起するのです。
 「ミイラの即身成仏」という文章のなかで、室伏はこんな風に言っています。

 

崩折れる 瀕死の贈与と息の 非人称の その外に ひきつったまま身を横たえた
遠のいてゆくのか 近づいてくるのか
定まらぬわたしたちの無限定の境界の 螺旋上で
はじめて 私は あなたの目を見た はじめて あなたは 私の目を見た

 

 身体は、それがどんな風にあろうと定まることはありません。首はねじまがり、手は折れ、足は追放されています。室伏は言います、「肉体はここにあって、とどかない」、と。ジャコメッティのような画家にとっての、対象との隔たりと同じように、同時に生起するはずのこの肉体の近さと遠さを、この即身仏のミイラはすでにそれ自体のうちに含んでいたのです。舞踏にとって、踊ったり、踊れなかったりする肉体が近くにあり、同時に遠くにあることは、すでにわかり切ったことだったのではないでしょうか。
 室伏は書いています。

 

どのようにして こんな遠くまで
来てしまったのであろう
どうして このような遠くまで
私の もっと 近い遠くを
運んできてしまったのだろう
この問いを実現スルタメニダ


 
 この問いが実現されるには、したがってミイラの息が吹き込まれ、室伏に乗り移らねばならなかったのです。きれいはきたない。きたないはきれい。近いは遠い。遠いは近い。そして、ここが重要ですが、息から身体が出てくるのです。

 この息からは何度となく新しい身体が生み出されるでしょう。古代ギリシアの哲人クリュシッポスが言ったとおり、「馬車」と言えば、口から馬車が出てくるように……。同じことは身体イマージュの位相でも起きています。素晴らしい眺めです。蛇足ながら、日本の仏像にも、口から人がぞろぞろ行列しているものがあったではないですか。
 舞踏家にとって、だからうまくいけば、身体は身体から抜け出すでしょうし、身体は身体から出てゆかねばならないのです。どうやら「身体の身体」というものがあるらしいのです。幻影は大挙して押し寄せるが、それを朝も昼も晩もよく見極めなければならない、と室伏は言います。身体は動かない。これも幻影です。ただ抜け出すことができるだけです。「身体の身体」、「身体から抜け出す身体」は、この身体にだぶっています。普段は重なっているが、そいつはじょじょに滲み出し、あるいは一気に外に出て、われわれをなぎ倒すはずです。


 

 ここメキシコの地に、かつてアントナン・アルトーがやって来たとき、彼はいったい何を知ったのでしょう。彼が見たのは「記号の山」だけではなかったのです。

 

肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄……二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった。――自分自身へと〈出てゆく〉、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ。
                    「ペヨトルのダンス」

L’empire physique était toujours là. Ce cataclysme qui était mon corps… Après vingt-huit jours d’attente, je n’étais pas encore rentré en moi ;——il faudrait dire : sorti en moi. En moi, dans cet assemblage disloqué,
ce morceau de géologie avariée.

                   (La Danse de Peyotl)


 〈私のうちへと出てゆく〉。「外」はいたるところにあったのだし、身体は「損傷した地質学の断片」でした。だからアルトーが言うように、われわれは身体のなかに出てゆかねばならないのです。これは別の言い方をすれば、身体という「外」へと出てゆくということです。
 アルトーはずっと後になってこの経験について再び述懐しています。

 

 私はまるで十年前から記憶をとどめているかのように、遥かな昔の時代にいたるまで過去の自分の人生にかかわる思い出をつねに取り戻していたわけではなかった。
 そしてメキシコの高い山岳地帯において、一九三六年の八月か九月頃に、私は完全に自分を取り戻し始めたのだ。
 私はひとつの徴をもって、つまり三本の釣り針のついたトレドの一種の剣をもって、タラウマラ族のもとへ登っていったのだが、その短剣はハバナの黒人の呪術師によって教えられたものだった。
 そいつをもっていれば、と彼は私に言った、あなたは中に入ることができるだろう。
 だが、私は中に入りたいなどとは思っていなかったのだ。
 ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためであるが、
 これは私が事物について抱いている考えではない。
 私にとっては入ることではなく、事物の外に出ることが問題なのである、
 ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
 出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
 溶けて、他処から解放されること、
 溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
 もはや知ることなく、
 実在してしまうことを断念すること、
 それならもはやけっして苦しむことはない、
 選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
 それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
 ところで、そういったことすべては馬鹿げている。
                (「アルトー・モモのほんとうの話」)


 Je n’ai pas toujours retrouvé mes souvenirs concernant ma vie passée
jusqu’à des époques indéfiniment reculées comme je tiens depuis dix
années.

 Et c’est au Mexique, dans la haute montagne, vers août septembre
1936, que j’ai commencé à m’y retrouver tout à fait.

 J’étais monté chez Tarahumaras avec un signe, une espèce de petite
épée de Tolède, attachée de 3 hameçons, qui m’avait été indiquée par un
nègre sorcier de La Havane.

 Avec ça, me dit-il, vous pouvez entrer.
 Mais je n’avais pas désiré entrer.
 Or qui va pour voir quelque chose c’est pour entrer dans un monde
donné, mais jusque-là clos, insoupçonné,

 ce n’est pas l’idée que je me fait des choses,
 pour moi il ne s’agit pas d’entrer mais sortir des choses,
 or qui se détache c’est aussi pour entrer,
 sortir peut-être, mais dans quelque chose, quitter l’ici pour fondre
ailleurs,

 fondre et se libérer hors de l’ailleurs,
 ne pas fondre, mais se libérer dans nulle part,
 ne plus savoir,
 renoncer à avoir existé,
 alors ne plus souffrir jamais,
 les alternatives sont innombrables et ce n’en sont plus, chaque religion et individu a la sienne,
 or tout cela est idiot.
            (Histoire vécue d’ARTAUD- MÔMO)

 

 タラウマラ族のもとで過ごした数日間は、人生のうちで最も幸福な三日間であったとアルトーは言いましたが、山岳地帯のアルトーにとって身体はすでに錯乱したお荷物でしかありませんでした。
 そしていま引用したとおり、アルトーのペヨトル体験は、「外」、あるいは自分自身のなかへ「出てゆく」という点で、例えば、ミショー、カスタネダ、ヒッピーたちの経験とは異なるものだったと言うことができるかもしれません。ペヨトルによって、ヒッピーたちは自分のなかへとわけ入って、「意識」を〈拡大〉できると考えました。「記号の山」があまりに強力なので、彼らは自分のなかに逃げ込むしかなかったのです。アルトーもわれわれも中に入りたいなどとは思いません。しかもアルトーの場合、むしろ「意識」は〈縮小〉されるように思われます。彼は言います、「それはやすりにかけられる」、と。道を指し示すのはけっして意識ではなく、アルトーや室伏が言うように「外」と混じってしまう肉体の縁なのです。

 
 室伏鴻は亡くなりましたが、彼の舞踏の身体が滅びることはないでしょう。
 彼のからだを思い浮かべるたびに、私の眼前に一匹のトカゲが現れます。壁の暗い裂け目から出てきたばかりのトカゲは、陽の光を浴びた日時計の上でじっと動きません。錆びた鉄、ブロンズ、乾いた大気、反射する鱗、粘液、静寂。トカゲはさっきまで闇を食べていたところなのです。
 悪魔の陽のもとにまで旅をしたのは誰だったのでしょうか。強い日差しの下で、大地は赤く、トカゲは地面に横たわった私をじっと見ています。
 トカゲは言います、
 「おまえは誰だ?」

メキシコにて

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             愛媛新聞(10月30日)、神奈川新聞(10月30日)、静岡新聞(11月27日)

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                                丸善丸の内本店 1F(東京・丸の内)

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  第79回 絶腸亭日乗 - 2016.10.04

第79回 2016年10月



絶腸亭日乗



鈴木創士


 

アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
撰集抄 上 

 

 

 十月二日〔大正十四年〕。午前驟雨来る。天候猶穏ならざりしが日暮に至り断雲の一抹の晩霞微紅を呈するを見る。今宵は中秋なれど到底月は見るべからずと、平日より早く寝に就きぬ。ふと窓紗の明きに枕より首を擡げて外を見るに、一天拭ふが如く、良夜の月は中空に浮びたり。                     
                           永井荷風『断腸亭日乗』


 前口上。別にとりたてて荷風に恩義を感じているわけではないが、荷風のことはいまでも好きである。昔、生田耕作先生にさんざん荷風のことを聞かされたが、私にとっていまも愛惜措く能わざる「雨瀟々」は、難解ではあるが、いつまでも忘れられない捨て難い作品である。時々、不埒にも、酔っ払ってぱらぱら繙くこともある。生田先生と付き合っていた当時、私は下戸で、毎晩しこたま日本酒を飲まされては、勤めていた小出版社近くの小料理屋の表の溝でゲロを吐いていた。酒を飲めるようになったから言うわけではないし、下痢ばかりするということではないが、「脱腸亭日乗」というタイトルのものも書いたことがあって、それでは荷風にあまりに失礼だと思ったので、今回は荷風に敬意を表してこのような題にした。日々絶腸とはいえ、直腸癌のことを言いたいのではない。悪しからず。

 
 九月二日。高田馬場にてアルトーの会。題して「未知のアントナン・アルトー」。会場は舞踏家であった故室伏鴻のアーカイヴ・カフェ。窓からは明るい欅並木が見えていた。喋ったのは宇野邦一、荒井潔、岡本健、私。全員がこの度完結の日の目を見た『アルトー後期集成』(河出書房新社)全三巻の訳者たちである。私が翻訳を行った第三巻に共訳者としてもうひとり佐々木泰幸がいたが、残念ながら彼はすでに故人であり不在であった。悲しいことだが、仕方がない。合掌。

 自分たちをけっして甘やかすわけではないが、アルトーの翻訳は相当にしんどいし、病気になるくらい困難を極める。かつて70年代初頭に錚々たるメンバーによって企まれた『アントナン・アルトー全集』(現代思潮社)は第一巻を刊行した後、そんな話がはじめからなかったかのように頓挫し、消滅した。当時としては、無理からぬことであった。だがわれわれのほうは完結することができた。これは僥倖であると言わねばならぬ。
 会の当日、私はできれば新しいアルトー像を談話の中空になんとか結ぶことができればよいと考えていたが、なかなかそうはいかない。アルトーは結像しない。ずっとアルトーを読んできたが、この人は玄武岩のように存在していながら、たまに机にもたれて腕組みをした恐ろしい顔が空気を透かして見えるくらいが関の山である。アルトーの分身ですら容赦するところはない。もちろんいつも恐ろしい顔ばかりというわけではなく、そこがまたアルトーの一筋縄ではいかないところであるが、そもそも彼の顔自体が謎なのである。見たことがあるようで、見たことがない彼の不思議な顔! 亡霊は見てのお楽しみである。いったいいつの時代の人なのか。いや、アルトーはわれわれの同時代人であり、隣人なのである。


 
 われわれが何を喋ったかは、あらかた忘れてしまったし、ここには詳らかにしない。このような会はライブであり、ライブにはライブとしての意味があるからだ。喋った言葉はしかるべく消え失せるのである。覚えていることをひとつだけ言えば、たしか私はアルトーとギリシア悲劇との関わりの話をしたはずであるが、しかしそんなことがなんになるだろう。

 宇野邦一の提案で、室伏鴻のマネージャーだったWさんが企画してくれた小さな会であったが、よい会であったと思う。知った顔があった。知り合いばかりを探しているのではないし、それがよいというわけではないが、ずっと付き合いのある編集者だけではなく、新しい編集者、そして旧知の、長いこと会っていなかった編集者諸氏が来てくれていたのがうれしい驚きであった。他にも編集者や画家をやっている知り合いの女性たち、評論家たち、作家、若い舞踏家、私の参加しているEP-4を聞いてくれている人、学生、研究者、活動家などなど。余談ではあるが、かつての私のように何もしていない人、何もできない人はいないのであろうか。日本には、アルトーに関心があって、芸術や文学などやらずに、飲む、吸う、射つ、だけの人はいないのであろうか。
 終わってから若い編集者のAさんとテキーラを一壜空けてしまった(ここで身の程知らずのことを述べておけば、このテキーラ編集者は、私の最新刊の著書『分身入門』をつくってくれた御仁である)。宇野邦一夫妻と次の店に行ったときには、Aさんの目は動かないままあらぬ方に飛び去っており、まだ底のほうでキラキラしていた瞳の向こうにはサボテンがまっすぐに見えていたくらいである。サボテンはメキシコの大地の上で微動だにしなかった。言っておくが、私はサボテンと言っているのであって、ペヨトルやそれから抽出されるメスカリンの話をしているのではない。棘のたくさんついた美しいサボテン。マカロニ・ウエスタン。エル・トポの世界である。うれしいことにホドロフスキーはいまだ健在である。
 彼らと別れて新宿のホテルへ。Wさんを呼び出して深更の蕎麦を食う。まずかった。Wさんと別れてひとまず部屋に向かうが、それからが良くなかった。悪事。病気なのか。病膏肓に入る。何をやったかはここで言うことは到底できない。人に言えないことは、神のみぞ知る、というわけでもあるまい。悪い事は、最近はめったにやらないが、神といっても、悪の神だったのかどうかは知る由もないし、グノーシス主義の神がどんなものか見たことはないが、いまとなっては猿だって反省くらいはするのである。

 
 九月二十四日。神戸で「アルトーと音楽」の小さな会。最近ちょくちょく私がやっている音楽ユニットEP-4 unitPでノイズとトランペットとテルミンを演奏しているYが企画した会である。彼の新しい事務所兼音楽図書室みたいなロケーション。自分が喋ったことで覚えている話題は、作曲家エドガー・ヴァレーズとアルトーのこと。幻のオペラ。アルトーはヴァレーズのオペラのために「もう大空はない」という台本を書いたが、このオペラが実現することはなかった。

 このオペラは私にとってもはややけに親しげにも思える幻聴にすぎないが(だって存在しないんだもの)、最近、私はノイズ・ミュージックを(他に形容のしようがないのだ)、あるフランス人に言わせれば、エレクトロニック・アヤワスカ・ミュージックなるものをやっていて、いつもこの聞いたことのない幻のオペラが念頭にあると言っても過言ではない。耳の穴、というか頭にあいた穴を吹き抜ける空っ風のようにそいつが聞こえたり聞こえなかったりすることがあるのだ。ありていに言えば、私の聞いているつもりになっているものは偽オペラである。無理矢理耳のなかに音響仮想敵国をつくっているようなものだ。このポストパンク工場式偽オペラ風ノイズバンドで、ほんとうはシューベルトやショパンやカッチーニ、もしくはロネッツやゲンスブールのカヴァーを爆音ノイズで味つけしつつやってみたいのだが、ほぼ練習もしない、基本即興バンドでは、なかなかそうはいかない。メンバーはプロもしくはプロに近い連中ばかりなので、できないこともないのだろうが。
 この会で何を喋ったのか。アルトーが音楽に関心があった、とかそういうことではない。だがこれもライブであったし、自分の分身が喋ったことなど、はっきり言って私の知ったことではない。音楽と同じように、すべては壊れ、何度も言うようだが、すべては消え失せるのである。それでよしとしなければならない。
 健康な妙齢の女性もそれなりの年齢の素敵な夫人も若者もいたが、神戸の不良少年たちが何人か来ていた。少年ではなく、元少年たちである。彼らはみんな教養あるインテリで、インテリを商売にしていないところが清々しい。例外として、ひとりは商売にしていて、ロシア文学者のTもいた。まあ、いいだろう。会の後、そのうちのひとりインテリ・ハーレーダヴィッドソン野郎Tが知っている近所の安くてうまい中華に行った。インテリ和菓子職人もいるし、彼らは私の新しい友人たちである。この歳になって、これを僥倖と呼ばずして何と呼ぼう。古い友人である、つまりフーテン族の竹馬の友だったバーのマスターでミュージシャンのOもいる。彼と最初に会ったのは70年代の道端やジャズ喫茶である。神戸の連中は、どこか時間の流れ方が違うようだ。私は神戸にいなかった時期もあるが、私にとってほっとするところがあるのかもしれない(老人の証し、これは一個のチンケで儚い明証性なのだろうか)。昔の神戸はこの中華料理屋のような店が山ほどあったが、野坂昭如が言っていたとおり、震災以降、惨憺たる状況になってしまった。悲しいかぎりである。私の若い頃は、稲垣足穂や西東三鬼が書いているような神戸がまだ残っていたというのに。
 その後も呑み続け、帰ったのは朝の四時だった。トークショーなどというものをやると、ろくなことはない。トークに限らずライブはしんどいから、神経が剥き出しになるから(そのために怒り始め、手当り次第に喧嘩を始めるなんてことは近年はさすがに控えるようになったが)、後は酒を呑み続けるしかないのである。永井荷風は無論のことながらヘロインとかモルヒネとかLSD25とかはやらなかったのだから、推して知るべしである。

 
 九月二十五日。二日酔いの状態で、東仲一矩と娘さんの東仲マヤのフラメンコ・リサイタルに行った。「オイディプス王〜最後の日〜」である。何を隠そう、自慢するわけではないし、自慢にもならないが、私が原作脚本を書いたのだった。オイディプス王は、母と息子の近親相姦である。だが、今回の東仲親子フラメンコは父と娘である。ソポクレスの『オイディプス王』をそのまま使うわけにはいかない。親子の愛憎劇にしろ、というのが東仲さんの注文である。もちろんそれに近親相姦的色合いを加味することは暗黙の了解であった。関西フラメンコ界の重鎮である御大直々の申し出だったので、嫌ですと言うわけにはいかない。仕方なく『アンティゴーネ』を参照し、『コロノスのオイディプス』を混ぜ合わせて、まったく違う話をでっち上げた。

