ホーム > お知らせ(第37回 「五月人」について)

お知らせ(第37回 「五月人」について)

第37回  2013年4月

                            「五月人」について

                                                                    鈴木創士

四方田犬彦『俺は死ぬまで映画を観るぞ
アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『シュルレアリスム簡約辞典』『ナジャ
モーリス・ブランショ『文学空間
ルイ・アラゴン『イレーヌのコン・夢の波


 小説の中で、ボルヘスは根拠のない思い込みに反論している、「前触れも、徴候もなしにその日が私の逃れることのできない死の日になろうとは信じ難いことのように思われた。私の父の死にもかかわらず、海奉(ハイヘン)のあの左右対称の庭園で過ごした子供時代にもかかわらず、私もまた、いまから死のうとしているのだろうか。それから、私は考えた、すべてはまさに、いままさに起こるのだ、と。どれだけの世紀が続こうとも、もの事が生じるのはただ現在においてのみである。空に、地上に、海上に、無数の人間がいるが、実際に起こりつつあることはすべて私に起きている…」(「八岐の園」)。

                                      *

 四方田犬彦の『俺は死ぬまで映画を観るぞ』の頁を繰っていたら、フィリップ・ガレル監督の五月革命をめぐる映画『恋人たちの失われた革命』についてのエッセイの冒頭で、とても愉快なくだりに出くわした。
 「一九七〇年代の終わりだったが、はじめて訪れたパリのパーティに出たところ、客のなかにひとり、裸足で来ている男がいた。話しかけてみると彼は三十歳代の医者で、一九六八年の五月以来、けっして靴を履かない人生を選んだのだと説明してくれた。パリは路上に犬の糞がよく落ちていて大変だと思ったが、それ以上に驚いたのが、五月革命がこの人物の世代に与えた影響の強さであった。日本の団塊の世代にも、はたして似たような人がいるだろうか?」

