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第98回 ブランキの宇宙

第98回 2018年5月





ブランキの宇宙





鈴木創士


ブランキ『革命論集』(上・下 *現在は絶版)
ギュスターヴ・ジェフロワ『幽閉者 ブランキ
E・H・カー『バクーニン』(上・下)

 ずいぶん昔の話だが、高校生のとき、政治的活動に首を突っ込んでいた頃のことだが、いくつかの大学のバリケード封鎖にのこのこ出かけて行くと、大学生たちに「お前はブランキストだ」と糾弾されたことがしばしばあった。言外のいじめのような侮蔑的嘲笑もあったし、非難や糾弾だけではすまない流血沙汰もあったが、まあ、今となってはそれはどうでもよい。大学生たちは意気地がなかった。
 「ブランキスト」(ブランキ主義者)というのは、当時は揶揄や蔑称に近く、無計画で、理論も綱領もなく、破壊だけが目的の、展望も何もない過激主義者であり、ただの思慮のない無責任な跳ね上がりというほどの意味だった。マルクス主義以外の政治活動家では、私はブランキとサン-ジュストが好きだった(サドをフランス語で読むようになってから、サン-ジュストへの評価は変わったが)。
 はっきり言って、当時の私は、展望も、未来の計画も、総括もどうでもいいと思っていた。そんなものは持続のなかにとどまることであって、愚かにも敵の論理にくみすることだと思っていた。すべてはあらゆる事象を成立させている持続の琴線を断ち切ることにかかっているのだ、と。時間は、歴史的なそれをも含めて、瞬間の外に追い出さねばならず、すでに追い出されたのだ、と。

 革命を殺害した民主主義ヨーロッパの死のリストに激昂してブランキは言っている、
「明日の革命を脅かすものは、いかなる暗礁であろうか? それは昨日の革命を瓦壊させた暗礁、護民官に化けたブルジョワどもに集まった嘆かわしき人望という暗礁である……反動が民主主義を惨殺したのは、反動が自らの使命を果たしたというだけのことにすぎない。罪は、信じやすい人民が指導者として全権を委任したにもかかわらず、その人民を反動の手に委ねて省みなかった裏切者どもにある」(『革命論集』)。

 フランス革命とロベスピエールについてはどうなのか。ブランキはかなり時代の先を行っていたと思われる。至高存在のテロリズムに関して(テロリズムはフランス革命の発明だった)、ブランキはフランス革命と袂を分かったのか。しかも面白いことに、ブランキのこの見解はサドのそれにかなり近いものがあった。
 「教会の香炉持ちの奇怪な論理! 理性の祭典は、大道芝居の一場面、民衆の良心の堕落、恥辱に満ちた混乱でしかない。至高存在の祭典は、崇高な儀式、すべての人民の崇高な躍動、良心の復活、大地と天上との和解である。前者には地獄の乱痴気騒ぎしかないが、後者には天の愛餐がある、と。だが実際、彼らは二つの示威のどこにこういう対比を見出すのか? これらの祭典の道具立てや象徴のなかに、どんな違いをとらえることができるのか? 演出は全く同じなのだ。一方は理性、他方は自然、どちらもともに神格化には満足だ。精神主義的な好みをそれにあてはめるなら、もちろん叡智の顕現たる理性に対してであって、物質の表現である自然にではない。だが、どちらが上位かという議論はたくさんだ」(同上)。

 マルクスは一八五〇年に「フランスにおける階級闘争」のなかで最初にプロレタリア独裁を標榜し永続革命を宣言した革命家としてブランキを賞賛していたが、そうは言っても、当時私を批判した大学生たちも、それに私もまた、ブランキの理論がどういうものなのか、それほど、いや、まったくと言っていいほどわかってはいなかった。エンゲルスがブランキのことを「過去の革命家」であると述べたものだから、みんなそれを鵜呑みにしていたに違いなかった。私はエンゲルスの言うことなど歯牙にもかけなかった。ただ誰もが知っていたのは、事の正否はいざ知らず、ブランキが、近代的意味において、行動の面における「過激主義者」の最初のイメージを間違いなくつくり出したということだけである。

 いでたちはいつも黒ずくめ、禁欲的にして頑固一徹なルイ・オーギュスト・ブランキは、一八三〇の七月革命以来、十九世紀フランスのほぼすべての革命的動乱に参加した。一八四八年の二月革命、一八七〇から七一年にかけてのフランスの危機およびパリ・コミューン前夜のすべての革命的事件に関与した。一八七九年には、獄中にあって、議員に選出された。
 秘密結社めいた閉ざされたグループと少数精鋭による政治的暴動。コミューン派には、プルードン派も革命的ジャコバン派も第一インターナショナルもいたが、しかしブランキはパリ・コミューンの頭脳であり、行動のあれこれの実践的指針を示すことのできる頼もしい指導者であった。彼は後世のゲリラ戦の原型を提供したとも言える。そのためにブランキは通算三十三年にもわたって牢獄に監禁されることになった。拘束と追求尋問を計算に入れれば、四十三年にも及ぶ。これに匹敵できるのは、やはり生涯の大半を監禁の日々のうちに過ごした十八世紀のサド侯爵くらいしか私は思いつかない。ブランキは十九世紀のあらゆる政体によって囚人となったが、これも十八世紀のすべての政体によって監禁された聖侯爵とそっくりなのである。

