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第88回 ミイラのように

第88回 2017年7月





ミイラのように





鈴木創士


河村悟『舞踏、まさにそれゆえに
宇野邦一『詩と権力のあいだ』エートル叢書6
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍


 私の印象はこうです。舞踏家・室伏鴻の静止した肉体はとても美しく見えます。吉田一穂の『海の聖母』という詩集のなかの言葉を借りて、室伏さんのことを日時計の上でじっとしているトカゲだと書いたことがありますが、さっきま で闇を食らっていたこのトカゲは、日を浴びていまさっき死んだように微動だにしないのです。
 だから私には、まるで舞踏家は思考の外で一度ならず動きを止めなければならないかのように見えるのです。身体から身体が抜け出すためにです。

 土方巽は「肉体のなかに梯子をかけて降りてゆく」というようなことを言っていましたが、どのようにして肉体のなかに降りて行けばいいのでしょうか。身体は動こうにも動けません。土方の語る子供時代があります。田んぼでイズメのなかに閉じ込められた赤ん坊の手足が硬直して動けなくなったあのからだが、舞踏家をいまでも責め苛むのでしょうか。たぶんそれは決定的な出来事だったのでしょうが、そんな記憶の身体は、今ある身体のなかにねじ込まれたかつての身体だったのでしょうか。

 しかし果たしてあの時にはぐれてしまった肉体を探すことだけが舞踏なのでしょうか。東北のあの世に身体を探しに行けばいいのでしょうか。少なくとも室伏さんのダンスからはこの土方の子供時代、イズメのねじ曲がった手足を感じ取ることはできません。室伏さんの出発は、「ニーチェのダンス」であり「ランボーのダンス」であったと言っていました。それにしても何という違いでしょう。
 それとも600年前の暗黒舞踏家である世阿弥が、そうとは知らずに、土方巽の暗黒舞踏に与えた馬鹿げた強迫観念のようなものがあったのでしょうか。私は世阿弥のことも同じようにしか、一種の暗黒舞踏家としか考えられないからですが、前々から世阿弥の次に土方巽が来たのだと考えていました。かつては足さばきの早かった世阿弥。彼はそのことに辟易して、早く動くのをやめてしまいます。そのようにしてみなさんがご存知の夢幻能は成立したのです。

 動きにおいてすら不動である、ということがあります。だが意識的にしろ、そうでないにしろ、そんなものがあったのだとして、この手強い強迫観念は、すべての舞踏家の意識の外で暗黒舞踏を苦しめ続けたのではないでしょうか。少なくとも別の動きをからだの外に引きずり出さねばならなかったのです。土方の最も優れた弟子のひとりであったと思われる室伏鴻の踊りを見ていると、激しい動きのなかにすら、明らかに不動への渇望、動きの外にある動き、動きの外に出ていこうとする動き、つまり動きながらの不動性があったように思われるからです。不動性への予感によって、震えによって、激突、痙攣によって、動かないことそれ自体によって、身体は苦しまぎれに別の次元に出て行こうとするかのようです。これは絶対に様式などにはなり得ないものです。

 健康であれ、病気であれ、身体は、誕生後の眠りと来るべき死のなかで、動かないことを前提としています。われわれ全員が死体の次元をまるで未来の妄想のようにすでにからだのなかに持っているからです。昨日見た注連寺のあの即身仏、鉄門海のミイラが目に浮かびます! だが生体としての身体にとってこの前提はそもそも不可能です。無意識を纏った肉体はあたりかまわず動き回るからです。そわそわと動き回るからです。われわれは記憶の動物です。普通に歩いたり、走ったり、食べたり、たぶん泣いたり笑ったりするのも、誕生してほぼ最初の動体記憶というか、運動記憶によるものなのです。

