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お知らせ(第39回 闇の読誦)

  第39回 闇の読誦 - 2013.06.05

                                                        第39回 2013年6月
                                 

 闇の読誦

                                                                    鈴木創士

 

ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男

 

                                     
 いま窓を開けたら、鳥の白い羽根がいくつかぱらぱらと落ちてくるのが見えた。不思議な眺めだった。

 数日前は映画館にいた。

 ジャン・ルイ・シェフエール、「暗闇の聖務(レッスン)」の冒頭より。
 「まずは闇の中を舞う光の粉塵があり、しばしの間その集散の中に身体を描き…」。

 映画館の暗闇の中の粉塵は、現実の像を結ぶ何かであって実在性そのものではないことがわかっているのに、ここでそれは大きな密度をともなって息もできないほどの塊りになりかけている。光は窒息と茫然自失の徴候なのだ。だがこれもまた現実のさなかに起きていることであり、事象になろうとする事象の成分を構成するものであるに違いないのだという思いが脳裡をよぎる。俺は目を細めてみる。現実を見つめることはできない。誰かがそんな風に言っている。ついいましがた椅子に腰をおろしたはずだったわれわれの身体はすでにそこを立ち去り、消えてしまおうとしているからだ。光の粉塵はスクリーンの上で別の形に収束し、別の身体となり、場違いな、大昔の幽霊のように行ったり来たり、あるいはわれわれの目の中をじっと覗き込んだりしている。そこにいる幽霊たちの向こうには、別の明るい街路が続いているのが見える…。

 ……映画が始まったのだった……。

 光と闇。だが光「と」闇があるのではない。暗闇の中でそれを見たと思ったのだから、俺はそれを見たのだ。闇がわれわれの記憶と地続きになっているからこそ、イマージュがわれわれにそっくりな何かであり、シェフェールに倣えば、時には稀に自虐的であるこの互いに似たような「自己省察」を引き出してしまうということになる。だが、すべては不確かな霧の中に紛れて、形をつかもうとしてもすでに、いや、はじめから蒸発したようにそこにはないかのようなのだ。われわれの経験を確かめることはできない、そしてベルクソンが言うように記憶もまたイマージュによってしかつくられてはいないのだから、映画のイマージュと自分自身の像があまりにもぴったりと別の一つの像を結ぶことがあっても、最初から映画の登場人物たちは、私にとって私自身がそうであるのとまったく同じ資格で、幾つかの、それも似たりよったりの「分身」でしかないのがわかる。そう、そう、俺が言いたいのは、それは分身でしかないけれども、分身には違いないということだ。
 「それらのイマージュたちは半睡の白日夢の無根拠な想像の様態ででもあるかのような具合に現れ、つまりは熟考の苦慮や表現し難い時間の経験の介在などなしに一挙に僕自身を巻き込み…」。
 要するにイマージュは想像力の埒外にあるものであり、想像力の外に出てきた途端にわれわれの思考の原形がそうであったように振舞い始め…、そう、だからとにかくわれわれはつねにそこここでこれらのイマージュに巻き込まれざるを得ないのである。それを身をもって知らねばならないのだと私は自分に言い聞かせてみる。それを確かめねばならないのだ、と。たとえ半睡半醒でも、長く続く白日夢の準備中であっても。ほら、われわれはまた身体の話をしているのさ…。

 EP-4のライヴを演った次の日、映画を見に行こうということになった。私はくたくただったが、頭の中にはまだ昨日の「音」が鳴っていて、心臓の弱々しい鼓動のようにだが、音の振動はまだ続いていた。この心地よい軽微な脳震盪を鎮めるには白黒のフランス映画は多くの場合うってつけである。

 