 プロレタリア独裁による自治政府を宣言したパリ・コミューン。ブランキは敵ヴェルサイユ政府によってコミューンの内乱勃発の前夜に逮捕された。パリ・コミューンでは多くの凄惨な血が流れた。内戦と血の一週間があった。ヴェルサイユ軍の虐殺によって不退転の革命も全滅に近かった。コミューン派の多くの人々が死刑、禁錮、流刑、強制労働になった。ランボーもロートレアモンも当時同じ空気を吸っていたことになるのだし、彼らの書いたものはそれと無関係ではあり得なかった。
 「血が流れた、青髭公の家で、——屠殺場で、——円形競技場のなかで、そこでは神の封印が窓を蒼白く染めた。血と乳が流れた」(「大洪水の後で」)、ランボーは『イリュミナシオン』のなかでそう言っている。
 ブランキの革命家としての真価を示すひとつのエピソードが残されている。ブランキは欠席裁判によって国家反逆罪で死刑を宣告され、すでに述べたようにコミューン勃発の前日に逮捕されたのだが、ブランキはコミューン政府の大統領に選出されていたので、捕虜交換が自ずと提案されることとなった。コミューン自治政府はパリ大司教を含めた七十四人の人質と、コミューンの頭脳であるブランキただ一人の交換を時のヴェルサイユ臨時政府に要求したが、しかし臨時政府の首班であったティエールはこれを断固として拒否したのである。

 パリ・コミューン勃発前日の逮捕によってカオールの監獄に収監されていた老いたるブランキは、一八七一年五月二十四日、秘密裡にトーロー要塞に移送され、そこでの監禁の日々が始まる。三百年は閲(けみ)するこの古い要塞監獄は荒波の打ちつけるブルターニュ半島の岩礁の上に築かれていたが、聞きしに勝る恐ろしいところだった。

 ブランキの収容された土牢にはほとんど陽が射さなかった。ブランキを救出しようとするコミューン側の不穏な動きもあったし、ブランキには脱獄歴もあったので、最初、ブランキの所在は極秘事項だった。外部との連絡は完全に絶たれた。これはいままでではじめてのことである。警備はすこぶる厳重だった。ブランキを投獄したのは自分であると名乗る者はいなかった。すべてが法律を逸脱した不法逮捕だったからだ。海に面した窓は塗りつぶされ閉ざされたままだったし、湿気だらけの壁からは硝石が噴き出していた。荒波の音が強迫観念のように絶えず押し寄せ、風があると不意に潮の香りがするだけである。どんな出口もない。
 ブランキはモン-サン-ミシェルの過酷な牢獄など数々の監獄を渡り歩いてきたが、この難攻不落のネズミの棲家は最悪だった。寄る年波もあった。おまけにものすごい騒音が聞こえるのだ。地下牢などが共鳴箱となって、歩哨や巡邏隊や賄い人などの人の声、足音、歌声、その他の騒音が昼夜を問わずブランキを苦しめた。発狂してもおかしくはない。これは現イスラエルのモサドなどが使う拷問の手法を逆転させたものに近い。「俺を墓のなかに閉じ込めたのなら、せめて墓なみに静かにしてもらいたい」、ブランキはそう訴えたほどだった。

 本当だったら間違いなく自分が先頭を切っていたはずのパリ・コミューンの革命的動乱に、獄につながれたブランキは加わることができなかった。五月下旬になると、パリのバリケードは血に染まり、陥落していった。パリの街路のいたるところから腐臭がした。あいつは、あの男は、あの腹心の部下、あの若者たちは生きているのだろうか、死んだのだろうか。ネズミの走り回る牢獄につながれたブランキには何もできなかったのだ。
 その年の秋が来ると、牢獄の寒さと湿気が彼を襲った。ブランキにできたのは牢獄の窓から、星空を眺めることだけだった。星々があり、そして見えない星があった。星々は永遠にまたたいているように見えた。革命Révolutionという言葉には、「公転」という意味がある。地球は太陽のまわりを公転している。恒星はといえば、銀河の中心とこの恒星とのあいだに存在する全物質から重力の影響を受けている。自由を求める革命はぐるぐると同じ軌道を廻っていて、この引力の軛(くびき)に絶えずさらされている。ケプラーの第三法則はこの軛の証明である。

 そしてなんと老ブランキは、ここ、この孤絶した牢獄で、一冊の天文学の本を書くことになるのである。美しく、詩的で、驚くべき『天体による永遠』(浜本正文訳、岩波文庫)である。すでにからだを壊していた革命家は、その死まで十年足らずしか残されていなかった。言うまでもなくこの本を書くことは、老革命家にとっての救済となったに違いなかった。ブランキは妹に手紙を書き、なかなか本は届かなかったが、当時の科学書籍、ラプラスやバビネの著作を送ってもらう。

