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第75回 ひげの吸血鬼

第75回 2016年6月



ひげの吸血鬼



                                                                        鈴木創士




ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命
鈴木創士『アルトーの帰還

 


 「イエスの弟子たちは安息日に麦の穂を摘み取って、ユダヤ人たちの怒りをかった。彼らを駆ってそうさせた飢えは、それらの穂でたいして満たされるはずはなかった。もし安息日に対する畏敬の念があったなら、彼らは準備された食物を見いだすことのできる場所へ来るまでに必要な時間だけ、このわずかばかりの満足を延ばすことができたであろう」。
           (ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』より)

 ヘーゲルが取り上げたこのイエスの弟子たちの話は、カフカの短篇「断食芸人」と対照的である。イエスの弟子たちはさして食べたくもないのに、人々の目を食べ物のほうに向けさせた。パンだけを食って生きているわけではない、と師匠は言ったのに。一方、断食芸人のほうは、結局、食べたいものがなかったから、断食芸をやり続けたのだということである。食い物の話は恐ろしい。だがどこかにもっと別のものがあるはずである。フロイト派に言っておくが、ヘーゲルの取り上げた話も断食芸人も欲望とは無関係だった。

 
 むこうに、茶色に変色して、くしゃくしゃになったヘーゲルの頁が砂にまみれて落ちていた。読まなかった頁だ。これらのヘーゲルの重々しい頁は永久に読まれることはないだろう。たいそうな話じゃないか。中味をくりぬかれた言葉がある。私の生きた現実の時間が消え失せてしまうまでそいつはひとりで勝手に喋り続けることだろう。頭にくるといつもやっていたように、湿った土の上をずるずる匍匐前進したくても、いまはそんなことはできない。散歩中のばあさんはさも軽蔑した顔をわざとこちらに向けてから、いそいそと立ち去った。ばあさんに手を振るかわりに、ゲイの連中が花束にそうするみたいに俺は榛(はしばみ)の茂みに顔を突っ込んでみた。二度とはやらない。蝉は鳴いていない。世界は小さい。原則はすたれた。ばあさんの後ろ姿が見えた。

 全身癌で亡くなった俺のばあちゃんの黒ずんだ顔を思い出す。ばあちゃんは母が嫌いだったのか。母ちゃんがいじめられているのを見ると、いつも近くの親戚の庭まで駆けていって、玄関の靴を全部かっぱらって庭のしょぼい池に投げ入れた。それが子供にとっての道理というものだった。とうとう池の魚は全部死んで、どろどろのヘドロの底なし沼になった。しょぼい庭など猫だって見向きもしないのだから、それに気づく者なんていやしない。神社の裏手の土くれから掘り出した女の恨みの櫛のように、何足も何足も靴やスリッパが池から出てきた。俺はわざとそれをコンクリの塀の上に並べて乾かした。陽が照っていた。犬が吠えていた。塀のむこうにバリバリになった靴やスリッパが散乱していた。

 
 しょぼい植え込みのところまで走っていって、さっきうんこをしたのだった。雲雀が頭上をかすめて、ピッという鋭い鳴き声だけが落ちてきた。榛の葉っぱの香りがした。茂みの向こうにばあさんがいるのがわかった。ばあさんはうんこをする俺をじっと見ていた。何も見えないくせに、何かをことさらに見ている風に。笑っているのか泣いているのかわからないばあさんの顔はぼやけて広がり、薄い空気に霞んで溶けてしまいそうだった。あたりは深閑としていた。ばあさんのほうを見ながら、ポケットに突っ込んでいたヘーゲルの文庫の頁をひきちぎってお尻を拭いたのだ。微風が頬を撫でる。精神現象学。産みの微風。モロッコのララシュの寂しいスペイン人墓地が脳裡をかすめる。黒い頭巾をかぶった男がひとり海辺に立っていた。どの墓もいずれは砂浜の砂に埋もれてしまうだろう。知らんぷりを決め込んで急いで藤棚の下に行くと、あの娘の髪に顔を埋めるように藤の匂いをかいだ。むせ返るような春の髪の毛。千の絵。俺は自分の手をじっと見つめた。遠くに海を望むこの高台は俺の手相のように殺伐としている。風の音だけがして、光に溢れた砂浜の墓地にいるように斜めの光線が見えた。ここはララシュの寂しい墓地にたしかに似ている。黒頭巾と光がある。黒頭巾? ハレーションを起こした目玉のなかに見知らぬ小人(こびと)が映っていた。ひげの吸血鬼。ぞっとして、俺は空を見上げた。俺はしらばっくれた。誰に対してなのか。雲雀や榛に対してでも、ましてやばあさんに対してでもない。空は青い。ララシュの幻影はすぐに消える。突然、蟬が一斉にやかましく鳴くのがひどい耳鳴りのように聞こえた。蟬が鳴く季節ではないので、ありえない。誰かがかつて首を吊ったにちがいない古い樫の大木が目の端にちらっと見えた。木に梯子が立てかけてあった。


