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お知らせ(第36回 大島渚について私が知っている二、三の事柄 その二)

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第36回 2013年3月

       

大島渚について私が知っている二、三の事柄 その二

 

                                                                    鈴木創士

 

『大島渚著作集 全四巻』
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

 

 前回のコラムで「ヌーヴェル・ヴァーグ」などと何の断りもなく書き飛ばしたが、勿論、「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」のことでは毛頭ない。これについては大島渚自身が「″ヌーヴェル・ヴァーグ″撲滅論」を書いているので、あえてここでは何も言うことはない。私が言っているのは「私のヌーヴェル・ヴァーグ」のことであり、誰にとっても非常に「私的」である他はないスナップ(?)ショットの動く体系のことである。動く体系だって? それはどこまで行っても掴みどころがない、全体を欠いたシステムであり、流れ去る生と同じように可能性としてすら組織化できないものである。そしてそれはなぜかと言えば、そもそも映画の話なのだから、その場限りの、ただちに消え去る「イマージュ」と「音」でできているからである。Nouvelle vagueというフランス語は「漠然とした知らせ」とも誤読できるのだし! だから私の言っている「ヌーヴェル・ヴァーグ」がヌーヴェル・ヴァーグでなくてもいっこうにさしつかえはない。誰ひとり困る者はいないのはわかっている。だが、こんなことはどういでもいいことである。
 閑話休題。万事窮し休す。すべてはしたがって上々である。映画は、見れば見るほど、なぜか私には静止画像のように思えてくる。イマージュは必ずしも暗号ではなく、暗号であるものが暗号であるとか、暗号ではないものが暗号である、という軛をやすやすと擦り抜ける。バロウズの言い方を借りるなら、寝ぼけた麻薬中毒患者のように、自分の左手で右手をつかんでハッとしてはならないのである。生は停滞しているのか。あらゆる停滞。誰もが見飽きたし、聞き飽きている。だから若きアルチュール・ランボーが言ったように、新しい愛と騒音の中に出発しなければならないのだ。
 映画を見ない時は、映画のことを考える場合、私は映画の中に住むことにしている。勿論、私はないないづくしの映画の主人公などではないし、知らぬ間にそうなるつもりもない。映画のことを思わない場合も、実はいつも映画の中に住みつきたいのだが、なかなかそうはいかない。ほんとうは映画館もスクリーンもそれ自体としてはどこにも存在しない。たとえそれがデジタルであろうとも。私は盲目のボルヘスに聞いてみる。サンチャゴの映画はよかったのか、と。無理難題をふっかける以前に、あなたは映画が見えないはずなのだから、あなたの作品とはまったく違う世界のものだけれど、と…。彼は何も答えてはくれないだろう。だから私は姿勢を正して、もう一度前のほうを見てみようとする。どちらかと言えば、やっぱり、だらしなく。なんとなく眼を上げるだけでいい。すると空がある。ほら、俳優が通り過ぎる。Un ange passe. ひとりの天使が通り過ぎる。これほどしらける眺めがあるだろうか。セルジュ・ダネイやジャン・ルイ・シェフェールやドゥルーズの映画論の話をしてもいいのだが、今回はやめておこう。映画の映画はとても素敵だけど疲れるし、それについて書くのは実り多いことだとは思うけれど、批評の批評をやるのは大島渚には似合わないし、とてもそんな気分になれない。金輪際!

