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お知らせ(第28回 六月のメモランダム)

                                                        第28回 2012年7月


六月のメモランダム


                                                                        鈴木創士

 

                                                                            

 

ジャ・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ
鈴木創士『魔法使いの弟子
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
ロートレアモン『マルドロールの歌

 


 絵画
 私の好きなバロウズのある短篇の一節。
 「美術館。おれは展示室の中にいる。出口はない。右側に、開けた空間が見える。数メートル向こうに壁があり、陽ざしがあたっている。奇妙な壁だ。いや、それは壁ではない。絵画だ。描かれた壁だったのだ。そこは、本当の外側ではない」(ウィリアム・バロウズ『トルネイド・アレイ』、清水アリカ訳)。

 壁のように絵がわれわれを見つめていることがある。われわれははっとする。絵の中の目を見つめ返したりはしない。そいつを探したりはしない。この目を見つけるのは一苦労だ。壁なのだから、目なんかない。のぞき穴? ご冗談を。私は目をそらし、絵の中にただ入る術(すべ)を知ろうとする。絵の中に入る術だって? そんなものはかつて存在したことはなかった。イマージュの本質はこのことと無関係ではない。

 だけど私は、絵の中に入ろうとして、自分の中に空隙を穿ったりはしない。そこは、――よくよく思い返してみるなら――私のからだは、最初から底抜けの空洞であり、内側に穿たれた目はいつも台風の目の中にいるように異様な静けさに包まれたままだった。眼差は調教されることを拒みはしないけれど、たしかにそれが画家の側からなされた何らかの「絵画的戦略」ならば、それは古典的表象がただ単にそこで混乱をきわめているということにすぎないのではないのか。そんなことなら絵を見ないで、本でも読んでいればすむことだ。というか、もうお勉強には飽き飽きだ。最初から! 地球が存在してこの方! とっくの昔から! 同じことばかり読まされるのはほんとうにうんざりする。もっと別の感覚的論理らしきものがあるはずだろう。
 眼差はほんとうに絵画空間の中で解除されるのか? いや、私は口を酸っぱくして繰り返すが、われわれは、たいていの場合、実際、何も見てはいないのである。
 
 「もしかすると、絵画というものは、諸々の形態、色彩、形姿=図形の配置によって呼び覚まされた感情群に結びついた一つの原点ないし一つの原因を、個人的に探索するために嗜まれるのかもしれない。そうした形態、色彩、形姿=図形を、記憶は、出来事と切り離して保存していて、そのなごりとして残っているのは漠然とした一種のタブローだけで、それは形姿=図形そのものを活かさずに、色の圧力のようなものをずっと維持してきた体液=気分的な調子に支配されたぼやけたものなのだ。すなわちこうした気分の調子によって、こうした色の謎めいた圧力によって、昔のものに似ている何かが立ち現れてくる」(ジャン・ルイ・シェフェール)。

 色彩があるところには、空間があった。それが閉ざされた空間であったかどうかは今となってはわからない。沈黙がすでに破られてしまったように、われわれはすでに色彩の中にいるのだから。
 そして描かれた壁は外に向かって崩れ落ちたようにフェイドアウトしていくか、突然、何事もなかったかのように消滅するだろう。背景輻射だけがそこに降りそそいでいる。だったら、そこは、バロウズの言葉に反して、もしかしたらほんとうの外側だったかもしれない。ほんとうの外側……


 カオス
 外では小糠雨が降っている。音も立てずに。梅雨空の下で。ルクレチウスの世界が、われわれの知らないところで、だが、まさにわれわれの「誕生」の劇場で、あの現場、あの「ドラマの現場」で、野外で、あまりにも幸福としか言いようのない激突を演じている。二つの原子はぶつかり合い、――私にはそれが砕け散るのが見える――、めちゃくちゃに、自分ではないものの方へ、四方へ、飛び散り、それからしばらくしてカオスに光があたると、巨大な虹がわれわれを包みはじめるのを感じることができる。ガスケがセザンヌについて言ったように、われわれもまたそこで「世界の処女性」を呼吸しているのだろうか。

