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第45回 アルトーのスリッパについて その1

                                                      第45回 2013年12月

 


                    アルトーのスリッパについて その1
                                      
                                                                  

  鈴木創士
                                     


宇野邦一『詩と権力のあいだ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還


 アントナン・アルトーが死んだとき、ベッドのそばで手にしていたのは、スリッパではなく、靴だったようだが、たいした違いはないだろう。アルトーは靴を片手に、今から立ち上がろうとしていたかのように、あるいは見方を変えれば、いまからそこに腰掛けようとしていたかのように亡くなっていたと伝えられている。そういうわけなのかどうなのか、アルトーは「反乱開始の状態のまま死んだのだ」と考えた人たちがいたが、残念ながら私は必ずしもそうは思っていない。

 死の直前にアルトーは、周囲の者たちに俺はもうすぐ死ぬだろうと公言していたようであるし、アルトーの直接の死因の「ひとつ」はなるほど日頃からガブ飲みしていた麻酔薬・抱水クロラールのオーバードーズによるものであったかもしれないが、精神病院への監禁から解放されて自由の身となった、「仕事」と「苦痛」のめまぐるしいあの最後の二年間、最晩年ですらあまりにも激越だった日々、それでいて火が闇のなかに燃え上がってはパチパチとはぜているような沈思と激昂の繰り返しの月日、もはや広い空とごつごつした岩しか残されていなかったような、すべてをやり終えたかのように過ぎ去ったに違いないあの最後の日々のことを考えると、彼は静かに、「ただ単に」彼だけのものであった生涯を終えたのだと思う。

 


 

 

 残された晩年の膨大な量のノートが長く熾烈な戦いの痕跡をそこかしこに焦げ跡のようにしるしていたのはほんとうだとしても、もしアルトーの肉体がアルトーの死を予感するくらいのことができなかったならば、彼が長きにわたって繰り返し語り、演技し、咆哮し、あるいは何も言わずにそのまま置き去りにしてしまったかのような「肉体の思想」は何だったのかということになるのではないか。アルトーの「狂気」はそれほどのものだった、それほどの非狂気だったのではないか。アルトーには自分の死を「定める」くらいのことはきっと可能だったのだろうと普通に考えることができる。反乱はとっくに開始されていたのであり、赤の他人が反乱開始を云々するには、アルトーはあまりにも遠くにまで行ってしまっていた。

 あるときは肉体を激しく唾棄すべきものと考えていたアルトーの肉体。あるときは病んだ肉体をあえて攻撃し、飼い馴らし、最後に唾を吐きかけたアルトーの肉体。あるときは痙攣を起こし、麻痺し、硬直し、とっくに死体になっていたのを自分で眺めていたかのようなアルトーの肉体。またあるときは、医学であれ何であれ、われわれの「知」によって包囲され尽くしたかに見えた肉体とはまったく「別の肉体」が肉体の時間の眺望のなかにはあるのだということを知り抜いていたアルトーの肉体。これらは事実に基づいており、言っておくが、私は狂信者などではない。

 だからこそアルトーの肉体は、長い肉体の迂路を経て、誰もがそう思っていたようには、例えばピラネージが描いたような「肉体の牢獄」のなかにはすでになかったのだと考えることもできる。肉体の出口を探すには及ばない。なぜなら彼の生涯は終わったが、たとえ肉が腐ろうとも、遺骸が朽ち果てようとも、「肉体」はそのままそこで滅びないからである。「肉体」がそこに存在したはずのそれぞれの瞬間は、一歩も後に引かないからである。
 私はそう思うことにした、いや、実際に私がほんとうにそう感じているとしても何の不都合があるだろうか。アルトーは死ぬべくして、つまり死がなにほどのものでもないとでも言わんばかりに、もはや途上にあったわけではない「完全なる思考」とともに死んだのだ。このことは、言うまでもなく、異様なことである。

 


 

 

 

 つい先日、土方巽の弟子だった舞踏家、室伏鴻主宰による「〈外〉の千夜一夜」というイヴェントが横浜であった。そこで行われた講演のなかで宇野邦一さんが土方巽の文章「アルトーのスリッパ」に触れていたので、家に帰って読み返してみた。 ちなみにこのイヴェントでは、丹生谷貴志さんと私もアルトーの「器官なき身体」その他について喋る羽目になった。舞踏といえば、アルトーについて語ることがほとんど義務ででもあるかのように……
 この土方巽の文章は後に『美貌の空』という素敵なタイトルの本に収録されたが、たぶん私の記憶では、最初はかつて現代思潮社で企画された『アントナン・アルトー全集』の第一巻が1971年に刊行された際の見本パンフレットのための文章だったはずである。全集は結局この一巻しか刊行されなかったが、滝口修造のデザインによる(?)、なかなかいい出来の、渋いパンフレットだったと思う。最近まであったはずなので探してみたが、惜しいことに、どこかにやってしまって見当たらない。

