ホーム > お知らせ(第32回 ブルトンとアルトー)

お知らせ(第32回 ブルトンとアルトー)

1~1件 (全1件) | 1 |

第32回 2012年11月

ブルトンとアルトー

 鈴木創士

 アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言集
 アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
 鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還

 

 「書かれたものはどれも豚のように不潔だ。曖昧なものから抜け出して、自分の思考のなかに生起するものについてなら何であれ明確にしようと試みる連中は、豚である」(アントナン・アルトー「神経の秤」)

 

 

 
アンドレ・ブルトン

 

ブルトンとアルトー
 ブルトンが「シュルレアリスム第二宣言」でアルトーやバタイユ、その他のかつてのシュルレアリストを批判し、除名したことはよく知られている。そのためにブルトンは一生嫌な野郎だと思われ続け、除名された連中がその後も相変わらずあまりにも過激な人たちだったことも手伝って、むしろブルトンのほうこそが独裁者の仮面をかぶった一種の日和見主義者だと悪口を叩かれ続けることになる。言うに事欠いて、ブルトンが日和見主義者だって? 私は十代の頃、アルトーやバタイユほどの人物を除名することのできるグループなんてなかなかイケてるじゃないかと思っていたが、この話はほかのところでもしたので一応置いておくが、ともあれ後世の研究者たちや誰それが、やたら心理主義的に、勿論恥ずかしいことだからご自分の立場とやらを柄にもなく気にしすぎていることをできる限り隠しつつ、とやかく宣(のたま)うような次元の話ではないことだけは最初に言っておこう。

 


アントナン・アルトー

 

 若かりし頃のアルトーは『シュルレアリスム革命』誌の中心人物だった時期もあり、彼らの関係はピンと張られた糸の上でそれでもとても密接だったはずなのだが、ブルトンはアルトーの「演劇」というやつがまずは気に食わなかったようである。アルトーは詩人であると同時に骨の髄から役者だった。とにかく役者であろうとなかろうと若きアルトーは男前だった。ブルトンは客観的偶然、つまり「出会い」の人であり、外で、あるいは革命のなかで起きることと比べれば、劇場で起こっていることなどたかが知れているじゃないかと考えていた。実際、何度かブルトンとシュルレアリストたちはアルトーの芝居に乱入し、警察沙汰を引き起こし、その後すぐに和解したり、またすぐ乱闘騒ぎを起こしたりしていた。たしかに当時ブルトンは革命と芸術、政治と文学の間で板挟みになっていて、アルトーに関しても、一方にはフランスのトロツキスト・グループの創始者のひとりとなるピエール・ナヴィルなどもいたのだし、アルトーはアルトーで、シュルレアリスム精神を含めてそれが何であれ、「精神」は君たちよりも遥かに爬虫類に近いなどと言い出すし、擁護すべき文明などないと言ってファシズムに反対する国際作家会議への参加を拒否したりしていた。ブルトンであれ誰であれこのようなとんでもない連中をひとまとめにすることが至難の業だったことは想像に難くない。ブルトンはあくまで頑固一徹だったが、別段、忍耐を美徳としていたわけではないのだから、ついに「第二宣言」でキレてしまったのである。

 

 
アントナン・アルトー

 

