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第47回 誰でもない人 異名としてのフェルナンド・ペソアを讃える

                                                        第47回 2014年2月


                                      

誰でもない人

異名としてのフェルナンド・ペソアを讃える




                                      
                                                                      鈴木創士

                                      
                                     

宇野邦一『詩と権力のあいだ
鈴木創士『魔法使いの弟子

                                     

 ある人の家に足繁く通っていた頃、電車を降りて駅の北側へ出ると、いつも寄り道をした。ある人の家は駅の南側にあるのだが、線路から北に少し急な坂を上って、線路と、さらにその北側にある、さして大きくもない池との間の二筋目を横手に入ると、お気に入りの細い道があったからだ。池は緑色の水を湛えていた。二百メートルほどのこの小さな道を通ると、いつも別の時間の中に入る、というかしばらく居ることができた。別の時間? たしかにそうだ。別の時間が在り(時間は流れているようには思えなかった)、またはそこにわだかまるように別の時間は停滞していたのだが、私はそこをたまたま通り過ぎるだけだった。灰色の、しんと静まり返った時間にはほんの少しだけ別の蒼白い光が、時には黄色い光が射した。だから雨の日にはそこを通るのをやめた。
 道には壁がずっと続いていた。ところどころ古びて変色したコンクリートが剥げ落ちて、中の煉瓦が丸見えになっている。壁にはスイカズラの蔓が垂れて、五月頃になると白い花をつけた。時々、花を無造作にいくつか失敬して、子供の頃にやったように蜜を吸った。路地じゅうにいつも強く甘い香りがしていた。スイカズラは忍冬と書くくらいだから、冬をも耐え忍ぶ強い草であるからだろうか、そこを通ると、花の咲かない冬でも鼻を突く香りでむせ返るような感覚に襲われる。
 道はいつもひっそりとして、人とすれ違うことはまったくない。鳥の囀(さえず)りが遠くでしているだけだ。鳥の姿はなかった。ずっと続く壁からは生い茂った樹々しか見えず、家屋は見えなかったし、このかなり広大な屋敷が誰の住む屋敷なのかは知る由もなかった。私はただ速度を緩めてそこを歩く。けっして何も見てはいないのに、見えるのはいつもほんのわずかにざわめく梢(こずえ)だけだ。
 道のもう片側には竹を組んだ塀があったし、道の左半分が和風で右半分が洋風だった。変な言い方だが、日本の平凡な町にある、見たこともないような道には違いなかった。ずいぶん間の抜けた感想だが、私はいつもそんな風に思った。歩いているとき、私は考え事などしなかった。私は何も考えていなかった。何も思考できなかった。だが、どこにでもあるというわけではないが、どこかにあるようでもある小道でありながら、それでいてこの道には独特の、名状し難い風情がある。それが私に何かを強要した。ここはリスボンでもブエノスアイレスでもないのだけれど、一瞬、なぜか自分がどこにいるのか、どの町なのか、どの国なのか、わからなくなるのだ。私は幸福感を覚えた。私は突然の多幸感にとまどうほどだったし、またそうでなければならないと義務のように思わずにはいられなかった。
 ここを通る数分間、私は完全に独りだったからだ。内と外の両方で、同時に何かが溶けていった。自分に対する理由のない親密さは自分というものを雲散霧消させる特効薬のように思えることがある。私がランボーの言うような「場所と公式」を求めて焦っていたのだとすれば、場所は図らずもこの道であり、公式は、この場合、自分から抜け出すことだったはずだ。私は誰でもない人だった。私は否定の権化であり、何かと何かの間隔であり、空気でできた壊れた機械のバネ、中空に放り出されたただの螺旋であり、忘却であり、遅れ、ズレであり、未分化の細胞にも似た不定形のもの、プラトンの語る「彷徨える原因」だった。
 そして不思議なことにそれらすべてのものが、ゆるやかな類似のひとつの形をなした。風景はどれひとつ同じものがないとはいえ、互いに似ていたし、私にも似ていた。全体のない部分だけがあった。奇妙な集合論だ。これは私を一種の麻痺状態にした。というか麻痺状態の中を泳いでいるようだった。フェルナンド・ペソアは、人が死のことを眠りと呼ぶのは、外部からすれば死と眠りが似ているからだと言っていたが、それならばここは集合の外部だったのだろうか。


