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お知らせ(第35回 大島渚について私が知っている二、三の事柄 その一)

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                                                            第35回 2013年2月

 

        大島渚について私が知っている二、三の事柄 その一


                                                                        鈴木創士


大島渚著作集 全四巻
現代思潮社編集部『サド裁判 上・下
ボーヴォワール『サドは有罪か
ロラン・バルト『神話作用

 

 


                                     
                                       
  大島渚は着物がよく似合った。テレビ映りもよかった。
  先日、政治家で三流作家でしかないさる有名人に噛みついて話題になった芥川賞作家の暮らしぶりが、もうテレビでとってつけたように放映さていたが、この人は着物が似合っていなかった。笑ってしまった。テレビのあまりにも稚拙で安易な企画のほどもさることながら、普段から着物を着つけていないのがかなり丸わかりのように見えたからだ。どうせテレビにやらされたのだろうが、作家といえば着物、という最近のテレビの想像力のなさに唖然とするだけではなく、もうすでにこの作家も結局は話題作りの猿回しに操られているのかと思うと、それでも幻滅を味わわされることになった。
  ほんとうにすごい作家というのはジャン・ジュネみたいな奴のことである。私が画家であれば、彼のエクリチュールがまるで自ずと書かれたかのように、絵を描いてみたいと思ったことだろう。言っておくが、ジュネは架空の人物などではない!

 

 新宿泥棒日記

 


(ちなみに大島監督の『新宿泥棒日記』の制作のきっかけは、ジャン・ジュネへの大島流のオマージュだったと思われる。最近、この映画をずいぶん久しぶりに見直したのだが、唐十郎があんなに「おぼこ」かったのかといささか驚いてしまった。横尾忠則も横山リエも初々しい。麿赤児も四谷シモンも新宿騒乱の気配も!)。

 

 

 新宿泥棒日記 

  着物を来てもかっこよかったのは大島渚と生田耕作である。大島渚には会ったことはないが、生田さんとは、大昔の話だが、ある時期毎日のように顔を合わせていた。とにかく誰が見ても、特に女性にとっては、惚れぼれするような文人だった。男前で、大正生まれなのに長身、長髪、いつも雪駄に着流しで、フランス語の本を小脇に抱えてロイヤルホストへ散歩に行くのだ! 見ものだった…。名物男だったさ、近所でも!
  「先生、ロイヤルホストはやめたほうがいいんじゃないですか? かっこ悪いですよ」
  「いや、あそこは広いから本を読むのにいいんだよ、すっとするんだ」
  「……」
  私はそんな生田さんが好きだったが、なぜ大島渚や生田耕作が着物を着てかっこよかったのかを思ってみる。彼らは、テレビのへたくそでその場限りの安易な演出などではなく、普段から「そういう生活」をしていたからである。

  私は大島渚の忠実な観客でも読者でもなかったが、今回、大島氏逝去の報に接して、本をぱらぱらとあらためて読み返してみた。おっかない大島渚のような言葉を語る日本人がいなくなってしまった、老いも若きも、日本はつまらなくなった、と坂本龍一が言っていたが、私にもうなずくことのできる感慨だった。大島渚にはなんといってもそんな言葉を語る勇気があったし、それが映画人としての彼の誠実さだったのだろう。いや、映画人としての誠実さなんてものじゃない。なんて鼻白む言い方だろう。映画にしろ、何にしろ、そのくらいの覚悟がなければ、出来上がったものがどだいつまらないものになるのは決まりきったことなのだし、そういううんざりするようなあれこれを昔も今も飽きるほど見せつけられてきたからだ。だからこそ大島渚は多くの人に尊敬され慕われてきたのだろう。物事にはあっけにとられるほど単純な論理というものがあって、ごまかすことはできないらしい。

 

 

  愛のコリーダ

 

