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第24回 歴史?――馬は黒く、月は赤く

                                                            第24回 2012年3月

 

                          歴史?――馬は黒く、月は赤く

                                                                   

 鈴木創士

澁澤龍彦編『幻妖のメルヘン
ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明


  前回のコラムは、(文学的?)「剽窃」について、つまり意識的にしろ、無意識裡にしろ、人の文章を盗んで自分の文章の中に紛れ込ませるという文学の高踏的泥棒についての話だったが、ここで告白ついでに言っておくなら、私自身にしてからが前回のコラムでいけしゃあしゃあと剽窃をやってのけていることは、すでに炯眼な読者であれば先刻お見通しだったろう。そうだよ! 残念でした。でも高踏的なんかじゃない。実際、泥棒に高踏的も何もあるものか。自分で言うのも愚かなことだが、きわめて意図的、確信犯的な剽窃である。
  もっとも、そのものずばり、弓矢が的に命中するようにして、蛙が井戸に落っこちるように、誰からかっぱらったかは、柄にもなく、ここでは奥ゆかしくも言わないでおくとして、最初にとり挙げた林達夫でないことだけは確かだろう。だけど、まあ、こんなわかりやすいやり方はない。私としてみれば、剽窃についてあれこれ弁明じみたことを述べておいて、剽窃しないですます謂れはないからである。街の作業はずっと続いているのである。

  プルーストはもっと過激な考えを持っていた。私の記憶違いでなければ、すべての時代を通して「ただひとりの作家」だけが生きていて、何を隠そう、その彼ひとりが書いているのだとマルセルは考えていたようである。つまりこの「作家」はなぜかすべての時代を通じて不死身のごとくぴんぴんしていて、彼というか、この人ならざる人である文字どおりの大作家は、その時代、時代に、羊皮紙であれモレスキンの手帖であれ、当時のまっさらな紙の上にペンを走らせていただけなのだ。
  彼あるいは彼女はあるときはホメロスであり、あるときは紫式部、あるときはサン‐シモン公爵、またあるときはシェイクスピア、シャトーブリアンとなり、またあるときはプルーストその人だったということになる。文学史などと言っても所詮そんなものはただの「比喩」であり、こちらが歴史家然として嘘っぽいことをあれこれでっち上げようが、そんなことなどまるで無視して、結局のところ、この「誰でもない」怪物のようなやつがただひとつの作品を書いていたのだし、いまも書いているのだし、これからも書くことになるだろう、というわけである。このような考えは非常に神聖であるか、とても不埒であるかのどちらかである。言うまでもなく、失われた時はじつは失われてなどいないのである。
  私は破廉恥だった、私は破廉恥である、私は破廉恥であるだろう、ごめんなさい、というわけだ。ふと言葉を漏らす。言葉は漏れるものではなく、漏らすものである。聞かれもしないのに電話番号を人にそっと教えたりしたりするのだから、恥ずかしさのあまり、私は入った穴からでることができない! それならば、尻を隠した作家は本質的に嘘つきだったのだろうか。

  ボルヘスはもっと身も蓋もないことを言っている。曰く、殊によると世界の歴史は少数の隠喩のさまざまな抑揚の歴史かもしれない、と。いやはや、とてつもない言い草ではある。
  「少数の…」という点が味噌である、と私は考えてみる。世界はいくつかの単純性からなっているのだろうか。いや、そうであるし、そうであるともいえない。それが究極的には何であるかは物理学者にもわからないにしても(電子とか陽子とか中性子とかと言ってもそれらは単なる言葉である)、原子がかなり単純な構造をもっているのと同じように、哲学的には、あるがままであるにしろそうでないにしろ、世界はすこぶる単純にできているのだろうし、一方、事実と現象の面からすれば、不思議なことに複雑性の極みであるほかはないというのが現状である。まったき無なのか、それともほとんど無なのか。はたしてわれわれの脳の様態はどちら向きにできているのか。
  だが、すぐさま別の目がこの出来損ないの脳というやつからのぞいている。その目は語る、「少数の隠喩…」という点が味噌である、と。私も同じように考えてみる。隠喩? こいつは、この隠喩というやつは、言語学者たちに聞くまでもなく、とてもとても複雑な問題を孕んでいるのだろ? ボルヘスの言葉はなかなか深いとは思うが、もし世界が隠喩だけでできていたら、換喩じみたハンドルの遊びあるいは緩みは機械上の、あるいは機械状無意識の錯誤となり、スムーズな運転はおろか、運転という概念自体が無効になるのではないか、などとまったく無関係な隠喩である「機械」という言葉を無駄に使って考えてみたくなる…。
  とすれば、幾つかの隠喩、その中味が問題なのか。中味というくらいだから、外の容器があったことになるのか。鶏が先か卵が先か。断っておくが、ここではシニフィアンの病が問題なのではない。こんなたとえ話を始めたのはいったい誰なのか。神なのか。違うね。まだある。いや、「少数の隠喩の抑揚…」という点が味噌である…、と私は考えてみる、などなど。言葉に到達するために、言葉はほんの少ししかない。

