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第89回 ボリス・ヴィアン

第89回 2017年8月





ボリス・ヴィアン





鈴木創士


鈴木創士『魔法使いの弟子 批評的エッセイ』エートル叢書17


 ボリス・ヴィアンが二十近い職業を持っていたからといって、作家たるものがどうやって食っていけばいいのか、という由々しき問題の答えにはまったくならない。永続的な喫緊問題ではあるだろうが、その点で時代はますます悪化の一途をたどっている。
 ボリス・ヴィアンがほんとうにずっと金に困っていたのかどうかはつまびらかではないところがあるが、理科系に強かったボリス・ヴィアンは最初、公務員の技師になった。でもそれもやがてやめてしまい、ほぼ同時に、つまり一度に、詩人、小説家、翻訳家、劇作家、ジャズミュージシャン、シャンソン歌手、作詞作曲家、ジャズ評論家、オペラやバレエの台本書き、映画監督、映画脚本家、俳優、レコード会社のディレクター、画家、美術評論家となった。
 ボリス・ヴィアンは「職業がひとつなんて、売春婦みたいだ」と悪態をついていたが、しかし彼は結局のところ作家であり、プロのミュージシャンであるにすぎなかった。やったことはほとんどひとつ事なのだ。あとの職業は、よくある話だが、一儲けしようと企んだ当時のサン-ジェルマン-デ-プレの人間関係その他が、才能溢れる彼を利用しついでにほとんど彼に無理強いした余禄みたいなものだった。つまりこんなものはどれもやる必要のない仕事だった。
 彼はずっと心臓を患っていたが、コカインをやっていた気配はなさそうだし、医者に止められていたトランペットを夜毎サン-ジェルマン-デ-プレの地下クラブ、穴倉「タブー」で吹きまくっていたことだけがたぶん唯一の死因などではないだろう。仕事、仕事、仕事。彼は働きすぎたのだ。こんな忙しい毎日こそが彼の寿命を縮めてしまったことは想像に難くない。見たくもなかった映画、自分が原作を書いたのにその出来に不満を抱いていた映画(その原作とはヴィアンのデビュー作『墓に唾をかけろ』で、もう少し正確に訳せば『お前らの墓に唾を吐いてやる』)の試写中に心臓発作で亡くなったのだから、ボリス・ヴィアンはほとんど殺されたも同然なのだ。

 ところで、フランスは第二次世界大戦の戦勝国だったとはいえ、戦後直後のフランスの若者にとって、いつの時代も同じようなものだが、やはり未来はあやふやなものだった。いや、たぶんそれどころではなかっただろう。未来の行動も思想も混乱と幻滅のなかにしかありえなかった(彼らにとっても、広島と長崎によって「原爆の世紀」はすでに始まっていたし、われわれが想像する以上に、彼らがそのことを強く意識していたことは間違いない。ボリス・ヴィアン自身、「原爆のジャヴァ」という曲を歌っていた)。
 レジスタン派の勝利によって、ナチス・ドイツの占領からパリは解放されたが、パリ全体も、もちろんサン-ジェルマン-デ-プレも、そして人心も、荒廃の極みにあった。フランスには対独協力というごく近い過去があった。町のあちこちで住民によるリンチが頻発した。処刑も行われた。戦争犯罪者たちと無名戦士の墓…。不思議なことに誰もが突然抵抗運動マキの英雄になった。えっ? かつて密告が横行したように、嘘も逃亡も横行したに違いない。すべてがマロニエの下ですっかり泥水をかぶってしまったのだ(後にヴィアンはレジスタンス神話を徹底的にこき下ろした戯曲『屠殺屋入門』を書き上げるが、芝居は二流の劇場でしか上演されることはないだろう)。フランスは旧約聖書の時代のようにさながら二分されたままだった。フランスとフランス人にとってヴィシー政権と戦後のアルジェリア戦争は二十世紀の二つのトラウマだったのだし、その問題は間違いなく今も尾を引いている。
 文学者はどうなのか。文学者も多くのツケを支払わされることになった。ナチス占領下でヴィシー政権支持の文章を書きまくったブラジアックはあれこれあった末に銃殺刑に処せられた。セリーヌは亡命し、ジャン・ポーランに代わってガリマール社の『NRF』誌の編集長におさまっていたドリュ・ラ・ロシェルは結局自殺した。九死に一生を得たブランショはやがて極左に転向するだろう。ドリュ・ラ・ロシェルは元パリ・ダダのメンバーだったことがあったのだし、戦前の右翼だった彼らはみんな「共産主義かファシズムか」の世代だったのだ。