 すでにモン-サン-ミシェルの牢獄で、星を眺めながら、ブランキは「天体が無限に存在するのだから、地球も数多くあるはずだ」と考えていた。これは異端として一六〇〇年に火炙りの刑に処せられたドミニコ会修道士、『無限、宇宙、および諸世界について』の著者である神学者ジョルダーノ・ブルーノの主張と同じだった。自説の撤回を断固として拒否したブルーノは、火刑台の上で、「私より私に刑を宣告した君たちのほうが、真理を前にして恐怖に震えているではないか」と言い放ったと伝えられている。ヨハネ・パウロ二世の英断によってブルーノの異端審問が誤りであったとカトリック教会が認め、審問の判決を取り消したのは、一九七九年になってからである。

 ブランキはこの本『天体による永遠』で、彗星と黄道、宇宙の誕生、物質の有限性と宇宙の無限について論じているが、ラプラスの宇宙開闢論、とりわけ当時優勢だったその彗星理論を批判している。ルネッサンス絵画、例えばジョットの絵にハレー彗星が目をみはる形で描かれていることを見ればわかるように、彗星は元来「奇妙な天体」だった。「自由」な天体という観点から、すでに絶望的な孤絶を感じていたはずのブランキには彗星に対してとりわけ愛着があったようなのだが、ブランキはラプラスの理論の曖昧さを指摘し、まるで革命の挫折が公転によるものであったかのように、彗星は引力の法則から逃れることはできないと断じている。自由と自由に見えるものは違うのである。
 さらに原始星雲と彗星物質を同一視していたラプラスをブランキは批判するが、ブランキに分がないとはいえ、現在の科学的知見に照らしてブランキの考えがどうだったかということについて私はさして興味はない。

 ブランキは牢獄のなかで宇宙の謎、つまるところが自身の謎でもある謎に直面していた。だから革命家はこの本を書いたのである。
 自然を構成する元素の数は限られている。有限物質の組み合わせは膨大な数にのぼるが、それでも無限ではなく、有限である。そして宇宙の果てのどんな天体からも我々の知る元素が検出される。それはスペクトル分析からも明らかである。つまり宇宙は同じような物質で満たされている。しかし宇宙の果てはない。どうやっても宇宙の果てを考えることはできない。宇宙が無限であると考えることはあらゆる点で理にかなっている。しかし宇宙が有限であることはできないのに、宇宙を構成する物質は有限である。いくら数を無際限に加えていっても、いくらそれを知性が承認しても、無限の一歩にすらなることはない。これはどういうことなのか。ブランキの見解はこうである。有限から無限に至るには、あらゆる物質的事象は無限に反復されねばならず、同一物も世界も果てしなく繰り返されねばならないのではないか。ブランキはそう考えた。同一の地球、同一の太陽は、宇宙が無限であるには、無限に反復されねばならないのだ、と。永遠はそのときしかめ面をやめるのである。

 芥川龍之介もすでに大正十二、三年頃にブランキの言う「無限」について『侏儒の言葉』のなかにこんな風に記している。
「宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息する地球も、──是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在してゐる筈である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を蒙つてゐるかも知れない。……
 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問ふ所ではない。唯ブランキは牢獄の中にかう云ふ夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望してゐた。このことだけは今日もなほ何か我我の心の底へ滲み渡る寂しさを蓄へてゐる」。

 ルドルフ・シュタイナーは、ラファエロの絵画「システィーナの聖母」についてこの絵のラファエロの表現は停止した一瞬であり、これこそが永遠を封じ込めたと言っていたが、この絵がそうであるかはともかく、瞬間の停止こそが永遠を示すのだということ、そのためにはニーチェが言うように、永遠が形あるものであるにはこの一瞬が無限に反復されねばならない、ということはうなずける。宇宙のなかで同一物は無限に反復されねばならないのである。
 この壮大な本のエピローグの最後のほうでブランキはこう言っている。
 「地球も、こうした天体の一つである。したがって全人類は、その生涯の一瞬ごとに永遠である。トーロー要塞の土牢の中で今私が書いていることを、同じテーブルに向かい、同じペンを持ち、同じ服を着て、今と全く同じ状況の中で、かつて私は書いたのであり、未来永劫に書くであろう。私以外の人間についても同様である。
 すべての地球は、そこで再生しそして再びそこに墜落するために、次から次へと復活の炎の中に呑み込まれてゆく。それは永遠に倒立を繰り返して自己を空(から)にする砂時計にも似た、単調なサイクルである。新しいものはいつも古く、古いものはいつも新しい」。
 これを書いたのはニーチェではなく、発狂しそうな同じ単調さと幻滅を来る日も来る日も牢獄のなかで味わい続けたルイ・オーギュスト・ブランキであった。かつて私は書いたのであり、未来永劫書くであろう……

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