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第94回 正月の葬式

第94回 2018年1月





正月の葬式





鈴木創士


ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』(エートル叢書19)
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(エートル叢書20)

   丘の上で鈴の音が聞こえる

   生まれたばかりの蛇のように
   君の髪が風にからまった丘
   きんぽうげの毒花が咲いていた
   遠い泉は涸れて跡形もない
   鈴の音が聞こえる 
   私には見えない丘のむこうで

   丘が見えたとしても
   私は辿り着けないだろう
   なだらかな坂道
   マンドリンの調べ 
   傾いた木の十字架が見える 
   リラの花咲く君の窓辺へ
   急いでいるのだから

   何を間違えたのか 
   マンドリンを抱えて通り過ぎた
   地獄の門の火の夜に
   君の窓辺へ
   灯りの消えた君の窓辺へ辿り着くまでに
   壊れてしまったマンドリン 
   苦しみの夜空に神の雲が浮かんでいる 
                    (中世イタリアの無名の吟遊詩人「葬い」より)

 今日、古い友人から久しぶりの電話があった。電話の声はがらんとした空間から聞こえてくるように遠く、妙にうつろに反響していた。彼とは長いこと会っていない。
 「シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を聞いてると、裸の女が溶けたアイスクリームを食べてる絵が浮かぶな、しまいには裸の女まで溶けてしまうけど」
 「それ前に俺が言った科白だよ、シェーンベルクは夏に聞く音楽じゃないし、シェーンベルクじゃないけどな」
 「暑くても寒くてもギリシアの火炎車のようにどうせみんな溶けるんだ」
 「おまえ今何してる」
 「正月なのに葬式に行くとこ」
 「行くの気が重いんだろ」
 「ああ」
 「ちゃんと行けよ」
 「じゃあな」

 内田百閒は芥川龍之介が死んだのはその夏が暑かったからだというような事を言っていたが、若くして逝った自分の友人たちのことを思うと、みんな暑い夏に死んでしまったような気がしてくる。あいつも、あの子も。冬に死んだ者もたしかにいたはずなのに、夏の白茶けた、陽炎のようにゆらゆらして、もやもやした感じしか脳裏のスクリーンに映し出されない。それなのに自分が死ぬ場合を思ったりすると、最近はどうも冬に死にそうな感じがしてくる。なぜだか冬枯れの林が目の端っこに見えたりする。ある人に、最近君の書くものは、以前は「死体」という言葉を書いていても鏡のように闊達で明るかったのに、そうじゃなくなった、何があったんだと言われた。

 だが「鏡には記憶がない」。
 鏡には記憶がなかっただけだ。
 鏡は光の魔術だから、厳密に言って鏡に映っている分身は一瞬前の過去の姿である。だがこれは記憶ではない。現在はもうすでになく、記憶もない。映画のスクリーンに映し出される分身にも記憶はないし、ただ一瞬先の動作をいまにも繰り返そうとしている。この反復は原理的には永遠に繰り返されるだろう。だがこれも記憶ではない。永劫回帰は絶えず同じ地点に舞い戻る。しかし過去は戻らず、分身のこの動作は未来にしかない。分身以外のすべてが死に絶えているということもあるのだから、現在、過去、未来の死が繰り返されるのである。
 背中どうしをくっつけているのに顔が見えるというのは、背中と背中の間に鏡があって二人が笑うとそれが曇るということだ。実際、ガラス板は人の息で曇っていた。回りの空間があまりに広大で東西南北が消え、鏡を間にはさんで空間と人の関係が死体とデスマスクのようにぴったりくっついてしまっている。
 鏡のなかで、削れて粉々になり消えてしまった四つの腕はしばらくすると向こうのほうで少しずつ現れて小刻みに震えていたが、指の先端でつまんだ煙草がもう一度鏡の表面に現れる頃には再び顔ももうぼやけ始めて、このままではまたぞろ消滅の憂き目にあうなと思ったとたん、燃え尽きた火がからだに燃え移り、数秒の揮発性の焼成の後、二人のからだは灰になって崩れ落ちた。鏡の裏側だけがこうして鏡に映っているだけだった。

 気違い帽子屋と絶交したアリスは二度と気違いお茶会などには行きたくありませんでした。アリスはチェシャー猫に再び会いにゆきました。苦しゅうない近こう寄れと、ずいぶん歳をとり、汚れて尾羽打ち枯らした猫は言いましたが、アリスは自分の体が半分すでに消えかかっていることがちゃんとわかっていたので、にゃんこに意地悪をしました。半分破けた片割れのトランプの女王に似てきたアリスは、ふーと猫に息を吐きかけたのです。すると冬の鏡がパリンと割れました。