  『神戸新聞』にも少し書いたので重複してしまうが、ご容赦願いたい。私は70年代の中頃に『愛のコリーダ』をパリにいたときに見たのだが、フランス人観客たちのあの不埒なほど楽しげで愉快な反応が忘れられない。藤竜也だったか殿山泰司だったかは忘れたが、スクリーンに男優の一物が大写しになったとき、みんな一斉にどっと笑った。私も一緒に笑った。勿論、フランスでは、当時ですら一物にぼかしなどという無粋なものは入っていなかった。いいショットだった。これがたとえ私の妄想だとしても、間違いなくいいショットだったに違いない! それまでバスター・キートンの無声映画ばかりを見ているような毎日だったから、それにフィルムの傷でありノイズである「スクリーンの雨」をさんざん浴びて、映画館から出るといつも雨が降っていたと思い込んでしまうような生活だったから、フランスの映画館で笑ったのはその時がはじめてだった。
  映画館の観客席もまた愛の闘牛場(コリーダ)だったのだ。私もひとりで呑気に闘牛を見にやって来ていた。われわれは現代の闘牛に負けたのではなかった。少なくとも私はそう思っていたし、いまでも思っている。と同時に、この映画館(どこの、何ていう映画館だったのだろう?)で見ることになった『愛のコリーダ』の印象は、「爆笑」と切り離すことができない。ここでの哄笑には何の後腐れも、いやらしい複合感情もなかった。つまりあえて言うなら、エロティシズムともエロティシズムのからくりやその果てとも無縁だった。だからというわけでもないが、というかそれだけではないが、この映画のスチール写真集が後に日本で猥褻文書として摘発されるなど、お笑い草を通り越していた。この猥褻裁判は、澁澤龍彦と石井恭二が被告になったサド裁判以来、われわれにとって、無様であまりにも能の無い権力の茶番をさらにもう一度見ることを強要された大きな猥褻裁判となった。大きなお世話じゃないか。
  日仏合作映画であるこの『愛のコリーダ』の仏題はL’empire des sensである。直訳すれば、「官能の帝国」といったところだろうか。勿論、すでにフランスで話題になっていたロラン・バルトの日本論、『記号の帝国』(L’empire des signes)をもじっている。いささか安易なタイトルのつけ方だという気もしないではないが、フランスにおけるこの映画の受け取られ方の一端を示していたのだと思う。勿論、「愛のコリーダ」というタイトルのほうが断然いいと私は思っている。蛇足ながら、『表徴の帝国』や『記号の国』と邦訳されたこのバルトの本は、どう考えても、『記号の帝国』と訳すべきじゃないのかな。俳句も全学連も「記号」であり、その「帝国」には、皇居という空虚の中心があるのだとバルトは言っていたからである。

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  少し長くなるが、評論家としての大島渚が、映画との関わりにおいて三島由紀夫に触れた箇所を引用しよう。

 

   …総じて、女には俳優に絶対不向きという人間は少なく、それに比べると男にはそういう人間が多いのであるが、この最も俳優に不向きな体質、ということは精神状態も含んで言うのだが、そういう体質の人のなかにどうしても俳優になりたいという人間がいるのである。そういう俳優志望者に私なども時々襲われるのであるが、この人たちは全く始末が悪い。とにかく思い込んでしまってきかないのである。三島さんもそういう思い込んでしまう人間のように私には見えた。私は、そんな三島さんを主役の俳優として使わなければならなかった『空っ風野郎』の監督増村保造氏のことを思って同情を禁じえなかった。と同時に、私は三島さんという人はなかなかこの世の中に適応しえない人間なのであろう、しかもそれを適応すべくすごい努力をしていらっしゃるというふうに一種同情の目で見たのであった。
  三島さんは何故、いわゆる体位向上を心掛けられたのだろうか。いわゆる肉体についてのコンプレックスならば、私なども同様である。青春時代は骨ばかりだったし、ちょっと肉がついていい感じと思っていたら一足飛びに百キロになんなんとするデブになってしまった。今は少し節制してやややせたが見て格好のいい形態ではない。しかしもう諦めている。三島さんはなぜ体型を根本的にまで変えられたのか。自分の文学が貧弱な肉体或いは異常な肉体の産物だというふうに見られるが厭だったのか。とすれば、健康な肉体或いは正常な肉体の産物である文学でも、対応関係としては等価ではないか。或いは、自分の肉体が貧弱から健康へ、異常から正常へ変わっても、自分の文学は変わらぬということが言いたかったのか。それだったら、もう一回、貧弱な肉体、異常な肉体へ帰ってみたほうがもっと面白かったではないか。私はヨボヨボの三島さん、デブデブの三島さんを見たかった。しかし、三島さんは、それを断乎拒否して死んでゆかれた。だから、そこにはやはり三島さんの美意識の問題があったのだろう。
  私は文学の評論家ではないから、三島さんの文学の美の問題については深入りしたくないが、私の考えでは三島さんの美意識は私などの美意識と決定的にちがっていた、と言える。というより、私などの創作過程における美意識の置きかたと三島さんのそれは決定的にちがっていたと思う。対談の時に三島さんは私の『無理心中・日本の夏』をわからないと言われた。それは無理もない。三島さん的な美意識からは絶対にわかる筈はないからである。そして三島さんは何故美男美女を使わないのかと言われた。このあたりが三島さんの美意識の限界なのである。つまり三島さんの美意識は大変通俗的なものだったのだ。そしてそれだけならよかったのだが、三島さんは一方で極めて頭のよい人だったから、おのれの美意識が通俗的なものだということに或る程度自覚的だったのである。そこから三島さんの偽物礼讃、つくられたもの礼讃が生まれたのだった。そして自分自身をもつくり上げて行ったあげく、死に到達してしまったのである。
                      (「政治的オンチ克服の軌跡 三島由紀夫」)

  この後、三島由紀夫の政治と政治的な死について、当時雑誌その他を賑わした仰々しい多くの論評などより遥かにうがった考察が続くのだが、残念ながらここでは割愛する。
  ゴダールとジャン・ピエール・ゴラン(「ジガ・ベルトフ集団」)の映画『イタリアにおける闘争』がヴェネツィア映画祭で上映中止になったときの報告のなかで、大島渚は卒然とこんなことを書き始める。