 別の身体の状態、通常の身体の変性状態も、必ずやわれわれ誰にでも訪れます。われわれの身体は衰弱し、病んでしまうからです。
 今年の冬から春の終わりまで、病床の母の状態をずっと見ていました。僕は若い頃から滅茶苦茶をやっていて、ずっと親不孝者だったので、最後だけは看取ろうと思っていました。母は重篤でした。しかしほとんど動かなくなった身体のなかでも様々なことが起きていました。体が描く稜線はかすかに振動する山並みのようにつねに微動を繰り返していました。寝返り、咳、ほとんど無意識の痛みによるヒステリー・アーチ(ゴダールの映画『マリア』のなかで、ベッドの上でからだをよじっていた妊娠した聖母マリアを思い出してください)、不快感による小さな動き…。もちろんそれは土方が言ったような意味での「衰弱体」の諸様態のようなものであるのでしょうが、普通にこれが生体的には病んだ身体の最後の姿であるのかもしれません。
 しかし死はどこにあるのでしょうか。病と死はまた別のものです。そして身体と生命もおそらくまったく別のものであると思いますが、身体の衰弱がほんとうに生と死のせめぎ合いによるものなのかどうか、私にはわかりませんでした。生命と死がそこでどのように区別されるのか、死の床にある母の姿を見ていて、私にはまったくといっていいほど理解できませんでした。死がどこで生命とすり替わるのか、死がいつなんどき生に襲いかかるのか、などという問いの立て方はそもそも全部間違っているのかもしれません。
 そして彼女の現働態にあるからだは、生というか死というか、それらのものと共に彼女の内側にも外側にもありました。内側の身体、外側の身体です。それは間違いありません。誰が見ても、こうして病は実現されたかに見えました。でも私には、病んだ母の身体からもうひとつ別の身体が出ていこうとしているように思えたのです。

 それはそうと、哲学者の江川隆男が言っていることですが、「身体の身体」というものがあるようなのです。この概念を適用すれば、舞踏の最初にあったのは、身体によって「精神のうちに外の思考を発生させる要素」、身体の隠れた、知られざる力能であり、これはこの身体であると同時に「身体の身体」によるものでもあるのです。たしかに身体から身体が抜け出すためには、身体の身体がなければなりません。これは実に都合のいい、というか、新しい概念だと思います。スピノザ風に言えば、身体の延長としての身体。だけどスピノザに反して言えば、これは「まったく別の身体」でもあります。ここからアルトーの言う「器官なき身体」まではそう遠くありません。

 ところで、20世紀は、手当たりしだいに、そしてもうそれしか残されていないかのように、「存在」と「身体」の思想を探し求めましたが、それにはある意味で、当然のことながら歴史的条件が裏地のようなものになっていたと考えることができます。
 われわれは、一方では、19世紀に名乗りを上げた医学的知見の爆発的進化の世紀、他方では、大量殺戮の世紀の「後」を生きています。短時間のうちにあれほどの死体の山が築かれたことはありませんでした。無意識と遺伝子は、瞬時にして大量生産される夥しい数の死体とほとんど対になっているかのようでした。ご存知のように、無意識も遺伝子も死体も、「人間」についての観念にとって完全なる他者でした。この点は重要であると思います。そもそも病んだ身体も健康な身体も死んだ身体もまた、われわれにとって他者であるからですが、無意識や遺伝子や死体となった身体はなおのことそうです。
 しかし歴史的条件というものは、ご存知のとおり、たいていがほとんど負の遺産ですが、「存在」の後に、決まって再び「身体」が到来するというのはじつに奇妙なことではないでしょうか。17世紀にスピノザとボシュエが語っていたことは、所与の条件などではないように思われます。
 スピノザは「われわれの身体の能動と受動の秩序は、本性上、われわれの精神の能動と受動の秩序と同時である」、と言っています。本性上、身体と精神は相互依存しないのです。蛇足ながら、これは心身平行論と呼べるものであることは間違いないですが、心身平行論と称したのはむしろライプニッツのようです。ですが、まあ、それはどうでもいいでしょう。
 一方、ボシュエのほうは、『死についての説教』のなかで、「死体はいかなる言語のなかにも名前を持たない」と言っています。小野小町九相図などの日本の古い絵巻物にもあるように(たしかにそれぞれの死体の状態には、中国や日本では、名前がついているとも言えますが、すべての状態を示す言葉は「死体」以外にありません)、死体もまた刻々と変化し、腐って、骨となり、最後には塵になるからです。元の身体はどこに行ってしまったのでしょうか。われわれはほぼそこから一歩も抜け出せないままですし、そこにあって、スピノザとボシュからあらためて一歩を踏み出さねばならないままであることはご承知のとおりです。
 スピノザの面白いところは、この心身平行論から、「身体は身体にしか関わらない」ということが帰結されるところです。つまり身体と精神は存在論的には同等であるということです。これは中世スコラ学の神学者、ドゥンス・スコトゥスによる「存在の一義性」の考え方の発展形であると考えることもできますし、先ほどの江川氏によるなら、アルトーの「器官なき身体」もこのラインにあるものだと考えることができます。そして誤解のないように改めて急いで付け加えておくと、いくら身体のあるところには精神が発生するといっても、「身体から抜け出す身体」は、「精神」とは似ても似つかぬものであることは言うまでもありません。

