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第40回 ベケット 無傷の歳月

 第40回 2013年7月

                          ベケット 無傷の歳月

                                                                        鈴木創士


アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情

 

           「ああ! 腐った襤褸ぎれ、雨に濡れたパン、酩酊、俺を磔にした千の愛よ!」
                                           (アルチュール・ランボー)


 われわれは見捨てられている。タル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』。父は家の中に戻ると、かならず部屋着ともいえない同じ部屋着に着替える。ボロからボロへ(ボロとはいえ、衣装として考えれば、なかなか父の服装はかっこいいのだ)。外出していたときの格好とさして変わりはない。着替える意味はほとんど、あるいはまったくない。四角い窓の前には椅子が置いてある。外はもの凄い風である。風は何日も吹きすさび、荒れ狂い、ここで固い芯のように実際に繰り返され、反復しているものが何であるかは最後まで判然としないのだが、この後もう世界は終わるしかないのだろう。映画は沈黙しか強いることがないという点で暴力的である。

 

 


 フィルムは回っている。この映画はそれでも進行していく。実際にこの映画を見ている間、私は映画のなかで何も起こらないことを願っていた。数回、何かが起こりかけるが、何かが起こる気配すら希薄なまま、結局は元の木阿弥だ。最小限の出来事はニーチェの馬が動きたがらないということだけで十分である。馬は頑固である。世界がどうなろうと関係ない。たまに響いてくるオルガンの音はパラノイアのように同じフレーズを繰り返している。
 ニーチェの馬? 場所はもうほとんどトリノですらない。馬小屋、家、丘、井戸。そこの窓の前に黙ったまま座り、外を眺め続ける父、そして娘と同じように、私は映画の中で揺れる木だけをじっと見続けていただけかもしれない(この大風の中で揺れているようには見えない木があるのは不思議なことだ、というかおかしなことである!)。なすすべははじめからない。寓意? 象徴? アナロジー? あえて言えば、そんなものは何ひとつない。

 窓の前には、いま言ったように、人が座るための椅子が置かれている。この映画の中の四角い窓枠は、サミュエル・ベケットが恐らくいまにも書き始めようとしていたに違いない白い頁、ある意味で広大で茫漠たる四角形に似ているような気がする。あるいは白黒写真のフレームのような窓。私はベケットをマラルメと比べたりするつもりはない。作家は窓の外の世界にそう言ってよければ対峙するようにして、なんということもなくただじっと見つめ、耳をすましている。ベケットは「書くこと」や「読まれること」よりも見たり聞いたりすることのほうが重要なのだとどこかで言っていたように思う。だがその前に彼はまず窓の前に座らねばならなかった。頁のまだ音にはならないざわめきを聞き取らなければならなかった。だがこのざわめきはマラルメのあまりにもヘーゲル的な白い頁ではなく、人気のなくなった夜更けの横丁で、それでも耳を澄ませば聞こえてくるかすかなざわめきだったりするのだ。それにしても、それだけのことがどれほど途方もないことだったか!

 「砂浜。夕方。光は死にたえる。すっかりなくなって、やがて光はもう死にたえることもない。いや。光がないなら、もうこんなことさえない。光は夜明けまで死んでいき、もう決して死ぬことはない。おまえは海を背にして立っている。ただ海のざわめきがあるだけ。とても静かに遠ざかりながら、たえず弱まっていく。とても静かに、それがもどってくるときまで。おまえは長い杖にもたれかかる。杖の柄に手をおき、その上に頭をおく。おまえの眼がたまたま開いたら、まず、最後の明かりで遠くに、おまえのオーヴァーのすそと、砂に埋もれたおまえの編み上げ靴の胴が見えるだろう。それから、砂の上の棒の影だけが、それが消えていく間、見えるだろう。おまえの視野から影が消える。月も星もない夜。もしおまえの眼がたまたま開いていたら、闇が輝くのに。」(ベケット『伴侶』、宇野邦一訳)

 ベケットがすこしだけ身をかしげる。かすかに動く。ここからあそこまで。ほんの指の間。人差し指と親指の間。彼は振り返る。後ろ姿。急な動作。誰も最後まで見届けることができない仕草。誰も見てはいない。鋭い眼差。鳥のような眼。ベケットはたしかに鷹に似ている。鳥の美しさ。だがゆっくりとしたイマージュ。イマージュはとことんわれわれを無視しているのだが、イマージュが先を急いでいるようには見えない。それが消えてしまうまでは。だが動作と動作の間、イマージュとイマージュの間がある。この間に広がる空虚は消えることがない。わかっている。虚空自体、消えることがないのと同じように。あるのは空とごつごつした石だけ。いや、もうそれすらないかもしれない。