 ボリス・ヴィアンは戦後のサン-ジェルマン-デ-プレのスターになったが、彼は戦争に深く刻印されただけではなく、まぎれもなく戦争を心底憎む戦後作家のひとつの在り方だった。それが彼の真骨頂だったと私は考えている。ボリス・ヴィアンの悪ふざけが何らかの反抗のしるしか発作でなかったことは一度もない。当時はただのジャズだって普通のフランス人には受け入れ難いものだった。おまけに彼は「脱走兵」の歌もうたったし、こんな詩も書いている。

  俺はくたばりたくない
  夢も見ないで眠りこける
  メキシコの黒犬
  むき出しの尻をした猿たち
  熱帯をむさぼり食らう
  あぶくでいっぱいの巣にいる
  銀色に光る蜘蛛たちと
  知り合いになるまでは
  俺はくたばりたくない…

 人生において誰もがその人のうちでその人を完結せざるを得ないことはわかり切ったことだ。ボリス・ヴィアンの場合は生き急いでいたように見える。そうはいっても、戦後のサン-ジェルマン-デ-プレの生活は愉快だったはずだ。ボリス・ヴィアンは『サン-ジェルマン-デ-プレ入門』という本を書いているくらいだから、ここに彼が「場所と公式」を求めたことは間違いない、というかそれしかなかったはずである。場所と公式は探し当てられたのだろうか。誰にとってもその問いに答えるのは難しいが、彼はここで生き急ぎ、そして死ぬことになった。
 サン-ジェルマン-デ-プレには、ご存知のとおり、多くの有名人が顔を見せていた。サルトルとボーヴォワール、カミュ、メルロー-ポンティ。だが黒ずくめの若者たちは、全員が実存主義の学生ばかりではなく、誰もがサルトルの信奉者だったわけではない。実存主義一色のサン-ジェルマン-デ-プレなど、ヴィアン自身が言うように、三文ジャーナリストが苦し紛れにでっち上げたいいかげんな話にすぎない。
 レイモン・クノー、ジャック・プレヴェール。フランスの暗黒小説の叢書、つまり探偵小説のことだが、「セリー・ノワール」の総指揮官だったマルセル・デュアメル。たしかにセリー・ノワールの哲学があったのだし、フランス映画はすぐ隣に位置していた。サン-ジェルマン-デ-プレには古参の連中もいた、アルトーや、ピカビアや、アメリカへの亡命から戻ったブルトン、コクトー、バタイユやツァラもいた。画家のヴォルスや、ジャコメッティ、マッタ。ジャン・ジュネ。エジプト出身の放浪作家アルベール・コスリー。アルトーの弟子だったロジェ・ブランや多くの俳優たちとその卵。ボリス・ヴィアンと並び称される戦後サン-ジェルマン-デ-プレの寵児、役者で歌手だったジュリエット・グレコ。それに名だたるアメリカのジャズミュージシャンたちがこぞってやって来ていた。デューク・エリントンも、少し後にはマイルスも。シュルレアリストの残党、そして後に五月革命を準備するシチュアシオニストの源流となったイジドール・イズーとレトリストの詩人たち。独創的にしかなりえなかった映画監督、五月の革命家となるかのギー・ドゥボールもそこにいた。後にウィーン幻想派の画家になったエルンスト・フックスも。
 一日中カフェにたむろし(この点で有名なカフェはいくつもあったし、今もまだ残っているものもあるにはあるが、いちいち列挙するのはあまりに空しいので、やめることにする)、夜はクラブ「タブー」で踊り狂い、安ホテルの部屋や泊めてもらえる寝ぐらがなければ、メトロの駅で野宿する多くの若者たち。戦争孤児たちもブルジョワの子弟も。彼らによって未来は拒否された。精神錯乱は保証済みだし、不必要といえば不必要なのだ。はっきり言って、こんな連中は最近では絶滅危惧種である。私があきらめ気味に日々そのことにいら立っていないと言えば嘘になるだろう。かっぱらい、麻薬の売買、その他の犯罪に近いこともたまには。まあ彼らは、言ってみれば、フランスのビートニクス、フーテン族やヒッピーのハシリとも言えるのだが、その魅力的な風貌は、エルスケンの写真集『セーヌ左岸の恋』やその他の写真、ジャック・パラティエの記録映画『想い出のサン-ジェルマン-デ-プレ』でも見ることができる。

