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第63回 ペスト、ルネッサンス

                                                            第63回 2015年6月




 ペスト、ルネッサンス




                                                                        鈴木創士





イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』『エル・グレコのまどろみ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還




 ダンテ
 詩人ダンテが地獄へ旅立ったのは1300年4月8日の夕刻であり、「地獄篇」の執筆は1304年頃から始められたようだから、友人であったルネッサンス芸術の最初の真の革新者であるジョットは、もうフィレンツェで絵筆を縦横に走らせていたことになる。この友人をダンテが自分の作品のなかに登場させたのが、「地獄篇」でも「天国篇」でもなく「煉獄篇」だったことは、ジョットへの一種の称賛か、ユーモアたっぷりの微妙な揶揄だと受け取ったほうがいいと思われるが、どのような絵であれ、絵画が地獄をしたがえていたことにかわりはない。
 すでにわれわれの知るルネッサンスの時代は始まっていた。それどころか、いうところの「春の謳歌」と「人文主義」の新しい時代は、この世とあの世のどちらにも地続きだった地獄とともに始まっていたのだ。思想は思想としてはつねに何ほどのものでもない。地獄もまた絵画と同じように幾つもの時代をしたがえていたが、物質的にして非物質的なこの酸鼻の極みは、見て見ぬ振りをするわれわれにつねに冷水を浴びせかけてきたのである。

 

 地獄の門
 この初期ルネッサンスの時代にダンテはすでに道案内のウェルギリウスにこう言わせている。
 「望みの絶えた叫び声が聞こえ、呵責を受けるいにしえの亡霊たちが見え、すでに死んでいるのに、もう一度死にたいとさえ願う輩たちのたむろする所へ君を案内しよう」、と。
 こうしてルネッサンスの時代にいるわれわれはすでに地獄の門をくぐり抜けていたのである。どこへ向かって? 「嘆きの町」、「永劫の苦患(くげん)」、「滅びの民」のほうへ、である。
 ものぐさな「煉獄」さえもまだ遠いところにあったし、あれらの星々にまみえるのはまだまだ先のことである。花は地獄に咲いた。ルネッサンスが何百年にもわたって続いたというのは、私にとっていかにもおかしなことに、異常なことに思えるのだが、どうだろう。花の命は短いのだし、秘すべきものであるし、それ以外には狂い咲きするほかはないのである。

 

 死と生
 いかなダンテであっても、地獄の番犬ケルベロスの三つの頭を眠らせることはできなかった。一つが眠っていれば、二つが起きていた。ダンテ自身がまだ地獄にいたからである。
 ルネッサンスの時代、ケルベロスの三つの頭は「三位一体」を表しているとも考えられたようだが、こんなことはいかにも馬鹿げている。それにこの犬は一説によると五十の頭をもっていたとも言われているのだから、「三位一体」も、眠りと覚醒の話もよしたほうが身のためかもしれない。眠りは、ましてや眠りの眠りなど、とうぶん訪れることはないだろう。
 ダンテは出発したばかりだった。だがどうしてまた生きている身空で地獄に旅立たねばならないのか。だから冥府の河アケロンの渡し守カロンは、ダンテに当然のことながら腹を立てたのだった。
 「禍いなるかな、おまえら獄道の亡霊ども!」
 こいつらはどいつもこいつも死のうにも死ねない境遇にあるというのに、おまけにそれが掟であるというのに、そこのおまえはまだ死んでもいないじゃないか!

