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『潮汐の間』 どのようにして、これほど達意の日本語が書けるようになったか知りたい

   素晴らしい作品である。こゝ数年、読んだ小説の中で、最も感銘を受けたものの一つである。最初は単なる興味(新聞コラムで、アメリカ人が独学で日本語を習得し、その日本語で小説を書いた、という)から読み始めたが、忽ち作品世界へ引きつけられ、一気に読んでしまった。
  とても外国人がかいた日本語とは思われなかった。実に自然な、こなれた日本語であって、これほどの文を書ける作家は、日本の小説家の中にもそう多くは居ないであろう。文と共に、その物語り性も充実していた。作者は登場人物から、絶えず一定の距離を置き、過剰な感情移入を行わず、物語りを完結させている。
  私見で、最も成功したと思われるのは、ラミールという人物の描写である。日本とフィリピンの両方にまたがりながら、決してどちらかに傾かない、ごく平凡な人物像が実に生き生きと描かれている。この人物像が物語全体の骨格をなし、国家と個人という不可思議な関係に、ある暗示を与えている。
  次作も期待しているが、著者に是非、日本語習得について書いてもらいたい。どのようにして、これほど達意の日本語が書けるようになったか、知りたいものである。

 

フィスクさんへ
  前の読後感の続きです。日本語の巧みさも、さることながら、プロット設定の上手さも見逃せない。
  前半の主人公森武義の生長過程は、過去と現在(小説舞台での現在)の並列として描かれ、それが少しも無理がなく読む者の頭に入るのは、驚くべき作者の技法である。
森をめぐる人物も、皆、生き生きと描かれている。作者はどんな人物も粗末にせず、血の交った人間として丁ねいに描いている。
  軍隊内のシーンも、不自然なものはなく、納得できるものであった。古兵(古参兵)による新兵へのいじめも、淡々と描かれ、さもあらんと思わせる。作者は、いたずらに感情移入することは避け、客観的ともいえる態度で、それぞれのシーンを描いているが、このことが、読む方に考えるヒントを与えている。もし、いじめ抜かれた新兵が、対象の古参兵を、巧みに報復したとすれば、読むものに痛快感は与えるが、ただそれだけとなってしまう恐れもある。戦場という極限状態に置かれた無数の人間像を、作者は丁ねいに、誰に肩入れするというわけでなく、物語として縦横に動かしている。
  日本も戦後、戦記文学というようなものが流行し、野間宏や大岡昇平など優れたものは沢山あるが、いずれも、自己の体験に基いていた。そして戦後に生まれた者には、戦争の場面は描けない、などの俗論が罷り通っていた時期もあったが、それは誤りだったことはいくつかの作品で明らかになった。
  例えば、奥泉光の「石の来歴」の中の兵隊の描写は、優れたものだが、奥泉は戦後生まれである。体験した者でも書けない人は居り、体験しなくても書ける人も居る。畢竟、知的好奇心と想像力の差かもしれない。
  それは、太平洋戦争は、昭和二十年に終わったが、すぐ朝鮮戦争、ベトナム戦争、など起り、戦場という極限状態は絶えず人々に提示されたという歴史があったからかもしれない。
  それにしても、著者の探究心は驚くべきものがある。戦争中に大衆を締めつけていた皇国史観(というか、神がかりのイデオロギー)もよく調べている。どうしてあんなオカルトじみた風潮に皆、乗ったのか、今だに分からないが、日本独特とも言えるし、人間皆そうなり易いとも言える。
  次作は、どのような展開になるのか、楽しみである。発刊されたら、すぐ購入して読みたいと、わくわくして待っている。
  五月十一日                            梁瀬浩三

 

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