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お知らせ(第38回 天使)

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  第38回 天使 - 2013.05.05

                                                        第38回 2013年5月

 

天   使

                                                                    鈴木創士

 

ジョルジュ・バタイユ  『内的体験』 『有罪者』 『ニーチェについて』『無頭人(アセファル)』
笠井叡  『銀河革命
石井恭二  『花には香り 本には毒を』 『正法眼蔵 覚え書』 『心のアラベスク
埴谷雄高  『虚空』 『不合理ゆえに吾信ず

 

 すべては数秒で片がつく。
 超越性は下に向かって突破される。初期ルネッサンスの画家ジョットの描く天使はいつもこちら側ではない向こう側の空間から出現しようとしていて、天使のからだは半ばまだこちら側には現れてはいない。向こう側の世界はわれわれには見えないのだから、脚の部分は消えたまま絵に描かれることはない。天使のからだはすでにほぼこちら側の世界、ジョットの絵画に関して、かのヴァザーリがわざわざ「自然」という言葉で呼ばなければならなかった世界に否応なく存在し始めているとはいえ、ここではっきりしているのは、原則として不可視であるその身体が、つねに或る世界から或る世界への移行の途上に居合せなければならなかったということである。天使はあくまでも「使者」なのだから、天使のからだはこの移行の痕跡を纏わざるを得ない。移行の痕跡! 彼らは通り過ぎる。彼らはここにいて、同時にここにはいない。いや、「同時に」と言うのは間違っている。時間の概念は成立しないのだから。だからこそ彼らは天使なのだ。ある時は(ある「時」ではない)、天使たちは書物を空間の壁のようにめくり、それをも身に纏うかのようにして口をつぐんだりしているが、それでも彼らはあくまでもこちらの世界にいるふりをしているだけなのである。ともあれ、こうしてジョットの天才によって、ビザンチンの重々しくもきらびやかな超越性が突破され、爆破され、ルネッサンスの大盤振舞いのなかで変形をこうむることになった。それを見るのはじつにすがすがしいことだったのだ。

 

 

 「どんな天使も恐ろしい」。
 そんな風に言ったのは詩人のライナー・マリア・リルケだったが、大天使ガブリエルもミカエルも時には戦闘服を着て、われわれが目にする絵のなかではいつも厳めしく見える。天使たちはつねに悪魔の軍団(それは軍団であり、つねに複数である)との戦闘状態にあるのだし、天使たちがこの世への使者であるにしろ、とにかく「使者」であってみれば、彼らにはいわゆる人間への直接的「慈悲」など望むべくもないだろう。
 それなら、天使たちは何らかの形で人間の、この世界に関与しているのだろうか。関与? この世はこの世であり、極端に孤独なままらしいが、あっけにとられるほどつつましい生まれ持ってのわれわれの僥倖なのか、バタイユが言うような乾坤一擲の「チャンス」なのか、ゲーデルの定理が教えるように、世界が世界のなかで世界であることの証明を停止せざるを得ない論理的モメントがたしかに世界のなか自体には「存在」する。それもこの世においては厳密に「論理的」にそうでなければならないのだと声を大にして言っておこう。自分で自分を証明することはできないというこの数学的論証を俟つまでもなく、天使的関与と介在はなぜか存在せざるを得ないし、必要条件なのである。天使がいなければ、何かが通過しなければ、何らかの「介入」がなければ、世界が在ることの論証はそのままでは成立しないのである。だからそれは立派に世界への介入を果たしているのだ。

