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お知らせ(第29回 映画を見に…?)

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第29回 2012年8月

映画を見に…?
                                      

鈴木創士

アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『アトラス
ジャン・ルイ・シェフェール『映画見に行く普通の男
ジャン・ルイ・シェフェールエル・グレコのまどろみ

 

                               
 映画館から出るといつも雨が降っていた。そんなことを誰かが書いていたような気がする。誰が書いたにしろどうだっていい、誰が映画館の中で息を殺していたにせよ、映画館の中で実際の殺人が起きていたにせよ、いつだって雨が降っている。外には、それとも誰かの記憶の中、(ボルヘス風に言えば)過去の中にはいつも雨が降っているのだから。だが過去などそこにはありはしない。それに言葉はいらないなどと誰が言ったのか。私はほとんど生死の境で言葉を必要としていた。月はまだ出てはいなかった。私は言葉をほぼ何ひとつ理解できなかったし、理解してはいなかった。私は森の中にいた。映画館は森だとブルトンがどこかに書いていたが、映画館の外は、なるほど森の外に違いなかった。映画が終ると、みんな映画館から出てくる。一人、二人、三人、それからぞろぞろと…。森の中にいると、目を凝らせば凝らすほど、生半可な遠近法ではなんの役にも立たないことはわかり切ったことだ。ジャコメッティが言っていたように、映画館から出ると、そこは「千夜一夜の美」、はじめて見る世界の光景が広がっていたはずなのだ。はじめから記号を解読する必要などなかった。自分自身が、ひとりひとりが、意味をなさないAZERTなのだから、言葉の中に生きていて、つまり方言でしかない日本語の中に、いや、私の中に黒いメールシュトロームのように、あるいは襞の中にこびりついた「外」みたいに、日本語の繊細さを失語症もろとも引きずり込んだ状態の中で、異邦の空の下にいて、やるべきこともなく、からだの芯を、ただ肉体の現存の輪郭を、何が何でも溶かしてしまうことを実験しているだけで(自らに実験を課す者は実験中にそれが実験だとはわからないものである)、当分、誰とも口を利かず、会話を拒絶し、拒絶され、自分以外のすべてに目を凝らし、見ていることだけに怒り狂い、それを、まさに見いてた当のものだけを、何と言えばいいのか、そう、慈しみ、愛撫し……。その瞬間、あの瞬間、いまから、そうだ、いまこのときから、発狂することはないにしても、そこには、夜のはざまの、そうとは知れない、秘密の、穏やかな、急激で、あるいは緩やかな、あとくされのない、あまりにもすがすがしく、投げやりな、発狂状態に似たものがあった。
 私は発狂していた。

 映画館から出るといつも雨が降っていた。それとも雨はすでにやんでいたのだろうか。夜の帳がすでに降りていた。夜は皮膚の上まで落ちかかり、スクリーンの雨は、そのまま横殴りの、あるいはしとしとと、ただ上から下へと繰り返しはねを上げていた。夜が落ちてくる、そこここに。雨にもけっして濡れることなく。雨の糸をかいくぐるようにして。

            

バスター・キートンの白目の血管が破裂しかかっていた。キートンはもちろん一言も喋らない。サイレント映画なのだから。喋ってはならないし、音声は、あそこやここで、すでにいたるところに満ちていて、あらゆる周波帯を通して充満している。言葉は沈黙に憧れ、沈黙は言葉を穴の中に増殖させる。建物に立てかけられた大きな梯子が倒れる。キートンは落ちてしまう前に、落ちる動作を終えてしまう前に、壁にぶら下がっていた。どこかで、どこかの、何かの神が、じっと息を殺して見つめているようだった。ほんとうに神が見ていたのだろうか。私も見ていた。失敗は絶対に許されない。絶対に。同じ動作を繰り返さねばならないのだ。無意味な動作。ほとんど感じ取られることのない、だが大いなる役者たちの仕種。役者だって? 誰でもない人はいたるところにいて、つまりどこにも役者などいないのではないか。映画は何度も上映され、彼らは同じ動作を永遠に繰り返すことだろう。この動作によって、それを見ているわれわれは増幅し、風景の中に磔(はりつけ)になり、風船のように膨張してしまうか、あるいはたまねぎのように一皮一皮剥かれて何もなくなってしまう。同じ動作、分身の動作が繰り返される。一瞬前の身振りはいま繰り返され、一瞬先の動作はここから先の「死」の彷徨をほとんど無意味なたわごとに変えてしまうだろう。イマージュは死だ。少なくともそれはいまこのときに死んでいる。いましがた死んだもの。生きていて、死んだもの。けっしてはためくことのない洗濯物、崇高な屍衣のように何かの煌めく痕跡のようなものが映像の中に垣間見える。スクリーンの中には誰もおらず、誰か、誰でもない誰か、人ではあるが、怪物かもしれない、ここで人格を剥奪され、悪意に満ちて、天使のようにそこをただ無言で通り過ぎるだけの、つまり分身としか言いようのない何ものかが、それ自体何の意味もない、解読をそのつど無駄骨にしてしまう仕種を延々と繰り返している。フィルムが擦り切れて、もう名前も、あらゆる名前の記憶も、人の痕跡も、恋の囁きも、痴話喧嘩も、殺人も、暴力沙汰も、平和な会話も、無意味な雑音、ただそこで聞こえていただけのあらゆる音もろとも、何もかも、匂いは? もちろん匂いも、ぼろ家も、趣味の悪い豪邸も、街路のしなびた木も、爆破された車も飛行機も、動物たちも、女たちも、ただの染みのようにぼやけてしまうまでは。正面を向いたままで。やがてフィルムは炎上するだろう。古代のアレクサンドリアにまで出かけていくには及ばない。図書館のあらゆる蔵書が灰となって燃え尽きてしまう前に、すべては消え失せるだろう。FINというぶしつけな文字とともに。