 

 

 

  ベケットの文章はベケットの肉体にそっくりである。これはどういうことなのか。誰かが内側で書いている。外側にもベケットがいる。硬直し続けているものは、カタレプシーを起こしているものは何なのか。あるいはそれは外からやってくる何かがここで意地悪く、ベケットの肩越しに書くことを促し、いや、実際に書いている最中だということなのか。
 どうせたいした人生ではない。この人生の内側にいるやつは誰なのか。光は遠くからしかやって来ない。光源がどこにあるのかはわからない。金輪際、すでにもう。いたるところがぼんやりしている。この内部は内の外なのか。外の内なのか。肉体の語る言葉や肉体という言語ではなく、ここではただ単に肉体が、非人称的な何かが肉体を通して書いているだけなのか。肉体の縁を通過して……出たり入ったり……ただ単に書いている……。からだごと。ここでそんなことが可能なのか。

 「おれは生まれるまえからおりていた、そうにきまっている。ただ生まれないわけにはいかなかった、それがあいつだった、おれは内側にいた、おれはそう見てる、おぎゃあと泣いたのはあいつだ、光を見たのはあいつだ、おれは泣いたりしなかった、おれは光なんか見なかった、おれが声をもってるなんて、おれが考えをもってるなんて、そんなことはあるはずがない、そのくせおれはしゃべってる、考えてる、おれは不可能なるわざをやってる、そうにきまってる、生きたのはあいつだ、おれは生きたりしなかった、あいつもひどい人生を生きたものだ、おれのせいだ、そしていずれおっちぬ、おれのせいだ、その話はおれがしよう、あいつの死にざまの話、あいつの人生のどんづまりと死にざまの話をしよう、死にざまの話だけじゃ足りない、おれにとっては不十分だ、のどを鳴らして断末魔の声をあげるのはあいつだ、おれじゃない、死ぬのはあいつだ、おれは死なない、たぶんあいつは埋められるだろう、死体が見つかればな、おれは内側にいる、あいつは腐っていくだろう、おれは腐らない、あいつは骨だけになるだろう、おれは内側にいる、あいつは塵になるだろう、おれは内側にいる、そうにきまってる」(『また終わるために』、高橋康也訳)

 ジョイスとともにベケットは、内容と形式は一致しなければならないと言っていたが、内容と一致した形式は別の形式を生み出し、そのことによって突然現れた内容は今度はそれに再び一致しなければならない。それは瞬時になされる。形式はもはや形式ではない。いや、かならずしもベケットは「一致」とは言っていない。「ここでは形式は内容であり、内容は形式である」(「ダンテ・・・ブルーノ。ヴィーコ・・ジョイス」)。イタリック体で強調されていたのは「である」である。つまり「一致」ではなく、「同じもの」。最初から、同一性の壊乱があるのだ。形式は内容である。これはじつに20世紀的な主題である。このことをどれだけの作家がただちに心底理解しただろう。唐突な話をするようだが、ドゥンス・スコトゥスの「個体化の原理」のようなものがあるのかもしれない。「個体化の原理」は質料(内容)ではなく、なぜか形相(形式)そのもののなかに現れる。ジョイスが単に人間であるだけではなく、ジェイムズ・ジョイスその人であるのは、人間的形相があるということだけではなく、ジョイスの形相の「本質」が個体化そのものによって決定的な特異性(単独性)を帯びてしまっているからである。

 アンドレ・ベルノルドは『ベケットの友情』の中で、無言劇へ向かっていくような傾向を内に含んだ作品のことに言及している。クライスト、アルトー、セリーヌ、ジュネ、そしてカフカ。ベケットはどうなのか。『言葉なき行為』、『行ったり来たり』、『……雲のように』、『クワッド』、『夜と夢』、『なに どこ』の初版……。
 ベルノルドはパントマイムについてこう述べる、「……おそらくこれは、もっとも貧しい生命の痕跡、まったくとるに足らないような存在さえもが見せるほんのわずかな生命のほとばしりに、ベケットがどれほど注意を払っていたかを証言するものである。そこで残酷なまでに剥き出しになっているのは、圧倒的な力に屈しながら、己れの悲惨さによって、なんとかその力を無効化しようと空しく希求するものの存在である。あらゆる贖いの不可能性は、まさにパントマイムのなかで、輝かしいまでに炸裂する」(安川慶治・髙橋美帆訳)。
 仕草の意味が大きくなればなるほど、それは取り返しがつかない。言葉のそれも含めて、仕草が贖われることはけっしてない。ベケットの手が美しければ美しいほど、彼の文章は貧しさの核を拭い去れないまでに削ぎ落とされる。貧しさ。それはさまざまな意匠のなかのひとつではない。しかし、それだけではなく、パントマイムは「もっとも貧しい生命の痕跡」さえもむしろ消滅にゆだね、消滅の線に沿って別の無言の動きのなかに仕草の意味自体を移行させ、しまいには解消してしまうものではないのか。ベケットにとっての、息も絶え絶えの、かそけき「生命」?