 リルケの詩を読んだり、エル・グレコの絵を見たりする限りでは、少なくとも空間的知覚に関して、天使的関与、天使的介在はいたるところに確認されなければならないし、実際、それが確認済みであることはすでに自明である。そうでなければ、われわれはすでに「すべて」を知り得ていたはずなのだ。万物は流転するだけではない。すべてはない、すべてではない、とラカンが言っていたことを思い出しておくのも無駄ではない。心的事象に関して、天使的介在が最も頻繁に起こっているはずのわれわれの無意識のもつ組成が、ラカンが言うようにボロメオの輪のようになっているのであれば、われわれがいつもそんな運命にあるとでもいうように、というかむしろ有史この方ずっと、ペテンにかかっているような気分に陥っても無理はない。輪を一つ壊すと、想像界、象徴界、現実界という三つの輪はばらばらになってしまうのである。では、なぜボロメオの輪はそもそもバラバラではないのか? 輪がバラバラになる契機があるのであれば、最初はどうして輪はバラバラのままではないのかまことに不思議である。人間の頭や心はもともと壊れてはいないからだって? そんなことはないだろう! そんな証拠がどこにある? ラカンはそうは言っていないが、三つの輪の結ぼれが壊れていなかったのは天使的介在があるからではないのか。
 天使的空間の知覚についての私の気まぐれな思いつきに過ぎないが、バタイユの名前を出したついでに、ひとつの卑近な例をあえて述べるなら、さもなければ、つまり天使的関与がなければ、例えば、松果体(バタイユは「松毬の眼」というエッセイを書いている)は脳の奥で何の謎も形成しはしないだろうし、空間的知覚においてすら、遠近法の消点はなく、したがってご存知の合理主義というか、ある堅固な合理性を崩壊させる盲点であり続けている人間的「知性」の立脚点も消え失せ、科学が教えるのとは反対に、われわれの脳が生産し続けるメラトニンも、ましてやジメチルトリプタミンもただの涎か鼻水のような分泌物にすぎないということになる。だが実際にはそうではない。これらの分泌物は空間的知覚に突然介入することが知られている。

 何も理解せず、何も知らず、何の確信ももてないわれわれは、空から、つまり外からこの世の空間のなかに星が一個落ちてきただけであわてふためいているではないか。ツングースカの正体不明の大爆発は言うに及ばず、最近も大騒ぎがあったばかりである。星が一個水のなかに落ちると水が苦よもぎのように苦くなる、と聖ヨハネは「黙示録」のなかで予言し、または回想しているが、苦よもぎはフランス語では他の酒とは酔い方がひと味もふた味も違うアブサンのことであり、ウクライナ語あるいはロシア語ではチェルノブイリである。チェルノブイリは苦よもぎを意味しないという人がいるが、それはいずれにせよ「黒い草」であり、よもぎであることに変わりはない。「正確に言えば」、違う、違うって、この手の人たちは学者なのだろうが、何を必死に思ってこんなチンケなことをさも重要そうに言い続けているのかということの方が私には興味深いのである。われわれがよく知るように、残念ながらとても恐ろしいことだが、チェルノブイリでも福島でも水は苦くなってしまった。

 勿論、天使にはもっと違った「形態」もある。ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』のブルーノ・ガンツ扮する天使はむさくるしい中年のおっさんだったし、ゴダール監督の『マリア』(こんにちは、マリア様)の大天使ガブリエルもずいぶん柄の悪いゴロツキみたいだった。女優がゴダール好みであることが一目瞭然である妊娠した聖母マリアは、ベッドの上でのけぞり、シーツをくしゃくしゃにして妊娠ゆえのヒステリー・アーチを描いていたが、彼女への受胎告知の役を担っていたはずのガブリエルは、同時にレイモン・クノーの『地下鉄のザジ』に登場するおかまのガブリエルでもあった。このチンピラ風情の大柄の大天使は、ザジとおぼしきショートカット・ヘアーの生意気な少女と仲良く二人連れだったからだ。
 大天使ガブリエルがおかまのガブリエルと同一人物であるということは、やはり天使がアンドロギュヌスであるということなのだろうか。だが、アンドロギュヌスならばわれわれにはかなり身近な境遇でありすぎるし、ずっと前に中沢新一が同じようなことを言っていたように思うが、天使はむしろ二つの性をもつ者ではなく、二つの性を抜き取った存在であるとは考えられはしまいか。n−2。だが、もう一度さらにひねくれて考えてみるなら、天使とはこの数式の解なのか、それともnそれ自体なのか。二つの性? それじゃあまりにあまりに人間的であるし、二つの性が抜き取られるなどということはあまりに美しすぎる現象である。そんなことでは「介入」はセックスの周りをぐるぐる周回することになり、弱々しいものになりはしまいか。それにもしそうであるなら、そもそも天使的介在は、いったいこの数式自体のどこに隠れているのか。どんな数論的操作があるのか。二つの性を抜き取る? 無性? 両性具有? それなら、天使の「形態」が「岩石」や「水」や「木」であってはいけないのだろうか。私としてはむしろ天使が死にかけの老人や犬であったりするほうが好ましいようにも思えるのではあるが…。