 まあ、いいか、長いがシェフェールの「屍衣‐聖骸布」という文章を引用する。

 しかし、何かがこの画面には、待たれたまま欠けている。布があり、光があり、暗闇がある。そして土間、その年古りた汚れ(しかし、それは貧しさのしるしであるか、或いはむしろ敬虔な慎ましさのしるしであるか)、その土間を通って僕は、抑え難い運命に押されてでもあるかのように、ちょうど僕の視線の高さに彼女が捧げ持つように持つ、洗い清められた白い煌めきの方へ向かって行く。そこに辿り着くずっと前から、僕はその白く煌めく布が、屍衣のように僕のからだを包むために広げられているかのように、感じる。むろん、彼女が広げ持っているのは何かが映し出されるのを待つスクリーンでは有り得ず、動きをとめた女性のしぐさは、何か知れない野生の獣を押し留めようとしているかのようにも、或いは何かしら無垢なもの、イマージュの陰りもない光を押し留めようとしているかのようにも見える。その布に煌めく光には陰りがない、陰影を刻むような光源が感じられないからか、或いはそれを捧げ持つ動作によって光が、その布に沁みつき煌めいているのだろうか。一点の汚れもない煌めき、どこまでも広がり出すかのような白の煌めき、あたかも、地平線まで雪に覆われ尽くした世界が僕らの中にせり上がって来たかのように、それ故に煌めいて。そしてこうしたことから僕らを包み込む崇高さが広がる。と言うのも、その布は、僕らの洗濯籠から引き出された油汚れの布と同じものに他ならず、だからこそ僕らは、何か知れない懊悩の予感に、彼女と同じ身振りで動きをとめる。僕らの中で、そこからの出口を求めて、幾たびも、しかし決して飛び越えることの出来ない出口を求めて。その布故に、僕らはその夜の中に身動き出来ぬまま、座り続ける、広げ捧げ持たれた布、如何なる思い出も、イマージュも影もない布、それが僕の瞼の裏にぴったりと、掲げられた微風に乾いた音をたて、――そこには何ものの姿も動かず、蠅一匹の滲みもないままに――それだけが僕を満たし、しかしその白さは何もないのではなくて、どことも知れぬところからそこに到来した白い影となって僕を満たすのであり、その白い影はこの画面には欠けた外、この世界の彼方から到来した白い影なのだ。
 他のシナリオを想像してみよう。この画面を含んだ同じシーンのフィルムをリールに巻いて、その永遠に続くかのような反復を、生涯続ける。その女は屈みこみ、その布を選び広げる。僕らはと言えば、ついには、その善良で敬虔な手で選ばれ広げられ掲げられるその白、その布或いはそれを乾かして行く風になる以外にはなくて、そしてまた、ついには何か知れない光の出口と化し、こことはまったく別の夜を広げ持続させる。
 しかし、そんな具合に生涯、自分の影をこの奇蹟的な白の煌めきの表層に投射してみても、君は決してその上で、自分の思い出やどんな過去とも、動き踊ることはできないだろう。やがて僕らは気づくことになる。この画面を満たす影の塊が、光の幾本もの筋で切り裂かれ、点描のような光の粒の上を滑り回りながら、しかし決してその白い布の煌めきに辿り着けぬままに留まっていることに。そしてまた、気づくのだ。その、光に回帰しようとしながら果たせぬ影たちの中にのみ、世界の物語が、冒険が、叫びが通り過ぎて行くことを、そしてその影の底にこそ、言葉が、僕らの中で反復され続けることに、そして、その影のいたるところその隅で、その影は思い出を呟き続ける。そう、影の記憶を語り続けるのはその影だけなのだ……そのことに、僕らは、遅れて、気づくことになるのだ。