 自分で目をくりぬき、追放され、諸国をさまよい、尾羽うち枯らしたかつての王オイディプスは乞食となってコロノスのはずれに辿り着く。近親相姦によって生まれた娘アンティゴーネは甲斐甲斐しく父の世話をしている。父は娘を溺愛している。だが、娘の憎しみは? 彼女は不義の子なのだ。このラブダコス王家は呪われている。いや、彼女自身の怒りを越えて、父につき従うアンティゴーネはすでにして亡霊だったのである。その後、父オイディプスは死者の国ハデスへと召される。……
 ソポクレスのオイディプスは自分の運命とともに神をほんの少し呪いかけては、改悛する素振りを見せる。いっときの呪詛は改悛とセットになっている。天の象徴的秩序がオイディプスを縛っている。少なくともソポクレスにはそういうところがある。『コロノスのオイディプス』もそうである。ソポクレスは実際オイディプスを救っているし、最後に救おうとしたことは明らかである。そういうソポクレスはなまぬるいし、はっきり言って全然つまらない。それに比べて、画家のフランシス・ベーコンも言うように、アイスキュロスのほうが断然残酷である。私の場合はもちろんオイディプスを救わなかった。カタルシスはない。運命を嘆くのではなく、オイディプスは運命と戯れている。その点で私のオイディプスはけちょんけちょんである。彼はさっさと冥府ハデスへ死にに行かねばならなかったのである。
 私の戯曲は言葉だし、これはダンスなのだから、実際の上演はまったく違うものとなる。極度の抽象化が新鮮であることは言うを俟たない。紙に書かれた二次元はダンスと音楽によって三次元になり、あわよくば四次元に突入できるかもしれない。それは演出家の手腕によるものでもある。娘を演じたほんとうの娘であるマヤさんは、父への憎しみを美しくも激しく踊っていた。死にゆくよれよれのオイディプスを演じる東仲氏の踊りには鬼気迫るものがあった。歌も音楽も良かった。フラメンコ音楽とストラヴィンスキー。私は昔ヨーロッパにいた頃、スペインのグラナダでフラメンコを踊っていたジプシーの娘に恋をしたことがあったが、フラメンコはいつ見ても絶望と怒りの仕草が素晴らしい。死にゆく王の忘れ難い手、指、そして足さばき。
 一緒に行ったHは感動したと言っていたし、めったにないことだが、フラメンコを見たいと言っていた私の老母も私の姪っ子と一緒に会場に来ていて、死にかけの東仲さんが素晴らしかったと言っていた。会場には多くの顔見知り、親しくしている知り合いがいた。私が10代だった頃の、ジャズ喫茶バンビ時代からの古い知り合いのOにも会った。彼は私の最新刊の本の感想も言ってくれた。うれしいことである。われわれはみんな生き残りなのである。神戸だとこんな感じになるのかもしれない。

 
 十月一日。つい最近、詩人正津勉の好著『乞食路通』(作品社)を少しずつ読み始めた。路通は芭蕉門下の乞食坊主の俳人であった。乞食俳諧師といえば山頭火や井上井月のことが思い浮かぶが、路通のことはよく知らなかった。著者の正津勉は若い頃から路通に親しんできたらしい。ああ、そうなんだ。ほんとうのことを言えば、私は若い頃、日本の現代詩なるものを馬鹿にするきらいがあったかもしれないが、私の大いなる間違いであった。現代詩人といえども、心して姿勢を正し、刮目して読まねばならない。

 路通に戻ろう。

 
 死(しに)たしと師走のうそや望月夜

 草枕虻(あぶ)を押へて寝覚(ねざめ)けり

 
 浮浪者、放浪者を地で行く者の句としか言いようがない。路通は蕉門下では嫌われ者だったらしい。著者はそこには差別があったと言っているが、まさにその通りだと小生も愚考した。ここには深い問題がある。私も襟を正さねばならぬ。まだこの本を半分くらいしか読み通せていないので口幅ったいことは言えないが、師匠に対する路通の葛藤、そのもじもじとした心の機微、悲しみ、愛、諦め、放擲。そして同じように弟子に対する俳聖芭蕉自身の葛藤、戸惑い、怯懦、慚愧、悲しみ、そして男色…。

 ずっと前、フランスのハイ・クォリティーな詩の雑誌『ラ・デリラント』というのに芭蕉の『嵯峨日記』の素晴らしいフランス語訳が載っていて大いに驚愕したことがあったが、フランス人もさすがに路通は知らないだろう。それにしてもこの正津勉の本は良い本だなあ。いろいろ書くべきことはあるだろうが、それはまたの機会に。

 
 日乗には日常の旅のようなところがある。日記を書いていると、他人の旅のようで、心を絶ち、意を絶ち、身を絶ち、その場にとどまって酩酊のような旅ができるとでもいうのだろうか。できるような気がすることもきっとあるだろう。そんな風にも思う。でもこの日記は他人に見せるために書いているのだから、いま言ったことにはほんの少しの嘘が含まれているかもしれない。

 路通の代わりといっては何だが、同じく果ては乞食坊主と変わるところがなかったはずの旅の人西行を最後に引用しよう。
 西行はいろんなものを見てきた。反魂の術を使って山中に散らばった死体の骨から人造人間もつくったが、怖くなって壊してしまった。諸国漫遊などというが、なまやさしいものではなかったろう。西行その人自身はどうだったのか。ねがはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ。西行は詠んだ歌のとおりに死んだ。やったね! いろんなものを見て、西行はさぞ面白かったであろう。

 
 ……此事無限哀(かぎりなくあはれ)に覚(おぼえ)侍り。何と、げに世を捨(すつ)といふめれど、身の有(ある)程は、き物をばすてずこそ侍るに、哀にも賢(かしこく)もおぼえ侍る哉(かな)。凡(およそ)、此聖人は万(よろづ)物ぐるはしき様(さま)をなんし給へりける也。或(ある)時は、清水(きよみづ)の滝の下に寄(より)て、がうしと云(いふ)物に水をうけて、かくれ所をなむあらひ給ふこと、つねの態(わざ)也。いみじくしづかに思澄(すまし)給ふ時も侍るめり。一(ひと)かたならず見え給(たまひ)し。すみ渡る心のうちは、いつもおなじさきらなれ共(ども)、外(ほか)のふる舞は百(もゝ)に替わ(かはり)けるは、無由(よしなき)人の思を、我のみ一方(ひとかた)にはとゞめじとおぼしけるにや。

                           『撰集抄』

 
 明日、十月二日はEP-4 unitPの神戸でのライブがある。先日、古い知り合いのTがやっている京都のバーで、ルネッサンスの専門家である大学教授のYと一緒に飲んでいたのだが、泥酔してひっくり返ってしまい、突き指した親指がまだ治らない。あまりよく覚えていない。明日は、満身創痍の親指姫みたいな親指その他の身体パーツとともに轟音のなかに私も鍵盤で出演しなければならない。冒頭に引用した荷風の風情ある十月二日の日記とはえらい違いである。

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私、疎開先の島根県で国民学校2年生の夏休み、戦争が終わったと大人の人から聞きました。父から「日本は敗けた」と言われ、敗戦の日が8月15日と思っていましたが、いつの間にか終戦という言葉にすり変わっていました。このすごい本を読み、誰が敗戦を終戦に変えたのか、きっと、又いつか日本は勝つという思いのDNAを持つ人が居て、自民党という妖怪の中でアベという化物が姿を現してきた。そんな感情を持たせてくれた本でした。

              中尾嘉文(大阪市、79歳) 

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第78回 2016年9月

 


記号の山のアントナン・アルトー

 


鈴木創士

 


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『サブ・ローザ

 

 


 アントナン・アルトーには、精神と肉体が奇跡的な一致を遂げる瞬間がたしかにあったように思われる。この一致にあっては、精神はもはや精神ではなく、それどころか精神はもはやほとんど意味をもたないばかりか 、無に等しく、健康、病気であることを問わず、肉体は明らかに通常の状態を脱してしまっている。
 これは何らかの統合の結果や、その反対に分離ではなく、アルトー自身の言葉によれば、「諸事物の深い統一の感覚」であり、それこそがアナーキーな状態なのだ。それ以外のものはすべてカオスのなかにあり、だからこそこの統一を得るためには、「諸事物の多様性」、その「塵の感覚」をもたねばならなかったのである。大方の予想に反して、したがってアルトーの言うアナーキーの感覚はカオスの対極にあったと思われる。
 このアナーキーは別の側面から見れば「歴史」的思考から、歴史の原理から抽出された観念であったが、『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』を書くことによって獲得されたこの思考は、さらに何度となく責苦のような思考の分裂を経めぐり、長い経験の果てに、やがて晩年に至って「器官なき身体」と言い換えられることになったのだと私は思っている。

 
 世界は複雑だ。このカオスを注視しなければならない。われわれの肉体の外、同時にそれはとりもなおさず肉体のなかにある外部だった。カオスは肉体を食べるが、われわれはそれに抵抗することができるのだ。ただし通常とはまったく別の手段、手段ならざる手段によって。


 一九三六年、アルトーはメキシコの高地のタラウマラ族のもとを訪れる。『ヘリオガバルス』を書いてから二年が経っていた。メキシコでペヨトル(ペヨーテ)の儀式に参加するためである。ペヨトルはメスカリンなどのアルカロイドを含む幻覚作用のあるサボテンだが、これが「本物の」威力を発揮するためには、メキシコの大地、太陽、雨、そして何よりもタラウマラの秘儀的知識が必要だった。夜店で売っていたような日本産のウバタマからは大した効果が得られないのはそのためである。

 
 タラウマラの国は、記号と形態と自然の姿に満ちているが、これらはまったく偶然から生まれたものではないように思われる。ここでいたるところに感じられる神々は、あたかもこれらの数奇な署名を通じて、彼らの権能を示したかったかのようだ。この署名においてあらゆる面で追跡されているのは人間の形象なのである。

  (「タラウマラの国への旅について」、『アルトー後期集成』Ⅰ所収、以下同様)

 
 この文章は「記号の山」と題されているが、これをよく言われるような単なる心理的錯覚などと思わないでいただきたい。ただし心理的錯覚といえども、そもそもわれわれが信じて疑わない「現実的知覚」なるものと何ら質的な違いはないのだから、それにわれわれ一人ひとりの「現実的知覚」には言うところの科学的で確固たる「共通性」があるとは何ら証明できないのだから、自信たっぷりに現実の知覚とやらについて大見得を切ることはやめておいたほうがいい。

 私と君たちは現実のなかにいるのだろうか。なるほど日々の食べ物や電車の時刻表、あれこれの仕事、金銭、その他山積された現実的主題についてはそんな感じがすることもある。しかし現実はそんなものだけで構成されているわけではない。例えば、君の運命は現実なのか。現実のなかにあるのか。君の感情は現実的障壁にぶちあたってどうなってしまったのか。「現実」にはさまざまな次元があり、未知の様態があり、「塵の感覚」があり、それらはさっきのいわゆる現実的主題とは別のものである。
 知覚の領域ではとりわけまったく様相を異とする。例えば、絵画も現実である。そうでなければ、アルトー自身も言っているように、どうしてピエロ・デラ・フランチェスカやフラ・アンジェリコやマンテーニャの絵画を他のルネッサンスの「人文主義的」思想と区別することができるだろう。
 アルトーはさっきの文章に続けてこう言っている。

 
 確かに大地のいたるところに、自然はある種の巧妙な気まぐれに動かされて人間的形態を彫刻したのだ。しかしこの場合は違っている。というのも自然はここで、一つの種族の地理的な広がり全体について語ろうとしたからである。

 そして奇妙なことに、ここを通る人々はあたかも無意識の麻痺状態に襲われたかのように、あらゆるものに無知であろうとして彼らの感覚を閉じるのである。自然が突然、数奇な気まぐれによって岩石の上で責め苛まれる人間の身体を見せつけるということ、それは気まぐれでしかなく、この気まぐれは何も意味しない、とさしあたって考えてもよい。しかし来る日も来る日も馬で旅を続けるなかで、同じ巧妙な魅惑が繰り返されるとき、そして自然が頑固に同じ観念を表明するとき、同じ悲壮な形態が繰り返されるとき、すでに知られている神の頭部が岩の上に現れるとき、死の主題があらわになり、人間がひたすらその犠牲となるとき、——そして人間の引き裂かれた形態に、より明らかになり、石化する物質から出て、よりあらわになった神々の形態が応答するとき、——一つの国全体が石の上に人間の哲学に並行する一哲学を展開するとき、最初の人間たちは記号の言語を用いていたということをわれわれが知り、この言語が岩石の上に拡げられているのに目を見張るとき、確かに、これが単なる気まぐれであり、この気まぐれが何も意味していないとはもはや思えない。

 
 これらの記号群はアルトーを誘惑し、アルトーに襲いかかり、最初はアルトーを拒絶していたように思われる。アルトーがヨーロッパ人だったからだけではない。彼は馬に揺られて山岳地帯を登攀していたとき、最後のヘロインの一包みを急流に投げ捨てたと言っていた。これは生理的次元の問題でもあった。彼は「さら」の状態で事物との新たな接触を求めていたのだ。もちろん禁断症状がなかったわけではない。山岳地帯を馬に揺られながら、「五日目に私は地獄に足を踏み入れたと思った」とずっと後になって述懐しているほどである。このとき記号はこの「さら」の状態を埋め尽くしたに違いなかった。しかしこれはまた「呪いの網状組織」の別の側面を示すものだったのかもしれない。

 ともあれ、われわれの想像を絶する旅が続けられていたのだ。

 
 一歩進むということは、もはや私にとって一歩進むことではなく、どこに頭を運んでゆくかを感じることであった。誰かこれがわかる人がいるだろうか。次々服従し、次々前に運ばれる四肢、大地の上で保たなければならない垂直な静止。というのも頭の中は波動にあふれ、もはやその渦巻きを統御することはできず、頭を狂わせ、まっすぐ立つことを妨げる下方の大地のあらゆる渦巻きを、頭は感じるからだ。

 二十八日にわたるこの重々しい支配、この私という拙劣に組み立てられた器官の塊に立会っているという印象を私は持っていたが、それはいまや崩壊しかけている巨大な氷河の風景のようであった。

 
 そしてアルトーはシグリ(ペヨトルを吸飲し、踊りをともなうタラウマラ族による伝統的祭儀)の密儀に参加を許される。ここでアルトーが何を見たのかは、あまりに多くの濃密なことが含まれているので詳述できないが(ぜひ「タラウマラ族におけるペヨトルの儀式」と「タラウマラの国への旅について」を読んでいただきたい)、たぶんアルトーは超人的な努力によってその大地と自然と人間を含めたすべてを凝視し、「読み」尽くしたのだろう。

 
 彼らは私を地面にじかに、あの大きな梁の下に横たわらせた。そこに三人の魔術師が次々踊る合間に坐るのだった。

 地面に横たわっていたのは、私の上に儀式が降りかかり、私の上で、炎、歌、叫び、ダンス、そして夜そのものが、生命を吹き込まれた人間的な穹窿のように生き生きと回転するためである。したがってそこには回転する穹窿、叫び、抑揚、足音、歌の具体的編成があった。しかし何よりもまず、すべての彼方で、巡ってくる印象があった。これらすべての背後に、これらすべて以上に、そして彼方に、まだ別のものが、原理的なものが隠れているという印象が。

 
 この原理的なものは、タラウマラ族が「原理の種族」であるということだけを意味するわけではなかった。この原理的なものの現れにともなう長い苦闘は、彼が『ヘリオガバルス』で綴った、古代の歴史のなかに現れた「諸原理の戦争」とまったく別のものではない。アルトーはメキシコの山岳地帯でペヨトルを吸飲したとき、「私の人生の中でもっとも幸福な三日間を過ごしていると思った。それ以前にもう、うんざりしながら、私が生きる理由を探しており、自らの身体をたずさえるという義務を停止していたのである」と書いていたが、この原理の観念を理解しなければならないために、それを生きんがために、古代ギリシア時代に少年皇帝ヘリオガバルスがそうだったように、アルトーの身体、アルトーの生体組織が飛び散るモナドのように破裂し、ひきずり回されたことに変わりはなかった。彼はメキシコの大地で「やすり」にかけられたのだ。

 そしてアルトーは「自分を洗い流すために」、「中に入るためではなく、外に出る」ためにペヨトルに向かったのだった。しかしペヨトルを通じても、アルトーのあらゆる意味における分裂、原理の分離の悲痛な体験はもちろん避けることはできなかったのだ。これには、後にアンリ・ミショーやル・クレジオ、あるいはまたヒッピーたちがやったようなメスカリンの使い方とは決定的に違うところがあるように思う。
 アルトーは、ペヨトルのダンスを経験したときにすでにこう言っていた。
 「肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄……二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった。——自分自身へと出てゆく、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ」。

 
 「自分自身へと出てゆく」。すぐれた暗黒舞踏家であれば、肉体のエキスパートたちであれば、ただちにこの言葉を理解できるだろう。アルトーはアルトー自身のなかへ出て行った。「出て行かねばならない」というのは、アルトーの旅が黎明期における人類学的とも言える旅であったこと、いや、それ以上に、こちら側の人間による人類学の限界を遥かに超えるものとしてあったことも示しているのだろうが、このことはここではあえて強調するには及ばない。

 それはアルトーのまったく独自のものといっていい思考の出発(『ジャック=リヴィエールとの往復書簡』の頃だ)、あの最初にあった思考の崩壊、存在の基底に生起していたあの「殺害」とは無関係ではあり得なかった。「この世があの世の逆ではなく、ましてやその半身ではない以上」、アルトーの宇宙卵はつねに「反卵状態」になければならなかったのである。簡単に孵化できるものなど何もないのだ。

 
 原理は手つかずのままでは存続できなかった。分裂した原理はさらに分裂し、この世があの世の逆ではないように、最後に至った自身の記憶を含めて、この世を死の反対側から、「墓の反対側」から見なければならなかったのだから、それは当然のことであったし、この苛烈な旅程は、アルトーの偉大さと不幸な天才(ほんとうに不幸であったかどうかは誰にもわからない)の一端であったのだと私は思っている。

 ゲームの規則が例外を証明せざるを得なくなるのは必定である。アルトーはメキシコから帰ってアイルランドへの旅を決行し、フランスへ強制送還となって、精神病院に監禁され盥回しにされることになるが、監禁を解かれた死の前年にはこんな風に言っていた。

 
 私は野次馬としてペヨトルに向かったのではなかった、そうではなくて自分からさらに最後の希望の切れ端を取り除き、肉の霊的希望の最後の赤い小さな繊維を切り離そうとする絶望した者として向かったのだ。

 ペヨトルとは、すでに言ったように、ひとつの卸し金、切り込みの入った、すべての除草、すべての記憶の小さな刻み目の入った木片であり、それはがちがちに凝り固まったその身体に穴を穿ったのだ。
 そこにひとつの観念を見つけようと欲する者は、精神の一肢よりさらに少し、生きている一個の骸骨よりもさらに少し失うことになるのだ。
      (「アルトー・モモのほんとうの話」、『アルトー後期集成』Ⅲ所収)

 
 失ったものは甚大である。ほんとうは誰が何を失ったのか。文明は失われたのではなかったか。アルトーには最後までユーモアがなかったわけではない。だがそれを感じたとしても、またそんな風に感じなかったとしても、われわれが笑えないことを必死になって主張すべきではない。笑えない奴はわれわれの敵であることがあるのは知っている。だがわれわれの意見などどうでもいい。問題は「笑い」などではないこともたしかである。こういったアルトー的「現実の」次元にあっては、備給される心理的エネルギーなどまったく問題にすらならないのだから。

 「ほんとうの話」は、どこで、いつ、どんな風に語られるのか。ギリシアがあった。バリ島があった。チベットがあった。メキシコがあった。マヤがあった。アステカがあった。アイルランドがあった。われわれは、これらのものすべてが無駄であり、徒労であったと考えているのではないし、それを蔑視しているわけではけっしてない。だが、それでどうなるのか?

