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第52回 身体から抜け出す身体

                                                            第52回 2014年7月


                          身体から抜け出す身体


                                                                        鈴木創士

 


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『魔法使いの弟子』『サブ・ローザ




パオロ・ウッチェロ


 私はいつも自分のからだが魔術幻燈になったように感じている。ファンタスマゴリックな腕、シメールのような脚。幻想の首。
 ギクシャクとしたからだの動きはあまりにも多くのものが犇めき合った幻影のなかにある。身体はつねに充溢に向かう動きのなかで生きているらしいのだから、痛みを回避するこつを覚えねばならない。痛みは悪である。悪を知ったとしても、からだに巣食う悪が何なのかは金輪際わからない。だがどうしてそれを知る必要があったのだろう。プラトンが言うように、知ることは思い出すことなのだろうか。痛みを?
 少しだけ意識を集中して、心臓を「立て直す」。長年、あまりに痛めつけたからなのか、悲しいかな、こいつはちゃんと働いてくれない。中心は、ジャベスが言うように、井戸である。井戸は砂漠にある。心臓は井戸のように血を汲み出している。心臓は本来は井戸のように空っぽの器官であり、器官を逸脱したかのような器官である。あらゆる器官が身体の敵であるのと同じ意味で、心臓は身体の敵なのだろうか。そう断言できる勇気が私にはまだない。
 だが在るのはただひとつの充溢身体である。アルトーはそれを「器官なき身体」と名づけた。それはドゴン族の「卵」のように、その外縁はあまりに遠く、卵のかたちをわれわれは目にすることができない。それは無限の夢幻の属性からなる実無限実体である。これが実にリアルなものであることを誰もがわきまえておかねばならない。
 エーテル。エートル。深い息をしてみる。息をしている感じがする。気息は遠い。誰かが、あるフランスの作家が、ヴェネツィアの古い石畳に接吻するように、私は呼吸に接吻する。私・・・は・・・呼吸・・・に・・・接吻・・・する。抑揚のないモンテヴェルディの祈りの曲の最初の小節が聞こえはじめる。鼻は詰まり、何の香りもしない。
 もう何年か前のことだが、息ができなくなったことがあった。気のせいだったのか。そんなことはない! 心臓が悲鳴を上げ、ほんとうかどうかは知らないが自らが生命の在処であるとでもいうように、生体的機能を過剰化したために、肺に一気に夜が流れ込み、水浸しになって、私は窒息しかかっていた。私のからだは自家撞着に陥っていた。
 いままでずっと首と後頭部は鉄の鎧でできているみたいに感じていた。ボンノクボはさながら闇の鉄栓、裏返しになった暗闇の入口、その錆びついた堰門だ。ここから毒が下に向かって、からだの下方に重力の法則どおりに滴り落ちる。毒は何からできていたのだろう。たぶん「言葉」に違いない。そしてからだは一気に硬直する。痙攣なしの強直痙攣。たまには痙攣したこともあったかもしれない。神経組織は完全なる変性状態におかれていた。たぶんというか、ほぼ確信に近いというか、そんな風に確信をうながされてしまったのだが、軽いパーキンソン病に似ていなくもない。ただ不思議なことに、ドーパミンの重大な欠如は苦痛を生み出すはずなのに、投げやりな諦念とともにそれを取り巻いていたのは、一種の快感に近いものだったかもしれない。
 皮膚がからだを覆っていたのだろうか。夜が皮膚の上に降りてきたのなら、皮一枚などというのは嘘である。幻を吸気のように吸い込み、食べ続けてきた鉄の皮膚が、呼吸するのを、呼気を吐き続けるのを忘れて、タマネギのように何層にも重なっている。
 眼窩はうつろなままだ。頭蓋の奥にまでめりこんでしまった幻想の目玉。だが本物の目玉。そいつが痛む。網膜も眼球もない。瞳孔だけが開いている。凝視すればするほど、私は何も見てはいない。……
 

 「言葉」が右側の前頭葉からしか入ってこない。
 なぜなのかはわからないが、身体の「宿命的な」身振りというものがある。それは身振りであることをすでにやめてしまっている。身振りというよりも、それは行動の、動作記憶の規範であり、空間というかむしろ空虚のなかで、時間と連動した身体の一種の悪癖のようなものだ。それはほとんど物質の様相の一部をなしはじめた思考の始まりである。脳の右側から入った言葉の粒子または音響は、左側に合図を送り、システムを装う言語を私に強要する。なんという疲労だろう。ドゥルーズ・ガタリは、カオスはシナプスとシナプスの間隙にあると言っていた。儀式めいた電気的交換も遮断もほとんど無駄になる。染色体を含めた「運命」の設計図はすでにくしゃくしゃの紙屑のようになり、誰が描いたのかも、誰のものかもわからないまま、机の片隅から遠くへ追いやられているのだが、轍にはまるように、井戸に落ちるように、私の場合はそうなってしまうのだ。これは私にとって「言葉」が強いる身体の「宿命」のようなものかもしれない。土方巽は「肉体の井戸に梯子をかけて降りる」と言っていたが、舞踏家ではない私に梯子はない。

