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第92回 雨が降っていた

第92回 2017年11月





 雨が降っていた





鈴木創士


イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』(エートル叢書24)
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』(エートル叢書19)
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(エートル叢書20)

 雨が降っていた。私は間違ったのか。朽ちてしまったような窓辺に季節外れの大きなアゲハ蝶がとまってこちらを見ている。ぼんやり外を眺めるでもなく、窓辺近くに腰かけて、さっきから私は居眠りをしていた。雨がずっと降っていた。何度となく私は大きな間違いを犯してきたのだろうか。漆黒の羽をした蝶は誰の眠りにも動じる気配がない。眠りから引きずり出されるまでもなく、私の半睡半醒のなかで、すでに胡蝶はこの世がこの世であることをあらかた証明してしまっていたが、この世がこの世であることはすでに夢のなかにしるされていて、妥当性を失っている。区別がつかないのは夢かうつつであって、蝶や私ではない。蝶の黒い羽には白と黄色の斑点があって、そこから払暁の薄明かりが少しずつ漏れ出していた。薄明かりのかすかな光は、もう眼前から消えてしまった闇の名残りであり、蝶という闇の装いであり、自分を否定しにかかったかつての嘘なのだ。雨がやんで、光が射してきた。ときどきブラームスのピアノ幻想曲が聞こえる。CDをかけっぱなしで音楽はずっと鳴っているのに、とぎれとぎれにしか聞こえてこない。私はだらしのない身なりで、一日中ずっと喪に服している。支離滅裂な独り言が何度となく心臓を鷲掴みにする。窓から捨てたはずのものが健忘のなかでよろめいている。さもあればあれ、と昔の誰かが囁く。不愉快な悪魔の囁きに耳を傾けてはならない。あれは自分を最後まで知り抜いたかのような罠なのだ。ああ、手遅れだ。歌など詠むには及ばない。背中に冷たいものが走り、いつも遅きに失した言葉、それが口にされようとする刹那が時間の澱となって全身の血管のなかを駆け巡る。この世のものとは思えない蝶が私を見ている。雨が止んでも、蝶は窓辺からじっと動かない。母が亡くなった部屋にも蝶が舞っていた。

 大空を裂いた秋日の影なれやよそ見のみぎり恐ろしからむ
 玉の音など消えなば消すさ絶縁状君生まれこし破滅の月日に
 咲かぬなら花と錯乱散りぬるを君切り倒す去年(こぞ)の梅の木

 蕭蕭と雨が降っているのに、昨日の深更、西の空に月が出ていた。視線が焦点を結ばずに少しずつ二重になっていく。私はそれでも凝視する。壁にくぼみが現れる。猿のように笑っていた、歯のない老婆の姿はもうない。額にやった手が半分消えかかる。ほんの少しだけ床から浮いてしまったみたいだ。暗闇のなかでカサカサと衣擦れの音がする。横たわったチャイナ服のスリットからまっ白な脚がむき出しになっているのがわかる。下着はつけていない。まっ暗のなかに唇の真紅のルージュだけがぼんやりと浮き出ている。そいつは生きて息をしている未知の小動物のようだ。女が寝返りを打って、からだの向きを変える気配がする。生暖かい息づかい。びしょ濡れになった闇。私はそれをむなしく手探りする。愛の幻滅のなかで私の息はもう切れている。紫煙。遠のく意識のなかで二股になった爬虫類のような舌と舌をからませたのか。見知らぬ者どうしの夢のなかで、匂い立つように生々しい接合。一段と大きくなった雨の音がずっと聞こえている。
 
 死は冷たい。だからまだその時ではない。
 存在の皮が剥ける。神はいない。くたびれ果てた不吉さ。お前の暗い骨にもう一度、光は射すのだろうか。わたしはなぜお前を愛していたのか。イレ? ああ、何という、何ということだ。お前の小さな神は、今お前に尋ねている。エウッド。他にも女たちがいたのではないか? それなのに、どうしてあなたは私を選んだのか。

 ひとたび死んでしまえば、いつも欲しいと思っていた色彩を手にすることになるだろう、サフランの紅、掛け値なしの赤、煉瓦とイチゴとセピア色と影と中間色、あなたの側でわたしは気難しく真紅、二人ともお終い、だって死んじゃったのだから、わたしたちの手は大がかりな儀式から離れることができず、わたしの手はあなたの高貴な肉体に触れている、あなたの肉体は生と死の境界を引けそうもない色艶をもち、私の舌には甘美すぎて、日が経つごとにますます甘くなり、純粋な蜂蜜のように、あなたの口がわたしの上に、ハチドリでいっぱい、わたしたち二人はある日に死に、不朽の永遠を得る、人々は井戸が開通したときのように、それに眼を見開くだろう。
(イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』)