 私はまるで十年前から記憶をとどめているかのように、遥かな昔の時代にいたるまで過去の自分の人生にかかわる思い出をつねに取り戻していたわけではなかった。
 そしてメキシコの高い山岳地帯において、一九三六年の八月か九月頃に、私は完全に自分を取り戻し始めたのだ。
 私はひとつの徴をもって、つまり三本の釣り針のついたトレドの一種の剣をもって、タラウマラ族のもとへ登っていったのだが、その短剣はハバナの黒人の呪術師によって教えられたものだった。
 そいつをもっていれば、と彼は私に言った、あなたは中に入ることができるだろう。
 だが、私は中に入りたいなどとは思っていなかったのだ。
  ところで、何かを見るためにどこかへ向かうとすれば、それは所与の、だがそのときまでは閉ざされていた、予想外の世界のなかに入るためである。
 これは私が事物について抱いている考えではない。
 私にとっては入ることではなく、事物の外に出ることが問題なのである、
 ところで、身をひきはがす者がいるとすれば、それは恐らく入ったり、
 出たりするためだが、しかし何かのなかで、ここを去って、別の場所に消えるためである、
 溶けて、他処から解放されること、
 溶けてしまわないこと、だが、どこでもない場所で解放されること、
 もはや知ることなく、
 実在してしまうことを断念すること、
 それならもはやけっして苦しむことはない、
 選択肢は無数にあって、もはやそうではない、
 それぞれの宗教と個人には自らの選択肢がある、
 ところで、そういったことすべては馬鹿げている。

           (アントナン・アルトー、同上)

 
 メキシコの高地には、われわれの知らない太陽がある。「そしてまさにここで、メキシコ人の老いた酋長は私の意識を新たに開こうとして私を打った。なぜなら私は生まれ損なったので、太陽を理解することができなかったからである」。

 アルトーはそれを全身に浴びて山を進んでいったはずである。ヘリオガバルスも太陽王だったが、しかしこのタラウマラ・インディオの地の太陽は、アルトーが生涯の最後に語ったヴァン・ゴッホの太陽とどんな違いがあるというのだろう。ヴァン・ゴッホのタブローのなかには亡霊はいない、ヴィジョンもなければ、幻覚もない、ただ午後二時の酷熱の太陽があるだけだと語ったあの太陽と。記号は経験のなかに消えてしまい、むろん象徴的なものも含めてその意味を変えてしまったが、これらの二つの太陽は結局のところ同じひとつの太陽だったのだ。

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第77回 2016年8月

 



病院、アルチュセールのことなど





鈴木創士

 

 


エリック・マルティ『ルイ・アルチュセール 訴訟なき主体

 

 

 

 今日は病院に行かなければならない日だった。夏の病院はどこかいつも夏の終わりを思わせる。蟬の鳴き声は聞こえてこなかったが、蟬の抜け殻が私の妄想のなかに散乱しはじめていた。この妄想は穏やかなものだが、私自身も蟬の抜け殻のようなものだったのかもしれない。いつもより混んではいないが、それでも綜合病院だから、大勢の人がうろうろ行き交っている。待合室でぼんやり車椅子の老人たちを見るともなく眺めていた。痩せこけた老人、笑っている人、明らかに不満げな人、介護人に一方的に喋りつづけている人、じっと前だけを見据えている人、うなだれて半分眠っている人。彼らは人生の最後に差しかかっているのだろうか。
 だが人生の終わりは、年齢に関係なくどこにでもある。終わりは生の条件を規定するが、生の条件が終わりのなかで何事かを主張することなどほとんどないといっていい。終わりは後ろからやって来るのか。目の前にあるのか。終わりがただの強迫観念でないことは蟬の脱け殻が証明しているし、しかも始まったものは終わるに決まっているが、終わりはいつも「事後」にしか自明なものとならないではないか。延期された行動、絶望を装う諦め、放棄と少しの希望。そしてささやかな喜びの予感。それから終わりがやって来る。確信がどこにあって、それが何を促しているかは、いまここではっきり述べることはできない。その段では、患者である私も、患者を診る医者だって同じようなものである。


 不吉な事柄すべてをそれとなく隠しているのは、この平和な病院だけではない。最近、重度の障害者を殺害したあの男の犯罪は心神耗弱による犯罪などではなかった、と私は声を大にして言いたい。ごく少数のプロによる殺人をのぞけば、戦争も含めて、どんな殺人でも、それが実行される刹那、「狂気」が介在しないことはなかったであろうが、殺人の動機と言われるものは、たいていの場合「理性」のなせる業であって、「狂気」とは無関係である。あの男が「狂人」ではなく、ただの「差別主義者」であって、あの犯罪がヘイト・クライムの一環であることは一目瞭然であるのに、大マスコミはそのことに触れようともしない。これはいったいなんなのか。われわれ全員が、たぶんあの男と同じように、「早発性痴呆」のもたらす根絶やしにされた「感情」の虜になってしまっているからなのか。私の意見では、あの犯罪があの男の痴呆的な「思想」によって引き起こされたことは間違いないと思う。

 病気にもいろいろあるし、病気も様変わりする。テレビでは、精神科医と称する輩が例えばあの男の「ファミリー・ロマンス」をしかるべく調べ上げるかわりに、思いつきのように、あるいは待ってましたと言わんばかりに、大麻精神病などというきわめて非科学的なシロモノまで持ち出している始末である。そんな精神病のことを云々するのはまともな医学のすることではない。あの男の殺人の衝動に感情的なスイッチを入れたひとつの要因をドラッグだと言い張るのなら、大麻などではなく、むしろ脱法ドラッグの誰も知らない複雑怪奇な薬理作用のほうを研究すべきである。そう進言しておこう。だが問題は、言うまでもなくそんなところにあるはずがない。
 不要なものを抹殺していいという考えは「合理主義」などではない。馬鹿も休み休み言ってもらいたい。有用なものから成り立っている世界では、重度障害者たちではなく、むしろわれわれ全員が不要なのである。それなら有用な社会をわれわれに示してもらいたい。それを見せれるものなら見せてみろ、と社会それ自体に言いたい。したがってこの事件は差別主義者による虐殺でしかない。アクチュアルなものも含めて歴史を眺めてみれば、そんな例には事欠かない。われわれはそれを不幸なことだと思っているが、おぞましさは普通にわれわれの日常のなかにあって、日常のあれこれを骨抜きにしてそれをつくりあげてきた。何度となくだ! それどころかあの男はヒトラー主義者であるらしいし、実に言うも恥ずかしいことだが、たしか憲法改正に関して、副総理である麻生太郎による「ナチスの手法を見習うべきだ」という発言が公の場でなされたにもかかわらず(麻生がかわいいなどと言われるのは、麻生がとんでもない馬鹿だからである)、あきれてものが言えなかった人を除いて、マスコミの誰もが問題にしようとはしなかったような「特殊な」社会にわれわれは暮らしているのだから、あの男がやったような犯罪が実行されるのは、残念ながら、言ってみれば時間の問題だったかもしれない。これは、慚愧に堪えません、などと言って済まされることではない。その意味でもこの事件は、アルチュセールの言葉を借りれば、「国家のイデオロギー装置」の囲いのなかにあると言っていい。国家的イデオロギー装置があの哀れな許し難い男をつくりあげたのだ。総理や、副総理や、死して護国の悪霊となってもなお自分のガールフレンドには絶対したくない靖国国防女衒大臣が誰であろうとどうでもいいが、事ここに及んで、そんな連中が現実の政治を牛耳っている社会では、「国家のイデオロギー装置」は以前にも増してますます幅を利かせ、ショートして出火するまでつけ上がるばかりである。早発性痴呆がそんな政治に憧れても不思議はないのだ。


 いま名前を挙げたフランスの哲学者ルイ・アルチュセールもかつて「早発性痴呆」と診断されたことがあったらしい。病名はすぐさま取り消され、重度の鬱病と訂正されたようだが、ずっと後の一九八〇年十一月十六日、朝の九時頃、アルチュセールはその妻エレーヌの首を絞めて殺害する。そのとき十一月の灰色の光が射していた、と彼は自伝のなかに書いている。

 この事件が起った時のことはぼんやりと覚えている。世界中が驚愕した。私もまた事件の一報を聞いていささかショックを覚えたことを思い出す。時代を代表するきわめて独創的で、犀利な、気鋭の哲学者であっただけではなく、アルチュセールは全世界の左翼の大星雲における希望の星ともいえるマルクス主義理論家であったからだ。私が彼の哲学、その「マルクス主義哲学」も、そして「偶然性唯物論」もちゃんと理解していましたとここで胸を張って言うことはとてもできないが、彼の哲学者としての文章がとにかく気に入っていた。彼はすばらしい書き手だった。才気煥発を地で行くマルクスの文章を思い起こさせた。レヴィ=ストロースは文章を書く前に必ずといっていいほどマルクスを読んで自分を鼓舞していたらしいが、(一部のマルクス主義研究者を激怒させることをあえて言うなら)ロマン主義的なところがあったといってもかまわない高揚したアルチュセールの文章にも、そんなマルクスの文章に近い抑揚があった。
 この事件の後もアルチュセールは読まれ続けた。それどころか若い世代によって「左翼のための」彼の哲学はいっそう有名になった感がある。勿論、この事件によって彼のかつての思想が根底から揺らぐということはないし、またそうでなければならなかったというのは私にも理解できる。しかし私が目にした限りでも、彼ら、若い研究者を含めたほとんどがこの事件を棚上げしにかかっているのではないかという印象を私は受けざるを得なかった。率直に言って、このことは一読者として私の不満を募らせた。一読者として、その理論装置だけではなく、アルチュセールの全体を知りたかったし、すべてがなければ部分を目にすることができないのは普通のことではないか。
 アルチュセールは事件の後「免訴」となったが、免訴の決定の後、措置入院によって精神病院に収容されることになる。免訴は、それに対する評価がどうであれ、この社会のなかの居場所を完全に失うということである。事件の本質はおろか、事件の当事者の弁も明らかにはされない。彼は「行方不明」を余儀なくされる。免訴によって裁判は行われなかったのだし、彼は病院に入ることによって、つまり「狂人」になることによって、その弁明の機会、自分の起こした事件への返答を社会によって拒絶されることになる。そうこうしているうちに、自宅に戻ったり、再び精神病院に入院したりした後、アルチュセールは死去する。そして彼の死後、その自伝『未来は長く続く』が刊行されることとなった。これは哲学者の自伝としては破格のものだったし、必然的にも思える彼のひとつの回答であったことは間違いないだろう。このような明晰な回想録は親族三人を殺害したピエール・リヴィエールの手記(フーコーを参照せよ)以来のことであろうし、自分の犯罪を含めてこれほど詳細な自己弁明にはなかなかお目にかかれるものではない。殺人を犯したルネッサンス後期の芸術家チェッリーニの『自伝』といえども、この超絶的彫刻家は途中で筆を折って投げ出しているし、事件と自己の歴史についてのこのような詳細な記述、ましてや回答じみた記述は望むべくもなかった。しかし、このアルチュセールの自伝は非常に興味深いものではあるが、その面白さゆえに、どこかしら宙に浮いたようなところがあった。前言を翻すようなことを言えば、彼の作家としての力量がそうさせたのだろうか。そんな風には言いたくないし、必ずしもそうは思わないが、彼の「哲学」と「狂気」が、エピソードの外ではかえって見えにくくなってしまったように私には思われた。


 ところが最近、少なくとも私にとってさらに興味深い本が翻訳された。ルイ・アルチュセール『終わりなき不安夢』(市田良彦訳、書肆心水刊)である。彼が自ら綴っていた夢の記録である。これでわれわれのためにアルチュセールの仕事の環が一応閉じることになったが、この本が驚天動地のものであることに変わりはない。

 おまけにこの本のエピローグには「二人で行われた一つの殺人 主治医作を騙るアルチュセールの手記」という、私の知る限り、どんな哲学、どんな文学の歴史にも他に類を見ない、瞠目すべきテクストが収録されている。アルチュセールが自分の主治医に見せかけて、殺人を犯した自分についてアルチュセール自身がまるでテクストの外にいるかのように語っているのである。「きみ」と「ぼく」を巧みに使い分けて。ただし「きみ」と「ぼく」をいくら使い分けようとそんな嘘はすぐに見破られることであるし、このテクストを書いたとき、アルチュセール自身がこの奇妙なテクストの構造を強く意識していなかったなどとは考えられない。このテクストは恐らくは「かつての妄想」の外で書かれたのだろう。だがそれが書かれた瞬間はいざ知らず、アルチュセールはいずれこれが刊行されるだろうということすら見越していたとも思われる。この点で匹敵できるものがあるとすれば、サドの遺言くらいしか思いつかない。彼はこのテクストで、「書き手」つまり「私」、そして「きみ」と「ぼく」という奇妙な構造のまま自分自身の「精神分析」を行っているのである。詳細は、周到にして非常に示唆に富んだ訳者市田良彦の解説を読んでいただくとして、いま私には読んだばかりのこのテクストと夢の記述について理論的な考察を加える余裕も力量もないが、気づいたことをほんの少しだけ述べたいと思う。


 例えばこんなくだりがある。「極論すれば、二人〔アルチュセールと殺害された妻エレーヌ〕が無意識にそれぞれ望んだこの役割の逆転は、事後にしか存在しない。出来事が起きたから、それはある。きみが無意識に彼女の死を望んでいたとすると、殺人は計画的であった(無意識による)ことになるかもしれないけれど、それでは無意識の幻想に本来もっていない役割を与えることになる。事後(役割の逆転という)が意味をもつのは、出来事が起きたからでしかない。役割の逆転という表象がその体をなすには、第二の時間(出来事)が決定的だ。取るに足らない人間に、永遠に悪者でいさせてやることは、取るに足らないことからの究極の救出にもなる。批判はすべてぼくが背負い(マスコミを見よ)、彼女はかわいそうな犠牲者になる。とにかく無意識のなかにはあらゆる幻想がある。幻想が行為を決定したなどと言っても、論理的、機械的な演繹にすぎない。出来事や行為のなかで、ものごとがそんなふうに起きるわけがない」(「二人で行われた一つの殺人」)。

 だからといって、アルチュセールは殺害の衝動の瞬間に「ほんとうに」何が起きたのかを語ってはいないし、語ることはできない。この構造の結構にしてからが、原理的にそうなのである。事後の語りとしては、「ほんとうに」何が起きたのかは誰にも知ることができないのは言うまでもないではないか! 事後的に袋小路を指し示す殺人者のこんな言は犯罪の被害者やその家族を怒らせるだけだろうが、出来事に、事実に、「そと」がないのであれば、アルチュセールは、スピノザ主義者として、全体の外には実は何もないのだ、神さえも、ということをわれわれに突きつけているとも言えるのである。「事実」にはたしかに形式らしきものがあるが、彼の見ていた「夢」と同じように、あるいはそれと対をなすかのように、この形式は空っぽであり、空虚であるほかはないということなのか。


 やけに細部が際立つ彼の夢はエロチックなものとそうでないものもあるが、彼が女性との性愛、あるいは女性自身の性愛に強くとらわれていた人であることはよくわかる。共産党の心強い同志であり、レジスタンスの闘士でもあった、年上の嫉妬深い妻エレーヌとの関係に彼の性癖が強く影響を及ぼしていたこと、アルチュセールが多くの女性を「愛した」ことはたぶんその通りだろうが、私にはこの点で言うことは何もない。しかし、ここで詳述はできないが、彼の夢にはもっと別の事柄、もっと不吉な夢との関係、そしてそれとは対称をなすことがけっしてできない非関係が刻まれているようなのだが、この夢のなかで「主体」はすでにして無意識の主体ではあり得ないように思われるのである。

 市田良彦の解説からアルチュセールの文章を孫引きしよう。この文章は「言説理論に関する三つのノート」(『精神分析論集』所収)のなかの一節である。
 「「自我分裂 Ich-Spaltung」に関して「無意識の主体」を語ることは間違いである、と私には思える。分裂した、分割された主体はない。まったく別のものがあるのだ。すなわち、「自我」のとなりに「分裂」がある。言い換えると、まさに深淵、断崖、欠如、裂開がある。この深淵は主体ではなく、主体のとなり、「自我」のとなりに開ける」。彼の夢の記述と手記はこのことを証明して余りある。


 アルチュセールは精神分析を受け続けた。自分の哲学の糧としながらも批判的に読解したのはラカンの思想だったが、分析を受けるために彼が通いつめた精神分析家はラカンではなかった。自伝『未来は長く続く』に書かれていたとおり、ラカンとの関係は思想家どうしの付き合いだけではなかったのだし、その関係が複雑であったことは想像に難くない(一例として、ラカンの娘に恋をしてしまったマルクス主義人類学者リュシアン・セバーグが自殺したとき、分析医であったラカンがあわてふためいたエピソードを参照せよ)。


 しかし、いずれにせよ、被精神分析の経験はまるで招かれざる客のようにアルチュセールの夢のなかにまで入り込んでいる。むしろ私にはそれは長い間むりやり性行為に及んだレイプ犯か押し込み強盗のように思えてくる。フロイトが報告しているシュレーバーの神のおかま堀りのことを言っているのではない。ラカンが日本語のシニフィアンの特性として日本人は精神分析を受けることができないなどと言ったことを信じているわけではないが、精神分析を受けたことがない私は、この本を読み進めているうちに、精神分析それ自体が彼の妻の殺害と無関係であったとはどうしても思えなくなったのはほんとうである。精神分析的思考の道筋が、その硬直した強迫、分析家あるいは精神科医との関係と非関係が、アルチュセールに殺人という行為の最後の引き金を引かせる結果になったのではないか。これではヴァン・ゴッホと同じじゃないか! こんな意見が突飛であることは重々承知の上だが、最後にそのことを指摘しておきたい。
 アルチュセールが好んだ比喩を使うなら、彼は走っている列車から飛び降りたかったのか、それとも停まっているにしろ、全速力で走っているにしろ、その列車に飛び乗りたかったのか。私にはそのどちらでもないような気がするのだ。その列車の運転手は精神分析家であったように思われる。行き先は、ありふれた、しかし殺伐としたどこかの終着駅でしかないからである。汽車から降りても、未来はずっと続くのである。

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速報性のインターネット、ヴィジュアルのTV、政府の広報紙になり平板でステレオタイプな紙面の全国紙。今頑張っているのは記事に金・時間・エネルギーをかけている地方紙・地域紙です。私は40年来朝日新聞を購読していますが、「時代の正体」のような記事は以前朝日にもありました。しかし昨今はほとんどありません。政府のPR紙になり下がっているようです。私自身、情報は時間・お金・エネルギーをかけてはじめて得られると思っています。記事の送り手も同じではないでしょうか。この本は以前のように背中がぞくぞくした感じで読む事ができました。260ページの本なのに読み応えがあり、読み終えるのにとても時間がかかりました。vol.2も購入しようと思います。今後も期待しています。よく書いて呉れました。

                   加藤國男(愛知県、69歳)

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第76回 2016年7月

 

 

身景累ヶ淵

フランシス・ベーコン

 