 ここ二、三日、私は熱に浮かされている。これを書いているいまもまだ熱が下がらない。意識が朦朧としているわけではないので、浮かされているというのは言い過ぎかもしれない。昨日も昼間、床に臥せっていて、切れ切れの夢をたくさん見た。目覚めると、何も覚えてはいない。ウィルスらしきものがからだの中で増殖していたらしい。私のからだは戦闘中というか内乱状態にあるのだ。風邪に似た症状はかなり不愉快なものだけれど、たいしたことはない。
 私は書いてみる。一行、また一行と、少しずつ。ペソアは「無意識のウィルス」などと言っていたが、熱とともに私の無意識が蒸発していくみたいだ。病気は肉体の狂気の発端であるだろうが、肉体を除けば私は発狂してはいない。そのことに安堵することすらない。ペソアにまつわるアラン・タネールの映画を見たからだろうか、訳もなくランプや灯台や下町のレストランのことを考えてしまう。枕元のランプ、半分廃墟になった灯台、ポルトガル料理のSarrabulho。海、酷暑、ジプシー、手相、タクシー運転手、路地裏のホテル、模写されたボッシュの絵の部分、雨ざらしになったぼろぼろのピアノ…。

 

 

 そしてリスボンのバイシャ(土地の低い中心街のこと)の入り組んだ路地や、情緒溢れる古い界隈アルファマの喧噪や、ドウラドーレス街の中二階にあるレストランやカフェ・ブラジリアがなければ、ペソアは存在しなかったのだろうか。もしペソアがドウラドーレス街から出て行くことは決してないだろうと自分に言い聞かせなかったならば、リスボンの街から出て行ってしまっていれば、ペソアがほんのわずかの永遠を知ることはなかったかもしれない。こうしてひとたび書いてみると、それはもう永遠のことのように思われるのだ、と彼も書いていたのだから。いや、彼が書いたというのは不正確だ、ペソアの分身のひとりであるベルナルド・ソアレスがペソアに向けてそれをそっと誰かの耳元で囁いたのだ。


 無駄な言葉、零れ落ちる言葉、無関係のいくつかの隠喩。漠然とした不穏さがそれらを別の時間に結びつける。ペソアはそれを郷愁だと言いたげだったが、それがわずかな苦い郷愁を呼び起こしはしても、郷愁そのものだとは私には思えない。

 あるよく晴れた日のことだった。私はいつものようにその道を通った。その道を行くことだけが目的にさえならない目的だったのだから、相変わらず私は何も考えていなかった。ある人の家はそこから遠くはなかったが、その頃になると、この道を通るために、ある人の家へ私は行っていたのかもしれなかった。昨日はかなりの土砂降りの雨だったので、陽が射し始めると、最後の雨が空を去った後、空気が澄み渡って、ものの輪郭が黒く、くっきりと見えている。雨上がりはいつも美しい。
 ところが道に一歩足を踏み入れると、妙な感じがした。何かがおかしかった。スイカズラの匂いがしないし、雨上がりなのに、鳥の囀りも聞こえない。最近ではもう珍しいアスファルトではない土の道ももう乾いてしまって、雨が降った後のようには思えなかった。
 私はいつもと同じように歩いた。見ると、道の右側の塀にはスイカズラの蔓も花もなく、枯れた蔦の蔓がわずかに壁にへばりついているだけだ。塀はたしかにところどころ剥げ落ちていて、中の古い煉瓦が見えている。だが、左側には竹を編んだ冊のような純日本風の塀などなく、鬱蒼とした空き地があるだけだった。左側には、日本家屋の離れの一軒家だったのだろうか、古い勝手口が見えていたはずだが、そんなものは跡形もなく消えていた。この南側の向こうはいろんな種類の樹々が乱立する林があるだけで、手前にはスイカズラではなくエニシダが密生している。エニシダの黄色い花はほとんど枯れかかってはいたが、あちこちにサヤエンドウのような黒々とした実をつけていた。私の記憶違いなのか。そんな馬鹿な。何度となく通った道だ。間違うはずはない。スイカズラは金銀花とも書き、白だけではなく黄色の花をつけることがあるのを知っていたので、私は急いで近寄ると、エニシダのまだ完全に枯れてはいない黄色の花をもぎ取って、あわてて吸ってみた。萼の苦い味しかしなかった。甘い蜜は消えていた。


