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第50回 正午を探す街角

                                                        第50回 2014年5月

                           

正午を探す街角
                                      

                                                                

    鈴木創士




ノヴァーリス『日記・花粉
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『アトラス
ギー・ドゥボール『映画に反対して 上
アンドレ・ブルトン『ナジャ
バタイユ『ニーチェについて
W・メニングハウス『敷居学






                                      
 「絶対的な理解と絶対的な無理解とのあいだに思考の伝達をとりかわすことができたなら、それはすでに哲学的友情と呼ばれてよい。自分相手の場合でも、これ以上のことは望めないのだ。」                               ノヴァーリス「花粉」

 

 

 ボルヘスはもう目がほとんど見えなくなっていた晩年になってあちこちを旅した。
 盲人だけが知る薄明、あの明るい靄に包まれた(とボルヘスは言っていた)「視界」のなかに彼は何を見ていたのだろう。その空間、そう言ってよければ、未知の空き地は、今日のお天気のように一面の薄曇りだったり、突然、深い霧に覆われたりしたのだろうか。有毒性の霧は出てくるのだろうか。きっと思い出したように、突然、日が射すときもあるはずだ。慎ましい、ほんのささいな出来事、あの恩寵のように。

 
  どの街角でもいい。名もない街角でもいい。「それはオンセの菓子屋の街角かもしれない。死の影に怯えるアルゼンチンの作家マセドニオ・フェルナンデスが、死はわれわれの身に起こり得るもっとも些細なことだと説いた」あの街角でもいい。自分が木であることを、そして人々に涼しげな木陰を提供していることなどつゆ知らない一本の木が、短い影を投げかける街角。木も見当たらない街角。どこまでも広がる、目が痛くなるような青空、くっきりとした黒い影。素晴らしいコントラスト。正午を少しだけ過ぎた街角……。
 どこでもいい。住民への相談などなしに最近無駄に植え替えられ移転されてしまった、巨大で力強い大木があった(われわれはそれを京都のバオバブの木と呼んでいたが、木はすっかり元気をなくしてしまった)。その木がひっそりと聳える京都東山の入り組んだ路地の奥にある誰も知らない街角。どこかで群青色か薔薇色に染まる街角。それともそこで人が死に、手向けられた花も枯れてしまった表通りの埃だらけの街角。昼の日なかにはかつてそこが処刑場の一角であったことすら忘れられた薄汚れた街角であってもいい。
 ボルヘスは、街角とは、それはどこの街角ででもあり得るのだから、目には見えない「原型」なのだと言っていた。


 ある日、ボルヘスは異国のホテルに到着したばかりだった。盲人たちの見る明るい靄のなかを手探りで、部屋の輪郭を知ろうとそろそろと歩いていた。彼は色んな物にぶつかったのかもしれない。手を回しても届かないくらい太くて大きな円柱に行き当たった。ボルヘスは円柱に触れる。それが白い色をしているのがわかる。盲人に色が見えないなどと思うのはわれわれの思い上がりである。固くてどっしりとした円柱。天井まで伸びる円柱。そのとき束の間の幸福を覚えた、とこのブエノスアイレスの大作家は出し抜けに述べている。奇妙な幸福感だった、と。それは原型というものが人に与える幸福感だった。
 この形態も手触りも幸福感もまた、当然ながらはじめて手にする、文字どおり目には見えない「原型」なのだ。ボルヘスは靄のなかをほんの少し浮き上がり、浮遊していたに相違ない。円筒、方形、球体、角錐。ユークリッド幾何学の純粋な形態がもたらす啓示。この作家にとっての大いなる幸福。ボルヘスは簡潔にこの上なく美しい言葉でそう語っていた。



 とはいえ、盲人ではない私が見ているもの(ほんとうに私は何かを見ているのだろうか)、それはプラトン立体のような神的な形態ではなく、どこにでもある街角と同じように、単純であれ複雑であれ、同時につかみどころのない不可解な形態である。ある時はでこぼこしたり、ある時は平坦だったり、異様にとんがったり、家並みや風景に混じって輪郭がわからなくなったりしている。原型はすぐさま失われ、再び現れるだろう。この原型は少しだけ忘却に似ている。


 ここはパリ六区のシェルシュ・ミディ通りだ。ずっと昔、ドラゴン通りの裏に住んでいたことがあったが、そのドラゴン通りを抜けてフール通りに出ると、五叉路になっているのだが、そのままフール通りを渡るとシェルシュ・ミディ通りが始まる。この通りは六区と十五区を横断していて、サン・ジェルマン・デ・プレとモンパルナスをつないでいる。最後はカミーユ・クローデル広場で終わっている。
 シェルシュ・ミディ。正午を探す、といったほどの意味だ。フランス語には「午後二時に正午を探す」という諺があって、なんでもないことを難しく考えたり、簡単なことを難しくする、ということを指している。だが、「なんでもないこと」などどこにあるというのだろう。すべてがどうってことないのであれば、なんでもないこと、「なんにもなし」をあえて探すのは至難の業だ。美学も道徳も倫理学も太刀打ちできない。正午を探すのは、ミノタウロスのいない迷宮にいるようなものである。何を頼りにどちらを向いて進んでいいのか、皆目わからないのだから。