 鏡にとって、背景は表面として到来する。この表面には別種の光が当たっていなければならない。愛惜措くあたわざる作家であるジャン・ルイ・シェフェールは、エル・グレコの絵画のなかに描き出される光は照明とは無関係であると言っていた。「光はすでに世に到来したものであり、光は照明を当てるものではない。光は示されているものなのだ。それによって風景画全体は、神経的反応、それに発汗――不安の汗――がまぢかにおこるという思いのせいで、あの酸味を帯びた色合いに彩られる」。
 物は、物質は、そのように見えることがなくとも、絵のなかに漂う光のなかでつねにカタストロフ状態にある。すべての要素は「上昇したり、引き伸ばされたり、滑り落ちたり、宙吊りにされたり、増大したり」するが、それが実際には物理的に起きる確率を持たないだけでなく、神話的、物語的、説話的アリバイも持たないことは言うまでもない。絵のなかの風、嵐、砂嵐、雨、沈黙、まるで生命を授かったような布地。鏡とは、まるでこれらのものを映すこれらのものすべてである。

 記憶の光のなかでは、鏡の表面に映っているものは全部が嘘だったような気がしてくるなどということは、ほとんどすべてが本当のことだったということだ。これが別種の(そうとしか言いようがない)光のなかにあったはずの物の特性である。人は消滅の数を数えたりはしない。消滅というのは蝋燭の火を吹き消すようにはいかないもので、振り返ったとたんに鏡のなかの自分が掻き消えていたりもする。暗闇にいても日なたにいても同じことである。嘘つけと言ったとたんに、口が腐ったりするのだ。
 しかしグレコの絵には光源がないのではないかと思わせるものがある。光はどこからも射していないし、物体や身体の内側に光源があるとしか考えられない。でもそれも後光のように人の内側から光が放射しているというのでもない。光があって、光源がない。だから例えば「トレドの眺め」の山の上の不思議な街並みは、色彩を故意に消してしまうと、月世界のように見えたりする。そこに突然、一羽の鳥が墜落する。外と内に。同時に。出来事とはそういうものである。「というのは結局のところ光は天空のなかにはもはやない。光は何よりもまず一種の原因(カウサ)に由来し、いかなる光源もそれをつくりだすことはできない」(シェフェール)からである。

 世阿弥は「仮令、憑き物の品々、神仏、生霊、死霊のとがめなどは、その憑き物の体をまなべば、やすく、たよりあるべし」と言っているが、じゃあ分身はどうなのか。おまけにそいつが操り人形である近代的主体なるものから出てきた分身である場合は? それとも、言うまでもなく分身は物狂いや鬼や付喪神ではなく、ただ単に秘すべきものなのか。「ただ単に」秘すれば現れる?……
 0.9999…と1の間に、というか「遅れ」のうちに分身がいるのではないか。すべて奇数の日が3111年1月1日まで来ないという居心地の悪さは、現実に割り切れてしまえば分身は消えてしまう恐れが背後にうずくまっているからだ。分身は一が二に割れるのではなく、また分裂でもない。フロイトは「それがあったところに私は生起しなければならない」と言ったが、「それがあった・ある・あるだろう」ところに分身は生起し、世迷言を言い、私が生起しなければならぬところからは早々に姿を消すだろう。ユダヤの神の名は「それはあった・ある・あるだろう」という意味だったが、「それはあった、ある、あるだろう」と一度に言う者は、私がかつて知った者、いや、いかに合わせ鏡のなかには生々しく映ろうとも、結局は抽象性のなかにしかない死者のように、誰でもなく、と同時に死んだ彼であり彼女であって、たとえ彼または彼女をいまこのときにそれと認めることができるのが私だけであるとしても……。

 「くちびるを聖書にあてて言ふごとき告白ばかりする少年よ」(春日井建)

 えにしだの道途切れなむランボオよ口笛吹きつつこの世は終りぬ 
      (アルチュール・ランボー『イリュミナシオン』「少年時代」への返歌)