 

 混乱
 統一されたイタリア国家はまだ存在してはいなかった(それどころか国家の態をなすのは19世紀である)。この長靴のような半島はいわば戦国時代にあり、ルネッサンスの都フィレンツェでも、皇帝派と教皇派が血みどろの戦いを繰り広げていた。
 ダンテは政治闘争に敗北し、フィレンツェを追放となり、再びこの都に足を踏み入れるなら、火刑台での火炙りが彼を待っていた。『神曲』全体はまだ完成してはいなかった。ダンテはあちこちを転々としていた。後に神学者ジョルダーノ・ブルーノがそうすることを余儀なくされたように。だがブルーノは最後にはとうとう火炙りの炎に焼かれることになる。彼は火刑に処せられるときも堂々としたままだった。世界は無限である。これだけは撤回できない。「この場に及んで、地獄の業火をもって私を断罪する君たちのほうが、どうしてそんなにも震えているのか」。ガリレオはそれを見て、逡巡せざるを得なくなった。彼は情けないことにもぐもぐ言うしかなかったのである。「それでも…地球は廻っている…」、と。
 カトリック教会もまた腐敗のなかの腐敗に陥っていたと言わざるを得ない。歴史のなかに何度も押し寄せるこの腐敗の極みにあった教会に対して、真の意味で対抗した聖人、彼自身にとっても民衆にとっても、また小鳥たちにとっても、あらゆる点で何もかもが裸であった聖フランチェスコは、すでに一世紀ほど前に生まれていた。そして聖フランチェスコを崇拝するフランチェスコ派は、それが「天国」を準備したのかどうかはわからないにしても、最も優れた最も過激な神学者たち、ボナヴェントゥーラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアムをすでに輩出していた。
 普遍論争どころではない。ルネッサンスは最初から「一」と「多」の完璧な闘争状態のなかにあったのである。

 

 綺想
 ルネッサンスの「春の謳歌」のイメージの大部分をわれわれにもたらしたと考えられる「春」や「ヴィーナスの誕生」の作者サンドロ・ボッティチェリでさえも、晩年の傑作『神秘の降誕』の銘文にギリシア語でこう記していた。「1500年の終わり、このイタリアの混乱のなかで、わたくしアレッサンドロはこの絵を描いたのである」。



 当時のボッティチェリはサヴォナローラ派だった可能性がある。かつてメディチ家を批判し、激烈な説教を続けていたドミニコ派の修道士サヴォナローラが、フィレンツェのシニョリーア広場で焚刑に処されたのは数年前のことだった。サヴォナローラへの賛否をめぐって市民も二つに分かれた。ボッティチェリはこの修道士の影響のために華麗な絵を描くのをやめてしまったと言われているほどである。
 では翻って、さかしまに考えるなら、いうところの「春の謳歌」とは、それはそれで終末論を準備する、つまりその場限りの一種の終末論的綺想だったということになりはしまいか。同じく後の作品であるこの『神秘の降誕』が不安に満ちたひとつの綺想であったように。それはむき出しにして深遠な不安であったはずである。この不安を心に刻み込んでおかねばならない。

 

 老ミケランジェロ
 ミケランジェロの美しい「ピエタ」。だがピエタにもいろいろある。新プラトン主義はどうなったのか。パノフスキーは、ミケランジェロだけが幾つかの局面ではなく全体においてこの新プラトン主義を採り入れた、と言っているが、それにしてもミケランジェロが晩年に迎えたのも奇妙な「秋」ではある。このことを文字どおりにとれば、学者パノフスキーが予想以上に軽々しく見えるほどである。優れた学者も時にはつまらないことを言うものだということを覚えておくべきかもしれない。
 ミケランジェロ自身だけが秋を迎えていたのではない。春から秋へ。中世ではなく、ルネッサンスの秋。メディチ家礼拝堂の秋。霊廟はアレゴリー以上のものである。「しかもなんと厳しい冬を後にひかえた秋だろう」と詩人で美術評論家のイヴ・ボヌフォワは言っていた。
 ミケランジェロは八十一歳であれらの偉大なる「ピエタ」のひとつを彫ったのだから、彼は何を見たのだろうか。大理石の肌理(きめ)からもう汗が滴ることはなかったかもしれない。汗は彼の手のひらの皺、彼の困難な手相の脈絡をつたっていただけだった。ああ、ミケランジェロの最期の日々。
 ミケランジェロは一体の「ピエタ」に取り組んだ二日後、具合が悪くなった。神秘的統一は可能だったのか。それは「夜」の像だったのか。いや、彼にとって、像はあったとしても、ないも同然だ、あるのは飛び交う、絶えることのない、しつこいイマージュだけである。ミケランジェロはかつて「昼と夜はかく語りき…」と書いたことがあった。統一は次第に夜の暗がりのほうへ明らかにずれ込んでいたのではないか。私にはわからない。