  「言葉」が入り込む。
 だがそれは瞬時の映像、音、リズム、感触、ほんの少しの、あるいは深い情動であり、あえて言うなら意味形成性の、最初の、目にもとまらぬフラックスであり、そのとき脳は広々としたプラトーのように開けていく感じがしないでもない。草のない草原。山も岩も何もない高原。書割りも小道具も一切ない演出の舞台。あるいは海。光源をもたないようなぼんやりとした光がそこを照らしている。私は滑空する。ここまでなら何の不都合も感じられない。
 だが、この瞬間をすかさずとらえなければ、私の身体がうまくその通路、円筒、チューブ、連通管になることはないだろう。なぜなら表現と内容は私にとってずっとただひとつの同じものでありながらも、結局私は私の存在と非存在の間で宙吊りのままの言語活動に引きずり回されることになるからだ。さもなくば、私はただのざわめきになってしまうだろう。ざわめきは最後には塊りとなるだろう。たぶん癌化はその一例である。

 まだ最後まで精読できていないのだから口幅ったいことは何も言えないが、江川隆男の新著『アンチ・モラリア 〈器官なき身体〉の哲学』のページをめくっていたら、「身体の身体」という概念に出会った。
 ああ、そうなのか…。
 この留保なきスピノザ主義者のあまりにも徹底的な哲学的冒険の結論はさておき、冒頭から、とにもかくにも私はとっ捕まってしまった。私は哲学が嫌いなはずなのに、哲学は私をとらえて離そうとはしないらしい。「身体には或る無仮説の原理が隠されている」。この哲学者は、ニュートンの言葉のようなこの単純にも見える言明を、この本全体を通じて、誰もがそうしているようにいい加減に語ったのではない。最初にあったのはアルトーの「器官なき身体」というきわめて厄介で本質的な玄武岩であり、動かし難く、厳然たる「精神のうちに外の思考を発生させる要素」であり、その証明の端々はわれわれ日本人の誰にも真似ができないほどスコラ学的であり(彼はエミール・ブレイエの訳者でもある)、一見、単純にして同時に繊細な力強さと光明を彼に与えているのはスピノザとドゥルーズ・ガタリなのだから、著者が格闘し考えているのは現在ありうるかもしれない「哲学」だけである。この点で江川隆男はきわめて誠実である。そしてこの大いなる哲学的決意にも似た巨大な企てそのものから、つまりあらゆる経験論を峻拒する哲学的経験から、そしてあらゆる道徳を排する、そう言ってよければ哲学的「身体」のエチカから、「身体」そのものが出てくるのがここからも見えるようなのだ。

 唯一の身体しか存在しないとはいえ、どうやら「身体の身体」があるらしいのだ。それは奇跡のように私に折り重なっているに違いない。不思議なことに、それをほとんど瞬間的に知覚したことがあるような気までしてくる。そして「身体の身体」から何かが少しずつ解き放たれていく気がする。それは細胞にまで入り込んで、私のからだを硬直させ続けてきた「言葉」である。
 

 誤解がないように言っておくと、いままで述べてきた「言葉」というのは、私にとってほとんどの場合、アルトーの言葉だった。私がいつか死に、私のからだがいつか朽ち果て、崩壊するのと同じくらい、そのことには確信がある。私はフランス文学の翻訳家の端くれである。他の翻訳者のことはわからないが、そしていかに翻訳者として細心の注意と努力を怠らなかったとはいえ、翻訳の結果が日本語としてどうであろうと、これがほぼ私の文学翻訳のやり方の常態であり、ことアルトーの翻訳に関してはとりわけそうであることを私はいまでもはっきりと思い出すことができる。
 近しい友人たちにはわかると思うが、その結果、私のからだは硬直した。自己原因がどこにあるのかはわからない。それはそうである。だが付け加えておくなら、私はできればほんの少しの愛嬌を振りまくみたいに、できれば後になって笑い飛ばせるように、それから少しだけ癒えたい、その言い方がそぐわなければ、少しは回復したいと今は思っている。笑いは反アリストテレス的である。そうでなければ、すでに世界の裏の裏まで逝ってしまった、すでに「墓の反対側」から何かを見てしまったアルトーを読むことに、ほとんど力能としての意味を見出せないではないか。

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