   それにしても、七、八年ぶりに見るゴダールの顔はなんという変わりかただったろう。交通事故のあとの整形手術が影響しているのかもしれない、と言ったらヤング・ディストリビューターに、かれは整形なんかしてませんと言われたが。それは、なにかひきつれた、冷たい、非人間的な印象だった。どういうわけか、ぼくは三島由紀夫の顔を連想した。ゴダールは唇を引き結んだままなんの表情も見せず手をさしだした。ぼくはその手を握った。(…)
   ぼくはゴランとも握手した。ぼくは、最近ゴダールがすべての作品をこのゴランと共同の仕事にし、二人でジガ・ベルトフ集団と名乗っていることは知っていたが、会うのははじめてだった。ぼくは若いゴランの顔に気をとられていて、掌の感触は忘れた。濃い眉。つりあがった目。たくましい鼻梁。ふてぶてしい口元。それは一種の悪相だった。ぶ厚い肉体はさながら小さな戦車だった。ぼくは不思議なことに、森田必勝という名前を思い浮かべた。そして同時に、武智鉄二さんのそのふたりに対するいやらしい分析を思い浮かべた。それは、決行を約束したあとのある時期において、逡巡する三島は森田になぐられたにちがいないというのであった。その体験が『豊穣の海』に描かれているというのだった。それは生ぐさい、異様な分析だった。しかしぼくはそれがきっと当たっているだろうと肉体的に感じたのだった。しかし今またそれを感じるとは。ぼくは、そんな自分を兇々しいものに感じて、早々にその場を離れ去ったのだった。
                            (「ゴダール/三島由紀夫」)

  大島渚は、俳優に演技なんかいらない、俳優の人物だけが重要なのだ、というようなことをどこかで言っていたが、このことは、ヌーヴェル・ヴァーグが何であったかを如実に物語っていると私は考えている。彼は映画監督として誰であれつねに目の前にいる「肉体」を直感していた。映画監督は指揮者である前にシャーマンでなければならなかったからだ。その意味で彼はいつも来るべき、撮られるべき未来の映像のなかにすでにいて、現実に動き回る肉体をじっと観察し、査定し、その生々しくもある歴史を無意識のうちに身体的直観として吟味していた。厳密に言って、現実と映画はつねに同じ平面になければならないのだし、現実は映画に介入するだけでなく、映画もまた現実に介入するからである。
  彼は未来の俳優たちを自分の二つの眼でじっと見ていた。三島由紀夫もゴダールもその点では失格だった! ジャン・ピエール・ゴランのほうは、ある意味で合格だったのかもしれないけれど…。ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの多くが実際に批評家でもあったこととこの「肉体への凝視」は無関係ではあり得ないが、さしあたってはそのことが重要なのではない。
  だからこそ、ここでも、そこでも、俳優には演技などいらないのだし、演技してはならないのだ。勿論、ヌーヴェル・ヴァーグの俳優たちは演技ができないということではない。それどころか、演技しているように見せない演技は非常に高度なものでもある。演技が下手であるなど問題外である。だが、もう一度言うなら、演技は問題ではない。ヌーヴェル・ヴァーグとヌーヴェル・ヴァーグに影響されたと考えられる後の映画の本質は、ともに人物としての俳優と編集(モンタージュ)にあると私は勝手に考えている。演技を、肉体的感触としての演技を、「編集」によってずたずたにしなければならず、人物自体のいわく言い難い特性、というか代替不可能な仕草によって、この演技あの演技を別の次元の現実に変えてしまわなければならない。そこからヌーヴェル・ヴァーグ映画特有の速度とテンポが、広い意味で独自の映像の「音楽」がもたらされるのだ。
  みんなもう聞き飽きたことだと思うが、物語は単に解体されたのではなく、そのことがいまさら重要なのではない。現実と虚構の従属関係が、それを断ち切ってしまうある種の「主観的喚起力」の質が、根本的に変化したのである。それこそが他のジャンルではなく映画が成し得たことなのだ。批評性などというものは後からついてくるし、いくらでもつけ足し可能だし、無声映画時代の映画にだって鋭い批評性はあった。トリュフォー自身が言っているので仕方がないが、作家主義というのも文学から直接借りられたもので、今となってはピントが外れている。
  以前、ここでも書いたことがあるが、ゴダールやトリュフォーの映画でおなじみのジャン・ピエール・レオを街でときどき見かけたとき、ゴダールやガレルの映画のなかのジャン・ピエール・レオとまったく区別がつかないことに私は強烈な印象を受けた。レオはモンパルナスのカフェにひとりっきりで座っていた。ひきつったように唇を固く結んで。それはある種、哲学的な経験だった。虚構が街路に降りた、現実のほうこそが、そう望んだとおり変化したのだ、という感じだった。その光景を見ることによって、私はなぜジャン・ピエール・レオという俳優がヌーヴェル・ヴァーグの監督たちに重用されたのかを即座に理解したのだった。
  こうしてヌーヴェル・ヴァーグとともに、映画館の外でも、映画を見ていない時も、映画を忘れている時も、われわれは映画のなかにいることができるようになったのである。ヌーヴェル・ヴァーグは、われわれを街路に解放し、映画がいままさに街のなかで起きている何かしら現実的な一瞬一瞬の断片のようなものであることを、われわれに知らしめたのだ。

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