 

 綜合と逆説
 ルネッサンスのジンテーゼ。綜合はありえないからこそ、それに具体的な形を与えるために、矛盾は矛盾として生きられなければならない、と先のボヌフォワは言う。それはひとつの逆説である、と。
 この逆説はグレコのような画家にあっては顕著である。だがその名のとおり天使のような修道士であったフラ・アンジェリコは、ボヌフォワが言うように、はたしてこの逆説を念入りに避けたというのだろうか。修道士として? 天使のような? だが、そのようなものがあるとして、倫理的完全さの裏面は恐怖で満たされているのではないか。フラ・アンジェリコの描いた、あれらの聖人たちの無惨に切り落とされた首を目を凝らしてよく見てみるがいい。頑な否定はそのためにあったし、いつも観念のなかでは、否定の否定は成功したかに見えた。ヘーゲルよ、ほんとうにそうなのだろうか。

 

 天使の恐怖
 イヴ・ボヌフォワが言うように、それほどグレコとフラ・アンジェリコの芸術は対極にあるのだろうか。グレコの実在性はそれほど不安定で、フラ・アンジェリコの理想主義はそれほど安定しているのだろうか。人間離れした(ほんとうなのか?)天使のような修道士は、それなら、あらゆる点であれほど堂々たる人間を思わせるマザッチョとは対極にはいなかったのか。そんなことはあり得ないではないか。
 信仰は何をもたらしたのか。だが芸術は物語の外部に出て行くことによって信仰すらも外への出口と化すのではないのか。内面化など起こらない、というかそれが起こったと同時に内面化は厳しい外面化の裏地にすぎなくなる。フラ・アンジェリコの絵画が、フィレンツェで若き日のピエロ・デッラ・フランチェスカを魅了したというのはたしかにそうなのだろう。だが道は幾度となく複雑に分岐し、すべての道はフィレンツェに通じてはいなかった。



 それに、例えば、きわめて美しい作品と言えるフラ・アンジェリコの『聖母戴冠』ですらも、この美のなかに恐怖が入り込む余地はなかった、起源のなかにぱっくり口を開けたひとつの裂傷はなかった、と断言できるのだろうか。とにかくほぼすべてのルネッサンス絵画において、私にはそれ自身の外にまったく逆の絵画的効果を必ずや期待できるように思われるのである。絵には別の細部があり、時と場所は選ばれることがない。その意味であらゆる絵画には素晴らしい不完全さがあるのではないか。

 

 ルネッサンスのメドゥーサ
 だがベンヴェヌート・チェッリーニのようなルネッサンス人もいる。この超絶技巧の芸術家は、スタンダールを驚嘆させたらしいかの有名な『自伝』で恐らくは誇張気味に語っているとはいえ、スキャンダルに満ちた生涯を送ったことはたしかである。16世紀フィレンツェ。少年の頃から、喧嘩、傷害、決闘、盗み、殺人、男色を繰り返し、投獄、逃亡、追放、自宅軟禁の憂き目をみる。こんなキャリアはカラヴァッジョ以上である。



 若い頃、ミケランジェロの壁画を模写していたと言われているが、彼の彫刻のポジティヴな「恐ろしさ」、畏怖すら感じさせる積極的「恐怖」と言いようのない「憤怒」は、明らかにミケランジェロの作品に深刻に対抗しうるものだと言っていいだろう。これは彼の自伝の文章の破天荒さから予想されるユーモアとはほとんど関係がない。
 メドゥーサの首を掲げるチェッリーニの傑作『ペルセウス』の冷淡さは、ほとんど時の権力者に対する神の最後の審判の残酷さに匹敵するかもしれない。この残酷さは万人が当然のことながら怖れを抱きつつ待ち望んでいたものである。ルネッサンスはいずれにしても厳しい冬を迎えたのである。

