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第76回 身景累ヶ淵 フランシス・ベーコン

第76回 2016年7月

 

 

身景累ヶ淵

フランシス・ベーコン

 

鈴木創士

 


ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと
鈴木創士『サブ・ローザ

 

 


 身体のカサネガフチがある。身体の風景が深淵を取り巻いている。それは深淵に、あるいは時には重力を無視し、上方へ向かって落下する。落下。それは感覚の特質であり、崩壊や悲惨さとは何の関係もない。
 三遊亭圓朝の怪談落語『真景累ヶ淵』の「真景」とは「神経」のことであるが、神経の累ヶ淵と身体の累ヶ淵はさほど遠く隔たってはいない。神経の淵と身体の淵はむしろ同じものである。いたるところで、ここで問題にしようとしている絵画以外の場所でも、そういうことがある。というか、そもそもそのようにして、つまり神経の淵と身体の淵が同じであるような地点で、身体は絶えず変容を繰り返し、蘇生し、触手を延ばし、涎を垂らし、排泄し、ときには糞尿まみれになって、死滅し、灰になる。しかもそれが身体の外縁、身体の外側を決定するのだ(病理学的に言っても、身体の内側を確定することはかなり困難である)。それが身体である。
 キリストは「これが私の身体である」と言ったが(ゴリラのように胸を叩きながらそう言ったかどうか私は知らない)、この場合はキリストにならってこう言わねばならない。「これは私の身体そのものであって、同時に私の身体ではない」、と。だがたとえ究極的に栄光の身体が人間的事象についても言えることだとしても、栄光の身体だけがあるのではもちろんない。歯が痛む。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。心臓が手術台の上で取り出される。そのとき私の身体はどこに行ってしまったのか。ただし断っておくが、私は社会的、政治的、制度的構築としての身体のことを言っているのではないし、この身体は医学的身体や美学的身体ですらない。それでは話が逆なのだ。蛇足ながら、「器官なき身体」を社会的網状組織のモデルのように考える人がいるが、まったくの誤りである。論点後取の虚偽である。
 「いかにして絵画は神経組織に直接触れるのか」とフランシス・ベーコンは問いを立てていたが、ベーコンの絵を見ていると、神経と身体がほぼ同じものであるいくつもの契機が彼の絵画のなかには確実にあるのだということがよくわかる。それがベーコンの「絵画」の常態であり、彼の芸術である。これは両者が単に同一の平面にあるということではない。直接的介在がひとつの直接性によってひとつの全体を一気に生じせしめるということではないし、直接的接触がひとつの統合を形づくるということではない。神経が身体を外に出そうとしたり、追い払おうとしたり、あるいは身体が神経を保護的存在、ひとつの有機性、あるいはひとつの道具のように見なすこと、そのこと自体は日常的である。これは確かに「感覚」の問題であるが、絵の側にも、画家の側にも、それを観る側にも感覚の問題があって、タブローを前にしているときでさえ、ひとつの感覚の次元を措定することはできない。そして感覚が身体とひとつに結ばれる瞬間が突然タブローのなかにやって来る。あらゆるものが表象的であることをやめるのだ。ジャン・ルイ・シェフェールはベーコンについての文章のなかで、事実の粗暴さや情動の絵画の直接性を信じることができなかったと書いているが、それらが感覚のひとつの次元の執拗さとまったく同じものを指していないとは私は断言することができない。
 ところで、神経と身体が同じものであることによって何が起こるのか。何が在るのか、ではなく、何が起こるのか、としか言いようがないのだが、しかもそれは現象学的身体とは無縁のものであって、身体から出てくるひとつの身体があるのだ。身体の位置をそのつど確定し得ない身体がある。ドゥルーズはこう言っている。
 「もはや問題は場所ではなく、出来事である。もしそこに努力があり、強度の努力があるとしたら、それは決して特別な努力ではなく、身体の諸力を超えて、他と区別される対象をめざすようなものでもない。身体は厳密に努力し、あるいは厳密に脱出に備える。私の身体から脱出しようとするのは私ではなく、身体それ自身が何かを通じて脱出しようとする。いわば痙攣であり、つまり神経叢としての身体であり、その努力その痙攣の期待である」(『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、宇野邦一訳、河出書房新社)。