 それに気づくや、新たな人間が僕の中に呼吸を始める? その布、如何なる染みもない屍衣、それに敢えて触れるべきではないことに気づいて。
    (ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』、丹生谷貴志訳)

 白い影は光の出口である。そのことはよくわかっている。映像は解剖などできないことをよく覚えておかなくちゃならない。
 私は、通りすがりに、ハンス・ベルメールの『イマージュの解剖学』をぱらぱらとめくってみる。ベルメールにとって、(絵画的あるいは造形的)イマージュは、明らかに可逆的なものであって、だからこそそこには「呪われた」臭いが漂っているらしい。可逆的だということは、ベルメールにとって、人形の関節がそう示唆しているとおり、それが取り替え可能なものであり、身体的表象は結局ひとつのパーツを構成するものにすぎないということである。パーツはそのようなものとしては奇妙なものではあるが、それ自体「完全」なものであり、したがってそれは両性具有的である。フェティッシュであることの不完全さは、完全さを性的に補うものとしてある。秩序から逸脱した「部分」は、どんな扱いをされようとも、その「意味」は変更をこうむることなく保持され、だからこそまさにそこに「倒錯」が始まるのだが、シュルレアリスムの造形的イマージュが一種の紋切型となるのは同じ理由によるのかもしれない。

 映画においては、事情がまったく異なるように思われる。光は事物を反射することによって、「布」の上を滑り、現実の布は布の分身でしかないことを映し出す。映画的イマージュは交換可能ではない。分身は原理的にはそもそも交換し難いものである。イマージュは、光の粒でできた一個の穴のように、それがそれ自体の影の底をなしていたことを私に告げている。私に? いや、そうじゃない。スクリーンの上で、あるいはスクリーンの中で、ハレーションを起こしたような白い煌めきは、まるで世界の果てからやって来たように見えるではないか。何かを語っているのか、そいつは、あのガラクタのように、あるいはもともと無一物の人物と事物、つまりそもそもまったく意味を欠いたあれやこれは?!たぶん、何も。ただし恐れが完全に払拭された場合にだけ、それは何も語らないでいることができる。その恐れとは何なのか。聖なるものにしろ、そうでないにしろ、それは「畏怖」なのか。何に対する畏怖だというのか? 光に回帰できないあの影に対する? 残念ながら私はフロイト主義者ではない。とはいえ、そうでなくても、無意識のなかで蠢く時間の経過はつねに犯罪に似ているし、われわれは、つまりわれわれのイマージュは、絶えず犯罪的な生の中にいて、少なくとも映画館の中では、肉が肉であるぶん余計に官能的で腐った生を受けたあの「男」に似てしまうのだ。あの男とは、顕現として、文字通り栄光の身体を約束された男、死せる肉体、時間の中で腐敗するしかない身体を纏ったキリストである。君はメシアか預言者だったのか。えっ、違うって?

 だが、はたして絵画的イマージュ、映画的イマージュなどと、利いた風に、截然と区別できるものなのだろうか。そもそも「イマージュ」が、ベルクソンが言うように、物質と観念の中間に位置するものであるとすれば――それは言ってみれば、常識的な観点を促すものだといっていいだろうが――、まさに記憶がそうであるように、その一貫性と存立性は結局それ自体のうちにしか存しておらず、そうだとすれば、われわれがいつも見ているのは、イマージュにまつわる、というかイマージュに押し寄せ、イマージュを取り巻き、イマージュをほとんどそれと同化させてしまうかのような、この観念と物質の中間地帯に広がる「空白」、光源もないままに光の粒子をはじき返しているあの布の「白」だということになりはしまいか。私は空の雲を飽きずに眺めるのが好きだ。そして雲を眺めるように、映画を観る。雲ほど非現実的なイマージュはないからである。
 