 だが歳月は過ぎ去る! 光陰折れた矢の如し。ここではシュルレアリスムの歴史ははしょらせてもらうが、いろんなごたごたが、厄介な日々があった。世界情勢はますますきな臭いものとなり、一方、アルトーは精神病院に監禁され、アルトーをあまりにひどい状態の病院から別の病院に移すために奔走していたデスノスはナチの強制収容所で死去し、ブルトンはアメリカへと亡命する。そして第二次大戦が終結するとすぐにアルトーは友人たちの尽力によって精神病院から解放され、ブルトンはフランスへと戻り、二人は晴れて再会を果たすのである。
 アルトーが死んだ直後にブルトンは、アルトーを讃えるあるインタビューに感動的な調子で応えているが、私自身にはいささか異論があるとはいえ、アルトーが「向こう岸」に渡ってしまったことを認めざるを得なかった。ヘルダーリンやニーチェのように。彼は自分の経験とアルトーの経験の両方に思いを馳せ、それを比べて、様々な不可能な情景を思い浮かべたに違いない。世界は回転していた。その場にとどまりながら、ずっと、あるいは何ひとつ、ただひとつのイマージュすら固定できずに…。世界は老いたままだったし、新しいことといえば、原爆の世紀が始まろうとしていただけだった。サン・ジェルマン・デ・プレにたむろする当時のフランスのフーテン族の若者たちにとっても未来は薔薇色ではなかったのである。だがアルトーは最期まで一歩も引かなかった。
 ブルトンとアルトーというこの二人の巨匠がパリで再会を遂げた後、ブルトンじきじきによる、デュシャンとブルトンが企画した戦後初のシュルレアリスム国際展への参加の求めに対して、アルトーは有名な「アンドレ・ブルトンへの手紙」(『アルトー後期集成 Ⅲ』所収)を書くのだが、その手紙でアルトーはこの展覧会への参加を峻拒し、展覧会の中心思想をなすオカルティズムを激しく攻撃した。近い過去に占星術、カバラ、その他の秘教主義を総動員した魔術的な本をすら書いていたアルトーが、自分の病の原因はたぶんそこにあった、だからそれを認めるわけにはいかない、と言って! それにもかかわらずこの手紙を注意深く読むなら、ブルトンその人に対しては、アルトーの激しい口調にもかかわらず、なんと言えばいいのか、生涯の友人としての尊敬と思いやりのようなものを図らずも感じてしまうのは果たして私だけだろうか。ともかく、晩年のアルトーに対するかつての友人たちの振舞いを見るにつけ、シュルレアリスムの歴史は数々の喧嘩沙汰に満ち満ちてはいるが、同時に、きわめて困難な状況において、そして歴史の持続という琴線の外で、ある「友愛の共同体」の可能性を表出するものとして、絶対に沈没することのない幽霊船のように現に逆巻く歴史の荒波を乗り切ってきたのである。航海はいつも死と隣り合わせの曖昧さのなかにしかない。それがいつの日かどの港に辿り着けるのかは誰も知らないのだから。このことはいつも私にニーチェの「星の友情」を思い起こさせた。
 「かつてわれわれは友人同士であったが、いまや疎遠となってしまった。しかしそれは当然のことであり、われわれはそれを恥ずかしいことのように隠し立てしたり、誤魔化したりしようとは思わない。われわれは、それぞれが自らの目的と航路をもつ二艘の船なのだ。われわれはこれからもすれ違うことはあるだろうし、これまでもそうだったように、一緒に祝祭を祝うこともあるだろう。——そんなとき、この堂々たる二艘の船は、同じ港に、同じ陽光を浴びながら停泊し、まるですでに目的に達したかのように、同じ目的を目指していたかのように見えたかもしれない。(…)おそらくは、われわれのさまざまな道や目的が、ささやかな行程として含まれるような、目には見えない巨大な曲線と天体軌道が存在するのだ…」(『喜ばしき知恵』)

 

 アール・ブリュット?
 アール・ブリュットからアウトサイダー・アートへ。海を越えると、何かが変質してしまうのだろうか。場所と位置の移動はそれ自体「疲労」であり「疲弊」であり、別に驚くほどのことでもないのだが、しかし最近のアウトサイダー・アートについての言い分を耳にしていると、芸術の外部に、まるで「精神異常」あるいは「精神疾患」のカテゴリーがすでにそのようなものとして確立され、土足で踏み込むように、あるいは汚い手で撫で回すように、そのこと自体が社会的認知とやらを受けているかのような錯覚を覚えてしまうほどである。狂気と芸術。この複雑にからみ合った事象はなにもいまに始まったことではない。最近の批評家たちは、例えば、ルネッサンス芸術に「狂気」は存在しなかったとでも言うのだろうか。われわれはずっと中間層を漂っているのであって、狂気はなんら近代的現象ではなく、そんな歴史観を遥かに超出したところにあることは、そしてラスコーやアルタミラの洞窟画を思い起こすまでもなく、それがきわめて古い時代から続くものであるのは誰もが知っていることである。そもそも歴史的な観点からしても、私の知る限り、フーコーの『狂気の歴史』が指し示した地点より誰ひとり先に行けないまま知らんぷりを決め込んでいるではないか。率直に言って、最近の批評家は芸術と狂気というこの難しい問題の不確かさと曖昧さに全力で蓋をしようとしているみたいにすら見えるのである。
 どうやら批評家たちによれば、精神的問題をかかえ、社会的に疎外されている人がつくり出す絵画という、いわば一個のジャンルがあるらしいのだが、別の見方をすれば、ジャンルというくらいだから、これは結局のところある種の商品価値を不動のものにするということに他ならないのではないか、単にそれだけが言いたいのではないか、と下司の勘繰りをしたくもなるというものだ。不愉快なことに、それに呼応するかのようなある種の「社会現象」もいたるところで散見される。さる新聞にアウトサイダー・アートの画家と呼ばれる人の記事が出ていたが、この記事はなんと文化欄ではなく社会欄のなかで、つまり三面記事として扱われていた。あたかも彼の絵画がどのようなものであるかが問題ではなく、「精神病者」が絵を描き、芸術を創造しているという「事実」だけが重要らしいのだ。これが最近の新しい傾向である。
 (ところで、批評家たちといっても、それはいったい誰のことなのだろう? とりわけ美術評論家と言われるような連中がいまほんとうにどこかに存在しているのだろうか?)