 古来、天使は、アリストテレスやアヴィケンナやアヴェロエスなど多くの人たちによって語られてきたが、彼らは所詮哲学者であった。少なくとも私の大好きな中世の神学者ドゥンス・スコトゥスはそう考えたに違いない。この世において、天使は物質(質料)とともにあるとはいえ、この場合の物質とは、「創造」の二つの極のうちの一方である。天使は神のそばにあるものであり、他方、物質は虚無のそばにあるものである。ドゥンス・スコトゥスは、アウグスチヌスの考えを引き継いでそんな風に考えた。この二つの極限の間になら、人間存在を位置づけることがより容易になるのだ、と。天使とは分離された「知性作用」であり、それなしでは宇宙の構造も、生成と腐敗をともなった天体の運動も説明できない。それなら天使とは「一性」の分離された実体、「一性」の別種の様相のことなのか。
 天使が時間のなかにいないとすれば、それは場所のなかに位置することができるのだろうか。精妙博士と呼ばれたドゥンス・スコトゥスはこの考えに反対する。場所のなかに天使が現前するとすれば、それが場所のなかの何らかの働きに結びついているにすぎないからであり、それは「あたかも場所のなかに在ることが、場所のなかで作用することと同じひとつのことであるかのように」すべては生起するからである。最初の方で私が述べた「移行の痕跡を纏う」とはこのことであり、結局のところこの移行とは場所のなかへの移行であり、この移行の裏面においては、非在の様態を通した空間への介在なのである。それと同時に、あっ、と言う間もなく、天使の姿はもはやそこにはないのだけれど…。Un ange passe. ほら、「天使が通る」というフランス語が、会話が途切れ、座がしらけたときに言われる表現であることをもっと強い意味にとらなければならない。天使が通過すると、空間が変質する。それ故に天使は空間の原因でも結果でもなく、そのようなものとしては現実化できない何かであるとともに、この空間が有限性の刻印を帯びたものであることの瞬時の「否定」を体現しているのである。

                                    *

 天使? 天使という言葉を聞くと、少しばかり異色な二冊の本を思い出す。ひとつは、ギー・ラルドローとクリスチャン・ジャンベというフランスの若き哲学者たちが書いた『天使』(L’Ange, 1976年、グラッセ刊)である。この本は、政治と哲学によって、三つの存在論(と彼らは言う)であるライプニッツ、ヘーゲル、ラカンによって、革命が可能であることを、つまり「天使」を例証しようとするポレミックな書である。なんといっても、近い過去に著者たちはマオイストの過激派だった。失脚した四人組の一人、林彪の狂気にあくまでこだわろうとする「意志と表象としての林彪」(!)という論文が含まれているくらいなのだから。もっとも著者の一人であるクリスチャン・ジャンベは、ユングや鈴木大拙の盟友であったイスラム学の泰斗アンリ・コルバンの弟子であり、後に『東方人たちの論理』をはじめとするイスラム神秘主義の本を書き始めるのだから、この「天使」というタイトルが単なる思いつきではなかったことは明らかである。
 もう一冊は天使的舞踏家である笠井叡の『天使論』(1972年、現代思潮社刊)である。サドを援用していたはずのこの理論的な本がとても難解だったということだけではなく、ティーンエージャーの頃に読んで異様な衝撃を受けた、私にとってはそれなりに分厚かったこの本も、悲しいかな神戸の震災で大量に失った本のなかの一冊になってしまい、その後もう一度読もうと思って友人に借りてはみたものの、結局再読できずに返してしまったものだから、いまここで記憶だけでこの本の解説をすることは私には無理である。そのかわりに、と言ってもなんだが、珍しいことに、澁澤龍彦が自分より若いこの友人の著書について、「よくある舌ったらずのアナーキストの本ではない」というような趣旨のことをどこかに書いていたはずだということだけをいまは申し添えておきたい。