鈴木創士

 


ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと
鈴木創士『サブ・ローザ

 

 


 身体のカサネガフチがある。身体の風景が深淵を取り巻いている。それは深淵に、あるいは時には重力を無視し、上方へ向かって落下する。落下。それは感覚の特質であり、崩壊や悲惨さとは何の関係もない。
 三遊亭圓朝の怪談落語『真景累ヶ淵』の「真景」とは「神経」のことであるが、神経の累ヶ淵と身体の累ヶ淵はさほど遠く隔たってはいない。神経の淵と身体の淵はむしろ同じものである。いたるところで、ここで問題にしようとしている絵画以外の場所でも、そういうことがある。というか、そもそもそのようにして、つまり神経の淵と身体の淵が同じであるような地点で、身体は絶えず変容を繰り返し、蘇生し、触手を延ばし、涎を垂らし、排泄し、ときには糞尿まみれになって、死滅し、灰になる。しかもそれが身体の外縁、身体の外側を決定するのだ(病理学的に言っても、身体の内側を確定することはかなり困難である)。それが身体である。
 キリストは「これが私の身体である」と言ったが(ゴリラのように胸を叩きながらそう言ったかどうか私は知らない)、この場合はキリストにならってこう言わねばならない。「これは私の身体そのものであって、同時に私の身体ではない」、と。だがたとえ究極的に栄光の身体が人間的事象についても言えることだとしても、栄光の身体だけがあるのではもちろんない。歯が痛む。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。心臓が手術台の上で取り出される。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。ただし断っておくが、私は社会的、政治的、制度的構築としての身体のことを言っているのではないし、この身体は医学的身体や美学的身体ですらない。それでは話が逆なのだ。蛇足ながら、「器官なき身体」を社会的網状組織のモデルのように考える人がいるが、まったくの誤りである。論点後取の虚偽である。
 「いかにして絵画は神経組織に直接触れるのか」とフランシス・ベーコンは問いを立てていたが、ベーコンの絵を見ていると、神経と身体がほぼ同じものであるいくつもの契機が彼の絵画のなかには確実にあるのだということがよくわかる。それがベーコンの「絵画」の常態であり、彼の芸術である。これは両者が単に同一の平面にあるということではない。直接的介在がひとつの直接性によってひとつの全体を一気に生じせしめるということではないし、直接的接触がひとつの統合を形づくるということではない。神経が身体を外に出そうとしたり、追い払おうとしたり、あるいは身体が神経を保護的存在、ひとつの有機性、あるいはひとつの道具のように見なすこと、そのこと自体は日常的である。これは確かに「感覚」の問題であるが、絵の側にも、画家の側にも、それを観る側にも感覚の問題があって、タブローを前にしているときでさえ、ひとつの感覚の次元を措定することはできない。そして感覚が身体とひとつに結ばれる瞬間が突然タブローのなかにやって来る。あらゆるものが表象的であることをやめるのだ。ジャン・ルイ・シェフェールはベーコンについての文章のなかで、事実の粗暴さや情動の絵画の直接性を信じることができなかったと書いているが、それらが感覚のひとつの次元の執拗さとまったく同じものを指していないとは私は断言することができない。
 ところで、神経と身体が同じものであることによって何が起こるのか。何が在るのか、ではなく、何が起こるのか、としか言いようがないのだが、しかもそれは現象学的身体とは無縁のものであって、身体から出てくるひとつの身体があるのだ。身体の位置をそのつど確定し得ない身体がある。ドゥルーズはこう言っている。
 「もはや問題は場所ではなく、出来事である。もしそこに努力があり、強度の努力があるとしたら、それは決して特別な努力ではなく、身体の諸力を超えて、他と区別される対象をめざすようなものでもない。身体は厳密に努力し、あるいは厳密に脱出に備える。私の身体から脱出しようとするのは私ではなく、身体それ自身が何かを通じて脱出しようとする。いわば痙攣であり、つまり神経叢としての身体であり、その努力その痙攣の期待である」(『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、宇野邦一訳、河出書房新社)。


 身体がつねに身体から抜け出そうとしていることは言うまでもない。私が身体から出て行くのではない。身体が身体から出て行くのであるし、それを私が見ているのだ。なるほど私も君たちもそれを見たことがあったのである。しかし痙攣がいつも起こるとはかぎらないし、強直性痙攣はなにもアルトーの専売特許ではない。そういう事態とは反対に、例えば能の身体のように、首尾よく身体から抜け出しかけた身体が、身体にダブって見えてくるということも、奇跡的ではあるが、あるにはある。演者の身体は演者の身体ではない。というか、少なくともそれはもはやすでに演者の身体ではない。うまくいけば、それはじわじわと滲み出てくるのだ。この場合、痙攣は起こっていないように思われる。

 
 圓朝ゆかりの日本の幽霊画、応挙、それとも、もっと近代なら上村松園の幽霊画ならどうだろう。日本画の特質ということを差し引いても、ここにも身体から抜け出しかかっている身体、別の身体になろうとしている身体があると言えなくもない。

 「図像の領域において、陰影は身体と同等の存在感をもっている。しかし陰影がそういう存在感をもつのは、それが身体から脱出するから、それが輪郭の中に局在する何らかの箇所を通じて脱出したからである」(ドゥルーズ)。
 幽霊は、ネガディヴな統一的側面において、つまり陰画的に、身体から出て行ったのである。そしてそれにもかかわらず、それ自体が充満する一個の身体なのである。充溢身体は、当然のことながら、デュシャンの言うアンフラマンスのように稀薄な身体であることもある。幽霊の身体、でもそれは身体なのだ。ここでなら、それが死せる肉であったとしても、「肉への慈悲」について語ることができるかもしれない。ベーコン自身が肉屋にぶらさがった肉であったように、私はひとりの幽霊であるからだ。


 しかし図像の歴史においてキリスト教的身体、イスラム教的身体(この幾何学的身体は身体であると言えないかもしれない)などなど、あるいは異教的にしろ、そうでないにしろ、その他さまざまな身体があるように、日本の身体というものがあるのだろうか。幽霊画の幽霊が美術史的に見ればかなりの点でそうだったように、例えば、舞踏の領域においてなら、それがあったと言っていいのか。土方巽が舞踏『疱瘡譚』で踊った病んだ女郎を見ていると、病んだ遊女の「存在」が踊られただけではなく、舞踏家は病んだ女郎の身体が身体を抜け出そうとする葛藤を、そのジレンマを、その日常の地獄を踊ったのだと思えてくる。しかしそこには日本人の身体、日本人の身体的特徴というものがあったとしても、日本なるものは身体をもつことなどできるのだろうか。だがその前に、こういう問いを立てることができるかもしれない。そもそも舞踏家土方巽の身体は日本の身体だったのか、と。彼の身体が秋田の身体を纏っていたことはたぶん間違いないだろうが、だからといって彼の身体のさまざまな状態と時間を外側から内側へ向けてあえて下降するかのような踊りは、日本ではなく、むしろ日本の「あの世」で行われていたのではなかったのか。

 
 上村松園を引き合いに出したので、現代画家である松井冬子をとりあげてもかまわないだろう。彼女の絵に登場する女性の身体は、女性性の現実性を表しているにしろ、レオナルド・ダ・ヴィンチの『アナトミア』から一歩も出て行こうとはしない。その意味ではルネッサンス絵画の視覚的「紋切り型」から一歩も出ていないということになる。紋切り型は別の紋切り型を生み出すことができるだけである。無論、かつてルネッサンス絵画に描かれた名だたる数々の身体がそれを免れてはいなかったなどと私は決して言うつもりはない。例えば、ジォットやウッチェロやピエロ・デラ・フランチェスカの身体を思い浮かべているのだが、彼らはかなりドゥルーズの言うベーコン的な意味での「図像」(フィギュール)に近接したものを描いたと考えることができるかもしれない。しかしながら松井冬子の作品では、臆せずクワトロチェントに始まる伝統のなかにあるかのように主張するこの現代の「解剖学的身体」は、あえて言うなら、内臓をさらけ出し、恐怖を植えつけることによって、逆にわれわれの身体の思考にとっては一種の後退を示すものでしかなく、「器官なき身体」の対極にあると言っていい。松井冬子の死せる身体は、ベーコン的な「図像」ではなく、それが凡庸であるにしろ、そうでないにしろ、「物語」の身体であり、その意味において、松井氏にとっては大きなお世話だろうが、ベーコンの絵画的冒険とは似ても似つかぬものである。具象との戦いに挑むことはないし、その意味ではイラスト的であるし、残念ながら、物語はそこでただありきたりの例証を繰り返すだけである。

 ルネッサンスの「解剖学的身体」はもうひとつの重要な発明、遠近法の発明とセットになっていたように思われる。解剖学と遠近法は似たような姉妹である。なぜなら解剖学的身体は器官の綜合から成り立っていて、空間とは「神の器官」(ニュートン)であるからだ。しかし実際には、空間の綜合は生起しない。われわれは有機的な器官の綜合を探し求めているわけではないが、神は、遠近法の消点の向こう側に隠れたままになっているらしいからである。時とともに、この空間は病んで、ところどころ完全に壊れ、ぼろぼろになって、すたれてしまったのかもしれない。ピエロ・デラ・フランチェスカの絵画を見ればわかることだが、むしろデジタル的であると思われるこの空間の伝統は、直観としてではなく、伝統としては、未来においてそれほど重要な意味をもつとは思われないが、それでも厳密な遠近法の空間は視覚的にも触覚的にもどこかしら奇妙な空間であるし、確かにそれを逆転して、伝統を逆に遡るようにするなら、有意義なものとして考えることもできるだろう。しかしここでわれわれが知りたいのは、「器官なき身体」に基づいた空間であり、空間の概念である。

 
 「身体から抜け出す身体」に戻ろう。

 ドゥルーズは書いている、「叫ぶ口を通じて、身体はまるごと脱出しようとする。法王や乳母の丸い口を通じて、身体は、まるで動脈を通り抜けるようにして脱出する。しかしながら、ベーコンによれば、口のシリーズにおいて、決定的に重要なのはこのことではない。叫びの彼方には、微笑があるが、彼はそれにたどりつけなかった、と暗示して言うのだ。ベーコンは確かに謙虚である。実は、絵画における最も美しい微笑を描いたのである。しかもそれは身体の消滅を保証するという、まったく奇妙な機能をもっているのだ。ベーコンはただこの点において、ルイス・キャロルを、猫の微笑を再発見している」。


 法王のどちらかといえば醜い「叫び」を描いたはずなのに、絵画における最も美しい微笑がそこに出現する。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に登場する猫、木の上にのぼっていたチェシャー猫は、じょじょにからだが消えていったが、すべてが消滅した後、空中に「にやにや笑い」だけが残ったのである。微笑は消滅を前提としていた。叫びのあとには、微笑が……。それは身体の消滅を前提としているのである。口から叫びが出ていき、叫びから身体が出ていき、身体が消え、すべてが消えて、微笑だけが残される。これほど豪奢なことがほかにあるだろうか。絵画の頭脳、その頭脳的解決は消滅に委ねられるのである。
 そして消滅を前提としてあらゆるものの現前がある。ドゥルーズは、現前がヒステリー的であるのはあり得ることだろうか、と問いかけている。私にはそれはつねにあり得ることだと思われる。
 「私たちがほんとうに言いたいのは、絵画とヒステリーのあいだには特別な関係があるということである。実に単純なことだ。絵画は、表象の背後に、表象を超えて、もろもろの現前を取り出すことを、直截にみずからの課題にするのだ。色彩の体系そのものが、神経系統に対する直接的作用の体系である。それは画家のヒステリーではなく、絵画のヒステリーなのである。絵画を通じて、ヒステリーは芸術となる。あるいはむしろ画家を通じて、ヒステリーは絵画となるのだ」。
 身体から抜け出した身体は、ここでもう一度、セザンヌが見たようなすさまじい生の風光、「線と色彩のあらゆる歓喜」に出会うことになる。そしてこのヒステリーを追い払ってしまうかどうかはまた別問題である。

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                                       『下野新聞』

 

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                                                                     『神戸新聞』

                                            

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第75回 2016年6月



ひげの吸血鬼



                                                                        鈴木創士




ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命
鈴木創士『アルトーの帰還

 


 「イエスの弟子たちは安息日に麦の穂を摘み取って、ユダヤ人たちの怒りをかった。彼らを駆ってそうさせた飢えは、それらの穂でたいして満たされるはずはなかった。もし安息日に対する畏敬の念があったなら、彼らは準備された食物を見いだすことのできる場所へ来るまでに必要な時間だけ、このわずかばかりの満足を延ばすことができたであろう」。
           (ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』より)

 ヘーゲルが取り上げたこのイエスの弟子たちの話は、カフカの短篇「断食芸人」と対照的である。イエスの弟子たちはさして食べたくもないのに、人々の目を食べ物のほうに向けさせた。パンだけを食って生きているわけではない、と師匠は言ったのに。一方、断食芸人のほうは、結局、食べたいものがなかったから、断食芸をやり続けたのだということである。食い物の話は恐ろしい。だがどこかにもっと別のものがあるはずである。フロイト派に言っておくが、ヘーゲルの取り上げた話も断食芸人も欲望とは無関係だった。

 
 むこうに、茶色に変色して、くしゃくしゃになったヘーゲルの頁が砂にまみれて落ちていた。読まなかった頁だ。これらのヘーゲルの重々しい頁は永久に読まれることはないだろう。たいそうな話じゃないか。中味をくりぬかれた言葉がある。私の生きた現実の時間が消え失せてしまうまでそいつはひとりで勝手に喋り続けることだろう。頭にくるといつもやっていたように、湿った土の上をずるずる匍匐前進したくても、いまはそんなことはできない。散歩中のばあさんはさも軽蔑した顔をわざとこちらに向けてから、いそいそと立ち去った。ばあさんに手を振るかわりに、ゲイの連中が花束にそうするみたいに俺は榛(はしばみ)の茂みに顔を突っ込んでみた。二度とはやらない。蝉は鳴いていない。世界は小さい。原則はすたれた。ばあさんの後ろ姿が見えた。

 全身癌で亡くなった俺のばあちゃんの黒ずんだ顔を思い出す。ばあちゃんは母が嫌いだったのか。母ちゃんがいじめられているのを見ると、いつも近くの親戚の庭まで駆けていって、玄関の靴を全部かっぱらって庭のしょぼい池に投げ入れた。それが子供にとっての道理というものだった。とうとう池の魚は全部死んで、どろどろのヘドロの底なし沼になった。しょぼい庭など猫だって見向きもしないのだから、それに気づく者なんていやしない。神社の裏手の土くれから掘り出した女の恨みの櫛のように、何足も何足も靴やスリッパが池から出てきた。俺はわざとそれをコンクリの塀の上に並べて乾かした。陽が照っていた。犬が吠えていた。塀のむこうにバリバリになった靴やスリッパが散乱していた。

 
 しょぼい植え込みのところまで走っていって、さっきうんこをしたのだった。雲雀が頭上をかすめて、ピッという鋭い鳴き声だけが落ちてきた。榛の葉っぱの香りがした。茂みの向こうにばあさんがいるのがわかった。ばあさんはうんこをする俺をじっと見ていた。何も見えないくせに、何かをことさらに見ている風に。笑っているのか泣いているのかわからないばあさんの顔はぼやけて広がり、薄い空気に霞んで溶けてしまいそうだった。あたりは深閑としていた。ばあさんのほうを見ながら、ポケットに突っ込んでいたヘーゲルの文庫の頁をひきちぎってお尻を拭いたのだ。微風が頬を撫でる。精神現象学。産みの微風。モロッコのララシュの寂しいスペイン人墓地が脳裡をかすめる。黒い頭巾をかぶった男がひとり海辺に立っていた。どの墓もいずれは砂浜の砂に埋もれてしまうだろう。知らんぷりを決め込んで急いで藤棚の下に行くと、あの娘の髪に顔を埋めるように藤の匂いをかいだ。むせ返るような春の髪の毛。千の絵。俺は自分の手をじっと見つめた。遠くに海を望むこの高台は俺の手相のように殺伐としている。風の音だけがして、光に溢れた砂浜の墓地にいるように斜めの光線が見えた。ここはララシュの寂しい墓地にたしかに似ている。黒頭巾と光がある。黒頭巾? ハレーションを起こした目玉のなかに見知らぬ小人(こびと)が映っていた。ひげの吸血鬼。ぞっとして、俺は空を見上げた。俺はしらばっくれた。誰に対してなのか。雲雀や榛に対してでも、ましてやばあさんに対してでもない。空は青い。ララシュの幻影はすぐに消える。突然、蟬が一斉にやかましく鳴くのがひどい耳鳴りのように聞こえた。蟬が鳴く季節ではないので、ありえない。誰かがかつて首を吊ったにちがいない古い樫の大木が目の端にちらっと見えた。木に梯子が立てかけてあった。


 
 時代などいつでもいい。いまだにペストの時代だ。中世の町並み。ぬかるみ。すべてが不潔きわまりない。ぼろぼろのフリルの衣装。黄ばんだダンテル。雨が降っている。尿の臭いで目が痛いほどの路地。鼻汁と痰と唾。鼻くそ。そいつをあたりかまわず吐き捨てる。やりきれない毎日だ。彼女のことを思い出す。なぜか空はよく晴れている。

 静まり返った夜のパドヴァのピアッツァ・デル・エルベが目に浮かぶ。広場を照らしていた一昨日の月明かり。月明かりはいつも過去のなかに射しているのか。冬の冷たい光が透き通る。それだけだった。なんて美しいのだろう。中世なのか中年なのかもう誰にもわからない。そのときも月明かりの下であいかわらず自分の手相を飽きずに見ていた。ささやかな日課だった。広場のまんなかで、ハムを包んでいた黄ばんだ包装紙が風にあおられて舞っていた。影が揺れている。むこうで立ち小便をしている輩がいる。汗をかいた彫像。ここにはない、崩れて跡形もない神殿。パラティヌスの丘の神殿。ほんとうにかつてそんなものがあったのか、という思いが俺をよぎる。そのまたずっとむこうに寄せては返す潮騒。不吉な波また波。見えないのに、押し寄せてくることがわかる。真夜中だというのに、いまでもそいつが窓を開け放った眠れぬ病床にいるようにしつこく聞こえてくる。
 ほんとうにユリシーズは帰還したのか。あの嘘つきの放蕩息子は。いくら知謀にたけてはいても、息子って歳じゃない。死にかけの愛犬、蚤とシラミだらけのアルゴスがほんとうに待っていたとでもいうのか。犬はいつだって俺の味方だった。だがユリシーズといっても、いろいろいるさ。ならば俺や君たちの時代はあったのだろうか。それともいつか来るのだろうか。耳と足がかゆくてしかたがない。耳と足が君はもう終わりだと言っている。終わったことは終わったことだ。足から肛門にかけてミミズ腫れのような戦慄が走る。