 少しだけついでに、若い室伏さんに、そしてその後もずっと彼に影響を与え続けたアルトーのことに触れておきたいと思います。
 アントナン・アルトーは、どこで、どのようにして、どこから「身体」を発見することになったのでしょうか。彼の生涯の記録や証言を繙けば、いろいろと思いつくことがあります。
 彼の「病」、思考の不能性、分裂症、パラノイア、麻薬、エスニックな旅を含めた外への旅……。しかしアルトーの血の滲むような「発見」へといたる経験、あの「場所と公式」の問いは、アルトーのいわゆる精神病の「病跡」を軽々と超えてしまっていると私は考えています。
 結論を先に言うと、精神病者、分裂病者として精神病の「病跡」を超えるには、アルトーの「身体」はアルトーの身体から外に出てゆかねばならなかったのです。極東の地で土方巽のような人物の心を動かすことができたのはまさにここです。アルトーは自分の「存在」と「言語」にまるで拷問を加えるようにして書きました。晩年の彼の手記『カイエ』を読むとそのことに特に注目せざるを得ません。言語はハンマーで殴られ、叩きのめされ、分断され、切断され、解体され、別のからだのなかに分娩され、砕け散り、断絶し、彼独自の身体の叫びと化しました……。
 だがそれはただちに別の意味を帯びます。アルトーにとってこの「書く」ということが「生きる」ということとほぼ同義であったことには大いに注意を払うべきでしょうが、それが彼の「病跡」を超えてしまっているだけではなく、このことは優れた幾人かの詩人や作家においてすでに見られたことであると言っていいと思われます。しかしアルトーが特異であるのは、言語と生、形式と内容の一致が、ある種の身体のテクノロジーのようなもの、ある種の「公式」によって鍛えられ、それを原理としていたように思われるところなのです。この「公式」にはアルトー自身の長い苦難の歴史が関わっています。
 再び誤解のないように急いで付け加えておきますが、このことは芸術や文学の形式や形式化とは何の関係もありません。そしてそのことがどうして舞踏家たちの琴線に触れないわけがあるでしょうか。優れた舞踏家はダンスの「技法」ではなく、どうしても不可能な「身体のテクノロジー」のようなものを意識せざるを得ないからです。
 アルトーのこの「公式」は、同時に、つまりアルトーのあらゆる「分裂」と同時に、彼の役者・演劇理論家としての経験、彼の「演劇」についての観念のなかにすでにあったのではないかと私は考えています。彼の生涯の中期において、つまり演劇理論書『演劇とその分身』や歴史小説『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』のなかにそれを見て取ることができます。おまけに何とこれらの特異な本はそれ自体が戯曲のようなものなのです。
 アルトーには、外で起きている動乱、混乱、革命の秩序(アルトーは面白いことに「革命の秩序」と言っています)、天変地異などなどは、同時に役者の身体のなかでも起きなければならないという確信と信念がありました。アルトーには精神病院への監禁の凄まじい日々があったのですが、そこにいたアルトーの身体の内部で起きていたことと、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の推移が同時に起きていたことは、まさしくこのことを証明してあまりあります。
 そして例えば、『ヘリオガバルス』というローマの少年皇帝についての本のなかで描き切ったように、すでにローマ帝国の歴史の破綻は演劇の破綻であり、身体とともにあるほかはない演劇の破綻は、身体の横断であるほかはない歴史の破綻であって、それ自体が、アルトーが考え、提唱し、熱望した演劇であり、彼の言う「残酷の演劇」であることに留意しなければならないのです。アルトーの演劇の最初のイメージがペストやルネッサンスの終末的絵画のなかにあったこと、アルトーの演劇が「失敗」だったと伝えられていることは、偶然ではありません。
 アルトーの芝居を見た者は、日本では寺山修司を含めて誰もいません。だからこそ、ある意味で、室伏鴻を含めた暗黒舞踏あるいは舞踏は、このアルトーの「失敗」から出発したのだと言うことができるでしょう。舞踏家たちは「演出」ではなく、「演出がほぼ不可能となる地点」において「身体のテクノロジー」に対峙せざるを得ないからです。