 ニーチェも正午を探していると言っていた。垂直に光が差す。影の消える刻限。一瞬だけ原型さえもが見えなくなる。夜は思い出でさえなくなり、昨日のなかへ遠ざかり、消滅する。樹々の影も一瞬消え失せ、キリコの絵のなかの街路も、また別の日常の神秘に覆われることになる。見回しても、輪遊びしている少女もいない。ありえない蒸発、停止。諸々の生の停滞、とランボーがうんざりして言ったのはこのことではない。そうではなく、ただひとつの停止。あっという間のことである。一瞬だけ感情も来歴も何もかもが外に追い出される。お払い箱なのだ。


 昼間のドラゴン通りではいつも二人の顔見知りとすれ違った。ひとりはハンサムでシャイな日本人。彼の名前も、彼が何をしている人なのかも知りようがなかった。彼とはいつも足早にすれ違い、彼と口をきくことはついぞなかった。もうひとりは、そうしなければならなかったかのように(どこにいようと、ある意味できつい時代だった)、あるいは何らかのメタファーででもあるかのように、毎日同じくたびれたセーターと同じよれよれのコートを着ていたモデルの卵のフランス人。近くにあった近所のおじさんしか通わないような小さなカフェで、このファッションモデルの卵は早口にパリ訛のフランス語を喋った。私にはよく聞き取れなかったし、モデルのくせに「服なんて、これしか持ってないのよ」と言わんばかりだった。
 私の知っているドラゴン通りはいつも空虚で、なんの変哲もなく、暗かった。ロシア人の知り合いの姉が通りに面したアパルトマンの最上階の奥のほうに住んでいた。正面から見るとさして特徴のない建物だけれど、上へ昇って奥へ行くとずいぶん変則的だった。貧民窟か宗教施設の建て増しの離れみたいだった。粗末な色刷りのガラス張りの三角形のような通路があって、奇妙な造りだった。そんなものがあるとして、斜光ガラスとでも言っておこう。光は斜めからしか射さないように見えた。光は傾き、世界も傾いていた。いかがわしい所ではないのに、どこか猥雑でいかがわしかった。弟と一緒に何度かお邪魔したはずのこの姉の部屋の様子はちゃんと思い出せない。カティアという名前だったように思う(いま思い出した)そのロシア人は、昔ここにシュルレアリスムの画家のマックス・エルンストが住んでいたのよと言っていたが、ほんとうかどうかは知らないし、確かめる気もなかった。どうでもいいことだった。


 めったにドラゴン通りを南の端まで、ましてやそれ以上行くことはなかったように思う。フール通りに出れば、たいていまたフール通りを北上し、サン・ジェルマン大通り、さらにセーヌ河の方向へ歩くことになる。パリの通りが人の狂気につけ入る隙を与えるのは、何もベンヤミンが言うようなパッサージュだけではない。通りから通りへ、それは思考のがたがたの道筋にも似ていた。ギー・ドゥボールとシチュアシオニストの活動家たちが「心理地理学」と言っていたのがよくわかる。当たり前のことを言わせてもらえば、場所を非場所と区別するためには、われわれはつねにひらめきを必要としていたし、いまもしている。場所は公式をともなう。スペインの神学者で神秘家だったライムンドゥス・ルルスが構想したような思考機械をわれわれは創案できなかっただけなのだ。


 その日はシェルシュ・ミディを南に歩いた。モンパルナスまで歩いて、後でカフエ・セレクトかクーポールまで行くつもりだったのかもしれない。なぜ南下したくなったのかはまったく覚えていない。日曜日だった。日曜日のパリは退屈でけだるい。ダミアの暗い日曜日。かつて大勢の人が自殺した日曜日。商店などはほとんど閉まっている。人通りも少ない。なおさら空虚で退屈なシェルシュ・ミディの通り。もっとずっとパリの北のほうだが、ブルトンとナジャが出会ったのもこんな日曜日だったに違いない。だが私は、私とは誰か、などとは考えなかった。



 家並みも風景も半透明の靄のなかでぼんやりしていた。すべてが霞んでいてよく思い出せない。街角の佇まいも何もかも。記憶のなかの街角は盲人ボルヘスのいたあの薄明とどのような違いがあるというのだろうか。霞のなかを手探りするでもなく、ひとりでやけに(たぶん)殺気だって歩いていたのだと思う。私のアウラとシェルシュ・ミディ通りのアウラはぴったり一致していたに違いない。向こうからフランス人らしき若い三人組がやって来た。男二人と女一人。日曜日だから他に人通りはなかった。彼らは立ち止まって、じっと私の顔を見た。