  いずれにせよ言葉はこんな風にひとつずつ付け加わっていく。言葉は、迷宮の生業あるいは組成としては、横一列に増殖していくほかはないことはわかっている。迷宮が複雑性を生み出しているのではない。複雑なのは言葉の(真の)連なりだけである。いずれにせよボルヘスによれば、結論を急ぐなら、したがって文学の歴史など、ごくごくわずかの隠喩の、驚くほどのこともない幾つかの抑揚の歴史にすぎないということになるのである。そもそも現に単純極まりない観念が存在できるように、ただ単に(ただ単に!)イントネーションとヴァリエーションの問題なのだ。
  だがこれらの文学の巨匠たちの語るあまりにも深遠壮大な話も、技術論的には、つまるところあまりにも楽しげで、それでいて切実でもある作家の日々の営み、いや、作家の性癖、ニュアンス、そのようなものがあるとして要するに作家の精神的活動の次元では、結局のところ「剽窃」の話に帰着してしまうのではないだろうか。つまり泥棒の話に。隠喩などというものは、どだいかっぱらってくるしかないものであるのだし…。

  「編集」というやつはどうなのだろう? いま私の目の前に澁澤龍彦編『幻妖』という小説その他のアンソロジー本が置かれている。こういった編集もまた立派な剽窃ではないか。そうでないと思えるのは、作者名もタイトルも明記されているし、作品は一部ではなく、まるごと載せられているからにすぎない。剽窃と引用が似たような所作からなっていて、同じような心情から発していることは前回のコラムで述べておいたが、アンソロジーが引用であると言えば、澁澤ファンの中にも目くじらを立てる人はいないだろう。だが引用もまた剽窃的行為に属していることをちゃんと知っておいてほしいものである…。
  収録されているのは、幸田露伴、泉鏡花、谷崎潤一郎、内田百閒、折口信夫、柳田國男…、あるいは作者不詳の今昔物語、上田秋成など。澁澤氏はアナロジーの手法を駆使してここにご自分が殊のほか愛着を抱いている作品を集めているのだが、このような偏愛的な行為自体はいまではちっとも珍しいものではないとはいえ(ある種の流行にもなったほどだ)、それ自体はじつはとても観念的な所作である。だけど観念的身振りは私の得意とするところではない。したがって澁澤氏の偏愛的路線にはしたがわず、別のやり方でいかなければならない。アナロジー、類推の魔などという思考のスタイルの方法化によっては制御できないものがきっとあるに違いないことをわれわれはすでに知ってしまっているからである。

  ところで、この本に収録された「一寸法師譚」のなかでこんな風に柳田國男は話を始めている。

  説話の本質を、もし計数に基いて論じようとするならば、其前に非常に骨折な準備が無くてはならぬ。現在我々の目に触れる或記録は、それが一地一時代に流伝したものの、代表であるという証拠は到底得られないのみならず、単なる偶然の一粒の落ちこぼれとしても、果して各要点に忠実であったか否かが覚束ないからである。慣習禁忌の類に於ては、通例隣家隣村も同じ事をして居るという推定が、ほぼ安全に成立つ故に、其一を採って例示と認めることも許されるが、物語や歌は之を伝うる動機が、社会によって一様では無かった上に、文筆は寧ろ若干の潤色を必要とし、時の好尚は次々に要点を移して居る。仮に各地の採集がまんべんなく行届いた場合でも、なお童児の悦楽に供した昔話と、信仰を堅めることを目的とした本式の神話とを、一つに取扱うことは危険である。いわんや学問ある旅人が手帖を持って通過したかしなかったかによって、現われ又は埋没する異民族の口碑を、僅かに目の及ぶ限り寄せ集めて見て、共通類似を説くことが既に乱暴である。殊にその一部の過不足によって、忽ち不一致を論断するに至っては、余りにも非科学的であると思う。