 土方巽は書いている、
 「われわれは幸福にも、思考の崩壊を恐れつつ生かされていることを、また死なされていることも既に知っている。われわれは、何者によってその崩壊の様相が握られ、誰の手によって崩壊が徹底的な現実として表れることをこばまれているのか。われわれの生は、くりかえし死に向かう寛容な精神の種族によって握られているのだ。彼の生理の叫喚が必要としている一回限りの行為を持続すべく、錯乱という思考の対極のものとしてみなされてきた劇場、即ち肉体を新たな名のもとに彼は欲しているのだ。どのように降りかかる災害や爆発物も、「不幸にも私は生きておりますし」という彼の前では告発された水増しの革命になる。しかし、このこと以上に、彼には絶対的崩壊の粒子をひっ捕えて、それを無冠の肉に対して問い質す必要があった。胎児が泡立つ粒子の中に彷徨していた薄明の時代の形而上学が、戦慄する物質との婚姻によって無垢なる流産のままに語られる生の様相は、生きものの海に原理の揺籃期が浮き沈みする際のめくらむばかりの光景でもある。生の渇望のために、苦痛の先端、全能力の地平線は、誰のための思考ゆえに引かれてあるのか。アルトーはその先端、地平線を切開し、新たな試練に肉体の思考を賭けた。その時、思考の腐蝕する穴が、恐怖する空洞として先立っていた肉体に復元されていることを、まざまざと彼は目撃したのだ。私たちは彼から、やさしさというものの留保を厳正に圧縮した意味でおそわり、悲惨な脳髄の復活を無限の距離において示される。アルトーが臨終のまぎわに口にくわえたスリッパは、果たしてどのような最後の科白であったのか、果たして完全な思考であったのか、ということをあらためてわれわれは思考させられるのである。」
                            (「アルトーのスリッパ)

 


 

 

 土方巽だけにしか書けない、とんでもなく凄い文章である。彼の文章はいつも彼の舞踏を思わせる。当時、他の誰にこんな文章が書けただろう。土方のアルトー理解が半端なものでなかったことがわかるというものだ。この文章はアルトーを巡って当時エポック・メイキングとなるような文章だったことはたしかだが、日本の暗黒舞踏がどうしてそれほどまでにアルトーに接近したのか、舞踏家自身の肉体のこちら側で、どうしてそれほどまでにアルトーの思考との交感を果たそうとしたのか、肉体自身をもてあましているわれわれとしてはもう一度考えてみたくなるというのも人情である。
 なぜなら、われわれの肉体は、いまでも、そしてたぶん太初の闇以来ずっと危機に瀕したままであるからだ。

 さっきも言ったことだが、どうしてアルトーの、たぶん最後の、といえる「完全なる思考」がそれほど異様なのか。
 なぜなら土方も言うように、「思考の腐蝕する穴」が最初から思考の不可能とともに肉体の全能力としてあり、思考の誕生、その生みの苦しみとともに、同時に、思考することができないと考え始めることによって、思考が不能だということをここで繰り返し思考することによって、そして思考の誕生は思考の不能性ただそれだけから帰結されるものであり、そしてそういったものすべてを自分は思考の腐蝕によって苦しみ抜いているのだということから、アルトーは思考を始めたからである。

 


 


 それだけではない。この思考の不能性と不可能は、恐怖の空洞として肉体になりかわっていた何かのなかですでに肉体として復元されていたことをアルトーは知っていたのである。彼は当時まだ20代の青年だった。土方はアルトーはそれを目撃したのだと言っている。頭蓋のなかにあいた思考の腐蝕する穴、「磁気を帯びた空洞」、アルトーはそれが思考の腐蝕の穴であることを肉体のなかに復元された苦痛の在処として目撃したのである。誤解を恐れずに言えば、この恐るべき生理学は、アルトーがいかに憎悪した言葉であるとはいえ、ひとつの徹底的な形而上学であったのだと言いたくなるくらいのものなのだ。
                                   (続く)

 

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