 「交換しないか」、と青年がいきなり言った。
 「何持ってる?」
 「LSD」
 「君は?」
 「キャプタゴン」

 ちょっと待ててくれと言い残すと、私がにこりともしないで差し出したむきだしのアンフェタミンの錠剤をポケットのなかに急いで突っ込んで、彼らは建物のなかに消えた。彼らはチンピラではなく、どちらかといえば育ちがよさそうな、少し退屈したようにも意気盛んなようにも見える美しい男女だった。ひょっとしたら皆殺しの天使というのはこんな感じなのかしらと私は理由もなく思ったのかもしれなかった。天使は変幻自在だ。70年代は旧約聖書の時代ではなかった。天使も様変わりする。ヴェンダースの映画のベルリンの天使よりはまだましだろう。
 扉のなかに消えた彼らの後ろ姿を見て、彼らが戻って来ないことがわかった。私はなぜか確信した。LSDは非在のなかで居場所を求め、宙吊りになったままどこかに迷い込んでしまうだろう。この状況はLSDのバッドトリップとはまったく違っていた。別に今日LSDがなくても何の不都合もない。でもこちらだけが騙されたのではなかった。私が渡したのも、残念ながら(ごめんなさい!)アンフェタミンではなく、日本から持参した残り滓のただの頭痛薬の錠剤だったからだ。
 物々交換は、架空のポトラッチ、絶対的理解と絶対的無理解の交換は、ちゃんと成立していた。それでも聞き耳をすませ試しにほんの少しだけ待ってから、私はそそくさとその場を立ち去った。喧嘩になれば、人数からしても負けるからだ。さっきも言ったように、彼らが戻って来ないことはなぜかわかっていた。でも、彼らが騙されたことに気づくのはあの頭痛薬を飲み干してしばらく経ってからなのだから、先手を打ったのは私のほうだった。これは一種の天使的なゲームであるには違いない。歩きながら少しだけ笑ったと思う。独り言みたいに。気分は悪くなかった。天使を騙したのだから。そして天使たちに騙されたのだから。天使がいるかどうかは誰かに尋ねてみないとわからないとしても、街角はどこにでもあったし、街角はあらゆる場所であり、いたるところだった。ここと同じように。だから町並み自体が時間と呼ばれる大河のなかを小舟のように漂い…、私は正午の日なたの皮膚病にかかった犬ころみたいに日に照らされた舟の上でじっと停止していた。


 シェルシュ・ミディを南下するちょっとした散歩。これもまた「原型」なのだ。旅や散歩のなかに原型を見つけることを私はボルヘスから教わったのだった。過去のなかにも未来のなかにも何かが解消されることになる。混じりけのない「純粋な泉」はどこから流れ出すのだろう。
 変な通りすがりの天使たちと別れて、チベット人の秘密結社がシェルシュ・ミディ通りにあったという話を思い出しながらモンパルナスへ向かって歩いた。何かの本で読んだはずだった。モンパルナス大通りまではそれほど遠くはない。第二次大戦の頃、ナチスがその結社の場所を血眼になって探していたらしい。でもそれでもそこはひとつの灰色の街角にすぎなかった。



 珍しい状況、例えば、仙台や福島からやってくる人たちが誕生日を祝い合う日はそうざらにあるものではない。予兆はあるのか。時間に抵抗できるものは何だったのか。私はそのチベット人の話が本当であれデタラメであれ秘密結社の場所を探したりはしなかったし、そんな気もなかった。シェルシュ・ミディ通りが重要なのではなかった。いくつもある通りのひとつにすぎなかった。シェルシュ・ミディはひとつの原型だったが、いつも通るドラゴン通りの何の変哲もない灰色の風景もまたひとつの原型だったことに変わりはないのだと思う。こんな風に言うと気取りすぎているように思えるかもしれないが、嘘をついているわけではないのだから仕方がない。もうそれしか残っていない言葉が私にそんな風に書くことを要請するのだ。


 もうずいぶん前の話だから、現在のシェルシュ・ミディがどのようになっているのか知らないし、別に知りたいとも思わない。与太話のようなあの昼を私はけっして忘れないだろう、などと私は言えるだろうか。ずいぶん長いあいだパリには行っていないし、フランスにも、どこにも行く気がずっとしなかった。「私は居て、そして居なかった」とジュネは書いていたが、これに勝る言葉はないだろう。フランスの友人もパリまで来いとは言わないし、いつかは会えるかもしれない。暗い日曜日に。十字架の下には何もなかったように、そこには、底には、何もない。恐怖と畏怖にふさわしい場所を見つけることができるかもしれないなどと私は言わないし、そんなものはただの詩的なたわ言、恐怖の代わりにさえならない無用の長物なのかもしれない。いまは足が悪くて…等々、思うように散歩ができないのが少し不満だ。懐かしいのはパリではなく、散歩のほうである。

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