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第81回 天使が通る―時間の反故についての若干の考察

第81回 2016年12月

 

 

天使が通る

時間の反故についての若干の考察

 
鈴木創士

 

 

宇野邦一『詩と権力のあいだ

 

 

 Le temps passe où est-il passé sans être perçu passe l’ange.

 Au temps figé gelé mais coulé que s’est-il passé alors que rien ne passe.

——Kuniichi Uno, RENGAINE OU MOU RIRE

(時が過ぎるどこに過ぎたのか気づかれることなく天使が通る。

 凝固し凍てつきしかし流れた時間に何が起きたのか何も過ぎ去ってはいないのに。)

 

  つねに時間の「問いはついで二重になり波打ちズレてしまう」。知らぬ間に時間が過ぎる。そのことが確かかどうかはわからない。死線がただ続くだけだ。一見、死に向かうかのようなライン。それは分岐するのだろうか。分岐は収束するだろうか。死線を分断すると瞬間が現れ、すぐさま消え失せる。時間のなかで死はヤヌスの双面の片割れとなり、もう一方の顔のなかに紛れ込む。それは何かの入口ではあるが、どこを見渡そうと出口はない。見ると、実際、顔はひとつしかない。外観としても、仮象としても、死は生とそれほど異ならない。たしかに時間の問いは白けた問いである。いつも大きな空白が現れ、それが時間の基底となる。こうしてわれわれもまたそこで立ち止まったのだと考える。だがわれわれは瞬間のなかに何を弁別しているのだろう。別の瞬間への移行はすでに過去のなかに隆起したひとつの虚偽である。ひとつの過去。ひとつの虚偽。

 シオランが言っていたように、時間から失墜することなどできるのか。この失墜は人間を脅かしはしない。時間からの失墜は別の時間への失墜とほとんど同義である。それはほぼ無際限に繰り返される。私は思い出す。私は失墜する。たとえこの不毛な状態のなかに小さな欲望がきざしたとしても、時間を回復することはけっしてできないからだ。時間がとつぜん凝固することがあるとしても、時間は流れてはいないし、止まってもいない。時間を感じ取ることなしに時間を認識できるとすれば、これはほとんど一種の痴呆状態である。明後日のほうを向いても、何をしようと、どうなるものでもない。私の血と私の時間が交わることがないとすれば、ほんとうにそうであれば、人はただ時間を観察していることになるのだろうか。だがそんなことはありえない。

 

 私はただ時計の秒針だけを見つめている。一秒、また一秒。一秒、また一秒と。時は過ぎゆくように思えるが、実際に起きているのは、私がそのとき厳密に何もしていないということだ。時計の針は動いているようで、何も過ぎ去ってはいないも同然である。何も起こらない。何も過ぎ去らない。秒針が過ぎ去っているとすれば、それはわれわれが何もやってはおらず、ささやかな行動への焦燥を感じているからである。そんな風にしてときには悔恨や慚愧や放心のなかにいるからである。そして時間が人に悔恨を迫るのは、未来を変える可能性が現在の不変性のなかに不意に現れるときだけである。かくして何かしら根源的な同一性らしきものがほんの小さな差異のなかに現れては消えてゆく。だから時間は無為のかたちをしている。そのとき私の血は血管のなかを流れているのだろうか。時間が回答であれば、私にはこの問いを問うことはできない。これはただの抽象的な問いにすぎない。私はその瞬間に決定的に時間を奪われている。この世の始めに時間を創造した神が、自らの時間を想像できないあの状態、あの沈黙を私は聞いている。

  

 かつて私は時間に属していたのだろうか。時間は存在も非在も知らないが、永遠の現在はたえず自らを否認し続けている。凍結した時間のイマージュはそのつど私をこの世の時間から締め出そうとする。過去へのノスタルジーがあるとしても、一度に与えられる時間の全体はこのノスタルジー自体を排除する。未分化のものが生起していたとしても、そのことを私はすでに「知らなかった」し、今となってはいかなる確信も持ちようがない。そのことはわかっている。少なくともわれわれはわかったふりをしている。われわれはぼやけた両立不能性である。それには曖昧さの余地はない。時間には復讐などない。恩寵もない。地獄を愛惜するふりをしながら、われわれは大きな思い違いをしているのかもしれない。人は記憶の病のなかで自分を看病しながら、死を誤魔化している。もしそうであれば、もし時間のなかですべてが死んでいるのであれば、実のところ、逆に生きることを潔しとしない理由はないではないか。

