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お知らせ(第22回 ベケットは美しい人だった)

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 第22回 2012年1月 

ベケットは美しい人だった

鈴木創士

アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情

 奇妙なことが起こる。ブリジット・フォンテーヌはまだ若かった頃にそう歌っていたのだが、奇妙なことが起こるのはまさに人生のさなかのことであるとはいえ、それは場所ではないのだから、自分がそこにいたのかどうかさえ結局はわからなくなる。だが、人生にはそれしかできないから、それが取り柄だから、それがいいから、そのことだけが、私をあの気違いじみた倦怠と泥沼と延々と続く偽善と嘘から救い出してくれるのだから、と言いたくなるのは私だけだろうか。

 男と男が出会う。老人と若者。ありふれた通りで。申し合わせたように。蒼白い閃光のような、見たのか見なかったのかわからないくらいの稲光のような合図。誰も何も見てはいない。ほんの少しの身振り。手が動き、首を傾げ、膝が揺れて、腕が不意に下ろされる。彼らはまるで「静止したフーガ」のように視線を交わす。奇跡が起こったのだ。私はこの美しい本の上に身をかがめてみる。本に接吻しようとやってみる。耳をすます。静寂の中にはあの騒擾の予兆がある。何も聞こえない。何も感じない。いや、実際、そんなことはない。すべてが震え始めるように、ここにはすべての優しさ、夜、困惑、時間がもたらす機微、躊躇、苛立ち、沈黙がある。

 友情とは、それがありそうにないもの、歴史をもたないものであるとき、なんと神秘的であることか。その場所はかすかな光に包まれている。かすかな光、どこに光源があるのかわからない光に包まれている。友であった二人そのものが光源であると見紛うほど、光は遠くからやってくる。(『ベケットの友情』、安川慶治・高橋美帆訳)

 彼らの年齢差はほぼ半世紀もあった。ひとりは田舎から出てきた学生、もうひとりは大作家サミュエル・ベケット。ベケットの顔の深く刻まれた皺は多くのことを物語っているだけではない。この美しい証言は、著者とそのあまりにも著名で年老いた友人がどんな風に時を過ごしてきたかをひそかに物語っている。ここではなく、他処で。お互いを知らなかったときも含めて! 薔薇の下で行われる陰謀の慎ましさのように。アンコニト。そっと。それだけでいい。それだけあればもう十分だ。ベケットは鳥に似ている。(フォークナー風に言えば――…ジキタリスの匂い、死棺の匂い、だが雀たちがバタバタといっせいに飛び立つ。あとにはざわめきの、ある高貴さの、悲しみの、埃のような静寂が…)

 かれとともにしばらくくつろいでみればよい。一瞬(ひととき)の空虚、そしてまた活気、この後退する明暗が一つの同じ態度の二つのあらわれにすぎないことがよく感じられるはずだ。かれの不思議な美しさが、なによりもそれを証している。そう、不思議な美しさであった。ベケットの美しさは鳥の美しさ、鷲の美しさに似ているとよく言われたものだ。急に振り向いたり頭を下げるときの敏捷さ、ある状態から別の状態へといきなり移るそのしかたが、よく知られたあの顔立ちとあいまって、ベケット独特の佇まいを作っていた。

 身振りはここにあって、ここにはない。すべての身振りは上の空だ。だけど、彼らの出会いはその都度繰り返される突然の出会いであり、そんなことはわれわれの眼前、結局は何も見てはいないわれわれの前では、そう頻繁に起こることではなかった。反復は別の反復を証言することしかできないなどと誰が言ったのか。さっきも言ったように、この退屈で悲惨な人生にはたしかに奇妙なことが起こるけれど、そうざらにあることではないのを誰もが知っている。わかりきったことだ。天を仰いで唾でも吐くように、しぶしぶそう認めざるを得ない。

   わたしはよく街頭でばったりベケットと出くわした。事実、そうしてわたしたちは知り合ったのだ。しかし、先に着いたわたしが、かれがやってくるのを余裕をもって眺めているときでも、かれの現れはなにかしらわたしの先を越すところがあった。かれが扉を開くや、不思議な加速が生じる。戸口から挨拶するためにかれの手が高く上がるのが見える。そして次はいきなり、もう軽く抱擁を交わしている。あの朽ちることのない十年。わたしの感動はこの出会いと無関係ではない。しかし、その成りゆきは、まさしくベケットのテクストのなかの出来事のようだった。

 「かれの現れはなにかしらわたしの先を越すところがあった」! 出現は何かを追い越すことである。消滅の手前で、ある現存がそれ自身の中に入り込む。つまらない、どうということもない仕種。と同時に、神学的な意味をすら持ち得るかもしれない挙措。というか神学的なものでしかありえない、生きているもののささいな動きの瞬間の記憶。そう言えば言いすぎだろうか。誇大妄想は私の得意とするところではない。だが結局は同じことなのだ。手が、舌のようなものが、火のようにちらちらと燃えていた…。ジョイスが自分の作品に『エピファニー』というタイトルをつけた理由がよくわかると言っておけばいいのだろうか。
 ピアノを弾く手。ベケットは80歳近くになってまたピアノを弾き始める。だがハイドンのソナタのほうはあの手この手のことなど考えたりはしない。ソナタ。ソナタの弾き方。身振りが宙を舞う。宙を舞って、消滅する。ひらひらと落ちてくるひとひらの雪。食器や洗濯物を洗う手。性器をつかむ手。壁を殴りつける拳。ランボーは手の世紀を唾棄していた。ジュネは身振りについて書くとき自分のことをほとんど忘れているようだった。