 

 ペスト
 ジョットも壁画に描いているハレー彗星がヨーロッパの夜空を横切った1347年に、クリミア半島にペストが発生した。ダンテと同郷であるボッカチオの『デカメロン』によると、このペストはヨーロッパの人口の四分の一を死滅させたと言われる。1351年には、ロシア。1502年、南仏プロヴァンス。このときには病気平癒のために医者でもあったノストラダムスが大活躍する。1576年、ミラノで大流行。同じ頃、フィレンツェに蔓延。1628年、ロンドンの住人の約半数が死亡し、都市は壊滅状態に陥る。1630年、ミラノで八万人、ヴェネツィアで五〇万人の死者を出す。1655年、再びロンドン。1666(666!)年、ペストはまたたく間にヨーロッパ全土に拡がる……。
 この簡略年表を見ても、クワトロチェントのイタリアだけはペストの影響下になかったなどとはとうてい言えないことは明らかである。ルネッサンスとバロックの時代はまさにペストが勝利した時代であった。死の勝利もまた結局のところ時代をしたがえてきたのである。

 

 ルクレチウス
 紀元前ギリシアの詩人ルクレチウスの『物の本性について』の写本が最初に発見されたのは15世紀イタリアにおいてだったが、面白いことに、この本はウェヌス(ヴィーナス)への讃歌から始まって、最後はペストのむごたらしい描写で終わっている。春から秋へ。いや、たしかにそんな生易しいものではないかもしれない。この本こそは、時を越えて、ペストにおいて、世界の終末において、ルネッサンスの寓意のひとつになったとしてもおかしくはない。
 「苦痛のやむときはなかった。へとへとに疲れ切って肉体たちは身じろぎせずにずっと横たわったままだった。病人は熱でほてり、あらゆる眠りを奪われたその目を大きく見開いてそれをしきりに医学のほうへ向けるのに、医学のほうは無言の恐怖にかられて、ただもぐもぐと口ごもるばかりであった。
 「かりに彼らのうちで万が一死と葬式をまぬがれる者があったとしても、おぞましい腫瘍に蝕まれ、腹から流れ出る黒い液体によって疲労困憊し、それでもやがて衰弱と死が彼を待ち受けていた。さらにしばしば腐った大量の血が、頭痛をともなって詰まってしまった鼻孔からほとばしった。そして人間のあらゆる力、物質のすべてがそこから流れ出した。そしてこのむかつくような血の恐ろしい消失をまぬがれる者があったとしても、病はさらに神経や関節、とりわけ生殖部位に向かうのだった。ある者たちは自分が死の敷居にいるのがわかって怖れ戦き、自らの性器を切除して延命をはかった。手や足を失って、それでもまだ必死で生きようとする者たちもあった。さらに目を失った者もいた。それほどまでに烈しい死への恐怖が彼らに襲いかかっていたのだ! 何もかも忘れてしまった、忘却に冒された者たちさえ見られた。彼らは自分が誰なのかもわからない有様であった…
 「そのうえすでに牧者も、羊の群れの番人も、逞しい鉤型犂の使い手も、みな全員が憔悴し切ってしまい、貧困と病によって死の手に委ねられた彼らの動かぬからだは、掘っ立て小屋の奥に山と積まれて、そこいらじゅうに散らばっていた。命を失った子供たちの上に時おり彼らの両親の死体が積み上げられるのを、そしてまた子供たちが父と母に折り重なって息を引き取るのを時おり見ることができた。
 「神々の聖域にいたるまで、ついに死によって命のない肉体で埋め尽くされていないところはなかった。そしていたるところで、天上の住人たちの神殿はあらゆる主人の死骸でふさがったままになっていた。その番人たちが神殿を主人たちの死骸でいっぱいにしていたのだ。というのも宗教も神々の権威も、このような時にはほとんど重きをなさず、現にある苦しみのほうがずっと強力だったからである。都市においては、死者たちの埋葬のためにそれまでこの民衆が執り行ってきた葬儀はもう見られなくなっていた。半狂乱になった市民たちは動揺のあまり混乱をきたし、誰もが悲嘆に暮れて身内の者を成り行きに任せて埋葬するのだった。幾多の恐ろしいことがなされた。差し迫った時と貧困のためにそうせざるを得なかったのだ。そして大声で泣き喚きながら、他の人たちのために積み上げられた薪の山の上に近親者の死体を置いて、燃え盛る松明をそれに近づけるのが見られた。彼らの死体を捨ててしまうよりはむしろ血みどろの戦いに絶えて…」(ルクレチウス)