 私は映画を監督してみたいと思っていた、というかずっと思っている。そのために何かをしたことはないが、最初のシーンは妄想のなかですら決定している。映像は錯乱に見合っている。
 映画の筋とはまったく無関係な映像が一つ、あるいは幾つか続いた後、シーンが断ち切られるように無造作に切り替わる。一人の男が昼下がりの坂道をゆっくり降りてくる。蝉がいるような場所ではないとしても、あるいは季節が夏ではないとしても、耳鳴りのように蝉が一斉に鳴き始めているのがわかる。男は青年であっても、壮年であっても、どちらでも構わない。彼は主人公である。アップと後ろ姿、上からのアングル。斜めからの逆光のほうがいいかもしれない。
 男が降りてくる急な坂道を、突然、まったく無関係に、何の素振りもなく別の男が黙々と昇ってくる。二人は坂道の途中ですれ違う(このシーンは、私の記憶が合っているとすれば、『愛のコリーダ』の冒頭、藤竜也と兵隊の一団がすれ違うシーンへのオマージュである)。他には人っ子ひとりいない。当然、二人に会話はない。会話の可能性すらほんの少しでも示されてはならない。無縁の人間同士。主人公のほうだけが昇ってくる男をちらっと見るくらいでいい。
 坂道を昇ってくる男は真っ黒に日焼けした半裸の小太りの中年でなければならない。頭は丸刈りで、肉体労働者のように赤銅色の肌。なぜか子供用のバレーの練習着を着ている。チュチュではないが、短いひらひらのスカートからはみ出た太い足。キャミソール部分は緑、超ミニのプリーツスカートは黄色。小太りの男が着る子供用の練習着だから、当然、いまにも破れそうにパンパンにはち切れている。下は網タイツで、昔の小学生が履くようなぺったんこの汚い運動靴。手には昔ながらの細い綱でできた昭和風の買い物カゴ。網タイツは破れて、丸見えの尻が一部分はみ出ている。パンツは履いていないが、あくまでもカメラは前からではなく(前から見ると網タイツの下に陰部が丸見えになっているはずである)、彼の後ろ姿を追わなければならない。ほんの少しだけサーカス風、つまりほんのわずかにフェリーニ風のテイストであっても構わない。そうでなくても良い。
 だが坂道の場所はあくまでも日本の住宅街である。神戸か長崎か尾道の坂道がいいかもしれない。枯れかけの蔦のある煉瓦の壁が続いている。明るい坂道、うららかな午後…。繰り返すが、絶対に二人の男に台詞があってはならない。このカットは後のシーンあるいは筋とはあくまで無関係である。意味論的にもイマージュの審美的断続においても。ここでは離接的綜合はまだ起こらない。
 映画を撮るのは大変なことである。私は映画の勉強をしたことなどないし、手だてもないし、体力も、何もないので、どう考えても、映画を撮ることができないかもしれない(潜在的な非条件は無限にあるはずだから、何が起こるか、明日死ぬかもしれないので、先のことはこのくらいの物言いにしておこう)。少なくともここで言えることは、これが私のヌーヴェル・ヴァーグ映画の始まりを告げるシーンだということである。今度は、妄想は映像に見合っている。
 勿論、言っておくが、大島渚が言うように、最初からすべては俳優で決まるのである。後は野となれ山となれだ(まあ、そんなこともないのだけれど…)。優秀な脚本家と組んでラフな筋書き・脚本をつくり、女優を厳選すればいい(後になれば、脚本は編集によってまったく別のものに作り変えられるだろう)。ショートカットの女の子と別のもうひとり。どちらかと言えば少年っぽい彼女、そして彼女よりはもっと女性っぽい女性。老人。(美しい)青年。こぎたない子供。醜男。病気の痩せた嫌味な中年婦人。老婆。だが配役など実はどうでもいい。音楽はシューベルトと佐藤薫。編集はかなり、いや、非常に斬新なものでなければならない。あるいはとても古くさいやつも混ぜて。私が心に決めているのはこれだけである。……。

 無駄話はこのくらいにして、大島渚に戻ろう。今回、大島渚の映画を幾つか見直してみた。やはり眼目は俳優たちだった。
 『白昼の通り魔』の佐藤慶と小山明子と川口小枝。
 『少年』の、まだ九歳だった阿部哲夫、それに渡辺文雄と小山明子。それにしてもこの当たり屋家族の少年役は素晴らしい。最近、テレビを賑わしているあの醜いまでに可哀想に思える子役たちと比べてみれば、いかに時代背景が違うとはいえ、一目瞭然である。このキャスティングは大島渚のグループでしかできなかっただろう。役者はまさに発見され再発見されるものとして映像の真実の一部となる。
 