   ドアを開けるとき、ベケットは体全体が手になったようだった。身をかがめ、耳を突きだす。手のひらをドアに押し当てると、すかさず頭をあげ、抜き足から身を起こす。まるでドアがさしたる抵抗もなく開いたのに驚いたかのような趣だ。――遥かなるこれらの瞬間(とき)。遥かさとは、そのかなたに進むあらゆる可能性の消失に等しいなにものかが出現するところだ。これらの瞬間はすでに遠く己れ自身のなかへと後退し、あとに続く不在とさまざまな閾の無限の回帰を先取りしている。

 ブニュエルの映画『昼顔』のなかのピエール・クレマンティの歩き方をなぜか思い出す。なんという違いだろう。ベケットの歩き方。己れ自身のなかに退却したのは神である。というかかつて神であった。何か気詰まりなもの。行く手を阻み、理由もなくあらゆる悔恨の邪魔しようとする大気の精。われわれを見捨てる何かが宙ぶらりんの糸の上に引っかかっている。バランスを取りながら。だが糸もロープもない。ずっと昔に大変なことが起こったみたいに、そ知らぬ顔で。

   デカルト以来、騒擾はさらに激しさを増している。だが、騒擾はそこから帰結する沈黙を覆いつくすことはできない。どの時代でも同じことだ。道はない、然り。測りしれないもののなかにいつ沈むとも知れぬ、つかの間の道程をのぞいては。ときおりベケットは逝った友人の運命を思い起こすことがあった。そんなとき、かれは決して亡き友の相貌を固定してしまうような観点をとらなかった。

 道はない。いたるところが道だらけだった。サミュエル・ベケットはパリ六区を散歩する。友人の運命。知られざる運命。冬の吐息のように白っぽく、それから消えてしまう。この本の中にはデュシャンやジョイスも出てくるが、彼らもまたまるでわれわれの隣部屋で暮らす名もなき老人のようだ。いつ仕事しているのか。真夜中なのか。彼はまだそこにいるのか。
 著者のアンドレ・ベルノルドは以前ドゥルーズをストア派になぞらえた素晴らしい追悼文を『哲学』(エディシオン・ド・ミニュイ)という雑誌に書いたことがあった。ベルノルドの恩師はドゥルーズとデリダだったらしい。そんなくだりを読むと、この本は中世ではなく、最近書かれたことがわかって、ベケットがよけいに身近に感じられるのかもしれない。だが、ほんとうはそんな感じ自体がじつは奇妙なことなのだ。

   わたしはベケットに、とりわけドゥルーズとデリダに賛嘆の気持ちをいだいていることを話していた。ベケットはかれらの仕事について何度かわたしに尋ねていた。とりわけかれの関心を引いたのが、二人の講義のスタイル、かれらの声の質、それから、哲学を語る声を聴くことで人々がどのような利益を感じているのか、という点だ。(…)デリダにおいては、なによりあのたゆまぬ細心さ。そこでは、一歩一歩進められる長い分析を経て、突如としてまばゆいばかりの視界が開ける。そしてその光は、静かに退いていく波のように、探究されるテクストの相貌を顕かにする。いまや驚くほど異質になった相貌だ。一方、ドゥルーズは、ほとんど歌うように構築を進めていく。ゆっくりと用意された概念の各々から、王侯を思わせる落ちついた仕種で、そのもっとも美しい相貌、もっとも見事な意匠を選び出し、それを無垢の布面(クロス)のうえに配置していく。視界のかなたにまで広がる、このまばゆい布面(クロス)は、概念そのものの展開にほかならない。わたしはまた二人のこのうえない慇懃さについて話した。いささかのアイロニーというか、人目を避ける野性が一瞬顔を見せることもあるあの慇懃さ。そして、底知れぬ忍耐力、法外なまでの寛容さ。ベケットは深く満足した様子で大きく頷きながら、注意深く耳を傾けてくれた。あのときわたしは、文字通りこうした言葉で説明したわけではなかっただろう。はっきり覚えているのは、つまるところ二人の哲学者はどんな人物なのか、とベケットがわたしに尋ねたことだ。わたしの考えを要約する真実をここに繰り返しておこう。つまるところ、二人は気高い人物(edle Menschen)である。ベケットはこの答えに満足した。眩いばかりの才能、あるいは音楽的ともいうべき厳密な精神のさらに奥底に、人間の善良さを探り当てること。これはベケットがわたしに教えてくれたことだ。

 蛇足ながら、ベルノルドのこれらの言葉は、現代の哲学者について書かれた最も美しい言葉のひとつであると思う。

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