 
 夜であればいつ田舎の祖父の家に行こうとも、厠(かわや)に通ずる吹きっさらしの木造の渡り廊下にはあたりの闇からじめじめした冷気が伝わって、ヤツデの大きな葉っぱが闇のなかにさらにまっ黒い影を落としているのがいつも見えていた。虫がちっちっと鳴いていたのを覚えている。自らが不浄であるのか便所が不浄であるのかいざ知らず、不浄であるには違いなかった便所にそもそも行くのはとても怖かったので、どんなときもこのヤツデの黒い影が少しでも夜の微風に揺れていたりすると、なおいっそうの恐怖を覚えるのだった。ひげの吸血鬼。小便をするのを諦めることもある。そんなときは知らん顔して風呂場で用を足した。

 昔の厠は怖かった。厠の小さな明かり取りの窓からもヤツデが見えた。しゃがんでいると、否が応でも耳をすまして、目をこらす。雨が降っていたりすると、時にはヤツデの葉っぱが黒一色のなかで白っぽく見えることもあったが、その幾層をもなすこの闇の層のことは今でもよく覚えている。闇の層は重なることなく目の前で幻覚の奥行きのようなものをつくりだし、闇が闇の質料だけでできているのではないことを知らしめる。目をじっとつむっていると、闇のなかに時おり白いヤツデが現れる。ヴェネツィアの画家ティントレットが天使を描くときに使った幽霊線のような白い輪郭が不意に現れる。もやもやしたヤツデの白は闇のなかでさらにもっと黒い部分を浮き上がらせ、気まぐれにずっと下のほうへむかって、まるで俺を誘うように目のなかをゆっくりと降りてくる。麻ひものようなものが下のほうへ飛んでゆく。火の玉が見えることもある。それは風に少しだけ震えるようにゆらゆらと消えてゆく。だが突然、白いヤツデは奇妙な百合の花に変わっていたりもした。恐怖から逃れようとして、だから目をつむるのも考えものだった。

 
 いつも俺は急いでいた。霙まじりの雨が思い出したように降っているのに、家路についていると、スイカズラの匂いが急にしてきた。スイカズラは漢字で忍冬と書くくらいだから、塀から垂れ下がった蔓草のような枝は冬でも毎年けなげに緑の葉っぱをつけている。それにしてもきつい香りである。頭がくらくらする。スイカズラの花を思いっきり吸うと蜜の味がしたことを思い出した。子供の頃は学校の帰りにいつもそれをやって、道端にスイカズラの小さな白い花をひきちぎってはまき散らしていた。遠くから見ると、物心ついた俺が効き目を強めようと外側のいらない成分を捨てるために剥いていた鎮痛剤の錠剤の粉をまき散らしたみたいだった。チョークの粉のようにも見えた。後になってそれを思い出した。スイカズラという言葉を前頭葉のあたりで反芻すると、いまでも頭がぼおっとなるのはそのせいかもしれない。

 冬だから花は咲いていないはずなのに変だった。そう思って歩いていると、家の近くまで辿り着いていた。雨は小降りになっている。見ると我が家がない。てくてく歩いてきた家並みはいつもと変わるところはなかったはずなのに、いつもと違うところがあるとすれば、ひどい腰痛をかばって斜めに傾いたまま歩いていたからなのか、我が家に近づくと、暗闇に浮かぶ家並みが映画カリガリ博士の書割りの影のように斜めに見えていたことだけだった。書割りは段ボールでできているのか、ぺらぺらだった。ほんとうに家なのかよくわからない。四つ辻はけっして直角には交差しない。いたるところに三角形がある。薄暗い平行線はすぐに交わり、鼻がぐすぐすするほど埃っぽい。ドイツ表現主義映画の書割りだな、こいつは、などと考えていると、自分の着ている服から黴のような臭いがとってつけたように漂ってきた。雨の臭いだった。俺は途方に暮れた。こんなことがしょっちゅう起きるなんてほんとうに辟易する。南米の町の郊外にでも行けば、きっと夕方に、ずっと続くピンク色の壁からかわいらしいスイカズラの花がのぞいているのが見えたかもしれない。俺は不幸な気分を振り払うように立ち止まった。いや、けっして不幸な気分などではない。うれしくなって、あたりにはひと気はないはずなのに、輪遊びをする少女に手を振ってみた。目の前をこうこうと照らしている、はじめて見る明かりの灯った家からは、死んだはずの友達が咳をするのが手に取るように聞こえていた。少女なんかどこにもいなかった。

 
 アルトーは見ようによっては謎の戯曲のようにも受け取れる本、彼が自分で構想した最後の本のひとつのなかにこんなことを書いていた。ところで、アルトーはある意味でギリシア人だった。たぶんニーチェが言うような意味で。




    ひげの吸血鬼。
    
    目覚めもなく、眠りもなく、
    腐った卵を運ぶダンプトラックの列があるだけ、
    それらは議論には答えもしない。
    
    黒い板、
    植物たちの粘液、
    身体とはすべて、
    空間、空間とは想像しがたいもの、
    その外には何もない、絶対的に何もない
    (…)
                         アントナン・アルトー『手先と責苦』

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新聞は切り抜いていますが、やはり本になっている方が読みやすく、第2巻が出ないかと思っていたら書店で見つけました。
神奈川新聞はいろいろな妨害や批判もあると思いますが、この時代にジャーナリズムの原点である権力を監視しその暴走を国民に伝えると云う事をがんばっていると思います。権力とお友達の大新聞に負けずがんばってこの姿勢を続けてくださいますようにお願い致します。こちら何も出来ないおばさんですが――。
                                                              K・K、鎌倉68歳

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『佐賀新聞』(5月8日)『神奈川新聞』(5月8日)などに掲載されました。

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  第74回 悲劇・・・ - 2016.05.04

                                                            第74回 2016年5月




         悲劇…



                                                                        鈴木創士




ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
シェストフ『悲劇の哲学
バタイユ『ニーチェについて

 



 「ヘーゲルはどこかでこんな指摘をしている、すべての歴史的大事件と人物は言ってみれば二度繰り返される、と。彼はこうつけ加えるのを忘れたのだ、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。マルクスはこの有名な言葉で『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』をはじめているが、歴史のなかから死者たちを呼び出してみると、際立った違いがあることに気づくとも言っていた。カール・マルクスが? 際立った違い? それはそうだろう。
 この場合、反復は微妙な差異によって台無しにされた戯画となる。そしてこの戯画のオリジナル・デッサンは、えも言われぬ動揺、微妙な風合いとともに、のちの反復をそのつど「別の装いのもとに」反復させる。歴史はただ繰り返されただけなのか。だけど人間たちは自分たちの歴史を知ってか知らずか自らつくり出すことができる、というのはほんとうなのか。死に絶えた世代のあらゆる伝承の伝承は生きている者の頭脳に重くのしかかっているとしても、反復された頭脳のほうはそれでも破裂しないのだろうか。誰もがその反復のなれの果てをただ個人の歴史においておや経験しながら、それでも過去のあからさまな亡霊を知らぬまに呼び出し、あげくのはてにそれに愛想を尽かしているのはわかっている。
 悲劇はたしかに二度目以降は茶番であるかもしれない。だが結局のところすべての茶番は悲劇ではないのか。

 
 柄にもなく、とってつけたように悲劇などと口にしたのは、最近、ソポクレスの『オイディプス王』を再読する機会があり、またアントナン・アルトーの中期の作品『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』の新訳に取り組んでいるからなのだが、それにしても悲劇の残酷さ、残虐さにもいろいろあって、つくづくこの飽きずに反復しつづける人間というものが嫌になってしまう、と言えば大袈裟にすぎるだろうか。われわれは何をここで反復しているのか正確に知るべきだろう。

 あんな機会、こんな機会は、極限においてなされる置換のようにわれわれに何かを強制するとしても、歴史が書かれたものである限り、歴史は「私の歴史」を書くほかはなく、それは無数の「私の歴史」でしかない。私の勘違いでなければ、そんな風に言ったのはフランスの歴史家ジョルジュ・デュビィだったと思うが、「私の歴史」とは唯名論的な歴史、無数に増殖するそのなかのひとつのことなのだろう。



 だが、実在したのか、しなかったのかと、歴史の前でわれわれが戸惑っていようがいまいが、天罰に対して何度か態度を変えようとしたとも受け取れるオイディプスにあっては、悲劇が天から降って湧いたように、明らかに天上的なものの象徴的秩序が下界にむけて折り畳まれていて、それこそがそもそものオイディプスの怒りの原因であり、悲劇である。だが『コロノスのオイディプス』を読むかぎり、彼はヘルメスに手を引かれて冥府に連れてゆかれるのだから、彼の怒りもまた曖昧なまま終わってしまうようである。反復は断ち切られない。ソポクレス自身はこの戯曲を生涯の最後に書いたのだから、ソポクレスはいったい天上の何と和解しようとしたのか。

 
 画家のフランシス・ベイコンはソポクレスよりもアイスキュロスのほうを好むらしく、インタビューでもさかんにアイスキュロスの残酷さと現代社会の残酷さを比べたりしていたが、残酷さはさておき、たしかに悲劇作家としてはアイスキュロスのほうが、ソポクレスよりもタガが外れていて、実験的で、しかも難解だが格調高くポエティックで、面白いのかもしれない。ホモセクシャルでもあったベイコンの深刻きわまりない、つまり時にはかなり悲しげに見える豪放磊落さには、なるほどアイスキュロスがぴったりだと思う。




 ところで、悲劇とは人間性と因果律の歪曲である。悲劇は何かを偽造しようとする。アイスキュロスは、鷲が空から思わず落とした亀の甲羅が頭にあたって死んだらしいが、それもまた悲劇だったのだろうか。大空にはわれわれのことなどつゆ知らない鷲が旋回していたのだ。
 ギリシア悲劇。アルトーが最晩年を過ごした部屋の写真をよく見てみると、もうひとりの悲劇作家エウリピデスの本が置いてあるのがわかる。アルトーは死の直前までギリシア悲劇を読んでいたらしい。なんということだろう。阿片チンキを飲みながらひとり部屋でギリシア悲劇をしずかに読んでいる、内側から焼き尽くされたような最期のアルトー! 反乱開始は昔のことではなく、そのつど幾度となく繰り返されたようにスリッパを片手に死の直前に開始されたのだろうか。焼けただれ、石灰と化した旗印! いつの世も若者たちはそれを自分のものとして認めるだろう、と実際にはペシミストだったブルトンは言っていた。



 アルトーの血のなかには母方のギリシアの血が流れている。だからというわけでもないだろうが、アルトーの演劇論の細かな部分ですら、随所に古代ギリシア演劇の、影響ではなく、激しい余波を、あの残忍で、神的で、狂っていて、それでいてどこか静謐なたたずまいを思わせる長い波長を感じることができると私は思っている。私はそのことに少しは感動する。電波はどこからでもどんな方向からも飛んでくるのだ。

 
 人間の残酷さはとどまるところを知らないように見える。だがこの残酷さは歴史のちんけな原動力であったと誰もが考える。性の歴史や資本主義の歴史がそうだったように。だがこんな不埒な原動力などかつて存在できたためしはないのだ。死は死であり、殺害は殺害であり、大量虐殺は大量虐殺なのだが、それでも残酷さにもいろいろあって、われわれは何ひとつ学ぶことができなかったのかもしれない。われわれは悲惨なただの阿呆である。人がひとり死ぬたびに、世界が死ぬ、と言っていたのはジャン・ジュネだが、悲劇はいったい誰を、どんないたいけな子供たちを巻き込んだのか。巻き込んだなどという言い方はよしておこう。悲劇は誰の食べ物なのか。そのことは誰もがわかっていたはずなのに、ローマ帝国は滅んだ。すべての帝国は滅ぶ、そして未来永劫かならずや帝国は滅ぶだろう。万歳! 三唱! おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

 アルトーの『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』はこんな風に始まっている。

 
 「墓場なき死者、しかも己れの宮殿の便所のなかで護衛の兵士に喉をかき切られて殺されたヘリオガバルスの死骸(むくろ)のまわりに、血と糞便の激しい循環があるならば、彼の揺り籠のまわりには精液の激しい循環がある。ヘリオガバルスは誰もが誰とでも寝ていた時代に生まれた。しかも彼の母親がどこで誰によって実際に身ごもったのかはけっしてわからないだろう。彼のようなシリアの王子にとって、血統は母たちによってつくられるのだ——それに母たちに関していえば、生まれたばかりのこの御者の息子のまわりには、ユリウス一族の綺羅星のごとき女たちがいる——そして彼女たちが王権に影響を及ぼすにしろそうでないにしろ、これらのユリアたちはみんな高級淫売なのである。

 この淫蕩と汚辱の大河の母方の源泉、彼ら全員の父は、祭司になる前は辻馬車の御者であったに違いなかった、そうでなければ、ひとたび玉座に就いたヘリオガバルスが御者たちに自分のおかまを掘らせたあの執拗さが理解できないからである。
 ともあれヘリオガバルスの母方の起源にまで歴史を遡ると、間違いなくあの老いぼれのはげ頭とあの辻馬車とあのあご髭に行き当たるのだが、それこそがわれわれの見聞録のなかに示される老バッシアヌスの姿である。
 このミイラがひとつの宗教に仕えているとしても、その宗教を断罪することにはならないが、しかしユリアたちやバッシアヌスと同じ時代の愚かで気のぬけた祭儀は、そしてヘリオガバルスの誕生した頃のシリアは、この宗教をついにだめにしてしまっていたのだ。
 だがこの死せる宗教、バッシアヌスが身を任せた、儀式的仕草の形骸になり果てていた宗教、それが、エメサの神殿の階段に幼いヘリオガバルスが姿を現わすやいなや、信仰と新たな装いのもとに、いかにして凝縮した黄金の、鳴り響く小さな光の活力を取り戻し、奇跡的に影響力をもつようになるのかを見なければならないだろう」。

 
 あまりにわかかり切った、凡庸なことを繰り返すようだが、この少年ローマ皇帝のアナーキズムはもちろん気のぬけたユートピア思想などではなく、ひとつの悲劇の誕生を画するものであったとあらためて私は考えている。数々の残忍な罪人を生み出したのは歴史のほうである。神の歴史のほうである。アルトーはそのことをよくわかった上で、話を始めたのである。彼はそれを「諸原理の戦争」と呼んだ。当時の歴史家ランプリディウスから18世紀の歴史家ギボンにいたるまで、たぶんアルトーが読んだ歴史家たちはヘリオガバルスの乱行を嘲笑し、断罪することはできても、それでローマ帝国が、そしてローマ帝国の威光がほんの少しでも救われたわけではない。どう転んでも、詩も、ましてや形而上学も解さない歴史家たちは…、などとアルトーは苦言を呈している。アルトーは激怒しているし、歴史家の言うことになど、究極的にはこれっぽちも信を置かない。話はつねに半分、だから半分しか耳を傾ける必要はないのだ。

 事実? 事実の歴史だって? ほんとうなのか。いや、いや、ただの教訓など何の教訓にもならないではないか。われわれはそれを毎日嫌というほど目にしている。われわれは歴史を生きているのだ。そのことはわかっている。オイディプスもまた見ることが嫌になったから、自分の目をくりぬいて、自ら盲目となったのだった。だが人間と世界は踵を接していないし、隣り合ってもいない、とニーチェは言っていた。ニーチェは爆笑していた。この爆笑という言葉は、バタイユに逆らうようだが、それなりに悲痛で、しょぼい。自ら盲目となるのは世界ではなく人間のほうなのである。

 
 ロシアの哲学者シェストフの『悲劇の哲学』のなかにこんな言葉を見つけた。「ソクラテス、プラトン、善、人道主義、理念等——穢れのない人間の魂を懐疑主義やペシミズムの凶暴な悪魔の攻撃から護ってくれたかつての天使や聖者の一隊はことごとく跡形もなく空中に消え失せ、身の毛もよだつ敵を眼前にして人は生まれて初めておそろしい孤独を感じるのだ。最も忠実な、愛する者でもそこから彼を脱出させることはできない。悲劇の哲学が始まるのは、まさにここにおいてである(…)おまえは地獄に堕ちた者たちを愛するのか、俺に言ってくれ、おまえは赦されない者を知っているのか」。

 レフ・シェストフはドストエフスキーとニーチェを最後の希望の哲学的人間、つまり哲学者として尊重しているのである。だがそれだけではもはや十分ではないだろう。それに哲学者のことなどどうでもいい。悪魔は歴史的に見ても凶暴ではあるが、懐疑主義やペシミズムはもちろん悪魔の攻撃などではない。
 シニシズムや懐疑主義もまた悲劇と同じくらい古いものなのだろう。犬儒派たち。キュニコスの里は地球のそこかしこのことかもしれない。大いなる地球。グローブ座。さらば、ちっぽけな惑星よ。たまには、おお、マクベスよ、そいつのことも思い出してやろうじゃないか。キュニコス派の哲人クラテスが最古の地球儀をつくったのだった。彼らは地球の上に寝そべっていた。それこそ日なたの犬のように。だがシニシズムや懐疑主義と悲劇は何の関係もない。そればかりか、アカデメイアは大学のことではなく、ゴミ屑が時おり舞い上がる、いにしえの浮浪者たちの広場である。
 マルクスは、古代ローマの階級闘争は奴隷たちによってではなく、特権的な少数者、貧しい自由人によってだけ行われたと言っていたが、犬儒主義もまたイタリアへと逃げのびたのだろうか。やがては芸術のほうへ。

 
 知らぬ間にピアッツァ・デル・エルベに冬の月が懸かっている。この広場はギリシアからはそう遠くなく、この月はギリシアと同じいつもの月である。赤茶けた下弦の月。夜もだいぶ更けてきた、微醺に顔を赤らめ、犬の遠吠えが聞こえる…


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 どの章も大変読み応えがあり、こんな良い記事が載る神奈川新聞て凄いな、と本書で初めて知りました。各インタビューも素晴らしかったです。

 米軍基地に、日本会議に、知らないことばかりで。大手メディアが取り上げない、重要なことばかりでした。ヘイトスピーチで在日の人が「殺されるかも」という恐怖を感じていることに、愕然としました。迫力のある良い記事でした。安保、SEALDsの章に、表紙の写真も、良いですね。
 
 これからも権力の監視となる記事を期待・応援します。

K・N(神奈川県、34歳)

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  2016年図書目録 - 2016.04.16

2016年図書目録

 

 

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 いつの間にか何故こんなに居心地の悪い時代になったのでしょうか。あの戦争がいろいろな事を見せ付けて、教えてくれたのに。
 年を取っても、何時でも何処でも何事でも自分で事を見据えること、目を外さないこと、又人と違うことを恐れないでと思っています。
 それにしても国会議員も粗悪な大臣ばかり、悪目立ちして、うんざりです。心ある方もいらっしゃるでしょうに。とにかくあの人の息子・娘(孫も)だけで選ぶのは、本人を勘違いさせるだけと思います。

                          A・M (東京都 78歳)