 そしてこの非現実性の先端には身体のあらゆる無能力がある。それを苦々しく思い出すのか、それとも、この苦々しさと太古から続く倦怠の中にこそ別の道があるのかもしれない…。
 松本潤一郎は、シェフェールの本の書評の中でこう述べている、「かくして映画は無能力の先端で、身体を(不)可視化させます。映画的知覚において私の身体は確かに現前しているにもかかわらず精神から実在的に区別されるため、従来の再認の体制においては知覚されえず、それゆえ私の身体は世界の中で生きる身体であることをやめて別の秩序-領界に移行するからです。シェフェールはカフカの日記に現れる後頭部の頭蓋を切りとられ内部を人びとに覗き込まれて歯噛みする奇妙な人物に触れています。これは自己を除いた自己の身体を映像上の身体を通して〈見る〉(従来とは全く異なる仕方での)という脱属性化の実験室に映画館がなりうるということであって、そこに思考から切り離された、既存の再認の体制からは無能力と見なされる身体、逆に言えば身体そのものにおいて実在的に思考される身体が産出されうるのです。(…)本書は映画を観るという経験を、私にとっての意味を探しだす行為ではなく、逆に己の身体を映画へと差しだすことで映画の意味作用を完成させる行為と捉えました。磔刑または供儀のようですが、しかし本書で〈罪〉は「この世界のなかに人間があたかもその主体であるかのように自らを開示しようとすること」と規定される以上、〈贖罪〉は別の思考と身体の産出を示しています(すでにパウロはこれを愛という法の完成として考えていた)。」(『映画芸術』440)
 私は映画館に坐っている。私は私自身の無能力の先端で映画の意味作用を完成させることになる…。だが、映像上の身体が、シェフェールの言う「煌めく布」のように、ただの「穴」、光の穴のようにしか機能していないとすれば、私の身体の無能力は身体の能力的限界の先にあって、むしろ同時に思考の無能力を確認するものであり、つまり思考の間隙、亀裂、穴、断層の中でしか、それでも身体の能力と不能の境界のぎりぎりの可視化を主張し得ないことになる。あるいはそれは、足を失った詩人ジョー・ブスケのように、傷は存在に先行するものだったからなのか。……

 蛇足ながら、音にもイマージュがある。われわれはそれを音響イマージュと呼ぶことにする。6月30日、大阪、EP-4 Unit-3のライブで三曲キーボードを弾く。さまざまな周波数の音、ほぼあらゆる帯域に広がる周波数を含むノイズ、生活のノイズ、アルトーのラジオ・ドラマの断片、シンバル、笛、その他のチベット密教のノイズ、等々のサンプリング。もはやルネッサンス芸術家と言ってもかまわない綜合芸術家である(おや、おや)アントナン・アルトーへのオマージュ! それ自体が普通に空間的である他はないProphet-5のシンセサイザー音。それに反して、エレピの鈍重な旋律。高音ですら、重々しさを免れることはできない。音を増やせば増やすほど、音域は減少していく。全体として、あらゆるノイズ、厳選されたノイズのポリフォニーだということははじめから承知の上だった。爆音。音圧は髪の毛が揺れるほどだった。ここでは音響は、マッス、魂として機能しなければならない。もっと音を! われわれは音響の内部にいる。途方もない音圧には、内側に向かい、そこに滞り、内側へ内側へとこもる性質がある。われわれは音を内側から彫刻していた。一見というか、一聴すれば、音響彫刻は外部建築のようなものとしてしかありえないのだが、われわれのいる場所はつねにその内部である。だが、ほとんどそれが内部からの音響建築になりかけようとすると、「音楽」がそれを破壊してしまう。破壊を夢見る私にしてからが、この事態にはほぼ困惑気味だった。この建築の内部で、キーボード、ピアノそれ自体の音を自ら壊してしまうのは至難の業である。音そのものをいじることはできても、轟音の中で、無調の旋律自体が陥没してしまうような、絶妙に壊れたノイズのポリフォニーが必要なのだ。例えば、ベルニーニの彫刻は、外側の、外部建築物であり、それそのものが空間である。ローマにある大理石による彫刻作品「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」はそれ自体における脱自的空間の創造である。あの上昇する螺旋のような偉大なバロック的法悦と恍惚は、そのことを示して余りあるだけでなく、空間が宗教的意図を含んでいようがいまいが、何よりもまずこの外側に向かう創造が脱自的になされることの最初の論証なのである。それに反して、音響建築は内側からしか建築をつくることができない。音響空間はあまりにもデリケートで、若干の反‐ノイズによってもすぐに引き裂かれ、壊れてしまう。音を果てしなく分裂させ、音波の分類を混ぜ合わせることによって……、それでも空間を内側から守護しなければならないのだ。……

 音と映画の関係は? それにはまずはゴダールについて何かを言わなければならないだろうが、これはまたの機会に…。

 こんな夜更けだというのに、いま家の前に救急車がランプを点滅させて停まっている。救急車を呼んだ覚えなどないのに。
 映画?……

 

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