 


フランソワ・ビュルラン

 

  断っておくが、言うまでもなく私は、アウトサイダー・アートにカテゴライズされているような人たちの味方であるし、アール・ブリュットの画家のなかには好きな画家も少なからずいる。だけど彼らの描いた絵はまず絵であって、精神疾患云々はそれ自体としては実はどうでもいい二次的なことだと思わずにはいられない。いろんなところで何度も言っているので恐縮だが、例えば、エル・グレコがロコ(気のふれた奴)と呼ばれていたように、かつてルネッサンスやバロックの大芸術家のなかに、そして知らないことなのではっきりとは言えないにしろ、ギリシアやそれ以前の、あるいは太古の無名の芸術家のなかに、「おかしくない」ような人がひとりでもいたとでもいうのだろうか。私にはとうていそうは思えないのである。問題は複雑でこんがらがっているとはいえ、勿論、かつてそうだったように、社会がいまだに彼らを狂人だと言って非難しているなら、私は喜んで反対の見解を述べるだろう。だが、彼らの描いたものが絵であれば、まず絵画としてそれを見ないなどということがどうしてできるだろうか。第一に、これは画家に対して失礼な振舞いではないのか。すでにブルトンはアール・ブリュット芸術が提唱された当初にこんな風に言っていた。「今日、精神病者というカテゴリーに分類されている人々の芸術が精神的健康の貯蔵庫を形づくるという考え、これは一見いかにも逆説的に思われるだろうが、私は恐れることなくこの考えを主張したいと思う」(「狂人の芸術、野を開く鍵」)。
 アール・ブリュット芸術の提唱者はアンフォルメルの画家として知られるジャン・デュビュッフェだったが、私の記憶違いでなければ、デュビュッフェは、精神病院から退院した後のアルトーの財産管理を担当していたはずだった。財産管理といっても、普通のニュアンスとは若干異なっている。アルトーはアイルランドを国外退去になった後、フランス政府によって九年間にわたる精神病院への強制的監禁を余儀なくされた。そのために友人たちがそこからアルトーを解放するには、退院後の彼の生活を金銭的にも保証する義務が行政的に課せられていた。そこでかつての友人たちは「アントナン・アルトーの夕べ」という会を開き、絵画や原稿をオークションにかけ、アルトーの生活費を捻出したのである。出展された美術作品は、アルプやバルテュスやマッソンからシャガールやピカソまで、原稿のほうはバタイユやシャールやエリュアールからジョイスやサルトルまで、じつに多くの有名人たち(彼らはみな大家になっていた)が協力した。ところが、自由にできる大金があればアルトーが麻薬を買ってしまうからか何なのか、アルトーは自分の生活費を自由にさせてはもらえず、それをデュビュッフェが管理することになったというわけである。ちなみにアルトーはそのことに激怒していたらしいのだが…。
 ともあれデュビュッフェがアントナン・アルトーに親炙し、自らの未来を先取りする時間のなかで彼から大きな衝撃と影響を受けたことは確かだったし、アルトーとアール・ブリュットはその出発において切り離せないものとしてあったはずである。このことはどうでもいいことではない。アルトーの晩年は、ニーチェやドゥルーズを援用するまでもなく、語の真性の意味において病気からの快癒(治療ではない)の過程だったと言えるが、晩年の傑作のひとつである「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」(『神の裁きと訣別するため』所収)は、どうやらそういう読まれ方をされてはいないらしいのだが、間違いなくこの快癒の過程の雄弁な証言であり、もしくはそれ以上のものであったと言ってもかまわないと私は考えている。「ヴァン・ゴッホは気違いではない」、アルトーはそんな風に繰り返し強調していたのだが、アール・ブリュットの批評家たちがこのことを問題にする気配すら見せないのはいったいどうしたことなのか。
 晩年のアルトーが語る「器官なき身体」は、「健康」、ありていに言えば、まさに「精神的健康」の試みのなかで、かつての病気の身体、すなわち麻薬中毒の身体、ヒステリーの身体、分裂症の身体、パラノイアの身体、マゾヒストの身体、栄養失調の身体、癌の身体、等々の、ほぼ仮死的な、しかし死とはまったく違う領域にある経験を通じて獲得されたものだった。したがってそれがスピノザ的であればあるほど、気鋭の社会学者たちが言うのとは反対に、「器官なき身体」はただ単に社会的組織体に当てはめることのできるだけの概念などではなく、まずは死体解剖される身体とはまったく別の身体があるのだということの目の覚めるような生理的発見から出発したものだった。これは想像を絶するような思考自体の営みであったし、それには人体、つまり死のテクノロジーの世紀であるわれわれの時代において決定的な形で浮き彫りにされたこの20世紀的「身体」の世界地図を塗り替えてしまうようなところがあった。もっと言うなら、これには反歴史的な意味において、ルネッサンス思想におけるアンチ・ルネッサンスの発現と言い得るものがあるのだが、このアルトーのゴッホ論は、アルトー自身の晩年の思想において、身体が飛び散り、また寄せ集められるかのようなこの器官なき身体の爆発と相照らすかのように、われわれの知識の現状において、早い時期にフーコーが言っていたとおり、狂気というものが「営みの不在」のままであり、だからこそ、大方の予想に反して、アルトーはわれわれの言語の分裂ではなく、その土壌に属している、ということをはっきりと明かしているのである。

 

関連書籍はこちら

このページのトップへ

1~1件 (全1件) | 1 |