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                                                        第73回 2015年4月





    彼は死のうとしている
              —ロラン・バルト




                                                                        鈴木創士




ロラン・バルト『神話作用』『零度の文学
清水穣『白と黒で-写真と…』『写真と日々』『日々是写真』『プルラモン』『シュトックハウゼン音楽論集




 一度読めば、そこには本質的な事柄が書かれていることが一目瞭然で、つまりもっとつぶさに見れば、どちらに転んでもそれが豊穣な何物かであることがわかっていても、なかなか再読する気になれない本がある。その本を本棚から取り出してなるべく手の届きやすいところに置いてみたり、しばらくするとまた本棚に収めてみたりする。すでに言われた言葉が、口の端に出かかるように、すでにもっと前の過去のなかでこれから起こる未来の錯乱に似てしまうことがある。本は読まれもしないで(再読でも同じことだし、絶えず現在進行形の作品のように肩越しに読まれなければ、読まれたことにはならない)、何かを語っているのか。そんな不埒な! 本がこちらをじっと見ている気がして嫌気がさすこともある。私にとってロラン・バルトの『明るい部屋』はずっとそんな本だった。
 写真論にことさらに興味があるわけではない。この本に書かれている写真についてのあれこれを重箱の隅をつつくように批判できることもわかっている。だがそんなことはどうでもいい。一度読めば、この本には悲痛な真実があることがわかるというものだ。たとえ真実がフィクションの形をまとい、本質においてそれを踏襲していたとしても、小賢しいそのフィクションの全体はこの真実の端緒でしかない。私は真実とフィクションの、深くて、なんというか非常に日常的でもある錯綜のなかに投げ込まれる。この錯綜が一気にからだに浸透してくる。
 私はこの真実から逃れようとしていたのかもしれないなと考えてみる。だが何も変わらない。本は相変わらず静まり返った静物画のように、まるで偶然のようにそこにあるのだし、まだページは再びめくられてはいない。だがそれは後ろ髪を引くように、知らずしらずのうちに私を既知の、危険な親密さのなかに引きずり込もうとする。この親密さのことを思うと、破局を迎え、何かが破綻してしまう前に、空には見たこともないような光が射してくる感じがするみたいに思える。もはや存在しない故郷がそのままそこでくっきりとした輪郭をまだ示していたとでもいうように、誰もがそこへ帰ろうとする。でもそれはほんとうに既知の親密さなのだろうか。それならこのひそやかさはすでに凌駕されてしまっているのではないか。親密さは裂傷や亀裂のなかから現れることもあるし、それらと見分けがつかないこともある。

 
 作家ロラン・バルトが、背中を丸めて、毎日、ライティング・ビューローに向かい、この本の一章一章のメモをカードに書き綴っている姿を目に浮かべてみる。……まだ私は彼の本を再読してはいない……。日によってブルーにも茶色にも見えた彼の眼差しを思い出す(ずっと昔パリで何度か彼を見かけたことがあった)。バルトのこの本自体が、私の(個人的な)「時間」に突き刺さったままの棘が残した「傷痕」になってしまったのか。……いまだに私は彼の本を再読できてはいないし、しかもよくよく考えてみれば、通りやカフェでバルトを見かけていた当時、この本はまだ刊行されていなかったはずである……。普段着の彼は自分の周囲や目の前の青年をいつもじっと目を凝らして見ていた。目を凝らして、というのは少し違うかもしれない。じっと見ていたのに、瞳のなかは空っぽだった。この眼差しはすでに過去のなかにしか時間の尾っぽあるいはその先端を見ていないかのようだった。彼はいつもセーターかジャンパーを着て(実際、そういう印象しかないのだ)スカーフをしていた。その眼差しにはささやかな快楽への期待がひそんでいたかもしれないが、そんなものよりも、そこには何かしら諦念に似たもの、やりきれない疲労に似たものがあったと言わざるを得ない。バルトはうんざりしていたに違いなかった。……まだ私は彼の本を再読してはいない……




 彼もまた私を何度か見たはずであったし、私の目を鋭く覗き込んだし、私も彼を見たのだが、視線はすべてを透過するように、どんな黒々とした記号の上でも停止しなかった。かつてバルトを見ていたときの私は何をしていたのだろう。覗き見をしていたのだろうか。何を覗くのか。世界のなかを、肩越しに? それはディテールなのか。細部もまた崩れ去るではないか。近眼であろうと、望遠鏡を覗くのであろうと……。写真のなかにいるように、〈彼は死のうとしている〉。この日本語は一見不正確に思えるかもしれない。そこには何の意志も含まれてはいないし、含まれようがなかった。彼が現在のなかで死のうとしているのか、それとも過去のなかで死のうとしていたのかもわからない。彼は死ぬだろう。偶然のように。だがこの偶然は必然性がもたらすいくつかの帰結の渋面のひとつにすぎない。バルトはそれから数年して事故死した。

 
 世界を覗いて何になるのか。何も見るべきものなどない、と別の悪魔が耳元で囁く。だが何人かの詩人たちは暗い万華鏡のなかに入り込むようにしてそれ自体が乱反射する世界を見ていたはずだった。疲れ切って、丘の上に座って、夜が明けるところをじっと見ていたはずだった。まだ若者だった彼はただ見ていた、微妙に不確かに曖昧に夜が明けて、夜が裏返り、夜が開けそめるところを。

 そうは言っても、穴をあけられ、あるいはひっ搔き傷をつけられた時間もまた、それ自体における過去のあれこれをそのつどつまらぬ妄想のように廃棄してしまっていたのではないか。時間は流れてはいない。停止もしない。君も私もある一点において過去のなかにいたはずなのに、もう今はそこにはいないのだ。もとあった場所は消えている。この過去と、そこは、ぜんぜん違う場所だった。


 そもそもこんな駄文を書くきっかけは、ある人のブログをたまたま見たからだった。人のブログをあまり読むことはないが、この辛辣でちょっとイカれた、現代風のディレッタントのブログをたまに覗くとはっとさせられることがある。ほとんどの職業的評論家や作家にはっとさせられることなど最近ではまったくないというのに! 勿論、ディレッタントという言葉を悪い意味で使っているのではない。バルトがどこかで言っていたように、われわれは全員がアマチュアなのである。そこにはバルトの『明るい部屋』のなかの文章が引用されていた。引用された文章は「39 プンクトゥムとしての「時間」」の一節だった。
 私はついに『明るい部屋』を手に取った。何十年ぶりだろう。ページをめくってみる。千夜一夜物語のようにアラブ風のジンが現れるわけではない。日本語訳があるのはもちろん知っているが、せっかくなので自分で訳してみたくなった。


 「いくつかの写真に対する私の愛着について自問していたとき(この本の冒頭で、すでにずっと前に)、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりこの場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様を区別できると思っていたが、私はその縞模様を〈プンクトゥム〉と呼んでいた。いま私は、「細部」とは別の〈プンクトゥム〉(もうひとつ別の「傷痕」)が存在することを知っている。この新しいプンクトゥムは、もはや形式ではなく、強度であるが、それは「時間」であり、ノエマ(「かつてそれがあった」)の悲痛な誇張であり、その純粋な表象なのである」。
 何を誇張しようというのか。それに続けてバルトはこう書いていた、



 「一八六五年、若きルイス・ペイン〔パウエル?〕はアメリカの国務長官W・H・スワードを暗殺しようとした。アレクサンダー・ガードナーが独房のなかの彼を撮影した。彼は絞首刑を待っている。写真は美しい、青年もまた。それは〈ストゥディウム〉だ。だが〈プンクトゥム〉は、「彼はいまにも死のうとしている」である。私は「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」を同時に読む。私は恐怖をこめて前未来を見つめるが、死はそれにかかっている。ポーズの絶対的過去(不定過去)を私に伝えることによって、写真は未来の死を私に告げるのだ。私に兆しはじめるのは、この等価性の発見である。子供だった母の写真を前にして、私はこう思う。母はいまにも死のうとしている、と。私は、ウィニコットの精神病患者のように、〈すでに起こってしまった破局〉に身震いする。被写体がすでに死んでいてもいなくても、どんな写真もこの破局なのである」。


 写真は偶然のように破局を示すのではなく、破局である、とバルトは言っている。写真とは、われわれひとりひとりをそのうちに捉えて離さない、それどころかそこにわれわれを釘づけにする破局そのものなのだろうか。分岐した偶然性のラインはそこで停止し、破局に向かってひとつのラインが決定される。
 私はやっとこの二ページだけを再読することができた。それ以上は読まずに、本を閉じた。最初からこの本に真実があることは知っていたのだから、ページをめくったからといって、何かが変わったわけではない。見るべきものはない、とまた悪魔が囁く。私は本から目をそむける。写真は閉じられる。
 プンクトゥムが、思いがけずピンの先であけられたような穴や、ひっ搔き傷、かすかな裂傷であるなら、光がそこから漏れ出たはずである。光学的に言って、「彼はいまにも死のうとしている」のだとすれば、すでに光はいまにも通り過ぎかかっていたことになる。光はもうない。前過去は消滅し、現在は前未来と過去完了のなかに食い込んでしまったのか。
 だが「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」は、同時に写真のなかにあって、それをたぶんいささか悲痛な思いで今見ているのは、そうなることもできず、かつてあったとしても、そうであったかどうかもわからない今の私でしかない。私が見なければ、写真は選り分けることのできない膨大な思い出のひとつにすぎなくなる。それは幸福な忘却のなかに落ちてゆく。私は必ずしも未来と過去に引き裂かれているわけではない。悲痛なのは、かつてあったものすべてが破局を前提とし、それをすでに含んでいたというそのときの現在である。ずっと続いてきた結果、現在になりかかった過去は、恐らくこれから前未来のなかへと続く現在と見分けがつかないが、このような時間はすでに断ち切られて、消滅している。過去完了も前未来もほんとうは存在しないのかもしれない、とまた別の悪魔が囁く。
 私は死ぬだろう。私はかつてあったのだから。
 だがもうそんなことはどれも写真の話に限ったことではない。
 私はここにいる。しかるに私はかつてあった。故に私は死ぬだろう。でもイマージュの真実を別にすれば、つまりこれは写真のイマージュという分身の話であるのだから、この三段論法が真実である保証はどこにもないのである。

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  第72回 氷の亀 - 2016.03.05

                                                            第72回 2016年3月



                                                                               
                                    氷の亀


                                        
                                        
                                                                        鈴木創士





アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『シュルレアリスム簡約辞典』『ナジャ

 




 つい先日、短期の入院から退院した。入院中はまったく眠れないことが自分でわかっていたので、看護師に無理を言って、多めに睡眠薬を服用した。病院では死んだように眠ったが、退院してから二日間、二、三時間しか眠れなかったので、飯を食って昼間に横になっていたら不覚にも完全に寝入ってしまった。

 
 ……その駅は地方のどこにでもあるような小さな駅だったが、かなり人でごった返していた。すでに終点の温泉地行きの電車がホームに停車している。僕は女性と一緒だったようなのだが、それが誰なのかぼんやりとしてわからない。母だったかもしれない、それも若い頃の母ではなく、年老いて、杖をついた母だったかもしれない。

 その女性は先に列車に乗り込んだらしく、姿がない。しようがないなあと思いながら、列車の一番後ろから乗り込んだ。どこかにいるだろう。列車の窓から日が差し込んで埃が舞っていた。塵のまた塵、という言葉を思い浮かべた。過ぎ去った時間の片鱗のなかでしか舞うことのない粉々になったダイヤモンドのようだ。埃の舞っているあたりだけが現実感があった。他はぼやけてしまっている。列車が混んでいたのかどうかもわからない。そのうち列車は動き出した。僕はどこに行くつもりだったのだろう。心臓を患ってから、温泉に入るのは嫌だった。血液の循環がおかしくなるのか、気分が悪くなって、目がまわる。下手をすると、吐いたりすることもある。
 ガタゴト揺れながら、通路を進んで女性を探した。地方の電車だから三、四輛しかないはずなのに、ずいぶん進んだような気がする。列車は延々と続いている。女性の姿は相変わらずない。僕は途中で探すことを諦めた。彼女が途中下車することはないだろうと思いながら、何か焦っていた。何かが、そしてすべてが、うまくいっていない。外は明るく、空は晴れている。それだけはたしかである。空いた席に座って窓の外を眺めていたが、どんな風景だったのかまったく印象に残っていない。考えごとをするでもなく、頭は完全な空白のままだった。居眠りをするわけでもないのに(普段まったくと言っていいほど電車で居眠りをすることができない)、それで電車を乗り過ごしてしまうことがたまにある。はっと気がつくと次の駅だ。空白があれば、空白の外というものはないのだが、現実に戻る前にすでに説明のつかない焦りだけがずっとくすぶり続けていた。
 終点に着いた。まだ現実に復帰してはいなかった。プラットホームのはずれまで歩いていると、人がまったくいないことに気づいた。光はどこからともなく燦々と降りそそぎ、空は相変わらず晴れ渡っている。乗客も駅員も誰もいない。見るともなくふと目をやると、駅の出口に向かう道の正面の植え込みに何か光る物がある。近づくと、氷の亀、氷でできた亀が置いてあった。氷の亀は溶けることもなく、日の光にピカピカひかっていた。日の当たっている場所だけに現実感があったように、この氷の亀も妙に生々しかった。……

 
 去年の秋に刊行された、自身詩人でもある朝吹亮二の『アンドレ・ブルトンの詩的世界』にはいろいろ教えられるところがあった。なるほど著者の言うように、ブルトンは何よりもまず詩人なのだ。




 ブルトンのフランス語! 高揚して、大きな波が打ち寄せるように激しくうねり、透明で、真摯で、それでいて慎重で、あちこちを警戒し、しかめ面で、時には強い閃光のように詩の激怒を感じさせずにはおかないあれらのブルトンの「散文」は、紛れもないひとつのジャンルをつくり出したのだし、結晶化した波間から無数の怒り狂ったヴィーナスのあぶくが生まれたように、そこからすべてが出て来たのだと私は思っていた。近くで影響をこうむりながら彼に敵対したこともあったフランス人たち、シチュアシオニストからテル・ケルの作家にいたるまで、そのことに反論はできないだろうし、後のシュルレアリストたちは言うに及ばず、ヌーヴォー・ロマンにいたるすべての作家がこの「ジャンル」から出て来たのだと讃嘆とともに私はずっと考えていたが、しかしそのためにはなるほどブルトンはまず詩人でなければならなかったのである。彼の詩は彼のエッセンスである。このことは動かし難いことなのに、それにもかかわらずわが国でブルトンの詩に正面から向き合った本を読んだことはなかった。どんな作家も批評家も、どの時代であれ、どこにいようと、何パーセントかは詩人でなければならないことなど分かり切ったことではないか。だがそのなかでもブルトンは特別なのである。

 
 朝吹氏のこの本にはあらかた目を通していたが、もっとも重量がありそうな詩論の章「ブルトンの詩の読解」だけは後で読もうと思って残しておいた。病院を退院して普通の生活に戻りかけた数日前、頁をめくっているとある言葉に目が止まった。「氷の亀」だって! それはブルトンが書いた詩のなかの「氷の亀」という言葉だった。

 ブルトンの詩集『白髪の拳銃』の冒頭の詩「薔薇色の死」の末尾にはこうある。


    そして氷の亀からなる汽車のなかで
    きみは警笛を鳴らす必要すらない
    きみはひとりこのひとけのない浜辺に到着するだろう
    そこでは星がひとつきみの砂の鞄のうえに降りてくるだろう
                         (朝吹亮二訳)


 私もまた列車のなかで探すことを諦めたのだし、降りる前の汽車のなかで警笛を鳴らしはしなかった。ひとけのない浜辺は遠くに温泉町を望む駅であり、星はただの日の光だったが、砂の鞄に見えることになるはずのものは一個の氷の亀だったのだ。


 これでは詩の辻褄が一巡したことになるのだろうか。私は詩の意味を追いかけてしまっているのか。私にとってこのブルトンの一節はウロボロスの蛇のように自分の尻尾を噛んでいる。ここには唯物論的にして神秘的でもあるアナロジーがあるのかもしれないが、もちろん一気にそのアナロジーの向こう側に「倫理的意味」を読み取ることは私にはできない。だがこの逆転というか転倒は、朝吹氏が言及していたように、ブルトンが「上昇記号」というエッセーの最後に引用した芭蕉とその弟子其角のエピソードをちょうど思い起こさせるではないか。
 弟子の其角が詠んだ「あかとんぼ羽をむしれば唐がらし」という残酷な俳句を、芭蕉はこんな風に直したのだった。「唐がらし羽をつければ赤とんぼ」。時の経過を越えて(そんなものは何でもない)、してみるとブルトンの詩もまた私の夢の辻褄に改変を加え、手直ししたことになるのではないか。


 『白髪の拳銃』はもうずいぶん前に読んで内容はすっかり忘れてしまっていたのだし、そのときに「氷の亀」に目が止まったことはなかったはずだった。私の無意識のなかにこの言葉が入り込んでいたのだと言えばそれまでだが、もちろんこの言葉を普通の意味で覚えていたわけではなかった。これはブルトンの言う「客観的偶然」の一例だったのだろうか。もちろん私の出会ったのは言葉であるし、ブルトンが『ナジャ』のなかで次々にその事例を示したような「現実」の事件や出来事そのものではなかったが、この夢の亀は目覚めの後も異様なほど目の前にちらついて現前していて、その光る氷は特殊なクロマチスムさえともなっていた。夢の情景のなかで手が触れんばかりのものが、これから読む読書の一種の核心を形づくる「現実」を準備したのだと言えないこともないのだ。しかもこのことは、こんな毎日を過ごしている私にとっては、非凡ともいえることだった。


 「客観的偶然」。詩はたしかにそれを誘発するものとしてある。それはシュルレアリスム的思想の要のひとつであるが、「客観的」という形容詞にも、「偶然」という決定的な言葉にも私はずっと引っかかりを覚えていた。どのように客観的なのか、事物と事物、なかんずく人と事物の出会いは偶然によって包囲されているとしても、それは単なる「通常の」印象にすぎないし、どうしてそれは偶然でしかない偶然であって、必然ではないのか。マラルメが何と言おうと、それは思考のゆるやかな敗北ではないのか。だがそれは恥ずかしながら長年にわたる私の早とちり、誤解にすぎなかったようである。誤解は朝吹氏の本によってあらかた氷解した。
 読んだはずなのに読み飛ばしていたのか、ブルトンは『通底器』のなかでエンゲルスを引用してすでに「客観的偶然」についてこう述べていたのだ。「因果関係は、必然の顕現形態である客観的偶然のカテゴリーとの関係においてしか理解されない」、と。はじめからブルトンは、それは「必然の顕現形態」であると言っていたのである。「この種の偶然は、無意識の道筋においては、偶然ではなく必然ということになる」、と朝吹氏も述べている。そうであれば話は早いし、話はより複雑なものとなる。
 ……しかも偶然が必然性の個々のエピファニーであれば、これらのちぐはぐに次元の異なる必然が錯綜する因果律のなかで、客観的偶然とは、研ぎ澄まされた、説明不能の、極端な主観性の錐揉みのような切っ先が、現実のなかに穴をあけ食い込み、あたかも観測者の存在が、観測している世界に根本的な影響を与える量子論的世界のように、現実というものに何らかの決定的最終的影響を及ぼすことだと思っていた私の考えもあながち間違いだとは言えなかったことになる……。
 だがアンドレ・ブルトンは客観的偶然をもっと高緯度に位置づけてもいた。かつて私はシュルリアリスムは一個の政治思想だと考えていたが、この政治思想が現実との関わりにおける詩の衝撃からなっていたという至極当然なことをいくら強調してもしすぎることはないだろう。もう誰ひとり言わなくなったことではあるが、この点をいまこそ何を措いても全面的に肯定しなければならない。