ママと娼婦


 ジャン・ユスタシュ監督『ママと娼婦』(1973年、220分)。ずっと見たかったのに、ずっと見ることが出来なかった映画のひとつだったが、それがちょうどライヴの次の日に京都で一日だけ上映されるのがわかっていた。われわれは四人だったが、開幕直前に行ったので、席は一人ずつばらばらだった。一番若いフィーフィーだけが、この映画は二度目だった。こんな映画はひとりで観るにかぎる。と、思ったのもつかの間、ひとりで最後列の席についた途端に、「鈴木さんですね」、と隣の席から声をかけられた。京都の顔見知りの男性だった。
 映画館は木のない森のようなものであり、夜の森の中で人間を介さずに起きるのと同じような事が人と人の間で起こっている。映画を映画館で観るとはそういうことでもあるのだ。私は身動きできないように何かに釘付けになった。私はダンテの「地獄篇」の自殺者の森の木のことを思い浮かべていた。

 映画が始まるとすぐに激しい睡魔が襲ってきた。私は力を振り絞ってそれに抵抗する。普段なら眠りの中で淡い夢の登場人物をぼんやり通して映画を見るのも悪くはない。だがこの映画はどうしても見ておきたかった映画だし、たまたま隣に知り合いが座っていたこともあって、そこで鼾をかいて寝てしまうというのはなかなか照れてしまう状況だった。私は「眠りの儀式」など金輪際知らない振りをして、そいつに背を向けるようにして睡魔に抗った。私のまばたきは暴風雨の海で沈没しかけの船の上で振られる手旗信号みたいだった。すると面白いことが起こった。
 夢を見ているわけではないのに、私のすぐ前を、ということはずっと離れたところにあるスクリーンと私の間を、人影のような黒い影が何度も通り過ぎるのだ。実際にはそれは前列の座席と私の目の間で起きているはずなのだが、同時にそれはスクリーンと私の間で起きている出来事のようにも思えた。映画館はやはり森のようだった。彼(そのシルエットは紛れもなく男性のそれだった)は身をかがめながら通り過ぎたり、私の方に覆い被さるようにこちらに向ってきたりしている。映画館の森の中で、そこには存在しない木々が揺れて、木の影も何もかもが動いているのだろうか。
 私は座席に腰かけたまま何度ももぞもぞ動いていたし、レム睡眠に入って瞬間的に淡い夢が始まりかけていたのではなかった。レム睡眠とは逆の何かが起きていた。第一、そんな科学的言い訳などどうでもいい。とにかく黒い半透明に近い幻影が私のすぐ前を通り過ぎてゆくのを何度か見ることになったのだ。通り過ぎる速度はけっこう早かった。彼は私のすぐそばの横手から現れ、まるで無言のままただ私の前を横切ることだけをその務めとしているかのようだった。私には何の感情も起きなかった。ただ私はシェイクスピアの『嵐』の、荒れ狂う島に漂着した、あの魔法使いプロスペローの台詞を思い出していた。あれらの役者たちはみんな幻影だった、あの壮麗な宮殿も、あの雲を頂いた塔も、地球自体も、すべてがフェイドアウトするように消えてしまう…、という台詞を。
 睡魔はまるで嘘のように突然おさまった。

 ゴダールやトリュフォーやロメールたちに賞賛され、ヌーヴェル・ヴァーグの後継者と目されていたにもかかわらず、ジャン・ユスタシュはこの映画の八年後にピストル自殺を遂げている。伝えられるところでは、自殺の場面を自らカメラに収めていたらしい。そんなものを見ることができないことがわかっていても、私はそれを見てみたいと思う。映画館はやはり自殺者の森に似ているのだ。木は木をじっと見ている以外にすることがないではないか。最後の作品は『僕の小さな恋人たち』。等々、エトセトラ。

 

