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第30回 ノイズと思考

第30回 2012年9月

ノイズと思考

鈴木創士

サド侯爵『悪徳の栄え 正』『悪徳の栄え 続
鈴木創士『魔法使いの弟子
ジャ・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ
ギー・ドゥボール『映画に反対して』下

 

 

 そう、途轍もないことだ。最後の日の一日前に、すべては崩れ去るだろう。きっと昔、一度聞いたことがあるような気もする轟音の中で。これでは言い足りない。歴史のない歴史、名前でない名前、叙事詩のきれっぱし、事物の切っ先がどこかにある…
 ある哲学者は、妻を絞め殺し、放火して、精神病院で暗い日々を送っていた頃、未来はずっと続くと言っていたが、ほんとうにそのとおりだ。そんなことを本にしるした後、彼はひとり寂しく亡くなった。もちろん、20世紀の未来派のたよりなげな意志が歴史から消えたように、それを未来と呼ぼうが何と呼ぼうが、あらゆる名前の消滅の中で(サドの遺言には、自分の墓の名前までもが消滅する希望がしるされていた)、それでも未来は彼とは無関係にずっと続くだろう。誰にとって? そいつはわからないし、私が知る由もない。何かを知るすべなどないからだ、というか、正面を向いたままボケたような面(つら)をして、知っていることを書いているのであれば、そうでなくても何かを書くすべを知ることなどあり得ないからだ。金輪際。

 ジョイスは書いていた、「記憶のムーサたちの作り話。とはいえ記憶が作り上げたとおりではないにしても、ともかくそれは存在した。それで、せっかちな一文、ブレイクの誇張の翼の音。私には全空間の崩壊する音が聞こえる、ガラスは砕け散り、石の建築は崩れ落ち、時はまさに消えなんとする蒼白い炎にすぎない。それならわれわれにはいったい何が残されているのか?」(『ユリシーズ』)
 ジェイムズ・ジョイスは不遇だったイタリア時代、人生の細部にへとへとになり、神が宿ったはずの細部の、黄ばんだ絹か、埃の臭いのするビロードの襞の間に挟まって、辟易してやけくそになっていた。彼は、夜が来ると、海を見るともなく何度も見ていたに違いない。押し寄せる官能の暗い波。パドヴァ。そっと落ちてくる夜の帳。「海の向こうのパドヴァ。沈黙の中世、夜、歴史の闇が月下のピアツァ・デル・エルベに眠っている。町は眠っている」(『ジャコモ・ジョイス』)。
 俺たちも眠っている。君たちも。左手は、ローリング・ストーンズのように、一緒に夜を過ごそうと言っていたけれど、右脚はあっという間にずっと下の方に消えていた。昼間に歩きすぎたのかもしれない。昼盲症の鳥のように指という指がクークー鳴く昼。かつて経験したことのなかった、記憶に残ってしまうような酷暑の昼。首だけがにたにたして、転がっている。そんなものあんなものはハレーションを起こしたまま記憶の中に入り込む余地はなかった。夜は夜で、キャバレーから叩き出されるのが落ちだった。お客さん、お代は結構ですから、どうぞお帰りください! なぜなのかはわからない。火星の岩の上で空中にぼんやり浮いていた男。スペース・オデッセイ。浮いていたのだから、ランボーの切断された右足はもう意味を失っていた。今は昔、昔は今の瀬戸際。われわれは幽霊じゃない。
 左手は目には見えない臓器をつかもうとしていた。右手は神の遠近法に糞を塗りたくる。なぜなのかはわかっている。エル・グレコの絵筆がきっとなぞったはずであったように、言うまでもなく、遠近法の消点は神の肛門だからである。それが二次元平面上の出来事にしろそうでないにしろ、シーンはこの肛門がなければ空間と化すことは確かになかっただろう。神の器官、神の肛門。肛門からうんこが出てくることはわかっている。空間はつねに二つに割れる。上と下に。手際よく消されてしまった肛門のせいで。そして肛門にまつわる諸々の悪臭のせいで! だが、糞が塗りたくられる前に、一瞬、幻覚が到来する。しかし……。
 だが、どのようにしてそれがわかるのか? 山もトンネルも抜けてここまで届くあのパルスのせいだ。私はそいつを手でつかんでみる。手でつかむことはできない。イマージュにもいろいろある。パルスの届く耳はこうして裏返る、裏返る、耳たぶもピアスもなくした耳が。もう一度どろどろに溶けた暗い音の波。ジャコモ・ジョイスの不思議な文章、誰も読まなかった文章の短い叫びのように。あっ! 潮騒の聞こえる貝殻などさっさと捨ててしまえ。聞けば聞くほど私の耳はノイズで満たされる。

 ページが透明になってしまう前の、最後のジャン・ジュネ、「言語のありとあらゆるイマージュを避難させ、それらを使うこと、というのもこれらのイマージュは砂漠にあって、そこにイマージュを探しに行かねばならないからだ」。