 瓦礫のなかに真珠がひとつ落ちている。ツングースカの広大な森に落ちてきたブラックホールが木の幹のそばにうずくまったウサギを一瞬で消滅させる。吹き飛ばされた馬の首が電信柱に突き刺さって風に揺れている。地平線の向こうをキリンが燃えながら疾走する。フラ・アンジェリコの描くすべての終末の墓は暗い口を開けている。死体を暴くもの。犬。十の角。
 舞台の上に鞠がひとつ転がってくる。誰もいない。ああ、これだ! と私は思った。だけどそんな光景を見たわけでもない。むしろ空を見ていた。青空。雲ひとつない。今日この日、一月三日のように。すべては消え失せねばならない、とあいつが言う。晩年、ジャン・ジュネは倒錯について書いたくだりでも青空という言葉を使った。若い頃、ジュネがはじめて間近で殺人を目撃したとき、陽が水平線に沈みかかっていた。「私の目の前で、世界のあらゆる国からやって来た水兵や兵隊やならず者や泥棒の群衆のまっただなかに、死人と、人間のなかで最も美しい男とが、同じ金色の埃のなかでひとつに溶けるのが見えたのだ。地球は廻ってはいなかった」(『泥棒日記』)。右目と口から血を流して女の蔭に逃げ込んだら、南の青空に鳥が黒いしみをつくっているのが見えた。女の半身が消え、もう片方も消え、モーツァルトのレクイエムのキリエが始まると墓地も消え、カトリックの典礼から異教の狂気がぞろぞろと出てきてはかき消えていくのが見える。死後の生に慣れねばならない。鏡の表面の靄のなかで私はジュネのはげ頭に接吻する。
 何年前だったか、フランスの高校生が350の高校をバリケード封鎖した。聖ヨハネはパトモス島の牢獄でこう言っていた。「犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また偽りを好みかつこれを行う者は、みんな外に出されている」。
 ゼロ、ゼロ、ゼロ。あたしは隠れる。喉も渇いてないから、何も欲しくない。めくら壁。ここには鏡なんかない。なんにも見えないしなんにも聞こえない。入り口も窓もないのがはじめからわかっているんですもの。馬鹿みたい。でもでもそれなら入り口も窓もないのにあたしはどうやってここに入ったんだろう。どうやってあたしはここにいることができるんだろう。変でしょ、それって? なんかおかしいでしょ? 壁を引っ掻いた爪が割れて血が流れてる。音も聞こえないし、砂なんかどこからも零れてこないわ。あたしは弔鐘をどぶ川に捨ててきた。空が青いのはあんたが馬鹿だから。もう一度言うけど、ここには入った覚えがないのに、どうして出られるというの。教えてよ。闇の黒い敷布なんか破ってやる。糞ったれ。
 自殺した少女は世界を滅ぼしたのかもしれない。一度世界が滅んだことを誰もが忘れたために、不在の鳥は夢を見続けなければならず、鳥はすでに死骸であり石化しているのだから、私が見つけた鳥は滅んだ世界の人知れぬ残余であって、書かれた言葉もその塵に混じって消えてしまうただの紙屑である。
 「君はいつからここにいたの?」
 「世界が滅ぶ前からずっと」

 「この夜には、歯のように白いこの夜には、皮膚がしがみつく影はもうなかった……」(ジャン・ピエール・デュプレイ「塩の月」)。
 何も変えてはならない、何も考えてはならない、誰も寝てはならない、お前も寝てはならない、何も、何ひとつ、ペストも、アウグスチヌスも、異物も、精神は一種の癌腫である、少女たちの歓声、ブリュッセルは真っ白だ、チベットの雪、何も変えてはならない、映画ではない、京都も寒かった、麻痺した虚無のなかで震えている小鳥。
 ベコベコになった空っぽのバケツを蹴っ飛ばしたら、使い物にならない古い箒が待合室の鏡に映っていた。今日も昨日もそこからピアノの音は聞こえない。待合室で落とした切符を探していたら……と書こうとして、それが錯覚だったということに気づいたので、振り返ってみた。電車に乗ったのに、駅がなかったなんてこともあるからだ。
 果てしのない急降下。私は操縦桿を握っている。風防から見えるのは青空だけだ。砂色に光るレテの水面、あまりにも近い龍舌蘭。真正面に見える砂漠の涸れた井戸のなかで血色の星が瞬いている。垂直の涎を垂らした飼い殺しの龍。そいつがちぎれて飛んでゆく。何百年も姿を消していたのに沼沢の鬼火が私の眼前にふらふらと彷徨いだしたのだ。

 正月の土手の赤松は枯れていた。雲が夕日に照り映えて、西から東へものすごいスピードで流れていった。それが土手からも見えた。私の友人は葬式には行かなかった。正月に、奴は自分で自分を埋葬したのだ。ジャコメッティの彫像のように。

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