 私にも同じような経験がある。
 パリのサン・ジェルマン・デ・プレにラ・ユンヌという有名な書店がある。何も起こらないのであれば、どうとでもなれという気分だったに違いないある宵、画集でも見てみようと思ってぶらっとこの書店に立ち寄った。
 パリという街には、夜がとても美しいと思わせる一日がある。夜は澄みわたり、あまりにも親密で、雑踏のまっただ中で雑踏の雑音も不意に消えてしまい、たぶん私の苛立ちなど早々に本の中に吸い込まれてしまうのが無難だと警告しているような時間帯だった。フランス人たちは当時のことを鉛の時代だと言っていた。五月革命は終息し、もう何年ものあいだ最悪の歳月が続いていた。歳月などなかった。一日だけがあった。
 ラ・ユンヌはいまでも存続しているハイ・クオリティーの書店だが、中に入ると美術書コーナーのあたりからほんのかすかにマリファナの臭いがしている。ん? 見ると、私より少し年上らしいハンサムなフランス人が椅子にゆったり腰掛けて、「煙草」をくゆらしていた。目が合った。彼はにこっとした。彼は美術書担当だった。
 私が言った、
 「ボナ・ド・マンディアルグの画集はどこですか?」
 「たいした絵じゃないから、よしたほうがいいよ」
 「あっ、そう、じゃあ…」
 「君、アラゴンの『イレーヌ』は知ってる? いい本だよ」
 「シュルレアリスト時代の名作でしょ、僕のフランス語力じゃ無理だよ、第一、それ画集じゃないじゃん」
 「君は日本人なのか?」
 「いや、ドイツ人」(私はドイツ人ではないし、どう見てもドイツ人には見えない)
 「君の名前は?」
 「ジャック・リゴー!」(私はフランス人ではないし、どう見てもフランス人には見えない)
 彼は立ち上がって、パリのダダイストだった本物のジャック・リゴーの本、10/18のオムニバス本『社会の三人の自殺者』を持ってきてくれた。当時、まだリゴーの著作集は、スイスかどこかのカタログでしか見つからないとても高価な古書でしか読めなかった。彼を見ると、ツイードのブレザーか何かを着ていて、いかにもフランス人っぽいのに、裸足だった。われわれはその日から友達になった。
 フレデリック・U・Iは五月革命当時は高校生だったはずで、とても教養ある、頑固な青年だった。たぶんどこでも最も過激だったのは高校生だった。五月革命の後、彼もまた大学には行かなかったのだろう。彼の右手は不具で生まれつき使えなかったが、とても優雅なところのある、ユーモア溢れる聡明な男なのだ。古典と前衛文学について、あらゆる絵画について流暢に言葉少なに語った。当時は、誰も無駄口をきくやつなどいなかったのか。夜は明けず、そのくせ白夜のようにしらけていたのだから。四方田氏の知り合いと同じように、彼もまたいつも裸足で、「不思議な」生活を送っていた。すでに小さな可愛らしい娘がいて同じ屋根の下に暮らしていたが、別の人たちが育てていた。まともに五月革命の話をしたことはなかった。臭いでわかるというものだ。われわれにはそんなことはすでに言わずもがなの了解だった。夜中に彼のガールフレンドや友人たちの家に押しかけては、夜食をご馳走になった。迷惑な顔をされることもあったが、私はそれを人種差別とは思わなかったし、どうでもよかった。
 彼とはいまでも仲良しである。私はフランスに行かないし、彼はあるとき絶対に飛行機には乗らないと宣言して日本に来ないから、ずいぶん長いこと会ってはいないが、たまに電話がかかってきたり、とても格調高いフランス語で書かれた手紙やメールが届いたりする。最近のメールには天正少年遣欧使節団の原マルチノのことやアルフレッド・ジャリやシャトーブリアンのこと、相変わらずアラゴンのこと、福島原発事故のことが書かれてあった。私の返事としては、彼の知らない小野篁と地獄の井戸のことをメールに書いてやった(!)。フランス人の「エスプリ」などと世間では言うけれど、多くのフランス人を知っているというわけではないが、彼は私にとってエスプリを感じることのできた唯一のフランス人だった。時には意味不明の私の悪態を何の衒(てら)いもなくそのまま笑って聞いて受け答えしてくれる唯一のフランス人である。私は彼自身と彼の才能に対する感謝の念をけっして忘れない。
 四方田氏の知り合いがいまでも裸足であるかどうかはわからないが、フレデリックはたぶん靴を履いているのだろう。勿論、裸足と五月革命は直接関係はない!? どうでもいいことだが、裸足ということに関しては、たぶんそれ以前のアメリカのビートニクスたちの風俗から来ていたのではないかとも思う。近い昔にパリにもそういうものがあった。四の五の言う必要はないだろう。四方田氏が何を言いたかったのか、引用箇所の最後の文を読めばわかる。

 「68年五月」というエッセイの中で、五月以前あるいはそれ以後の作家たちがいるのだとソレルスは決定的なことを言っていたが、身も蓋もない話などではない。それどころか、これは前提となる必要条件である。五月革命に加わった時、ソレルスは31歳だった。「われわれは最初の五月人なのだ」と彼は言う。当たり前のことだが、勿論、作家たちだけには限らない(作家など少数派もいいとこである)。五月の経験、あるいは経験という非経験の後、すべては一変した。しぶしぶ目を覚ますと、世界が一変していたのだ。
 火星人やフランス人や日本人や文化人がいるのとまったく同じように、五月人がいる。そして最初の五月人がいれば、その後の五月人だっていることになるわけである。原則は論理的につねに保持されなければならない。運動(運動?)の総括などと言っても、その実体のない軛につながれていることをいまだに自らが望むのであれば、五月の空は逃げていくばかりである。永劫の昔から魔女キルケーの鍋の中でぐつぐつと煮立っていたのは、あえてこんなことを言わねばならないのは非常に気恥ずかしいが、つねに絶対的「自由」をめぐる問いだったのだから推して知るべしではないか。ソレルスは五月とは「春のクォーク」だと言っていたが、この言葉に何の留保がいるだろう。五月とは大気の香りであり、音楽であり、喜びであり、地霊のようにそこにあってないものであり、あまりにもむき出しの「反経験」であり、われわれ自身の物質的組成である変幻自在な「素粒子」である。「現在」というものが存在しないとしても、それはつねに「今」にしか存在できないものである。われわれはその場にとどまりながら、いつも旅をしているのだ。
 ランボーのせいだったのかどうか、私はかなり早熟だったので、そのような経験に最初に触れたのは1969年だったが、68年に「そこに」いたわけではない。地方都市の中学二年生だったのだから無理もない。じゃあ、いま私は「政治」と「文化」一般の話をしているのか? へっ、とんでもない、まったく違うさ! 地霊が私に囁いている、私よりずっと若い友人たちも含めて、われわれはどんな時間の中にあっても五月人であるかもしれないのだ、と。