 
 時代などいつでもいい。いまだにペストの時代だ。中世の町並み。ぬかるみ。すべてが不潔きわまりない。ぼろぼろのフリルの衣装。黄ばんだダンテル。雨が降っている。尿の臭いで目が痛いほどの路地。鼻汁と痰と唾。鼻くそ。そいつをあたりかまわず吐き捨てる。やりきれない毎日だ。彼女のことを思い出す。なぜか空はよく晴れている。

 静まり返った夜のパドヴァのピアッツァ・デル・エルベが目に浮かぶ。広場を照らしていた一昨日の月明かり。月明かりはいつも過去のなかに射しているのか。冬の冷たい光が透き通る。それだけだった。なんて美しいのだろう。中世なのか中年なのかもう誰にもわからない。そのときも月明かりの下であいかわらず自分の手相を飽きずに見ていた。ささやかな日課だった。広場のまんなかで、ハムを包んでいた黄ばんだ包装紙が風にあおられて舞っていた。影が揺れている。むこうで立ち小便をしている輩がいる。汗をかいた彫像。ここにはない、崩れて跡形もない神殿。パラティヌスの丘の神殿。ほんとうにかつてそんなものがあったのか、という思いが俺をよぎる。そのまたずっとむこうに寄せては返す潮騒。不吉な波また波。見えないのに、押し寄せてくることがわかる。真夜中だというのに、いまでもそいつが窓を開け放った眠れぬ病床にいるようにしつこく聞こえてくる。
 ほんとうにユリシーズは帰還したのか。あの嘘つきの放蕩息子は。いくら知謀にたけてはいても、息子って歳じゃない。死にかけの愛犬、蚤とシラミだらけのアルゴスがほんとうに待っていたとでもいうのか。犬はいつだって俺の味方だった。だがユリシーズといっても、いろいろいるさ。ならば俺や君たちの時代はあったのだろうか。それともいつか来るのだろうか。耳と足がかゆくてしかたがない。耳と足が君はもう終わりだと言っている。終わったことは終わったことだ。足から肛門にかけてミミズ腫れのような戦慄が走る。

 
 夜であればいつ田舎の祖父の家に行こうとも、厠(かわや)に通ずる吹きっさらしの木造の渡り廊下にはあたりの闇からじめじめした冷気が伝わって、ヤツデの大きな葉っぱが闇のなかにさらにまっ黒い影を落としているのがいつも見えていた。虫がちっちっと鳴いていたのを覚えている。自らが不浄であるのか便所が不浄であるのかいざ知らず、不浄であるには違いなかった便所にそもそも行くのはとても怖かったので、どんなときもこのヤツデの黒い影が少しでも夜の微風に揺れていたりすると、なおいっそうの恐怖を覚えるのだった。ひげの吸血鬼。小便をするのを諦めることもある。そんなときは知らん顔して風呂場で用を足した。