 覚えているはずのない、つまり体験などしていない記憶の喪失者になったときの自分を思い出すことができるなら、そして肉体と魂がほんとうに入れ替わることを実地に体験できるときがあったとすれば、われわれはそのとき天使であったかもしれない。私は天使ではなく、そして「私」は天使である。天使は別の「人」である。私は天使が石であってもいっこうに構いはしないが、われわれには実のところ天使が「人」に近いものであってほしいという願望を否認することができないのかもしれない。いにしえの画家たちへの熱烈なオマージュをこめて。……
 故石井恭二が論理の深さとその徹底性において日本思想史における二つの柱は道元と埴谷雄高であると言っているくらいだから、真の巨匠であった埴谷雄高についてこんな失礼極まりないことを言うと、私の敬愛する冥界の石井さんに叱られるかもしれない。だが、まあ、いいだろう。ごめんなさい、蛇足ついでに言っておきます。つまり…、前々から私がひそかに思っていたのは…、埴谷雄高の『死霊』や『虚空』という作品は、「天使」というタイトルにすり換えることが可能なのではないかということである! 『死霊』や『虚空』が、恐らく時代のせいもあって(たぶんそんなものさ)、デモノロギーの漠然とした雰囲気のなかで書かれたことはおおむね間違いないだろうが、正直に言えば、たぶん大方の予想に反して、悪魔学への信奉は私の得意とするところではないのだ。
 「虚空」から引用しよう。このくだりは、様々な意味で天使的記述であると言えば言い過ぎになるだろうか。

 すべては数秒で終わった。白い岩地の上へ横へのびた長い私の影が鮮やかにうつった。そのときはじめて堪えがたい悲痛が一陣の目に見えぬ風となって私をつつんだ。自身をとりもどした一瞬に、それは電流のようにさっと総身を走った。この旋風のなかへはいれなかった悲痛は、私の薄暗いなかを凄まじく吹き過ぎた。横へのびた私の影は、もはや私へ重なるように近づいていた。それがくるくるまわって私のなかへはいりこんできたとき、私は台地の中央へ強く打ち倒されて横たわっていた。
 この紗帽山の頂上は恐ろしいほど静かであった。白い岩地からは、乾いた匂いがゆらゆらとのぼった。風はこの円い台地の上をゆるやかに吹いていた。
 硝子の柱は、紗帽山の白い台地を見下ろしながらのぼっていた。円い壁をぎらぎら光らせながらのぼっていた。それはすでに数十間のぼっていた。頂点に架かった一塊りの黒い雲が光を覆ったとき、一瞬、ひとつの現象が起こった。円筒の底部に、二重の円を描いて、白い円がくっきりと鮮やかに浮かびあがり、そして、ぐんぐん縮まっていた。その中央に一点の黒い侏儒となって肢をのばした形が小さく映っていた。見るみる裡に縮まってゆくその黒い侏儒は、円い壁をもった、不気味なほど細長い、円筒のなかへ墜ちてゆくように見えた。紗帽山全体が白い円とともにこの巨大な溶鉱炉のなかへ真っさかさまに墜ちてゆくようであった。この紗帽山の真上にあるあの真昼時の大時計がそのとき最後の時を敲って、音もなくゆるやかに顫え鳴った。円筒はすでにきらきら光る硝子の棒のような形となって上昇していた。《hovering, hovering, hovering……》真上に眩ゆく輝いている蒼穹のなかで緻密な透明なものがかすかに敲ちあう澄んだ響きを虚空にたてながら、それは小さな透明な柱となって果てもなくつきのぼっていた。

 最後に、さらにもっとわかりやすい天使的記述の顕著な例をもう一つ。アルチュール・ランボー「イリュミナシオン」のなかの「夜明け」より。

 俺は夏の夜明けを抱きしめた。

 宮殿の正面ではまだ何も動いてはいなかった。水は死んでいた。影でできた野営地は森の道を立ち去ってはいなかった。俺は歩いた、清々しく生暖かい息を目覚めさせながら、すると宝石がじっと見つめ、そして翼が音もなく舞い上がった。

 最初の企ては、爽やかで蒼白い輝きにすでに満たされた小道にあって、俺にその名を告げた一輪の花だった。

 俺が黄金色の滝(ヴァッサーファル)に笑いかけると、滝は樅の木越しに髪を振り乱した。銀色に輝く梢に、俺は女神を認めた。
 それで俺は一枚ずつヴェールをはがしたのだ。並木道では、腕を振りながら。平野を通って、俺は雄鶏に彼女を密告した。大都市では、彼女は鐘楼とドームの間を逃げてゆき、俺は大理石の河岸を乞食のように走って、彼女を追いかけるのだった。

 街道を登ったところ、月桂樹の森の近くで、俺は寄せ集めたヴェールで彼女を包んだ、そして俺は少しだけ彼女の巨大な肉体を感じた。夜明けと子供が森の下のほうに落ちてきた。

 目覚めると正午だった。

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