  これがたんに民俗学の説話採集の方法の話にとどまるならば、私の出る幕などない。柳田國男がいわゆる「科学的方法」を逆手にとっているところがとても面白いともいえるが、私は言うところの文学の科学的方法にもまったく興味はない。だが話を敷衍するなら、ここで柳田國男が述べていることはそのまま歴史記述と言われるものにも当てはめることができるのではないか。すなわち歴史‐物語である。

  歴史という言い方はたしかに一種の曖昧語法に属している。われわれはすでに五里霧中の中を彷徨っている。歴史については、大きな二つの概念がある、と哲学者ギー・ラルドローは言う(ジョルジュ・デュビィ、ギー・ラルドロー『ディアローグ』)。ひとつは唯名論(ノミナリスム)であり、もうひとつは実在論(レアリスム)である。
  唯名論者たちにとっては、歴史は結局のところひと続きの過去についての言説に還元される(だけどどうしてそれはセリーなのか、点線であることはないのだろうか、ステディ・ステイトの静かなる直線なのか、島宇宙ではないのか)。ある現在はまずはそれ自身についての「言説」であり、この現在が消え失せると、それにしがみつくすべての言説はいまやこの現在を過去として夢見ようとするのだ。そしてこれらの言説が自らに与えるこの過去を通してしか、諸々の言説は自分自身の現在を提示できないのである。なんとも困った事態である。すべては幻影だったのか。歴史家とは難儀な商売である。彼にとって、ひとつの「現実」を掘り出すことのできるいかなる地点も存在することはないだろう。果てしなく、深淵のなかに、諸々の言説だけがある。だから唯名論者たちにとっては、究極的には過去は存在しないのだ。あるのは過去の名前だけ。クローチェがそう望んだように、あらゆる歴史は同時代的なのである。
  他方、実在論者のほうはずっとわかりやすい。彼らにとって、過去は紛れもなくひとつの現実である。彼らが肯定しているのは、そこで過去が自らを夢見、そこから過去の現実が立ち上がり、そこから歴史的事実なるものが構築され得る一連の言説を掘り出せるある地点であり、それを決定することがたしかに可能であるという確信を持つことだ。言説に物証は存在しないのだから、あくまでも確信であって、決定的証拠ではないところが彼らの泣き所ではある。とはいえ、つまりここから帰結されるのは、肯定的な意味において歴史の知は構築可能だという話である。

  たがはたして歴史の大きな二つの概念だけですべてをすっきり解決することなどできるのだろうか。唯名論と実在論の戦いは、戦いそれ自体が無効になる地点にまで推し進められなければ、「現実」は発掘できないことをわれわれは薄々勘づいているのではないのか。直観もまたボルヘスの言う抑揚の歴史に含まれるのだとしても…。
  だから(だから?)歴史を剽窃すること…、そんなことは可能なのか。勿論、可能だとも! ある思考をそれとなく、自らの「無知」の中で剽窃するなら、それは歴史を、歴史の事実を、現実すれすれの地点で、実際、「現実」的に剽窃することになりはしまいか。それが可能なら、とても結構なことじゃないか。できればどんどんそれをやってみたいと私はひそかに思う。何のためなのか。ある種の「現実」、ガルシア・ロルカが馬に乗っても辿り着けなかったあのコルドバの塔に生きながらにして接近するためである。馬は黒く、月は赤かった。ポケットにはオリーヴの実、皮袋の中には毒酒…。

  わざわざ剽窃などと言う必要すらない。不完全に模倣するのではなく、ニーチェの思考を大胆にも別の仕方で「剽窃した」本、『ニーチェのように考えること』(河出書房新社)と題された最新刊の本の中で著者が言っているように、「歴史は、われわれに対して襲来として現れる」からである。襲来…。その地点に図らずも居るためである。自分が無知であり、愚かであることを知るためである。

  先ほど挙げた澁澤龍彦編集の本の中にも、『今昔物語』の鬼の話がいろいろと再録されている。なぜ鬼なのかは澁澤氏は書いていない。
私もまた今昔物語の本朝篇巻二十七の鬼殿(鬼の棲む家のことだよ)の話から始まる十年以上前の京都でのある体験談、ある秋の一日の夕暮れ時の話を小説風にしようかともふと思ったが、鬼についてはまたの機会に譲ることにしよう。いくら血迷っていても、お後がよろしいようで…。

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