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第104回 続々・道元迷走ノート

第104回 2018年11月





続々・道元迷走ノート





鈴木創士


石井恭二『正法眼蔵 覚え書
石井恭二『心のアラベスク
石井恭二『花には香り 本には毒を
ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』上・下

 『正法眼蔵』のなかの白眉であり、最も有名な巻である「有時」に続くのは「授記」である。
 時間論の後には、当然のこととして、エクリチュールの問いが続くというわけである。余談になるが、たしか70年代後半か、あるいは80年代初頭のことだったと思うが、「都機」の巻のフランス語訳がフィリップ・ソレルスの主催する『テル・ケル』誌に掲載されたことがあった。ジャック・デリダには『テル・ケル』に寄稿していた近い過去があったのだから、デリダがこの短い翻訳を読んだ可能性はあるが、おそらくのちに全巻仏訳された『正法眼蔵』を読んではいないかもしれないし、デリダが仏祖に始まるこのエクリチュールの学に関心を抱くことはなかったようである。しかしそれはそれで残念なことであった。『正法眼蔵』における時間論からエクリチュールの問いへのこの移行、この編集はそれほど群を抜いて冴えわたっているからである。そしてこの移行において、「授記」とは授記そのものの現前を知るための難問を解くものであるからだ。

 「授記」はこんな風に始まる。「仏祖がその覚りを一人に伝えるのは授記によってする。授記とは、覚知し得た覚りを語句[意味の場としての語]に移して伝えるのである。仏祖について学ばなかった者は、夢にもそれを知らない」。
 それはあらゆるものに伝えられる。それは身体に伝えられ、身体以外のものにも伝えられる。心のない者、心のある者にも、仏性のない者、また自分の仏性を知る者にも、覚りを得た者、また得ていない者にも伝えられる。注意しなければならない、なんと修行心のない凡夫、覚りを得ていない者にも、われわれもすでに知るとおり、授記という事態は起こり得るのだ。つまり覚りを得ていないわれわれただの凡夫もまだ外に追い出されてはいないのである。他の禅者はこんなことは言わない。了解していようがいまいが、授記は行いの本質であり、そのなかにあり、つねにわれわれの行業の根拠となり得る。そして覚りを得た者は覚者の覚りを伝える語句を保つのだ、と道元は言っている。覚者とは何であるのか。「保つ」……、「授記」がわれわれに切迫していることを知れば、これはなかなか言い得て妙である。

 授記とは、言い得た一句の言葉である、聞き得た一句の言葉である、一句とは、意味が言葉として相会う場所である、会い得た場所である。語句は場所においての行いである。その場所を説くのである。あるいは退かせ、進ませるのだ。(「授記」)

 この場所とはあらゆる場所であり、身ぶりであり、行為の本質であり、それが後に残した空白である。それとのどんな交流もなかったはずの意味もまたそこに生起しなければならない。真なるものの形相はそこかしこに顕われる。そして「自分の覚りを満たした語句は自己を現成するのである。自分の覚りを満たした語句は現成する自己である」。言葉もまた透体脱落するものであり、それによって自己は現成するが、この自己も結局また透脱されなければならない。言葉によって、言葉が出逢うことによって、それは透脱される。それによって自己を通り抜け、自己を脱落させた自己は、ここに現前することになる。それは物を書く人であれば誰もが知っていることである。そして知ることと知らないことはここでは同じことである。

 そうした語句を得てからのちに覚者となるのだと考えてはならない、覚者となってからのちにそうした語句を得るのだと学んではならぬ。覚りを伝える語句を伝えられたときに覚る者がある、その語句が伝えられたときが修行である。諸覚者には彼の覚りを伝える語句があり、覚者の覚りを透脱したその透脱を伝える語句がある。