 

 


 ベケットの映画『フィルム』において壁と俳優バスター・キートンの動きがほとんど等価であるように思えるのはなぜなのか。無言劇が人形劇にまで延長できるとすれば、ベルノルドの言っていることはたしかにそのとおりである。ただしとりわけ文楽や江戸のあやつり糸人形をはじめとするわれわれの古典的人形劇と、西洋のマリオネットの違いはあまりにも大きいと言わざるを得ないのだが……。
 それならば、「能」の動きはどうなのか。無言劇の極度の抽象性は、むしろ生命を感じさせるもの、生命の萌芽を、別の生の系列、つまり生の、新しいとしか言いようのない「無関心」に接続される他ないものとして言い表すことにあるのではないか。これは死そのものとは言わないまでも、生がある意味で生を逸脱しようとしているということである。手は手以上のものとなり、ふし穴である眼は眼以上のものとならなければ、肉体はどうやって自分を肉体の外に追い出すことができるだろう。追い出すという表現は強すぎる。「能」の所作において、演者の肉体は、うまくいけば、まるでじわじわと滲み出てくるように自分の外に自分をダブらせることができるではないか。

 だからこそ「声」の仕事というものがあるのだ。これは逆説でもなんでもない。「「わたしはいつも、声のために書いてきた」。「外」の美しさ。ベケットの仕事は、この声とベケットその人とのあわいにある。そのベケットの仕事の美しさ。声のために想像された寒さと夜のさなか、「外」で己れとひとつになる声の美しさ。なんと簡潔な告白であり、力強い一言だろう」(アンドレ・ベルノルド)。
 ベケットの文学と人生は声と身振りのあわいにあるという点で無傷なのである。時間も絶望も無傷である。「顔を覆う仕草をさせて、ベケットの右に出る者がいるだろうか」。これもまた逆説でもなんでもない。
 だが言葉ではなく声は、肉体から出てくるのだろうか。むしろ肉体が声から出てくるのだ。私はそう思っている。アルトーの声。一瞬で周囲を、空間を、「外」と化す声。……呪文。マントラ。道化のように悠然としている。それは外で出会いを果たす。……声の壁。嘆きの壁のように? そのように聳え立つ声。……嗄れて、かすかな声。あまりの簡潔さのために、人は釘付けになる。ベケットの場合はそうである。ルイ・ル・ブロッキーのベケットの肖像画のように、縁がぎざぎざで不分明な声。それぞれの意味だけは唖然とするほど明瞭である。……鳥の声。声の鳥。声から出てきた肉体とそっくりの空間。15世紀イタリアの画家パオロ・ウッチェロ(「鳥」を意味する)の遠近法はそんな肉体を内側に含んでいたに違いない。ベケット、アルトー、クライスト、ジュネ。遠いペストの声。パントマイムの裏返しである声。

 「ベケットもまた、なにか美しいものを作ることを願った人だ。だから、同じことを試みた人々を、そしてピエール・ガスカールのようにそれに成功した人々を、どこにでも認めることができたのだ。ベケットがはっきりと口に出してなにかを評価することはめったになかったが、評価を口にするときは必ず美と恐怖の関係への問いが背景に潜んでいた。わたしたちはジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』を読んだ。無感動な語り口が、犯された行為の残虐さをいかに正しく伝えているか、そして、それを絶対的なものとし、それでいながら、なにか気詰まりなものを保持している、――そんなことをわたしは言った。「そうだね、カフカの場合と同じパラドックスだ。内容のおぞましさと形式の清らかさ」
――それがベケットの答えだった。」(同上)

 サミュエル・ベケットの人と作品は、文学がひとつの答えであることのあまりにも雄弁で明瞭な答えである。

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