 それらの中心にほんとうにボリス・ヴィアンがいたのかどうかはわからないが、ヴィアンが日常生活のなかで彼らを鼓舞し、そそのかし、元気づけるようなことをやっていたのは、伝記作者たちの筆致からしても、確かなことなのだろう。彼自身、自分を鼓舞していたフシがある。なぜなのかはしかとはわからない。生き急いだボリス。退屈だったボリス。そうとしか言いようがない。ボリス・ヴィアンの最初の作品は、はじめのほうで言及したように、セリー・ノワール風の「えげつない」小説『お前らの墓に唾を吐いてやる』だったが、これはヴァーノン・サリヴァンというアメリカ黒人作家の作で、ボリス・ヴィアンが翻訳と序文を担当したことになっていた。真っ赤な嘘だった。このほとんど冗談みたいな処女作は、出版社「スコルピオン」の社長ジャン・ダリュアンとの退屈な会話から生まれた。もちろんそれが彼らの日常的な悪だくみの一環だったことは言うまでもない。
 「なんかいい作品はないかなあ」
 「あるよ、ヴァーノン・サリヴァンという黒人作家だ」
 「原稿はあるのか」
 「今から俺がでっち上げるさ」
 「じゃ、そいつで一儲けしようぜ」
 実際、本は五十万部の戦後最大のベストセラーとなったが、暴力描写及び過激な性描写ゆえに風俗紊乱の廉で発禁処分の憂き目をみる。バタイユやブルトンが法廷に立ち、出版人ジャン・ジャック・ポーヴェールが被告になったサド裁判よりずっと前の話である。

 ヴィアン自身が言うように、内容とは何の関係もない表題をもつ小説『北京の秋』に敬意を表して、最後に中国北宋代の詩人蘇東坡の詩をヴィアンに献じよう。

  人生いたるところで知りぬ何にか似たる
  まさに似たるべし飛鴻(ひこう)の雪泥(せつでい)を踏むに
  泥上にたまさか指爪(しそう)を留(とど)むるも
  鴻飛んでなんぞまた東西を計(はか)らん

 ボリス・ヴィアンは心臓発作によって三十九歳で亡くなったが、人生の漂白を知るために、つまり書くために、北京をわざわざ彷徨うには及ばなかった。彼はサン-ジェルマン-デ-プレにとどまって、ペットを吹いていた。音楽もまた原則としてその場で消え失せるものである。誰もまともに読もうとしないのだから、書かれたものだって同じだ。素晴らしい詩人で失脚した政治家だった蘇東坡が語るように、人生のさすらいは何に似ているのだろう、舞い降りた雁が雪解けの泥を踏むようなものではないのか、泥の上に偶然足跡を残しはすれども、飛び立った雁の行方は誰も知らないからである。

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