 

 『白昼の通り魔』

 

 

 『白昼の通り魔』

 

 

 『白昼の通り魔』

 

 

 『少年』

 

 

 『日本春歌考』の荒木一郎。
 『新宿泥棒日記』のことは前回に書いたので、ここでは繰り返さない。ひとつだけ付け加えるなら、この映画には「事件の予兆」(これは紛れもなく正当な歴史の解釈である)としてドキュメンタリーの手法が挿入されていることだ。つまり新宿フーテン族による10・21国際反戦デー、新宿騒乱の前駆的兆候である。
 そして『愛のコリーダ』の殿山泰司。
 『愛の亡霊』の吉行和子。等々、等々。
 翻って考えるなら、とりわけ最近の日本のテレビドラマがそうであるように、俳優たちの演技がへたくそに見える、あるいはまさにへたくそであるのは、結局のところその俳優が、演技を、それが下手で、稚拙で、まずい、目を覆いたくなるような、どうしようもないものであれ、とにかく演技をしてしまっているということである。ロベール・ブレッソンがあれほど「演技」を嫌ったわけはシネフィルの誰もが知っているのだろうが、ヌーヴェル・ヴァーグが別の仕方で、ただしまったく別の仕方でそれを受け継いだとしても驚くには当たらない。ブレッソンは出演者たちを「モデル」と呼んだが、誰がなんと言おうと、そもそも俳優たちの「演技」、「反演技」がともに映画の中の「イマージュ」であること、それでしかないことをヌーヴェル・ヴァーグの映画の速度がある意味で証明してしまったからである(だが、ドミニク・サンダやアンヌ・ヴィアゼムスキーといった後の俳優がブレッソンの映画から出てきたのは偶然ではないはずだ)。
 何度も言うようだが、あらゆる身振りが動きつつある、あるいは静止したままのイマージュであるのだから、映画の本質自体が、イマージュの連なりの中で、すでに「演技」をそのつど無効にしていることに変わりはない。そして映画がいかに資本主義と反資本主義の間で揺れ動こうとも、やはりこれまたそのことに変わりはないはずである。そういったすべてがイマージュの振舞いのうちにあるからこそ、大島渚の映画は別の見方をすれば、多くの映画が犯罪についての映画であり、彼自身が言うとおり、『愛の亡霊』のように自然についての映画にすらなる。そして映画のその場限りのイマージュはそれを全面的に肯定するのである。それが監督の力量というものなのだ。
 余談めいてくるが、三島らしからぬ悪文だとさんざん批判された三島由紀夫の最後の『檄』の文章の手法を、『黒い雪』の監督武智鉄二は浄瑠璃に由来するものだと述べていたが、いかに三島が歌舞伎に絶望していたとはいえ、その「政治的」演技を含めて、俳優としての三島由紀夫および映画俳優としてのその演技に対して、前回ここで述べたとおり、大島渚が失格の烙印を押したのは、以上のことと無関係ではないと私は思っている。三島由紀夫は私の好きな『月』や『葡萄パン』というなかなかビートっぽい作品を確かに残したが、こと映画のヌーヴェル・ヴァーグに関しては、そしてたぶん美術に関しても、あらゆる「イマージュ」の無秩序で突飛な振舞いの本質を含めて、まったく理解していなかったし、する気もなかったのだと思う。これは果たして審美的な趣味の違いによるものだけだったのだろうか。そんなことはないはずである。