 

 アルトー
 演劇はペストである。アントナン・アルトーはそう考えていた。20世紀のルネッサンス人であるアルトーは(私はそう思っている)、『演劇とその分身』のなかにアウグスチヌスの『神の国』第一巻、第三十二章から直接引用する。
 「肉体を殺したペストを鎮めるために、おまえたちの神々は舞台の戯れを己れのために奉納するように要求し、一方、おまえたちの司教は魂を腐らせるこのペストを避けようと舞台の建設そのものに反対する。もしおまえたちにまだ幾ばくかの知性の光が残っていて、肉体よりも魂のほうを好むのなら、どちらがおまえたちの崇拝に値するかを選ぶが良い。というのも悪霊どものたくらみは、肉体における感染がいまにも収まろうとしていることを見越して、肉体ではなく風俗を蝕むが故にはるかにずっと危険な災いを、このときとばかりに招き入れる機会を嬉々としてとらえるからである。はたして見世物によって魂にもたらされた腐敗ぶりや盲目さときたら、ごく最近でさえローマの略奪を逃れてカルタゴに身を寄せた者たちが、不吉な道楽の虜になって、毎日劇場に通っては我先に道化たちにうつつを抜かしていたほどなのだ」。
 どん底の人々が開け放たれた病気の家になだれ込む。彼らは他人の富に手をかけるが、それが何の役にも立たないことを思い知る。アルトーは、そのとき演劇が生まれる、と言っていた。現状のあれこれに対して無益な、まったく無駄な行為に人を駆り立てる無償性。そこは劇場である。ルネッサンス、つまり再生はひとつの無償性である。蘇った死体にとって、この無償性は現実化したあらゆる感情の作用よりもはるかに価値あるものとして現れるのである。第二次大戦中にアルトー自身の身体のなかで同じことが起きたように、外の異変や事件はそのまま身体の次元のあらゆる諸力の放電となって身体自身を組成する、というか一挙に皮膚の外にまで身体を外在化するのである。
 「なぜなら演劇は、不可能なことが現実に始まらない限り、また舞台で起きるポエジーが現実化した象徴に養分を与え、それを加熱しない限り、存在しないからである」。
 もしかしたらルネッサンス芸術、絵画にとっても、これと同じ事態が起きたのではないか。そもそも、アルトー自身が「演劇と形而上学」のなかでフランドルの画家ルカス・ヴァン・デン・ライデンの『ロトの娘たち』に言及していたように、アルトーの演劇の形而上学的イメージはもともとルネッサンスにあったのである。

 