ジャン・ユスタシュ


 だが作品や監督のデータについてのあれこれなど、映画のことをさして知らない私がここでわざわざとってつけたように触れたり解説したりするには及ばない。私は映画評論に興味があるわけではない。というか映画評論などもはやほとんど存在しないも同然だと思っている。文学には文学評論は便宜上あるだけだし、ただ「文」がそこにあるだけであるのとまったく同じように、あるいはまともな美術評論や音楽評論がごくごくわずかの例外を除いていまやほぼ存在しないのと同様に。われわれが日々読まされている美術評論や音楽評論など、どれもこれもつまらないし、不甲斐ないものばかりだというのは毎日のように聞く台詞である(厳密に全部がそうだとは言ってない…)。
 ともあれ、われわれが最後に必要としているのは「何らかの」情報ではない。そんなものはいたるところに転がっているし、選り取り見取りじゃないか。勝手に探したいだけ探せばいい。真のエキスパートはどこにいる? 真のエキスパートなど狂気の中にしか存在しない。業界など存在しない。そんなものがあったとしても、屑かゴロツキの集まりにすぎない。いい加減、あまりといえばあまりである、このあまりにもお粗末な疲弊した状況、これほどの徒労感の中であれこれ考えるのが嫌になることだってあるさ。映画についての文章、いや、映画の文章(この「の」はとても曖昧だ)、絵画の文章、音楽の文章、もっと言うなら、映画−文章、絵画−文章、音楽−文章、高みであれ地の底であれ這いつくばってであれ、あれらの作品と同等(としか言いようがない)の水準で、もしそれらを書くことが出来るなら…、それ以上のことなど望むべくもないのではないか。閑話休題。

 主演はジャン・ピエール・レオ。私がいかにジャン・ピエール・レオに弱いかは以前にここのコラムでも書いたことがある(第31回、「映画、分身」)。この時代のジャン・ピエール・レオが好きだ。最近観ることができた、これまた別の観点からの五月革命映画と言えるベルトルッチの『分身』の冒頭のシーン、カフェでそわそわしている、あるいはいつものように苛々しているように見えるトレンチコートを着たピエール・クレマンティは?… だが彼らが、映画の外でも、つまり現実の中でも、誰の分身でもなく、ただの「分身」であることには変わりない。分身にはもともと主人がいないのだった…。

 

ジャン・ピエール・レオ

 

 

ピエール・クレマンティ

 


 私はジャン・ピエール・レオをずっと注視してやろう、彼の一挙手一頭足を追いかけてやろうと思ってこの映画館にやって来た。だが、無駄だった。映画の中でカフェ・テラスに座るジャン・ピエール・レオは(カフェのシーンはどれも素敵だったし、むしろ部屋の中のシーンよりもこの映画全体の縮約であるように思えた)、映画ではなく日常の中でカフェに座っていたジャン・ピエール・レオとまったく同じように、どこか蹂躙されたような、あからさまで、それでいて不分明なままのひとつのイマージュでしかなかった。すでにして世界はわれわれに、われわれは世界にあまりにも似てしまっているのだ。

 映画館の暗闇の中で、われわれは何かを黙々と声に出して読んでいる。聞こえないのは自分の声だけだ。闇の読誦とは暗闇で蠢く光の粉塵の教えである。陽の光が射してくれば、祈りのお勤めは終わるはずである。

 この映画が五月革命以降の単なるメロドラマになりおおせていないとすれば、スクリーンがいまだに、というかいつまでたっても朧げなわれわれの記憶の延長にあるからであり、名づけようのないイマージュが、映画館の中のわれわれと同じように、われわれの経験をすべて忘れ去ってしまったかのように、あるいは失われた時間が突如として逆転し、ありそうもない方向から逆流するようにして、日の光のもとで一瞬にして消えてしまうものが、このスクリーンに映し出された白と黒の中にたしかに刻み込まれていたからである。

 夜も更けて、映画館から出て外の道端で友人の運転する車を三人で待っていると、若い二人組に声をかけられた。「あのー、EP-4の…」。昨日のライブに来てくれた人たちだった。映画館の外の、このあまりぱっとしない外部にも、かろうじて森の余韻が続いていたことになる。……

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