   

ごらんのとおり、このイメージが、前にはまだ不確実だったかもしれない点に関してどれほどはっきりすることか。光を創造しているのはまさに反抗そのものであり、反抗だけなのだ。そしてこの光はただ三つの道しか知らない、すなわち同じ熱中を吹き込み、この熱中を永遠の若さの断面そのものにつくり変えるべく、人間の心のもっとも秘められた、もっとも照らし出すことのできる地点に集まることになる詩、自由、そして愛。

                            (ブルトン『秘法十七番』)


 こんな文章を読むと、ブルトンのように語ってみたくなる。愛は、アナンケーへの愛と自由は、ひまわりの夜に沈んだ、裏箔のない、裏側のない鏡に映し出されるオブジェの方程式が示しているように、つる草のごとく巻きついた私の偶然からなる必然の打ち震える待機に、優雅な揺れる手をそこで差し伸べていたのか。ああ、詩、自由、愛。だがブルトンやゲーテの真似はよしておこう。むしろ暗く、不吉である事物の様相においては、例えば、なかんずく女性との出会い、それだけが悲しいかな私に客観的偶然を授けてくれるわけではないからである……。


 先ほどの文章のすぐ前にブルトンはこう書いていた。

  

《ルシファーが墜ちてゆくあいだに彼を離れた一枚の白い羽根から生まれた自由の天使は、闇のなかにわけ入ってゆく。彼女が額に戴く星はまず流星に、ついで彗星と猛火になる》。



 ところで氷の亀はもうすっかり日の光に溶けてしまったのだろうか。

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  第71回 旅の記憶 - 2016.02.03

                                                            第71回 2016年2月




                                 
旅の記憶




                                                                        鈴木創士




四方田犬彦『蒐集行為としての芸術』『俺は死ぬまで映画を観るぞ



 モーリス・ロッシュという作家がいた。もう持っていないので確かめようがないが、たしか80年代初頭に『流行通信』に載った、すでに老齢に差しかかった彼の写真をよく覚えている。撮ったのは写真家田原桂一だったと思う。モーリス・ロッシュは痩せていて、何も見ていないようなうつろな目で少し怒ったように上を向いていた。とてもいい写真だった。インタヴュアーによると、モーリス・ロッシュは若者が着るような太いストライプのシャツを着て、ウォークマンをしたまま、会うたびに、からだのどこが悪い、ここが悪い、といつも文句ばっかり言っていたらしい。
 最初、彼はジャーナリストで作曲家でもあった。音楽評論を書いたし、舞台音楽も作曲した。新聞のコラムか何かでフランスの作曲家プーランクのことを悪しざまに言ったので、プーランクの友人だった文壇の大御所アラゴンの逆鱗にふれて、仕事がなくなった。モーリス・ロッシュの最初の本はイタリア・バロックの作曲家モンテヴェルディについての素晴らしいモノグラフィーである。ジャン・パリが言うように、モーリス・ロッシュは「モンテヴェルディ、それは私だ」と言いたかったのか。



 彼は前衛的な文学雑誌『エレマン』や、ジャン=ピエール・ファイとともに『シャンジュ』を創設し、『テル・ケル』などにも寄稿していた。小説ともエッセイとも詩ともつかない奇妙で滑稽な本を書いた。自分で描いた幾つもの骸骨のデッサンのおまけ付きで。彼はつねに死に取り憑かれ、そのことばかり語っているのに、モンテヴェルディのマドリガーレのように軽妙なところがある。絶望とあらゆる次元の困窮は、ヴェネツィアの石畳の上か、どこかの墓石の前でまるで延期されているかのようだ。久しぶりに彼の本を探し出して、頁をめくってみた。降って湧いたようにたまたまこんな一文に行き当たった。
 「おまえは視覚を失うにつれて眠りを失うだろう。(…)うつろだ、おまえの眼差しは。今では言い表すことのできない、ある過去のすべてがある。おまえは待つだろう、大きく見開いた、からっぽの目を、この不在に注いで…」。

 
 何を待つというのか。おまけにこの「待つ」の時制は未来形だ。それなのに眠りは失われることなく、眠りは眠りを紡ぎ続けている。われわれは暗くて陰気な巨大な霊廟のなかを歩いていたのではなかった。ギュヨタの回想録めいた本に『昏睡』というのがあるが、記憶のなかに潜ったままでいることは昏睡状態に似ている。真っ白の昏睡状態。そこから覚める時がやって来る。死も同じである。死は何かから目覚めることかもしれないのだから。

 ある過去が頭をもたげる。ひとつの過去のすべてが。そっくりそのままで。だが言葉は口に端に出かかっているのに、いまここでそれを言うことがどうしてもできない。いや、言葉が出かかっているなどというのは嘘である。言葉は自らを吞み込み、自分を食い尽くすだろう。後に残るのは真っ白な昏睡というぼんやりとした記憶だけ。ある記憶が復讐しにやって来るのか。旅の記憶が? 私ではなく、記憶のほうが何かを待っているのか。不在であるのはどちらのほうなのか。復讐? 幸福な記憶が? そんなことはあり得ない…。

 
 四方田犬彦の新著『土地の精霊』が面白くて一気に読んだ。この本は旅行記で、ソウルからタンジェ、クラクフからカルナック、ハバナからパラオ、ウルルからタナ・トラジャ、ラサからルルド、奥出雲からノーンカーイまで、三十三の町をめぐる旅の記録である。著者には、ダンテの「煉獄」篇と同じように三十三の詩からなる『わが煉獄』という詩集があるが、その意味ではこの旅随筆も煉獄の記録なのだろうか。「私はこよなく聖なる浪から出てきた、新しい葉をつけ、すっかり衣がえした新身を浄め、いざ登るべく、かの星々へ」(寿岳文章訳)、煉獄の旅の最後に、ダンテはそう書きつけていた。

 記録などというと味も素っ気もない感じがするが、そうではない。戒厳令下のソウルや、きつい忘却にさらされたチェジュドや、ベイルートや、西エルサレムや、ユダヤ人の強制収容所のあったテレジンと、それらに比して、例えば廃アパートを乗っ取り勝手に住みついたパンクたちのたむろするロンドンのカメドンの家(私もよく聴いていたバンド、フライング・リザーズのメンバーの恋人の留守部屋でなんと四方田犬彦は寝泊まりしていたらしい!)、ハバナからのおかしな逃避行、インディオの町クスコのコカの葉譚では、その書きっぷりに違いがあることはもちろんであるし、旅がいつも同じトーンで彩られているはずはない。だが幸福な思い出はいつも苦い味がするし、太陽と月が苦いように、同じことである。
 著者の人格は時間と場所を引きずって旅そのものに憑依される。いずれもう誰のものかもわからなくなるはずの記憶のなかには、通りすがりに、日も照るし、雨も降るのだから、旅の随筆集というのはこうでなくちゃならないのである。主観的なノスタルジーのことを言っているのではない。その点ではこの本の文章はどこか緊迫していて、切り詰められている。この本には悲痛さの木陰にあっても真率さと爽やかさの大気が満ちている。ある種の口惜しさを伴いはしても、日本からやって来たこの「人生の乞食」も、まるで自然にそうなったかのように旅人であることを受け入れたように見えたこともあったに違いない。この本の四方田犬彦は何よりもまず土地を、場所を、人々を、世界を愛してしまったのだろう。われわれが生きているのはこの世界なのである。
 旅は「知識」を授けてくれるのだろうか。ニーチェを引用しなくても、たぶんこれらの喜ばしき知識は貴重なものとなるに違いない。ともあれ著者の記憶の鮮明さには驚くべきものがある。例はいくつもあるが、例えばイタリアの町レッチェについてのくだり。
 「レッチェの魅力は、長い午後がようやく終わり、いつしか忍び寄った夕暮れが夜へと転調していく短い時間の間に、いや増していった。昼間は老人の黄ばんだ歯のようにしか見えなかった建物の色調が、ひとたび夜間の照明を投じられると、深遠なる静謐さ湛え始める。静謐さは怜悧にして柔和であり、複雑な装飾を携えていながらも、手を触れれば溶融してしまうかのように流麗でもあった。建物のある部分は凍てついた花火のようであったが、その隣は溶けだしたままふたたび凝固した、黄金のクリームのようだ。
 不思議なことに、夜ともなれば広場でも大聖堂の前でも、人を見かけることがほとんどなかった。迷路を廻り無人の広場に躍り出たわたしは、そこが昼間訪れたのと同じ場所だと気付くのに時間がかかった。別の道を辿り、別の証明に導かれて到達した場所は、まったく異なった相貌をわたしに示した。わたしは自分が長らく育ててきた孤独が、この町に入り込んだ瞬間からより純粋に、より深く研ぎ澄まされたような印象をもった。とはいえ、邸宅の壁面や円柱に刻み込まれ、純白に輝く彫刻たちは、わたしにむかって永遠の喜びを説いてやまなかった。
(…)
 あるパラッツォのメンソーラ、つまりバルコニーの下の持ち送りの部分には、上部の突出を支えるため四体の女性の立像が設けられていた。彼女たちは目を見開き、腕にかかる台座の重量をものともせず、永遠の任務に就いていた。左側の台座の下にある二体の像は、美しい顔と肢体、そして細やかな襞をもった衣装を保っていた。だが右の二体はといえば、不幸な偶然から長年にわたって雨風に浸食され、ひどく傷んでいた。一体は鼻梁が半ば剥離し、片腕が惨たらしく欠落している。そのために優雅であった衣装は削ぎ落とされ、やせ細った肉体に浮かび上がる肋骨のような姿を見せている。だがもう一体はさらに悲惨なありさまであった。顔は損なわれてこそいなかったが、全面にわたって鱗ともケロイドともつかない泡粒に覆われ、それが首筋を伝わり、掲げられた両の腕から胸元の衣装にまで及んでいる。その奇怪な姿は、あたかもこの地を襲った悪疫が、任務遂行のためにこの場所を離れることを許されなかった彼女を、唯一の犠牲者として選び出したかのように思われた」。

 
 私はこの場にいながらにして、同じように鮮明な旅をすることができるだろうか。たぶん無理だろう。私は著者の旅のこの鮮明さに感嘆の念を覚える。旅人もまた風景のなかにいるように見えることがあるだろうが、旅人にとって自分は風景のなかにはいないのだ。

 だがここで私が私を思い出し、覚えているということは、私がそこにある風景のなかを通り過ぎたということとどう違うのだろう。私が風景のなかを通り過ぎるには、私は私を忘れていなければならない。私はどこにいたのだろう。どこにいるのだろう。どこにいることができるのか。だが厳密に言って、私が私を思い出すことなどほんとうにあるのだろうか。どの「私」なのか。

 
 記憶の鮮明さはどこへ向かうのだろう。それは発作のように突発的なものなのか。発作はずっと続いているようにも見受けられる。この場合の鮮明さは必ずしも固有名や実在論的な歴史=物語についてのそれではない。少なくともそれだけではない。そして無数の唯名論的な歴史は大文字の「主体」、歴史的主体と呼ばれるものを欠いてしまうのだろう。

 だがわれわれ全員が健忘症にかかっているのだ。それはプラトニズムの病いの結果なのかもしれない。「そのとき」というものはもうないのだから、瞬間が物語を開始し、物語が瞬間を動かしたというのは確かなことではない。むしろそんなことは「悪い」小説かもしれない。ぶよぶよの大頭の書いた小説。われわれが気に入っているのは、何の役にも立たない事物であり、ゴヤの描いた幽霊やゴヤの見た幽霊のほうである。三途の川を渡る六文銭はもっていないし、好きなのは三文オペラや三文小説のほうである。

 
 旅人はユリシーズのように帰還するだろう。待っているのは、ノミだらけになって死にかけている愛犬アルゴスだ。四方田犬彦は別の本『蒐集行為としての芸術』のなかにこう書いていた。

 「最後に真白い忘却が到来する。事物は来歴からも、寓意からも解放されて、どこまでも横滑りを続ける瞑想の対象となる。それは記憶をめぐる擽(くすぐ)りであり、永遠に辿り着けない想起の行為となる」(「洪水の忘却」)。

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     ジュンク堂吉祥寺店 いんやくのりこさん、いんやくりおくんの本も一緒に陳列

 

 

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 神奈川新聞の論説・特報を読むのが毎日の楽しみになっています。時代の正体が書籍化されているのを知り、時代の転換点となっている現在の日本の状態を記憶しておくためにも手元に欲しいと思い、購入しました。
 記者の方々の本気が伝わってくる内容に、私自身も怒ったり、自分を恥じたり、心を動かされました。
 権力は放置すれば暴走し、民主主義や自由も放置すればなくなってしまう。私たちは自由であるために、自らの考えを持ちそれを自らの言葉や態度で表現していかねばならない、戦わなければならないと強く思いました。
                                                   土井久瑠美 横浜21歳

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                                                            第70回 2016年1月




もうひとつの陰翳


                                        
                                                                      鈴木創士




ベルナール・ラマルシュ = ヴァデル『すべては壊れる
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ

 

 


 年末、咳をごほごほしながらモランディ展を見に行った。
 この美術館は安藤忠雄の建築だが、いったいどこがいいのだろう。それどころか私にとっては最悪だ。必要以上に歩かされる。ほとんど無意味なだだっ広いだけのスペース、途中で休めるソファも、絵を遠くから眺めるには低すぎる。陰気で無味乾燥な近代的霊廟のなかをぞろぞろ歩かされている気分になってくる。気持ちがかさかさしてくる。ひどく疲れる。おまけに夕方ともなれば何ともいえない不気味さがあちこちから漏れ出ている。埋葬されかかっているのか。どこの誰が? 絵を埋葬するというのだろうか。いや、絵を埋葬できるのは画家だけである。展覧会を見終わると、コンクリートの貧相な霊廟の通路からすごい夕日が見えた。
 最近、大阪心斎橋にある大丸の建物、ヴォーリーズの最高傑作を取り壊すの壊さないのとすったもんだやっていたが、われわれはほんとうにどうしようもなく愚かである。あきれて、微熱のせいでよけいに無力感に襲われる。未来のため、未来の市民のためと言うならば、陰気な霊廟こそが破壊の対象になるべきなのではないのか。
 でもモランディ展なのだから、気を取り直そう。

                                      *

 光のなかに、淡い光のなかに溶けてしまったのだとずっと思っていた。だがそうではなかった。私の思い違いだったのか。

 
 イタリア・ボローニャの画家ジョルジョ・モランディの描く物も、物の置かれた平面も背景も、光の粒子に分解されてはいなかった。光の粒子は凝集し、背景の荒い筆の痕跡が消えないままに、それでいて絵の前景は丹念に塗りこめられ、そのまま別のあえかな発光体となって、ぼんやりと影を含めた影の反対側をつくり出していた。だが灰色がかった、歳月によって汚れたままのピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画を思わせる色調といえども、そこに強く物が在ることを弱めることはない。埃をかぶったままの壜や花瓶や水差し、これらの物が言葉を語らずに自らを、自らの本質を主張するためには、背景のどこか、あるいはまた別のところ、つまりタブローのなかに、見えない光の「白い穴ぼこ」が、あるいは「白い背景」のようなものがそれとなく口を開けていなければならないのだろうか。そうとは名指せない灰色とは、「白い穴ぼこ」なのか。この白さは闇をもたない暗がりの一種、すなわちある種の明るさだろうか。この無意味な白い穴ぼこのせいで、物はへこんで、後ろに少しだけ後退し、そのことによって一気に物は前のほうへと現前する。物はつねに前にある。小さくかしこまって、ちょこなんと、かわいらしくもあり…。私は矛盾したことを言っている。だがモランディの絵画は矛盾だらけなのだ。


 
 そこに描かれた物の本来の影もまた、ただそこを時が過ぎ去ろうとしていることを、そこがこの世であることを、そして物が生活のなかに、なにものにも邪魔されることのない静かな生活のなかに置かれていることを示しているだけだった。光と影と物は分解するどころか、薄明かりのなかで、それぞれがそれ以外の言葉をもたずに不思議なコンポジションをつくり出していた。これは明らかに画家が意図したことだった。そしてタブローのなかからは物音はほんの少ししか聞こえなかった。聞こえるのは窓の外の遠くの鳥の囀りくらい…それに誰もいない…。すべてが淡い光のなかに溶けるいわれはなかったのだ。光はそのままただぼんやりとそこにあって、そうして稀薄なまま何事もなかったかのように薄く淡く満ちているだけである。


 

 私はふらふらしながら絵を見て回る。一緒に行った連れは画家だから、彼女なりの見方がある。私には関知できないことである。私は絵をひとりで見ている。モランディの宇宙は選択されたものである。少なくともわれわれが見て知っていると思い込んでいる世界は、つねにわれわれの世界とは別種の世界なのだ。画家たちはそれを見ている。これは画家にとってほとんど公理と言えるものであるが、この世界には、画家が見ている世界には、いったい何があるのだろうか。われわれはそこに住んではいないが、私はそこにしばらく住んでみたいといつも思う。そしてウンベルト・エーコが言うように、モランディの絵は連続していない。マチエールであることをそれとなく主張するマチエールは連続を免れるのかもしれない。だがそれだけではない。それは不連続の物の世界であるし(この点ではやはりモランディが形而上学派を通過したことは無駄ではなかった)、同時に物の世界でないとも言える。



 「静物」はイタリア語ではnatura morta、つまり「死んだ自然」である。英語ではstill life「静止した生、または生活」である。これは同じものを指しているのか。もののけの物でもあることを考えれば、日本語の「静物」という訳語は折衷的でなかなかいい。モランディはイタリア人だったのだから、彼の静物はまずは死せる自然であったことは覚えておいたほうがいい。ところで、花瓶に生けられた、モランディが描いた花はつねに造花だった。では、風景画に描かれた風景も含めてモランディにとって「自然」とは何だったのか。少なくともそれは画家の目にとって選択された自然、選択されざるを得ない自然である。埃はそのままなのだから、淘汰されるのではない。自然はけっして淘汰されず、フレームのなかに選択されるのだ。たぶん望遠鏡を使わずとも、モランディの目は望遠鏡の機能も果たしている。だが、それならそもそも「形の生」というものがあるのだろうか。
 モランディの静物を近くから、そして遠くから何度も見てみる。形は好みどおりにそれぞれ違っているが、たしかにそこには円錐、円筒、球がある。だが、セザンヌが言うようにそれだけなのか。私にはいまのところ何も言うことができない。言葉は予兆になる寸前に、喜ばしくも地に墜ちる。モランディの沈黙は知性であり、知性の外面を必要としない知性の賜物であり、この不退転の頑固さには厳しさも激しさも愛嬌もある。