 仏祖について学ばなかった者はそれを夢にも知らない、と道元は言っているが、そうなのだろうか。われわれもまた仏祖について何も学んでなどいない。どのように学べばいいのだろうか。冬の僧堂で坐禅をやればいいのか。私は坐禅の真似事をひとり無手勝流にやっていたことはあるが、今はやる気はないし、身体的問題があってやることはできない。覚ることは金輪際できないであろう。死の秘密や星の謎を知ることがないように、未来永劫そうだろう。これは自己の現状であり、自己の現成であるから、どうしようもないことである。では、坐禅なきものにとって、仏祖にまつわるものとは釈迦のことだけを指すのだろうか。それとも、僧堂の掃除をしていれば、仏祖のように覚りが得られるとでも言うのか。君たちは出家して僧堂の掃除をしているとき、自分が雑巾になりきるなどと言うが、不思議の国のアリスでない君たちにはそんなことは至難の技であるし、少しばかり見渡しただけでも、君たちがまるで雑巾になりきっていないことは明白である。われわれは煩悩の雑巾である。拭いても拭いても煩悩はぬぐえない。雑巾自体が煩悩であるからだ。この点で、修行中の僧などと言っても、ただの凡夫とどんな違いがあるというのか。自己が現成しているのであれば、どうしてキリストのように革命をやらないのだ。衆生のことなど君たちはどうでもいいのか。道元もまた比叡山から降りたではないか。もちろん私が冒瀆的言辞を吐いていることは承知の上である。禅は虚栄のために、嘘をつくためにあるのではない。それはそうとして、そんなすべてをうっちゃっておいても、山川草木にも仏性が宿る、と言ったのは道元ではなかったか。ああ、仏性! 私はそれを知らない。どうやって自然を知ればいいのか。しかし遥かに先を行く道元はさらに畳みかける、

 諸々の覚者が次々と受け取ってきたものは、ただ覚りを伝える語句だけである。他に此の世界のどのような現象であれ語句によらないものはない。そうであるから、まして語句に現れない山河大地・高峰大海があろうか、またどのように平凡なものであっても語句に現れないものはない。

 例えば、絵は言葉では言い表せない、とのたまう、しかもそれを安っぽい紋切り型の、これまた言葉によって言い放つ画家やその他の芸術家をよく見かけるが、それは言葉に対する不遜な態度であり、言葉について考えたことのない者の言い草である。道元は、エクリチュールの原基がその原基自体を透脱することによって、ただの語句そのものとして現れることを熟知している。これは物書きにとっても耳の痛いことではないだろうか。ああ、アントナン・アルトーのような本物の詩人にとって、書くこともまた、道元の言う、そこにあってそこにはない、脱落した「語句」によってまさに始められるからである。思考の不能性もまた「語句」と出逢うのであるし、そこにこそ「授記」は起こり得るかもしれないからだ。

 語句がなんで塵のように微小なものの現成でないことがあろうか、語句がなんで一現象・一存在の現成でないことがあろうか。こうした語句の現成がどうして覚りでないことがあろうか、こうした語句の現成がどうして森羅万象の現成でないことがあろうか、こうした語句において全存在・全現象が我々の身体の六識に現成するのである。こうした語句を得ることがなんで修行の証(あかし)でないことがあろうか、なんで覚者の証でないことがあろうか、なんで修行努力でないことがあろうか、こうした語句がなんで大いなる覚りの場であり大いなる迷いの場でないことがあろうか。語句は自己の無辺際な外化であり、無辺際な真如の外化である。語句は非自己に外化された現象であり、語句によってこの自己ならざる自己は空相のなかに映し出される。

 真如、すなわちあらゆる存在の本質の現れは言葉の無辺際な外化の謂であり、自己の際限のない外化のなかにそれは現前し顕われるが、結局のところこれは非自己に外化されなければ顕現の証を得ることはできない。言葉と自己、つまるところ言葉と非自己についての考察は、この飛躍において、この非分裂において、すでにエクリチュールの理論のなかに潜む主体化の構成要件であるが、道元においてそれはすでに自明のものとなっている。なんともすごい思想家である。

 愚かなままに思ってはならない、自分に具わっている現象は、自分が必ず知悉しているものだと、見ているはずだと。そうではないのである。自分が知っている現象は、必ずしも自分に具わっているのではない。自分に具わっているものは、必ずしも自分に見えているものとはならない、自分が知っているものとはならない。ではそうであるから、いま知っている見えている考えている範囲でなければ自分に具わっているものではないのかと、疑ってはならない。

 われわれは何も知らないし、何も見てはいない。われわれが知ることは、知らないことのうちにあり、この知悉は自己を外化する自己を知ることになる。これは知らないことと踵を接していて、やがてそれに溶けて混じってしまう。そしてこの自己もまた透体脱落されなければならない。「授記」がなければ、この脱落した自己をすら自己のうちにとどめることはできない。だが、授記によって結局のところこの厄介な自己は滅し、消えるのではないか。授記にあっては、過去が過去ではなく、現在が無辺際であり、未来が未来でないように、この希望は希望ではない。これが一切を現成する。道元はそれを諸法空相の授記であると言っている。

(この稿、たぶん続く……)

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左手にサド。右手に道元。脳髄にマルクス。

著者:石井恭二
 
 

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