 選択的親和性。選択親和力と言い直してもいい。明らかにそれはある種の「力」だった。中世のアルベルト・マグヌスと20世紀のイリア・プリゴジンは、ルクレチウスの世界にあっては、それほどかけ離れたことを言っているとは思えない。すべての系は消滅に向かってはいるが、原子は斜行運動を繰り返すのだから、魔術的な力学が、あまりにも不可思議な類似と凝集の力学がどこかに書き込まれていることはわかっている。わかっている?ああ、そうなんだ、わかっているのさ。どうしようもない。

          

 ヴァン・ゴッホ/アルトー        

 

  アルトーのゴッホ論(『神の裁きと訣別するため』、河出文庫、所収)は、私がいままで知る限り、掛け値なしに、ゴッホをめぐる最もすぐれた、最も美しい絵画論だと断言しても構わないだろう。どうしてこれ以上繊細に、確信を持って語ることができるだろう。
 麦畑の中にいるアントナン・アルトー! どうしてまた、アルトーはまるで麦畑の中にいるようにしてゴッホの描く最後の鴉たちを見ることができたのだろう。鴉たちの翼がシンバルを打ち鳴らしていた。後には、――ゴッホにとってもアルトーにとっても――ただ死がやってくるだけであったのに…。アルトーは明らかにヴァン・ゴッホと自分を同一視しているが、この同一化は並大抵のことでなされたのではなかった。精神医学も精神科医も、ゴッホとアルトーにとって、ずっと真の敵の一角をなしていたのだった。アルトーは、ゴッホの大回顧展がパリで催された際に、はじめてゴッホを精神医学の観点から論ずる知ったかぶりの学者の駄文を読んで激怒し、一気にそのゴッホ論を書き上げたのだった。それは少なくとも絵画と文学の歴史の中にすでに書き込まれたことだと人は言うかもしれないが、けっしてその程度の話ではなかった。

 どこでもいい、行き当たりばったりに引用してみよう。
 「ヴァン・ゴッホは絵を描きながら数々の物語を語ることを断念したのだが、しかし驚異的であるのは、画家でしかないこの画家が、
 そして他の画家たち以上に、
 例えばチューブの外に絞り出されたようなものとして理解された色彩とともに、
 色彩のなかでいわば次々になされた絵筆の毛の痕跡とともに、
 それ自身の太陽においてはっきりと区別されたような、彩色された絵画のタッチとともに、
 色彩にじかに突き刺され、手荒にひっくりかえされ、そして火の粉となって迸り、画家がそのつやを消してはあらゆるところから攪拌するまさにその絵筆の先端のi、コンマ、点とともに、
 彼にあっては絵画という素材が最も重要なひとつの場所をもつ画家であるような画家であり、
 つまり驚異的であるのは、画家以外の何ものでもないこの画家が、われわれがいま絵画を相手にしていることを、
 彼が弁別し、
 そしてわれわれの前に、固定したカンヴァスの前に、純粋な謎を、ねじ曲げられた花の謎、酩酊した彼の絵筆によってあらゆるところから筋を刻まれ、耕され、圧搾された風景の純然たる謎を生じさせたところの、
 モチーフを表現するための絵画を相手にしていることを、すべての生まれついての画家たちのなかで最も忘れさせてくれる画家でもある、ということなのだ。
 彼の風景とは、己れの原初の黙示をまだ見出してはいなかったが、しかしいずれ必ずやそれを見つけ出す古くからの罪なのだ。
 どうしてヴァン・ゴッホの絵画は、こんな風に、まるで結局その幾つかの太陽だけが、そこでは楽しげに回転し照らし出すことになる、ひとつの世界の墓の反対側から見られたような印象を私に与えるのか?
 というのも、彼の痙攣する風景のなかで、そして彼の花々のなかで生きて死ぬのは、人がある日魂と呼んだものの物語全体であるからではないのか?
 身体にその耳を与えた魂、そしてヴァン・ゴッホはそれを自分の魂から魂へと返したのである、
 不吉な幻影を膨らませるために、ひとりの女を」(「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」)。