 身体がつねに身体から抜け出そうとしていることは言うまでもない。私が身体から出て行くのではない。身体が身体から出て行くのであるし、それを私が見ているのだ。なるほど私も君たちもそれを見たことがあったのである。しかし痙攣がいつも起こるとはかぎらないし、強直性痙攣はなにもアルトーの専売特許ではない。そういう事態とは反対に、例えば能の身体のように、首尾よく身体から抜け出しかけた身体が、身体にダブって見えてくるということも、奇跡的ではあるが、あるにはある。演者の身体は演者の身体ではない。というか、少なくともそれはもはやすでに演者の身体ではない。うまくいけば、それはじわじわと滲み出てくるのだ。この場合、痙攣は起こっていないように思われる。

 
 圓朝ゆかりの日本の幽霊画、応挙、それとも、もっと近代なら上村松園の幽霊画ならどうだろう。日本画の特質ということを差し引いても、ここにも身体から抜け出しかかっている身体、別の身体になろうとしている身体があると言えなくもない。

 「図像の領域において、陰影は身体と同等の存在感をもっている。しかし陰影がそういう存在感をもつのは、それが身体から脱出するから、それが輪郭の中に局在する何らかの箇所を通じて脱出したからである」(ドゥルーズ)。
 幽霊は、ネガディヴな統一的側面において、つまり陰画的に、身体から出て行ったのである。そしてそれにもかかわらず、それ自体が充満する一個の身体なのである。充溢身体は、当然のことながら、デュシャンの言うアンフラマンスのように稀薄な身体であることもある。幽霊の身体、でもそれは身体なのだ。ここでなら、それが死せる肉であったとしても、「肉への慈悲」について語ることができるかもしれない。ベーコン自身が肉屋にぶらさがった肉であったように、私はひとりの幽霊であるからだ。


 しかし図像の歴史においてキリスト教的身体、イスラム教的身体(この幾何学的身体は身体であると言えないかもしれない)などなど、あるいは異教的にしろ、そうでないにしろ、その他さまざまな身体があるように、日本の身体というものがあるのだろうか。幽霊画の幽霊が美術史的に見ればかなりの点でそうだったように、例えば、舞踏の領域においてなら、それがあったと言っていいのか。土方巽が舞踏『疱瘡譚』で踊った病んだ女郎を見ていると、病んだ遊女の「存在」が踊られただけではなく、舞踏家は病んだ女郎の身体が身体を抜け出そうとする葛藤を、そのジレンマを、その日常の地獄を踊ったのだと思えてくる。しかしそこには日本人の身体、日本人の身体的特徴というものがあったとしても、日本なるものは身体をもつことなどできるのだろうか。だがその前に、こういう問いを立てることができるかもしれない。そもそも舞踏家土方巽の身体は日本の身体だったのか、と。彼の身体が秋田の身体を纏っていたことはたぶん間違いないだろうが、だからといって彼の身体のさまざまな状態と時間を外側から内側へ向けてあえて下降するかのような踊りは、日本ではなく、むしろ日本の「あの世」で行われていたのではなかったのか。

 
 上村松園を引き合いに出したので、現代画家である松井冬子をとりあげてもかまわないだろう。彼女の絵に登場する女性の身体は、女性性の現実性を表しているにしろ、レオナルド・ダ・ヴィンチの『アナトミア』から一歩も出て行こうとはしない。その意味ではルネッサンス絵画の視覚的「紋切り型」から一歩も出ていないということになる。紋切り型は別の紋切り型を生み出すことができるだけである。無論、かつてルネッサンス絵画に描かれた名だたる数々の身体がそれを免れてはいなかったなどと私は決して言うつもりはない。例えば、ジォットやウッチェロやピエロ・デラ・フランチェスカの身体を思い浮かべているのだが、彼らはかなりドゥルーズの言うベーコン的な意味での「図像」(フィギュール)に近接したものを描いたと考えることができるかもしれない。しかしながら松井冬子の作品では、臆せずクワトロチェントに始まる伝統のなかにあるかのように主張するこの現代の「解剖学的身体」は、あえて言うなら、内臓をさらけ出し、恐怖を植えつけることによって、逆にわれわれの身体の思考にとっては一種の後退を示すものでしかなく、「器官なき身体」の対極にあると言っていい。松井冬子の死せる身体は、ベーコン的な「図像」ではなく、それが凡庸であるにしろ、そうでないにしろ、「物語」の身体であり、その意味において、松井氏にとっては大きなお世話だろうが、ベーコンの絵画的冒険とは似ても似つかぬものである。具象との戦いに挑むことはないし、その意味ではイラスト的であるし、残念ながら、物語はそこでただありきたりの例証を繰り返すだけである。