 そのときに私が見ていたこの風景は世界で最初のものだったのだろうか。いま見ている風景も最初の風景なのか。画家であれば、いつも風景は最初か最後の風景であるほかはないと言うだろう。誰がそれを見ていたのか。午後も遅く、陽が傾きかけていた。わずかに蔦のからんだ塀が薔薇色に染まり始めていた。私は立ち止まり、薔薇色の光の中に立った。どうしていいのかわからなかった。透明な光は、いまから弱々しくなる一方であるはずの光は、それでも生まれたばかりの光だったのだろうか。
 ペソアという詩人が存在したのかしなかったのかと問う前に、だから私はほとんど存在していなかった。私は生きることなく、そして同時に死ぬこともなく、この道を通り過ぎていた。通り過ぎた痕跡などあるはずもない。すべての足跡はあらかじめ失われている。私はこの異なる風景の中で同時に生きていたのか。それともいまも生きているのか。だが残念ながらこの私には感情というものがあるのだし、この立証しようのない感覚はいかんともし難い。二つの世界があるのではない。私は誰でもないのだとしたら、それもあり得ることなのかもしれない。
 ふと私は思った。誰かを通して生が生を語り、死が死を語るのではないのだ、と。死が生に似ているのは、外部というものが存在しないからだ、いま私はここにそう書こうとして、柄にもなくためらってしまう。死が生に似始めるのは、それとは逆に、内部が存在できなくなるからなのかもしれない。


 人ではなく、風景が、何かしら祝福されたもののように思えるときがある。それが一新されたように思えるときがある。この祝福は光が時間に干渉しようとする魔法なのだろうか。人間がそこにいようといまいと風景は風景である。誰かがそれを見ている。ちょっとした小道、急な坂、貧しい家々もお屋敷も。新しい風景。それはたいていはすがすがしいものであることをわれわれは知っている。だがそんなすべてを目にすることができなくなるときが間違いなくやって来るだろう。誰でもない人フェルナンド・ペソアはそれを日々感じ取っていた。人っ子ひとりおらず、誰も見てはいない砂浜、誰も気にもとめない街路樹、駅を走り去った電車、明かりの消えたバー、人のいないオフィス街、紙屑が舞う汚れた名もない通り、冬の山並み、そんなすべてはそのまま存在し続けるだろうというのに。まったく別の世界、あるいはほんの少し変化した、けれども決定的に異なる世界が現われていたかもしれないのに。だがほんとうなのか。それだけなのか。風景の意味は間違いなくペソアの時代とは異なるものになってしまった。神の目があろうと、カメラの目があろうと、風景自体がなくなってしまうかもしれないのだ。
 誰かがそこを通り過ぎる。そして私も君たちもまた足早に立ち去っていく。


                                    ★


 詩人フェルナンド・アントニオ・ノゲイラ・ペソアは1888年にポルトガルのリスボンに生まれ、1935年、リスボンで死去した。1915年、雑誌『オルフェウ』を刊行し、前衛的な文学界の一部からポルトガルのモダニズムの旗手と見なされるようになるが、さまざまな会社を転々としながら、生前刊行された詩集は一冊だけだった。われわれが20世紀ポルトガルの最も偉大な詩人としてペソアを知り始めるのは、なんと1980年代半ばを過ぎた頃のことである。『不穏の書』をはじめとする彼の仕事のほぼ全貌は、唯一残された彼の「トランク」の中の、未整理のままの膨大な草稿がなければ知られることはなかっただろう。いまでは全集の刊行が行われている。


  