 ところで、室伏鴻の言う「外の身体」とはなんなのでしょうか。結論から言えば、外の身体とは、瞬時に現れる身体の身体、身体から抜け出した身体であると私は考えています。それが彼の言う、「ダンスの外に、踊りの外に出る」ということなのです。そして先ほどの重篤な状態に陥った私の母の身体ではないですが、少なくともこの身体から抜け出そうとしていた身体は、明らかに生きていると同時に、しかしながら死を内包し、死を体現するものなのです。
 そして室伏鴻が語り、踊ったミイラは、これに新しい次元を付け加えていると思います。室伏さんは子供の頃、死んだふりをするのが得意だったそうですが、無論、このこともミイラや彼の修験道と無関係ではないと思います。室伏さんとは別に、かく言う私も体験したことがあるのですが、修験道もまた一度死んで蘇るあくまでも身体的体験だからです。

 室伏鴻のダンスは、動かない舞踏です。激しく踊っている時、優雅に踊っている時でさえ、そうです。なぜなら動いている身体は別の無数の身体からなっていて、これもまた身体から抜け出してしまった身体であるからです。これが死体に近いものなのかどうかここで即断することはできませんが、彼がいつも死の方向に、即身仏のミイラを含めた死体の方向に、自分の身体を意識していたことは間違いないでしょう。そしてそれが室伏さんの身体の思考に独特の哲学的次元を与えていたのかもしれません。
 彼の舞踏の身体は石になったり、岩になったり、金属になったりします。死体になったり、そう言ってよければ、ミイラ、時間の外にあるミイラになったりもするのでしょう。矛盾しているようですが、なぜか生きている死のブロンズ像を思わせた時もありました。そしてこれは彼の身体が非人間的な動物になったり、赤子になったり、トカゲになったりするのとまったく同じことなのです。

 私の言いたい「身体から抜け出す身体」という考えもまた、もともとは直接土方巽から来ています。『病める舞姫』のなかで土方はこう言っています。「もう一つのからだが、いきなり殴り書きのように、私のからだを出ていこうとしている」。
 なぜ殴り書きなのか? なぜなら出て行く身体は、あるときは痙攣であり、あるときは震えであり、もとの身体にダブったり、ずれたり、再びはぐれたり、あるいは突然死んだりするからです。それは、最高の形においては、優れた能の演者のかすかな動きと同じように、室伏の言葉を借りれば、「大挙して押し寄せる幻影」からふるい落とされた動きであり、その動きを排そうとする一種の動きつつある不動性なのです。

 「身体から抜け出す身体」というテーマは、すでに私自身の身体のなかにも巣食っています。すでにこのテーマで書いたことがありますし、このテーマが私から消えることはないでしょう。これは何と言っても、かつて最初に土方巽や室伏鴻の踊りが私にそっと無言で伝えてくれたことなのです。これは秘密の言説に属するものかもしれませんが、じつは私自身、自分にとって他者であるほかはないこの身体をどうにかしたいと思っているからなのです。

 山形にて。

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