 ルネッサンスの「解剖学的身体」はもうひとつの重要な発明、遠近法の発明とセットになっていたように思われる。解剖学と遠近法は似たような姉妹である。なぜなら解剖学的身体は器官の綜合から成り立っていて、空間とは「神の器官」(ニュートン)であるからだ。しかし実際には、空間の綜合は生起しない。われわれは有機的な器官の綜合を探し求めているわけではないが、神は、遠近法の消点の向こう側に隠れたままになっているらしいからである。時とともに、この空間は病んで、ところどころ完全に壊れ、ぼろぼろになって、すたれてしまったのかもしれない。ピエロ・デラ・フランチェスカの絵画を見ればわかることだが、むしろデジタル的であると思われるこの空間の伝統は、直観としてではなく、伝統としては、未来においてそれほど重要な意味をもつとは思われないが、それでも厳密な遠近法の空間は視覚的にも触覚的にもどこかしら奇妙な空間であるし、確かにそれを逆転して、伝統を逆に遡るようにするなら、有意義なものとして考えることもできるだろう。しかしここでわれわれが知りたいのは、「器官なき身体」に基づいた空間であり、空間の概念である。

 
 「身体から抜け出す身体」に戻ろう。

 ドゥルーズは書いている、「叫ぶ口を通じて、身体はまるごと脱出しようとする。法王や乳母の丸い口を通じて、身体は、まるで動脈を通り抜けるようにして脱出する。しかしながら、ベーコンによれば、口のシリーズにおいて、決定的に重要なのはこのことではない。叫びの彼方には、微笑があるが、彼はそれにたどりつけなかった、と暗示して言うのだ。ベーコンは確かに謙虚である。実は、絵画における最も美しい微笑を描いたのである。しかもそれは身体の消滅を保証するという、まったく奇妙な機能をもっているのだ。ベーコンはただこの点において、ルイス・キャロルを、猫の微笑を再発見している」。


 法王のどちらかといえば醜い「叫び」を描いたはずなのに、絵画における最も美しい微笑がそこに出現する。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に登場する猫、木の上にのぼっていたチェシャー猫は、じょじょにからだが消えていったが、すべてが消滅した後、空中に「にやにや笑い」だけが残ったのである。微笑は消滅を前提としていた。叫びのあとには、微笑が……。それは身体の消滅を前提としているのである。口から叫びが出ていき、叫びから身体が出ていき、身体が消え、すべてが消えて、微笑だけが残される。これほど豪奢なことがほかにあるだろうか。絵画の頭脳、その頭脳的解決は消滅に委ねられるのである。
 そして消滅を前提としてあらゆるものの現前がある。ドゥルーズは、現前がヒステリー的であるのはあり得ることだろうか、と問いかけている。私にはそれはつねにあり得ることだと思われる。
 「私たちがほんとうに言いたいのは、絵画とヒステリーのあいだには特別な関係があるということである。実に単純なことだ。絵画は、表象の背後に、表象を超えて、もろもろの現前を取り出すことを、直截にみずからの課題にするのだ。色彩の体系そのものが、神経系統に対する直接的作用の体系である。それは画家のヒステリーではなく、絵画のヒステリーなのである。絵画を通じて、ヒステリーは芸術となる。あるいはむしろ画家を通じて、ヒステリーは絵画となるのだ」。
 身体から抜け出した身体は、ここでもう一度、セザンヌが見たようなすさまじい生の風光、「線と色彩のあらゆる歓喜」に出会うことになる。そしてこのヒステリーを追い払ってしまうかどうかはまた別問題である。

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