 昔の厠は怖かった。厠の小さな明かり取りの窓からもヤツデが見えた。しゃがんでいると、否が応でも耳をすまして、目をこらす。雨が降っていたりすると、時にはヤツデの葉っぱが黒一色のなかで白っぽく見えることもあったが、その幾層をもなすこの闇の層のことは今でもよく覚えている。闇の層は重なることなく目の前で幻覚の奥行きのようなものをつくりだし、闇が闇の質料だけでできているのではないことを知らしめる。目をじっとつむっていると、闇のなかに時おり白いヤツデが現れる。ヴェネツィアの画家ティントレットが天使を描くときに使った幽霊線のような白い輪郭が不意に現れる。もやもやしたヤツデの白は闇のなかでさらにもっと黒い部分を浮き上がらせ、気まぐれにずっと下のほうへむかって、まるで俺を誘うように目のなかをゆっくりと降りてくる。麻ひものようなものが下のほうへ飛んでゆく。火の玉が見えることもある。それは風に少しだけ震えるようにゆらゆらと消えてゆく。だが突然、白いヤツデは奇妙な百合の花に変わっていたりもした。恐怖から逃れようとして、だから目をつむるのも考えものだった。

 
 いつも俺は急いでいた。霙まじりの雨が思い出したように降っているのに、家路についていると、スイカズラの匂いが急にしてきた。スイカズラは漢字で忍冬と書くくらいだから、塀から垂れ下がった蔓草のような枝は冬でも毎年けなげに緑の葉っぱをつけている。それにしてもきつい香りである。頭がくらくらする。スイカズラの花を思いっきり吸うと蜜の味がしたことを思い出した。子供の頃は学校の帰りにいつもそれをやって、道端にスイカズラの小さな白い花をひきちぎってはまき散らしていた。遠くから見ると、物心ついた俺が効き目を強めようと外側のいらない成分を捨てるために剥いていた鎮痛剤の錠剤の粉をまき散らしたみたいだった。チョークの粉のようにも見えた。後になってそれを思い出した。スイカズラという言葉を前頭葉のあたりで反芻すると、いまでも頭がぼおっとなるのはそのせいかもしれない。

 冬だから花は咲いていないはずなのに変だった。そう思って歩いていると、家の近くまで辿り着いていた。雨は小降りになっている。見ると我が家がない。てくてく歩いてきた家並みはいつもと変わるところはなかったはずなのに、いつもと違うところがあるとすれば、ひどい腰痛をかばって斜めに傾いたまま歩いていたからなのか、我が家に近づくと、暗闇に浮かぶ家並みが映画カリガリ博士の書割りの影のように斜めに見えていたことだけだった。書割りは段ボールでできているのか、ぺらぺらだった。ほんとうに家なのかよくわからない。四つ辻はけっして直角には交差しない。いたるところに三角形がある。薄暗い平行線はすぐに交わり、鼻がぐすぐすするほど埃っぽい。ドイツ表現主義映画の書割りだな、こいつは、などと考えていると、自分の着ている服から黴のような臭いがとってつけたように漂ってきた。雨の臭いだった。俺は途方に暮れた。こんなことがしょっちゅう起きるなんてほんとうに辟易する。南米の町の郊外にでも行けば、きっと夕方に、ずっと続くピンク色の壁からかわいらしいスイカズラの花がのぞいているのが見えたかもしれない。俺は不幸な気分を振り払うように立ち止まった。いや、けっして不幸な気分などではない。うれしくなって、あたりにはひと気はないはずなのに、輪遊びをする少女に手を振ってみた。目の前をこうこうと照らしている、はじめて見る明かりの灯った家からは、死んだはずの友達が咳をするのが手に取るように聞こえていた。少女なんかどこにもいなかった。

 
 アルトーは見ようによっては謎の戯曲のようにも受け取れる本、彼が自分で構想した最後の本のひとつのなかにこんなことを書いていた。ところで、アルトーはある意味でギリシア人だった。たぶんニーチェが言うような意味で。




    ひげの吸血鬼。
    
    目覚めもなく、眠りもなく、
    腐った卵を運ぶダンプトラックの列があるだけ、
    それらは議論には答えもしない。
    
    黒い板、
    植物たちの粘液、
    身体とはすべて、
    空間、空間とは想像しがたいもの、
    その外には何もない、絶対的に何もない
    (…)
                         アントナン・アルトー『手先と責苦』

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