 この文章にはいかなる錯乱も入り込む余地はない。
 そして、そう、それは墓の反対側から見られた風景だったが、われわれはそれを風景としか呼ぶしかなく、それ以外の言葉をもってはいないかのようなのだ。だからこそヴァン・ゴッホの絵画の到達点は、何の幻想も幻覚もヴィジョンもなしに、午後二時の太陽そのものを、糸杉そのものを、アルルの並木道を、燭台の置かれた椅子、向日葵、アルルの夜のカフェを、嵐の前触れを、麦畑の上を群をなして飛ぶ最後の鴉たちそのもを描き切ることだった。  

                                                                    

バロウズの今日の言葉
 「いつも死と向き合っている人間は、死に直面している限り、不死身でいられる」。
 このように語るとき、バロウズは若干弱っている。なぜ彼は「不死身である」と書かなかったのか。死に直面している限り……。われわれはつねに不死身なのだ。どうやって死に直面するのか。はい、はい、わかっているとも。何度もわれわれは同じことを繰り返してきた。死はいつもそこにあるのだろ? つねに死に直面していること。つまり肉体と魂は完全に分離したものであるし、そうなるということ。それは前世紀のチベット人であり続けるということなのか。チベット人になること。チベット人であること。……
 風にたなびくルンタ(チベットの小旗)ほど美しいものはない。「俺はチベットへ行くだろう」、とアルトーは言っていた。アルトーはチベットに行くことはできなかった。それにしても、あれらのラマ僧たちとナチスの秘密の関係は……

 シェイクスピア/劇団・地点
 いつだったか最近のことだが、日曜日に、糺(ただす)の森で青空市があった。沢山の出店。昼間に現われ出た、まったく場違いな幽霊が、まるで隠れるように(まる見えだよ!)樹の幹にもたれて、いかにも所在なげだったのがいまも目に浮かぶ。
 三浦基が主宰する京都の劇団・地点が下鴨神社の糺の森を闊歩していた。奇声を発しながら。やあ! 久しぶり! 祭祀を司るレビ族みたいな幽霊じみたいにしえの人々は、昼間なのだから、ここには勿論跡形もなかった。お洒落な脚絆というか、地下足袋に、和服の戦闘服のような役者たち。虚無僧の恰好をした役者もいる。尺八のかわりにフランスパン! 彼は虚無僧のコリオレイナスなのだ。よくやるぜ。
 彼らはおもむろにやり始めた。シェイクスピアの「コリオレイナス」を! 先日、イギリスのシェイクスピア演劇祭でやってきたばかりなのだから、科白回しはなめらかだった。役者たちの恰好は「括弧」にいれられたまま、私の前で科白を喚いていた。とてもいい舞台だった。舞台はなかったけれど! ただの埃っぽい土の道の上だ。役者はつねに同じ平面にいる。囲碁のように、一見、白黒しかつけることができないように見えるにしても、戦闘態勢にあるあらゆる自由の駒(石)は、それ自体としては無意味な動きによってすべての場所を占めなければならないのだ。
 いつもながら女優の安部聡子さんの動きが素晴らしい。彼女の手。足。目。口元。動きというよりは静止画像。観客は通りすがりの通行人。それから電話中の私。子供たち。やたらうるさい、目障りな母親たち。父親たちはまったく目に入らない。問題外だ。真昼間の幽霊のように。
 私は子供たちを見る。糺の森はそぞろ歩きのひやかし客でごったがえしていたのに、あちらの方で、あるいはこちらの方でしんと静まり返っていた。この騒音は、役者たちの科白回しにとって心地よいものだったに違いない。