 最近、大島渚と縁浅からぬ二人の監督の新作試写を見る機会があった。若松孝二とレオス・カラックスである。
 中上健次原作による若松孝二の『千年の愉楽』は、寺島しのぶは元より、高良健吾をはじめとする若手俳優たちをうまく使っていたとしか言いようがない。恐らく彼らの演技は通常の意味においても悪くはなかったが、この映画の主題そのものが俳優たちの演技自体を呪縛し、文字通り地べたを這いずり回るように引きずり回し、そのあげくある種のふっ切れ方を強要したのではないかという印象を受けた。これは紛れもなく監督若松孝二の手腕なのだろう。だがこんなことはもはや演技ではなく、やはり神懸かりになっていたのは映画のイマージュのほうなのである。あの話芸はどうなったのか。中上作品のあの鬱屈した複雑さを否応なくあちこちに意味不明のグロッソラリーのように醸し出してしまう原作と比べれば、小説の映画化の宿命ではあるのだろうが、脚本がいささか単純な印象を受けたことは否めないが、たぶんあの小説を映画化するにはこうするしか仕方がなかったのだろう。私としては中上とはまた別の異言を飲み込んだまま、このことをどう評価していいのかいまだ複雑な気分ではあるが(この映画が良くないということでは決してない)、若松の最後の作品に恥じず、激しくも悲しい映画であったことは間違いない。若松も、そして中上もとても厄介な作家なのである。
 カラックスの『ホーリー・モーターズ』は前作の『ポーラX』から十三年ぶりの作品で、『ポンヌフの恋人』とはまた別の意味で大掛かりな作品なのだが、相変わらずドゥニ・ラヴァンは秀逸な俳優だった。見ている者が誰もいなかったとしたら、彼はどうなのか。それでも彼は役者であるに決まっている。そしてそれがこの映画の隠れた主題であるかもしれない、と私は思う。最初のシーンはカラックス自身が劇場を覗くところから始まっていたのだし、同じ生を、同時に分身の生のように生きるには、たぶん神以外の誰かが見ていなければならず、同時に誰もそれを注視していてはいけないからだ。劇場は幽霊に満ちているではないか。私はこの映画を見ながら、晩年の寺山修司が、嘘かまことか、家庭の団欒を「覗いていた」というスキャンダラスな噂話を思い出していた。
 前作から十三年経っているのだから、ドウニ・ラヴァンはそれなりにフランス人らしく年をとっていたが、彼は、彼の演技と存在を分かつことなく、自分が「肉体」そのものであることを全肯定できるような俳優である。彼はいつもダンスをするように役に入り込む、というか役とすり替わる。何度も言うように、これは映画のイマージュなのだから、普通の意味での存在感とはまた別の事柄なのかもしれない。はっきり言って、ドゥニ・ラヴァンは捉えどころがないほど魅惑的で、それでいて不確かな存在であり、ベケットの小説の登場人物であってもちっともおかしくないような気がするからである。例のとおり、この映画もまた引用には事欠かないのだが、カイリー・ミノーグの立居振舞いと髪型や服装がゴダール映画のジーン・セバーグそのものだったのが印象的だったというかご愛嬌だった。ひとつだけカラックス・ファンとして私の余計な意見を言わせてもらえば、歌も含めて、最後のほうの幾つかのシーンはいらないのではないかと思った。ある意味で再起をかけたカラックスのことだから、プロデューサーに妥協せざるを得なかったのかな、などとそれこそ余計なことを思った。まあ、これはただの主観的感想にすぎないのだけれど。

 去年、京都のもう老舗に属すると言ってもいいさるジャズ・バーで、足立正生監督に偶然出くわした。勿論、大島の映画『絞死刑』に出演していた頃の足立さんではなかったけれど、元パレスチナ・ゲリラでいまも非暴力的な闘いを続行しているライラ・ハリドを伴って店に入って来た足立さんは、昔、大島渚が書いていたとおり、いまもキラキラする目をしていたのがとても印象的だった。「足立正生の眼は美しい。しかし本人はそのことをよく知っているであろうか」(「永久運動者の美貌」)。野太い声、剛胆な笑い、時に鋭く(当たり前だ!)キラキラと光る眼……。彼がそのことを知らなかったとしても、映画監督自身もまた、演技をしないままの時間の中ですら俳優でなければならないのである。カット割りは彼らの仕事である。自分のカットも含めて。映画館の外でも内でも映画はすでに始まっていて、監督はまだ撮られてはいない映画の中にすでに存在している必要があるからだ。
 そのとき映画は消え失せるか、さもなくばすべてが映画となるだろう。

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