 ノイズが思考となるかどうかは別として、思考はノイズである。途切れることのないノイズ。私は自分の耳の中で耳をすましていた。リンパの流れる音が聞こえる。いや、ノイズは、そこに確かに含まれていたはずなのに、営み‐作品のいわば外部からやって来るだろう。現前はつねに目には見えず、耳には聞こえないからだ。言葉とまったく同じように。ウィルスとほとんど同じように。私は耳の中の思考‐ノイズを聴く。何十年も続く耳鳴り。何かを聞き取ろうとやってみる。何を語っているのか? 重大な予言なのか? 秘密の言葉なのか? だが、思考をなぞろうとするとそれがただの耳鳴りにすぎなかったことがいやというほどわかる。どんなメッセージもない。あの世からもこの世からも。だから、地上にひとつの場所を! 誰かがどこかでそんな風にぶつぶつ言っている。ノイズのイマージュは、ジュネが言葉に関して言っていたように、「外見」や仮象であることをやめて、ひとつの「出現」となるだろう。そしてそれを聴いている人、彼は言ってみればひとりの話者でもあるのだが、この話者の「状態」はつねに「そこから出て行く」ことに存しているということになる。彼はいつも立ち去ろうとしている。ここから、耳の中から、思考の体系(そんなものはまがい物であるか、そうでなければかつて存在したことがなかったのだし、存在したのはむしろ重大な嘘だった)から。どこへ出て行くのか? 装置の中にではない。つまり、ともかく、苦肉の策で、そいつは言語の中に出て行くのだ……

 思考はループを描く? ノイズは?
 142+382×567=765×283+241.
 たけやぶやけた。
 In girum imus nocte et consumimur igni.
 (ドゥボールには、このラテン語のタイトルを冠した、モンタージュを駆使した映画がある。彼はこの映画でモンタージュが引用と剽窃をその原型とすることを実践的に明らかにしているが、そこでドゥボール自身によって語られるナレーションの古典的文章はいつもながらとても美しいものである)
 しかしこれらはあまりにも有名でいびつな形にすぎない。奇形的ループ。

 一般的にループは閉じているものだが、開いたループに関して言えば、われわれのよく知る(?)最も完璧な造形はバロックの渦巻きとDNAの二重螺旋である。そしてわれわれのフラクタル的な無意識が時間を知らないのは、これらの螺旋には一見、脈略も終わりもないような感じがするからである。形質転換はいつも思考の中で起こっているというのに、それはあまりにも凡庸でどうしようもないとりあえずの緊急事態の表現にすぎない(何をおいても嫁にいくようなものだ。狐の嫁入り)。しかもコンピュータプログラム的な無限ループは単なる潜在的無限にすぎない。われわれが問題にしているのはいつも実無限なのだから、これでは不十分である。つねにすでに終っているのに、終りそうにないこと。いずれにしても、螺旋的形象が構造をもつというのは、あるいは構造という言葉を使うのは、言い過ぎだと私は思う。螺旋に分裂はあっても構造はない、あるいはいつまでたっても構造を決定することができない。ありそうにないことなのだ、そいつは、ほとんど!
 シェーンベルクやヴェーベルンの弟子たち、ジョン・ケージからシュトックハウゼンにいたるまで、これらの人たちはどうして作品の時間の構造などという言い方をしたのかがよくわからない。時間などほとんどないも同然なのだから。作品の時間だって? 無意識の知らない無意識の時間? 思いつきはじつに単純なことだったに違いない。作品の構造が時間をもつ。はい、はい、言うまでもない。それで? だが、思いつきが何であれ、何もない場所へ出て行くことはできないのだから、それでもどこかへ向かわなければならなかった。何もない場所。ほんとうなのか? 第一に、経験がそれを許さない。そこはいつもノイズに満たされている場所であり、音があるのだから、何もないということはない。だから人はいろいろやってみた。音楽からノイズへ。あるいはノイズから音楽へ。これらの道は同じではないし、私には、演奏しているとき、第三の道があることが何となくわかる気がするが、それをいまのところちゃんとした形(ちゃんとした形?)で演奏することはできないし、それが何なのかうまく言うことができない。
 ノイズはループを閉ざすことがない。音自体、音のイマージュ自体がそうであるように。ループを閉ざさなければ、音の遅れではなく、音の進みをつくりだすことができるかもしれない。それは出口と入口を、消滅と出現の瞬間を、つねに遅れをとるかもしれない一瞬前を際立たせる。すべては音である。音のずれ。ずれの音。増幅と反響とフィードバックはつねに生起していて、もとのあり方と区別することができない。だが、実際に何かの入口から出入りしているのは、そしてインプットとアウトプットを実践し、そしてある意味でそれらをすりぬけているのは、周波帯の中の無数のパルスであって、それはつねに急激な「変化」を伴うしかない態のものだ。ともかく変化そのものをとらえなければならない。そうでなければ退屈で死んでしまう。だがそれは至難の業であって、そいつはあまりに早くあまりに微細なので、造形的、心理的、概念的、等々には、感知することができない。だから進みと遅れ、反響、振動のレベル、音圧には際限がないということになる。近場に何となく際限というものがあると思っているのは、われわれ、というか「人間」だけである。

 夏、夏、夏。麝香の匂いのする夏。風船のように膨張するからだ。酩酊。
 …静寂、むきだしの折れたばかりの鎖骨、消えかかった注射の痕、原発、暑苦しい気違いども、人殺しども、引きちぎられたボタン、肩甲骨のあいだについたたぶん狐の金色の毛、脇の下の冷や汗、憂鬱な空、楽しい雲、優しい微風、汚れた脚、秋刀魚を焼く匂い、いまこの瞬間、また別の瞬間、怒り、私はお嬢さんのようにピアノを弾いている――こんなもので冷静さを失ったらお仕舞いだ。「肉は悲し、ああ! そして我はすべての書を読みぬ。」嘘つけ!「逃れむ! 彼方に逃れむ。鳥たち、酔いしれたるを我は感ず」
と彼は言う。
 そうなのか…、肉じゃなく鳥…
 滑空! 水面すれすれを。できれば!

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