 ところで、いまや、どうしたことか、私はシェイクスピアをロートレアモンと同じようにしか読めなくなってしまった。つまりこれらの「古典作家たち」はつねに同じ水準にしかいることはできないという意味だ。どうでもいいことではけっしてないのだが、これについてはほとんど信仰告白のようになってしまいそうだから、これ以上ここでは何も言うまい。
 『嵐』の最後のほうの科白が、柄にもなく、空でいつも頭の中を旋回している。『嵐』の舞台は一度も見たことがない。見たくないのだ。だからあれらの役者たちは、みんな亡霊だった…雲を頂いたあの塔も、あの壮麗な宮殿も、あのきらびやかな行列も、地球、つまりグローブ座も…すべては消え失せる、後には何も、千切れ雲ひとつ残らない…。

 
 原発
 先日、首相官邸前で、大飯原発再稼動に反対する45000人(昔から警察発表によるデモの人数はまったく信用できない出鱈目だ)のデモがあった。それにしてもNHKを筆頭に大新聞とテレビを含めた報道機関は(一部を除いて)どうしてデモのニュースを報じないのか。じつに情けないことに、日本のマスコミの主幹たちはもうだいぶ前からまともな文章、普通に端正な文章の記事すら書けなくなっていたが、それにしてもこんなことはかつてなかったことである。いったい日本はどうなっているのか。かてて加えて、大新聞は戦時中の自分たちの振る舞いについていままで何度も反省し、それをこれ見よがしに公表し、総括を行ってきたはずだった。何度反省しても同じことだ。たしかにあらゆる言葉はそれ固有の意味をどんどん蒸発させている。意味は勝手に蒸発したりはしない。そうさせている書き手があちこちに存在するのだ。つまり全部が嘘っぱちだったということなのか。以上。

 東電の株主総会や事故調査委員会の報告のニュースがすでに公に流れてしまったのだから、彼らが何を言っても、そんなものは全部たわごとにすぎないのだということは誰もが周知していることだろう。福島に関しては、ツイッターで何度か言ったことだが、もう一度ここで繰り返しておきたい。

 福島の原発にかかわった政府・官僚の責任者、学者、科学者、そして言うまでもなく東電の幹部たちを、まずは、即刻、未必の故意の殺人罪、あくまでも「殺人罪」で告発すべきである。話はそれからだ。

 想定外? 想定し得ること以外の事柄があったことは、想定外だとわざわざ言っているのだから、つまりそれは簡単にすでに想定できていたということを自分から認めているのも同然である。つまり想定外と言った途端に、想定できない事柄など、彼らにとってすら何もなかったということである。こんなことは児戯に等しい。始めからすべては想定の範疇にあった。想定内と想定外をちゃんと分けられるのだから、言わずもがなである。論理学をもちださなくても、子供にもわかる理屈である。だからあちこちで軽率なお調子者がそうしているように、「想定外」などという言葉を金輪際使うべきではない。われわれもまた少しは恥を知るべきではないか。
 そうだろ? 金がかかるからやらなかっただけのこと。いつも金! 金! 金! 下品なことこの上ない。すべての貧乏人はこれについては頷いていただけるものだと私は思っている。再稼動も、何も、全部、目先の金のためだ。おまけに経団連を含めたあれらの馬鹿どもは単純な収支決算の計算もできないらしい。第一、永久に完成しない使用済核燃料再処理場は言うに及ばず、今度の福島のことでどれだけの経済的損失があったと思っているのか。金の計算ばかりしているつもりのあれらの連中は、正真正銘の白痴なのである。

 もう一度言う。
 福島の原発にかかわった政府・官僚の責任者、学者、科学者、そして言うまでもなく東電の幹部たちを、即刻、まずは未必の故意の殺人罪で告発すべきである。

 検察の特捜部がそれをやらなければ、そして裁判所がそれに対して有罪を宣告しなければ、そのくらいのことをやらなければ、日本の司法もまた、原発に関して、政府、経団連その他大勢の有象無象(うぞうむぞう)と完全にグルだということはわざわざここで断るまでもあるまい。検察の醜態と醜聞は今に始まったことではないが、こういった問題は法そのものの成立に関わる本質的問題を孕んでいるのだということだけはここで言っておかなければならない。四の五の言う必要はない。やれよ、検察! 法の番人ども!

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