 鈍色に垂れ込めた空の向こうは夜のアギトに食われようとしていつまでも悪臭を放っていた。夜のアギトは吐き気がするようなけばけばしい色をしていた。この想像を絶する悪臭、何も感じはしない、岩間の清水を啜るようにこのアギトの臭いをあたしは嗅がねばならない。十分間だけ眠る。黄昏時、犬も狼の姿もぼやけてゆき、ともに穴に隠れてしまったように見えなくなりかけた頃、密雲が散らばり始めた。あたしは外に出て、母の形見だった古いコートを脱ぎ捨てた。コートの下はすっ裸だった。冷えきったどこまでも白い肌と、あんたの好きな黒々とした陰毛。あんたと会うのは今日が最後になるはずだった。雨が降っていた。あたしはあたしをあんたにちゃんと見せてやろうと思っていた。でもあんたにはいくら欲情の放電が起ころうとも、あたしの墓穴に触れることなんかできないわ。あたしの体の穴という穴。でもいくら凝視しようとけっして見ることのできない穴。墓穴を掘るのはあんたの役目だったけれど、墓掘り人夫の手際良さなんて男のあんたにはあるはずがなかった。あんたはそうやって自分の穴を見つめていると思っていた。あんた自身のすべてが節穴のような穴で、そんなものはあんたのお粗末な目には見ることができないというのに。穴が面(おもて)だったことは知っているでしょ。俺には見えている、俺には見えているさ、なんて能書きをいくら口にしても、そんなものはあんたのどっちつかずのつまらない虚勢にすぎなかった。あんたはあたしの目の前をうろうろすることで、いちいち都合のいい不在に去勢を施していたのよ。あたしはあんたをもう愛することはできない。

 美術館の前に着いてみると、雨が降っていた。西日も射さず、そうであり得たかのように、やくたいもない思い出のなかでだけ夕日が射していた。
 古い美術館はそうでもないが、私はたいていほとんどの美術館が嫌いである。それが安藤忠雄などの建築物であれば、汚いコンクリートがあまりに陰気すぎて、殺伐としていて、なかに入ると安物の金ピカが剥げたようなどこかの霊廟にやって来た気分になる。ここはバカでかいだけが取り柄の殺風景な墓なのだ。誰のものでもないのに、誰ソレの文化、文化とつぶやきながら、さえない死霊や半透明の幽霊がいそいそとうろついている。ベルニーニやボロッミーニのような建築家でなければ、建築家などもう存在しないほうがいい。大工の棟梁で十分間に合っている。どうしても見たい絵があれば、ここに来るしかないのだが、こんな美術館は、ひとりで来たりすると、気が滅入ってものを考えられなくなる。今日、私はひとりだ。おまけに身体障害者にとってはあまりにも安易に思いついた迷路のようで、えんえんと歩かされるし、最悪である。座るところもない。人をなめているとしか思えない。

 エル・グレコのいく枚かの絵のなかで、描きこまれた光に照らされ、ぼやけた部分がどんどん広がっているのが見受けられる。そこではあたかも何かがたえず眠りから引きずり出されているように、絵画は、空間に休止という性質がそなわっていないことから、むしろむりやり断行されたものに映る。そこでわたしは、夢のなかで、現実の形姿(フィギュール)や人物たちがどう変装しているかよりは、仮構体験にもたらされたあの奥行、というか、見かけの奥行の方に思いを馳せる。夢はそこに一種の要約、あるいは、プログラムを一緒に盛り込んでいる。その要約ないしプログラムの謎は、形姿たちの起源や意味、その出所や場面の配置に所在するのではなく、あれほどしっかりと規定されているのに見抜けない使い方や、活用不可能なプログラムにあって、真っさらに描かれた、あの未来にしか所在していないということだろう。
(ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』)

 シェフールの言う「ぼやけた部分」は、それを見ている者の体験の奥行であると同時に、体験をすでに呑み込んでしまっているはずの何か、夢のなかからかろうじて眺められた現実の奥行であるに違いない。現実のなかには、ぼやけた部分が広がることによって、瞬時に所在してしまうくぼみがあることがわかる。夢はこのくぼみの裏側である。この夢ははじめからの一種の覚醒であり、眠りのなかの目覚めであって、ロマンチックな意味をすべて剥奪されていることは言うまでもない。夢にあとさきがあるのは、シェフェールの言うように、それが夢の盛り込んだ要約であり、誰が操作しているのかついにわからないプログラムの謎の起源でありその終局であるからなのだが、その使用方法とは、いつも目の前にあって、毎日そうとは知らずにわれわれが用いているかもしれないものでありながら、誰もそれをそれ自体として見知った自覚がないのである。なぜならどんな使用方法であっても、このくぼみをどうすることもできないからだ。こうして私は途方にくれざるを得ない。そしてプログラムがあらかじめ活用不能であるということは、それがどこにでも、いつでも、たぶん接続可能であるということなのだ。時間は、この場合、可逆的でしかない。しかしその後は? いや、この事態は今げんにここで起きていることである。未来は今存在している。だが光はすでに描きこまれ、そこにあって、しかもここでは光は観察されることによってひとつの光となるのだが、未来は、未来にあっては、髪の毛一本先を逃げているし、今見た光をたずさえたこの未来はどうあってもその刹那に存在できない。おまけにそれを確かめるすべがないだけではなく、ここではそもそも未来は過去と見分けがつかないのだ。私は何かのタブローを前にしているとき、ぼんやりと照らし出された光源のそばにいるようにしてその未来のタブローを見ているのだと思っていた。私は間違っていたのかもしれない。私は今ここにいながら、美術館に入ることもなく、ただ過去のなかに雨が降るのを見ているだけなのだ。

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