 ウッチェロのマゾッキオ
 「どうあっても自らを見分けることができないひとつの絵画のために身体(物体)を組織すること」。
 ジャン・ルイ・シェフェールは『パオロ・ウッチェロ 大洪水』(第一版は『大洪水 ペスト パオロ・ウッチェロ』と題されていた)という本の冒頭近くで、いきなり奇妙なオブジェに言及している。「マゾッキオ」である。フランス語にも英語にも訳語はないらしい。したがって日本語にもこの言葉を指す訳語はない。
 ウッチェロの『大洪水』の左の前景部分に描かれたこの物体「マゾッキオ」を、恥ずかしながら私はずっと海水浴で使う「浮き輪」のことだろうと思っていた。絵が洪水を描いているのは本当だし、溺れかけている人がこれを首につけているのだから、なおさらである。つい先日のことだが、ルネッサンス学者の芳野明氏から、これはターバンを巻くための「芯」のようなものであると教えられて、自分でもあきれてしまったばかりだった。そういえばルネッサンス時代のイタリア半島の人々はターバンのようなものを頭に巻いている。



 私の無知にもかかわらず、それでもやはり「マゾッキオ」は、絵を見る限り、やはりウッチェロによってこの溺れつつある身体に「浮き輪」として与えられていることにかわりはない。換喩にとっては、無知も時には役に立つことがある。大洪水の際に、手綱を持つ手もまた流されてしまうのだから、泡を食った人間にたぶんターバンはほとんど役に立たないではないか。洪水のさなかにアケロンの河をダンテのように渡るとき、三途の川の冥銭、六文銭は支払われたのだろうか。そうなるとマゾッキオは一種の手形のようにも思えてくる。
 そして当時のフィレンツェの芸術家たち、ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョたちと同じように、最も早い時期にウッチェロは三度の飯よりも遠近法に深く取り憑かれていたのだから、この物体がいかに奇妙なものであるとはいえ、ウッチェロによって、絵画空間のなかの一種の幾何学的事物として描かれたことも事実である。幾何学的手形。ウッチェロは何を考えていたのだろう。いわば数学者でもあったピエロ・デッラ・フランチェスカによると、「マゾッキオ」は「固有の形態のうちにある図像(フィギュール)」であって、ルネッサンスの洪水=ペストは、すべてのアルカイズムとは無縁の未知なる新たな場所において、「新しい物体」、新しい形象を必要としていたことになる。
 だがやはりこのウッチェロのマゾッキオはピノッキオのように謎の本性を備えているとしか言いようがない。それはうれしいことに、そして残念ながら確かな絵画的事実なのである。

 

 大洪水
 歴史は繰り返された。真実はフィクションであるだけではなく、フィクションは真実である。過去と現在の科学の想像界、つまり妄想の否認をもって任ずる滑稽な妄想のことはこの際どうでもいい。
 『大洪水』と呼ばれるその名高いフレスコ画は、フィレンツェのドミニコ派の教会サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「緑の回廊」と呼ばれる回廊に描かれているのだが、ペストが病気の隠喩であると誰かが言っていたように、旧約聖書のノアの箱船はそのときペストの隠喩と化したとでもいうのだろうか。
 そう、洪水はペストである。
 土左衛門、なかには子供の溺死体も見える。絵の左手には神の怒りによってあてどもなく漂うノアの箱船。落雷で木は裂け、我勝ちに救われんとして箱船に殺到する人たち。箱船には乗せてもらえなかった人たちがしがみついている。
 右手には洪水後の箱船。水は静まり、空は晴れている。穏やかな日差し。だがここにもペストの隠喩がある。鳥が水に浮かんだ土左衛門をついばんでいるのだ。
 ノアは箱船の窓から身を乗り出し、誰かに話しかけている。絵の前景では、たっぷりとした襞のある、ゆったりとした法衣を身に纏い、聖職者かと思われる、そしてなんと五百年前のアルトーのようにも見えるひとりの人物が、東を向いて右手をかざし、おりしも祈りを唱えているところである。
  ここには明らかに新しい神学があった。
 われわれは祈っただろうか。アルトーに似たこの人物も祈ったし、われわれも祈った。まあ、さしあたっては、それで良しとしようではないか。

 

 ペストにもその前とその後があった。われわれが生きているのは、その前なのか、その後なのか、どちらなのだろう。

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