 

 暗い色調の絵は、実物を見ると、誰の絵ということもなくどこか伝統的なイタリア絵画を思わせた。これはモランディがピエロやジョットに心酔していたということとは別の意味である。ああ、それにしてもあれらのルネッサンスの画家たち! モランディの暗い色調の絵がそれほどずっしりとしていることに私は今回あらためて気づいたのである。明るいほうの絵とはまったく別物である。そして暗いほうの絵にはすべてを抹消しかねない「白い穴ぼこ」は描かれてはいない。水彩画と比べてみれば、それははっきりしている。われわれには見えているはずのものを誰も見てはいない。私はモランディとよく比較されるシャルダンを比べようとは思わない。シャルダンの静物も素晴らしいが、私にとってはまったく違う絵にしか見えない。

 

 光による類似。光を透過する、光に透過された物による類似。差異が際立つのはしたがって当然のことである。モランディの絵画のなかの類似性は、批評家たちがかつてこぞって差異について言っていたこととは反対に、汲み尽くし得ないものとしてある。光は、淡い光もハレーションも含めて、すべてを似たものに近づける。たしかジャン・ルイ・シェフェールが『エル・グレコのまどろみ』のなかで言っていたように、光による類似があるのだ。コンポジションが変えられたとしても、それでいて類似性は充満する。もうひとつの平凡さ、もうひとつの平板さが姿を現す。その様は誰も見たことがないものであり、もはや凡庸とは似ても似つかぬものだ。もうひとつの陰翳、つまりもうひとつの暗がり、もうひとつの明るみがこれに関与する。これらの壜の単独性、その明るさは、細部が全体と相似であるという条件において、まさに類似のなかで現実化される最終的な光の様態なのである。魔術の解説をしているのではない。私が言いたいのは、現実は、少なくともモランディの絵画のなかに描かれた現実は、そうなっているということである。

                                      *
                                        
 久しぶりに谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読み返してみた。ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルは写真家田原桂一について「写真的行為の諸様態」という見事な写真論を書いているが、そのなかに、写真家の目とカメラが捉え、写真が写し出す光の様態と特質をめぐって、谷崎のこの本についての言及があったからである。田原桂一の写真についてここで詳しく論ずることはできないとしても、彼の作品集『窓』もそうだが、それより前に見たはずの作家たちのポートレートを集めた写真インタビュー集『ホモ・ロクウェンス』もまた私にとってとても印象深いものであったことを言い添えておこう。私はそれらの作家たちのポートレートをいまでもありありと思い浮かべることができる。そればかりかラマルシュ=ヴァデルは、田原桂一の「窓」をマチスやロスコの「窓」の命題を覆すものだったと言っているのである。これが絶賛にほかならないことは言うまでもない。

                                       田原桂一『窓』より

 宇野邦一は新著『〈兆候〉の哲学』のなかで、このラマルシュ=ヴァデルの田原桂一論がほぼ完璧という印象を与える精緻なエッセーであると書いているし、また川端康成や芥川の言う日本人の「有終の美」や「末期(まつご)の目」、はたまたラマルシュ=ヴァデルの言う「日本人のベネディクト会的パラノイア」については、「かなり繊細な思考や感性をもつ西洋の人でさえも、アジアを外からながめるときには伝染してしまう〈エキゾティスム〉に彼もまた陥っていることを否定しようとは思わない」と述べているが、私もそれらのことに同感である。だが、ふざけた言い方ながら、われわれはラマルシュ=ヴァデルの味方である。さしあったてここで私が取り上げたいのは、ベルナール・ラマルシュ=ヴァデルのエキゾチズムについてではない。

 

 ここで谷崎潤一郎のことを長々と書くのは嫌だし、私は大谷崎の文章のうまさを認めることに吝(やぶさ)かではないが、彼のエッセー、この『陰翳礼讃』や『饒舌録』が、ラマルシュ=ヴァデルとは違ってどうしても好きになれない。
 たしかに光にはさまざまな質があり、闇にはいくつかの層があることを、谷崎は自家薬籠中の物を懐からでも取り出して、光と闇の手まりをうまく手なずけでもするように、説得力をもって、出だしは繊細な筆致で描き出しているが、それがどうして日本人と西洋人の光の捉え方の違いなどという結論に落ち着くのか私には合点がいかないのである。おまけに厠の話を筆頭に、光と影の質というきわめて繊細な問いかけからこの随筆が始められたにもかかわらず、あげくの果てに陰翳をとらえる能力が、あたかも肌の違い、黒人や白人や黄色人種などというものに関わっているなどという結論じみたことを言われた日には、そんな馬鹿な、大谷崎もただの俗物でしかなく、彼の美学はその悪趣味を映す鑑であったのではないかとしか考えようがなくなるではないか。彼の「趣味」とやらを百歩譲って尊重するにしても、この『陰翳礼讃』のなかで述べられた彼の和風美学から鑑みれば、神戸の岡本にあった恐らく彼が建てた唯一の家屋、阪神大震災でつぶれてしまった和洋中折衷のかなり奇矯な家のことを考えれば、いかにそれが歴史的には貴重なものであったとはいえ、まあ、余計なお世話であろうが、趣味の世界においておや、言行一致はなかなか難しかったのではないかと同じ日本人として少しだけ意地悪も言ってみたくなるのである。

 

 薄暗がりは薄明かりでもある。
 もちろん西洋絵画のなかの光、というか絵画のなかの光の質も、それ自体すべてが独特のものである。それに関しては光と影について谷崎の言うことに一理あるとしても、まったく反対の含意としてである。例えば、南フランスや地中海の風光、その光と影の質とは無関係であるとは考えられないニコラ・ド・スタールの晩年のタブローの明るさについて思ってみるなら、結局は自殺してしまったこの亡命ロシア人の絵には、明るさと、明るさだけによる陰翳がほとんど取り返しのつかない形で塗り込められているからである。このことは動かし難いし、ある意味では異様なことだった。グレコにとってのトレド、ヴァン・ゴッコにとってのアルル、セザンヌにとってのエクス、モランディにとってのボローニャなどなど、ある場所が画家にとって決定的であるということはあるだろう。その場所には独特の光が射していて、独特の暗がりがあるからである。谷崎があえて日本の暗がりについて言うまでもなく、画家たちの目からすれば、至極あたりまえのことではないか。

 

 夜であればいつ祖父の家の厠に行こうとも、あたりの闇からじめじめした冷気が伝わって来る木造の渡り廊下から、いつもヤツデの大きな葉っぱが闇のなかにさらにまっ黒い影を落としているのが見えていた。自らが不浄であるのか便所が不浄であるのかいざ知らず、不浄であるには違いなかった便所にそもそも行くのは怖かったので、どんなときもこのヤツデの黒い影が少しでも夜の微風に揺れていたりすると、なおいっそうの恐怖を覚えるのだった。私には白っぽくも見えた幾層をもなすこの闇の層のことはよく覚えているが、谷崎潤一郎が言うように、だからといって自分が真に風雅の骨髄を心得ているなどとはとうてい思えないのである。

 

 最後にベルナール・ラマルシュ=ヴァデルの「陰翳礼讃」ともいえる詩の一部を引用しておこう。陰翳礼讃とは光の礼讃でもある。詩は「カテドラル」と題されている。

    遺灰へと通ずる足音は
    薄暗がりのうちのいったいどこで響いているのか
    一年中陽に照らされて赤銅色になった
    希望のかけらに寄りかかる
    シルエットのなか
    上のほうに置かれた光の象嵌のあいだで。

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12月6日『西日本新聞』読書面

 

 

12月6日『上毛新聞』読書欄

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  第69回 病気の窓 - 2015.12.04

                                                          第69回 2015年12月




                                  病気の窓


                                        
                                        
                                                                        鈴木創士


                                        


アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『ナジャ
笠井叡『銀河革命』『天使論』『聖霊舞踏
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに




 以前、フランスの作家が、窓の外から、寝具の乱れた、誰もいない寝室を写真に撮って、それに「恢復期」というタイトルをつけたい、というようなことを書いていたが、それでいいのだろうか。窓越しに光の射した、誰もいない明るい部屋は、むしろ死の部屋である。タイトルは「死後」か「死臭」にしたほうがいいと思うけれど、それではあまりにあからさまに過ぎるだろうか。

 

  数日前からひどい扁桃腺炎をやってしまった。子供の頃、いつも扁桃腺を腫らしていたことはおぼろげに覚えているが、こんなにひどいのははじめてのことだった。
 金曜日に大阪の画廊に行って、そのあと近くでコーヒーを飲んでいたら、ずいぶん喉が痛いな、と人ごとのように思っていた。さっき見た友人の描いた静物画以外のことは何も考えていなかった。つまらない現代美術ではなかったので、とても気に入った。できればほしいし、値段くらい知りたいとも思ったが、画廊の人と口をきくのが嫌なので、諦めて画廊を出た後だった。
 コーヒー店は客も一組くらいで、がらんとして、微熱状態にはうってつけだった。ガラスの向こうはもうすっかり暗くなったばかりである。孤独と病いがからだの感覚を研ぎすますことがある。からだが他人そのものではなく自分の他人のようなものと化し、自分が自分を見る他人のようになっている。それでいて当然すべてが自分のなかで起きているのだが、言えることは、ただ時間だけが無駄に流れ去るということだけである。自分が無為のただなかにいることがわかる。これは非常に哲学的な経験なのだが、この感じは案外好きである。ジャン・ジュネは無為のなかで星空を見上げたとき、シーザーが見た星空と同じ空だと思って驚愕したことがあったらしいが、このコーヒー店の窓の外を誰が見たのだろう。相手がジュネなのだから、こんな比較は馬鹿げているが、誰もが、万人が、窓の外を見たのだ。ということは誰も何も見てはいないのか…
 電車で神戸に戻った。しみったれた感じのする電車のなかでひどく肩が凝っているのがわかった。三宮に着いて、入ったことのない居酒屋に入った。食べ物がひどくまずく感じられた。喉のせいではなく、たぶんほんとうにまずいのだろうと思った。金曜日なのでかなり込んでいたが、まわりに興味を覚えるような若者も老人もいなかった。魅力的な亡霊も外道(これは仏教用語で、妖怪その他のことである)もいなかった。類似はあった。灰色の類似ならいい。でも灰色ではない。これはけばけばしい、うるさい類似だった。こんなときにひっそりと愛すべき孤独を感じることができるのか。まったく無理である。退屈が嵩じると、しまいにどうしてこんなところにいるのだろうと考える自分にいらいらしてくるだけだ。早々に引き上げるにしくはない。大阪でも少し飲んだので、もうかなり酔っているなと感じられた。顔がやけに熱い。植物の気持ちはわからないが、花が咲いたみたいである。たぶんかなり熱が出ていたのだろう。
 よせばいいのに、もう一軒知らないところに入った。一種の悪癖のように何かを考えようとしていたが、頭のなかは空洞で、脳軟化症を起こしそうなほど退屈とつまらなさと疲労が押し寄せて来たので、店を出た。友人のやっているバーへ向かった。こういう感じになると、最近は、軽い病気のごとくさっと引き上げることがなぜかできなくなってしまっている。ナジャのことを書いたブルトンの気持ちがわかると言えばおおげさだが、私はいい歳をして何かを「待っている」のだろうか。だが、私は、ブルトンのように「私とは誰か?」などとは思わない(ナジャを書いたときブルトンは32歳だった。まだ32歳だったとも言える)。自分を棚に上げて、ただの通りすがりの人を決め込んで…。酔っていても、通行している人々や、たまにはまぼろしを眺めることはできる。見ているのはこっちのほうである。雑踏はもともと嫌いではなかったのに、どうでもいい世の中だ。一億総活躍社会だって? 本気で言っているのか。心の底から嗤わせる。臍が大やけどだ。いったいこの国はどうなってしまったのか。この国の文学だってつまらないことこの上ない。もう誰かと誰かは同じ言語を喋ってはいない。ああ、そうだとも、元々そうだったのだから。だが今は危機的だし、歴史的惨状と言ってもいいかもしれない。まあ、いいさ、それにしてもほんとうにうんざりする。
 バーで、喉の消毒になると思ってテキーラを何杯も飲んだ。私よりずっと若い友人のTがやって来たので、気分がよくなり、飲み過ぎてしまった。二人で次の店にも行ったのだが、どういう経緯なのか、何が悲しいのか、何が悪いのか、よく覚えていない。悪いのはたぶん私なのだろう。帰ったのは朝方近くになっていた模様だ。その日が最悪だった。土曜なので、もう医者はやっていなかった。寝ないまま午前中に医者に行く元気はまったく失せていた。真夜中を過ぎると、喉が腫れすぎて息が苦しくなった。鼻も詰まっていたので、息ができない。まったく眠ることもできない。救急車を呼ぼうかと思ったが、扁桃腺くらいで救急車を呼ぶのもアレだろうと思ってやめた。月曜朝一番に医者に行ったら、そういう場合はすぐに救急車を呼んで下さいと叱られた。死ぬことがあるらしい。
 以前、文楽について「息をつめる」という文章を書いたことがあるが、こちらは、浄瑠璃や人形が、息をこらす、息をこらえる、息を殺す、息を吞み込むということである。浄瑠璃の歌というか科白が途切れ、そして人形が絶句するのである。だけど今回は息をつめたのではない。文章が絶句するように、言葉と言葉のあいだで絶句したのではけっしてない。パニックは言葉を全部消し去ってしまう。
 以前、心臓が悪くなり、肺に水がたまって息ができなくなったことがあったから、二度目だった。二度あることは三度あってほしくない、とつくづく思う。
 息ができない。この怖さはそんな経験をするずっと前から感じていた。阪神大震災を経験してからよけいに窒息を恐れるようになったかもしれない。でもエドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」という短篇が昔からめっぽう怖かった。棺桶のなかに生埋めになる話である。落語にも河豚毒(テトロドトキシン)で仮死状態になって棺桶のなかで目が覚めるという似たような話もある。アルトーは、棺桶の四つの板があるから人は死ぬのだと言っていたが、一理ある。

 

  ずっと床に臥せっているので、俺のからだはどうなっているのだろうと考えざるを得なかった。昨今は喉だけではなく、ご愛嬌のように、あちこち悪くなっているが、最初にひどくからだが悪くなり、ほとんど歩行困難になった頃、ダンスを見たことがあった。笠井叡の弟子筋に当たるとかいう人が振付けをして(失礼ながら、お名前は失念した)、クラッシック出身の女性ダンサーばかりで構成されたモダン・ダンスだった。美しい跳躍。伸びた脚。軽い肉体。空中というものが、空気が、そこにあった。私はひどく感動した。舞踏を見て感動したことはそれまでにあったが、そのときは少し違った。変な気持ちだった。私は、どうやってその会場にまで行ったのか、この人はどこへ帰ればいいのか、というくらいひどい状態だったはずである。その感動はたぶん野蛮人の感情だったのだろう。繊細と野蛮はもちろん両立する。



 だが病いは何らかの欠損や欠如ではない。じつはほとんど充溢の状態である。タマゴのように充満している。マルセル・グリオールの本にドゴン族の宇宙タマゴのことが書かれていたが、そんな感じである。そんな感じと言われてもわからないかもしれないが、こんなからだは日常のなかにもいくらでもある。アルトーがそうしたように、つまり組織や構成や構造のないからだというものを考えることができるし、実際われわれはそれを生きている。病んだからだ…そこから始まるものがあるのだ。
 病んだからだは不動であるが、不動は動とまったく対等である。今年急逝した舞踏家室伏鴻の映像を見ていて、彼の美しい肉体が地面で動かなくなったとき、はっとしたことがあった。動かないこのブロンズのようなからだは、日時計の上でじっとしている蜥蜴のようだった。蜥蜴は冥府から戻ったばかりだった。すぐれた彫刻が不動のなかから浮遊や揺れや上昇や沈下、逃亡や消滅をつくりだすように、そこでも同じようなことが起きていた。だがやはり実際には動いていないのだ。

        

 世阿弥は足さばきがうまく、上手に歩く人だったらしいが、年がいってそれが嫌になったのか、少し考えに変化があったようである。現在、われわれの知る能の動きはむしろこちらの考えが元になっていると言える。なるべく動いてはならない。『花鏡』の冒頭近くには、「心を十分に動かして、身を七分に動かせ」とある。「立ちふるまふ身づかひまでも、心よりは身を惜しみて立ちはたらけば、身は体になり、心は用(ゆう)になりて…」。「用」とは、働き、あらわれのことである。動かなくても、心はさらにもっと現れるのである。河村悟の土方巽論は「裏の身体」について語っていたが、裏の身体がつくりだす裏の動きがある。つまり動かないことから始まるものがあるのだ。舞踏家と病人。

 

  疲れたのでもう筆を擱く。恢復期。なるべくなら動きたくない。

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                                     配信:時事通信社

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刊行記念トーク『すべては壊れる』
ベルナール・ラマルシュ=ヴァデル著『すべては壊れる』
(鈴木創士・松本潤一郎 訳、現代思潮新社、エートル叢書)


 
2015年12月4日(金)

17:00〜 参考上映
「忘れられた人々」Los Olvidados
(メキシコ/1950/81分/16mm)監督:ルイス・ブニュエル

18:30〜 鈴木創士・四方田犬彦 トーク

著者のラマルシュ=ヴァデルは1949年フランス生まれ。数多くの現代美術の展覧会を組織し、ヨーゼフ・ボイスのフランスにおける最初の本格的紹介者となるなど、美術評論家として著名だったが、晩年に長編小説を書き始める。本作『すべては壊れる』は古典的でありながら非常に特異な文体で書かれていて、動物の死の詳細な描写が印象的である。まるで「細部」だけで成り立っているような、独特の技巧に満ちた小説三部作の第二作目。その小説芸術は最晩年に近づくにつれて「死」の様相を色濃くするが、著者は2000年にピストルで頭を撃ち抜いて自殺。
ゴダールの映画『映画史』の終わり近くにはラマルシュ=ヴァデルの文章が引用されていたし、ブレッソンの映画『ラルジャン』には俳優として出演している。

訳者である鈴木創士氏とゲストの四方田犬彦氏という博覧強記の二人によるトーク・セッション。

神戸映画資料館 
神戸市長田区腕塚町5丁目5番1 アスタくにづか1番館北棟2F 201
078-754-8039(FAX兼)

http://kobe-eiga.net/event/2015/12/643/

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