 五月革命当時の美しい壁の落書きがそう言っていたように、敷石の下には砂浜があった。私がパリにいた時、五月革命は終わっていたし、パリには海がなかったが、生家が海辺のそばだった私には、煙突の見える屋根々々の向こうからいつも潮騒のざわめきが聞こえていた。潮の香りがした。このざわめきは群集の「ざわめき」であり、奇妙な通奏低音ノイズのように鈍く轟いていた。それは今もありありと思い出すことができる。パリのどんよりした空の下で、かつてバリケードのために、機動隊に投石するために、引っぱがされた敷石、敷石の下に現れる目も眩むような白い浜辺。結局は誰ひとりそれを見たとははっきりと主張できない幻のイマージュ。誰それの記憶なんてそんなものさ。でも、それだけでは十分じゃないというのか!

 ブルトンは、生(人生)を変えることと世界を変革することは同じひとつのことでなければならない、というようなことを繰り返し言っていたが、五月とはまさにそういう出来事だった。したがって五月革命というのはひとつの総称であり、ほとんど普通名詞であるが、世界中のあちこちで起こった「五月」がそうだったように、歴史の中にはどうやら「持続」の琴線が断ち切られる瞬間があるのだ。それをわれわれは喜びとともに知るべきである。みんながやめてくれと言う間もなく、ゴルギアスの結び目はいつも早々に断ち切られることに相場は決まっている。この場合の「持続」は敵のものであり、制度による偽造の証であり、幻想であり、われわれの関知するところではない。切断というやつはつねにすがすがしい。五月の空はすっかり晴れ渡っている。したがって総称としての五月革命が一瞬しか続かなかったとしても、そんなことはなんら問題ではないのだ。五月がただの騒動でしかなく革命などではない、と口角泡を飛ばしてわめき散らし、説教を垂れる人たちがいたし、今もいるが、可哀想な彼らは自分だけいつも歴史の外にいて、言説の外にすらそんなものがあると信じ込んでいるのである。

 当時、ブランショたちが言ったように、五月に起こったこと、そして起こるべきだったこと、起こらなかったことについては、もはや何かを言うことが重要なのではない。そんなことを何百回声高に言ってもどうなるものでもないし、悲しいかな、結局は当たり障りのない猿真似の小賢しい芸当にすぎない。「伝道の書」が言うように、陽の下に新しきものはない。おまけに誰かも言っていたように、あえて説明を弄するなど阿呆のすることである。誰もいない砂漠で、砂に向かって説教しているほうがましなのだ。だが、わが国の読書界を最近賑わしていた幾冊かの全共闘本の中に、きわめて厳密な意味において普遍的であるこの決定的な「反経験」、要するに社会学的というより歴史的なこの「ドロップアウト」の存在論的感覚を理解し、それに少しでも触れることのできたものがわずかでもあったというのだろうか。これは哲学的に言ってもとてもお粗末なことである。私はそれだけを声を大にして言っておきたい。

 五月革命の直後に壁に貼られたビラ、学生?作家行動委員会のビラのひとつはすでにこんな風にわれわれに言っていた。
 「何かについて書く、ということはいずれにせよ適切さを欠いている。しかし、人が何かについて書くこと??銘文、註釈、分析、讃辞、弾劾??をもはや断じて許すまいとする、(とりわけ)そのためにこそある出来事についてなおも書くということ、それはこの出来事をあらかじめ歪曲し、つねにすでに取り逃がされたものとしてしまうことにほかならない。それゆえわれわれは、〈五月〉に起こったこと起こらなかったことについて決して書いたりはしないだろう」(モーリス・ブランショ『明しえぬ共同体』、西谷修訳、より)。

関連書籍はこちら

このページのトップへ