  

 メキシコの作家フアン・ルルフォの『ペドロ・アラモ』は、現在と過去が混在し、それ故に生者と死者が同一の時間の反復のなかに存在してしまう小説である。この反復のなかには「かつて在ったもの」があるが、それは回帰しないものでもある。それは同時にそこにあって、回帰する必要がないのだ。ここでは生者と死者が時間の迷宮のなかで交錯しているのではなく、生と死が、むしろ死が、あるプラトー、町も自然も風土もそこに含まれるある時間のプラトーを形成している。開かれた眺望、そのなかで死が死を生じさせる。そのことが生をつくりあげる。したがって生はもはや死の一様相でしかない。

 その町はいろんな谺でできている。軋る音や笑い声さえ聞こえてくる。古くてくたびれたような笑い声。声も長いあいだに擦り切れてしまうのだろう。壁の穴や石の下からそんな音がずっと聞こえている。風の日には木の葉が舞い上がる音がするけれど、ここには木など一本もないのだ。祭のどよめきが聞こえることもある。夜のどこかで犬が吠えている。気味の悪いことに、割れ目のなかからときどき人の声が漏れ出てくる。時間とはこの割れ目のようなものである。

 

 時間の純粋な形式というものがあるとすれば、それは死がいたるところに継起しているということである。なぜならこの冷酷な形式は経験的なものとは相容れないからである。しかもこれらの時間の諸形式、死とそっくりな諸形式はそれぞれ共存することができない。反復は、この場合、行動の内的諸条件に即してはいるが、しかし実際にはかつて経験されたことのない死のイマージュであり、ここでの生と死の差異はこの反復のさまざまな類型のうちのひとつでしかない。反復そのものが反復の経験によっては知覚されないのはこのためである。世界の記憶を反復できないのは、経験の主体、あの主人公が夢を見ていて(あるいはわれわれの観念のなかでは夢を見ているのとまったく同じ状態にあることを反駁できないということである)、自らの未来の行動(あるいは錯乱?)を夢からの覚醒だと錯覚するからである。それにどうして時間がこの錯覚の連続を自分のことだと錯覚してしまわないことがあろうか。われわれは後ろを振り向いたり振り向かなかったりする。恐怖がきざす。世界の記憶に対してその記憶と同一の行動が可能だというのであれば、彼は発狂するかもしれない。そしてこの錯覚は未来のその先までずっと続くのである。おそらく死もまたそれに関与することはできないのだ。

 

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 ここでは奇妙なことが起きている
 夜のイダルゴ公園
 コヨーテ像の前で
 インディオの女シャーマンが煙の杯を掲げた
 光は横に流れ
 煙が凝固する
 眼鏡の上にむこうの光暈が反射する
 煙は残像だ
 騒音のなかで夜が遠のく
 一瞬前の
 だが今ではない
 今は一瞬前となり
 今は一瞬後となる
 言葉はいつも途切れてしまう
 耳のなかには断末魔の蟬の声
 擦過音
 天使がうずくまり
 その両脚が半分向こう側に消える
 天使が通ったのか
 誰が見ていたのか
 反吐のように吐き出された沈黙の耳が聞いたのだ
 けっして知覚されないこと
 誰にも気づかれることなく誰かが見る
 誰にも気づかれることなく誰もが釘づけになる
 ここで
 うわの空のまま
 白けた暗がりのなかに
 踊りは空漠を拡げ
 円は寸断される
 それがいかに強いリズムに刻まれていたとしても
 力づくで
 絶望的に
 彼らは死んでいる
 踊りの間隙を縫って
 死者たちが次々と消え失せる
 輪になって踊りながら
 誰も踊ってはいない
 通りすがりに
 亡霊がおまえを見る
 人の波、おまえにそっくりな死者たちの波
 太鼓の音は分解されずに怒りに満ちている
 反故の合図
 一瞬前の
 一瞬後の
 大気は不穏なままだ
 何かが起きたのか
 時間などサボテンに比べれば何でもない
 ピラミッドの下には
 傷ついた栗鼠
 埋葬された彫像
 新しい骨
 そいつは愛をもって砂のなかに見捨てられるだろう
 それなら掘り出された夜が降りてきたのか
 死人の穴だらけの皮膚の上に
 取り返しがつかないほど透けてしまった
 大気の紙のような皮膚の上に
 だが何も起きてはいないのだ

   

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