 ペソアの特異さは彼の経歴だけではない。というか彼の詩人としての経歴は前代未聞のものだったとしか言いようがない。なぜならペソアは、七十人以上にも及ぶ「異名 heteronimo」を創出し、これらの異名たちがそれぞれの詩や本を書いたからである。例えば、『群れの番人』はアルベルト・カエイロ著であり、『海のオード』の作者はアルヴァロ・デ・カンポス、『不穏の書』はベルナルド・ソアレスである。
 これらの異名たちはフェルナンド・ペソアのペンネームではない。彼らは異なる出自、経歴、人生を持っていたばかりか、体格、仕事も違えば、思想信条も異なっていた。しかもペソアがただ文学的様式の発明のために異名たちを創出したのだと言えば、ペソアを恐らく裏切ることになるだろうし、少なくとも不正確の謗(そし)りを免れない。なぜなら26歳のとき、友人をかつごうと冗談半分で架空の詩人をつくり出そうとしていたペソアは、突然、忘我の状態に襲われたからである。このエクスタシーの中でペソアは三十篇ほどの詩を書き上げたのだが、それが詩集『群れの番人』であり、作者のアルベルト・カエイロ、最初の異名の出現だったからである。異名たちが(そしてペソア自身が)詩や文章を書いたのは文字通りの意味においてなのである。

 
 それぞれの異名たちがペソアの文学にもたらした寄与の詳細はこれからも研究されるだろうが、さしあたって私の関心はそこにはない。では、それならフェルナンド・ペソアその人はどうなのか。「彼」と呼んでもほとんど何を指しているのかわからないのだが、彼はどこにいるのか。ペソアは多重人格者ではなく、これらの異名たちとともに、あるいは彼らの見えない後ろ盾になって、あるいは彼らが背後にいたからこそ文章を書いたのだし、書くことができたのだろうと私は考えている。ひとつだけ言えることは、これらの異名たちとともに歓喜し悲嘆し苦悩し、さまざまな危難を乗り越え、それに打ち克ってきたのは、つまりこれらの異名たちを生かしただけではなく、これらの異名たちそのものを生きたのは、ペソアその人だったということである。それは勝利だったとペソアは言っている。

 だがそれだけなのだろうか。イタリアの現代作家アントニオ・タブッキや数年前にノーベル文学賞を受賞したポルトガルの作家ジョゼ・サラマゴのように、ペソア(とその異名たち)にほとんど生涯にわたって取り憑かれた作家がいることは私にもよく理解できる。タブッキもサラマゴも素晴らしい書き手たちであるが、これはけっして文学的影響などと呼んで済まされるようなものではなかった。
 ペソアの作品には単純さのバロックと呼んでも差し支えないような、複雑さと単純さの不思議な融合があるのだし(こんなことは普通は起こり得ない)、あるアルゼンチンの大作家が言っていたように、文学の歴史が幾つかの隠喩の抑揚からなっているとすれば、事はごく少数の単純さを主題としながらも、さらにしかし全き複雑化の様相を呈するに違いない。この複雑さと単純さの奇妙なアマルガムは、成就しかけでいつまでも成功しない錬金術のように私にとっても心地の良いものである。と同時に、私は私を知らない以上、当然のことながら私にとっていまでも解けない謎のままであり続ける他はないのだ。
 そしてこの単純さの中にはペソアという作家の存在それ自体も含まれている。異名たちとペソア。彼らをどのように区別できるというのか。私もまたそのことをこれからも考えてみたいと思う。つまり私にとって、ペソアが創造し、彼から出現した異名たちのように、フェルナンド・ペソアその人もまた「異名」のひとりになったということなのだ。かくして私はこのエッセイを、誰でもない人である、異名としてのフェルナンド・ペソアに捧げたいと思っている。

 

 ところで最初に語った道だが、神戸の大震災から数年後、その有形無形のさまざまな後遺症から何とか立ち直りかけたとき、真っ先に電車に飛び乗って行ってみた。駅も駅の周辺も新しくなり、風景は一変していた。駅前の道という道は新しい無様な区画整理のために拡張され、あの道も、長い塀も、ついに家屋を目にすることはなかったが、たぶん屋敷もろとも、夢の跡のように跡形もなくなっていた。落胆と悲しみをこめて、そのことを報告しておきたい。

 

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