お知らせ(第43回 天使は激怒する)
第43回 天使は激怒する - 2013.10.05
第43回 2013年10月
天使は激怒する
鈴木創士
9月20日、EP-4の代官山UNITでの二度目のライブが終わった。
私にとって、音楽はつねにまず最も高度な抽象性のなかに厳としてあるものだが、演奏という次元においては、「音」はこの抽象性を裏返すようにして肉体の縁を通過し、反対側から皮膚をもう一度食い破るようにして回帰する。音を通して内と外の結合は同時に起こる。しかし音は結局外からやって来て、再び外へと出て行く。出て行ったまましばらく塊(マッス)となってそこにとどまっている。儀式は完璧なものでなければならないが、現実のライブではそうもいかない。だからこの屹立して膨張しようとする立体のマッスはかなり微妙なものとなる。外縁はどこにもなく、中心はいたるところにある。エネルギーに変換された質量としての音はやがて消え失せるのだが、消え去ったものははじめから存在していなかったのと同然である。
大音量であればあるほどそういうことが起こる。そのとき、演奏の最中には、肉体と耳、(私はキーボード奏者であるから)手と脳は乖離し、互いを必死で隔離し、無きものにしようとするが、演奏者はそれに瞬時に反発することになる。われわれ自体が分解してしまうのを本能的に防御しようとするのだ。たぶんほとんどの音楽家にとって、それは水が上から下へ流れるように、超絶技巧的に、ごく自然になされるはずであるが、どうしてなのか私の場合はそうはいかないときがある。きっと目の端でチラチラする何かのように自動人形が事もなげに眼前でギクシャク動いていたりすれば、叩き壊したくなるだろう。
だが、だからといって、最近は人工的な手段で「脳死」状態に自分を強硬に追い込むようなことはしなくなった。この根源的分離に別の次元が現れ出しているのかどうかはわからないが、ともかく生命の危険が控えているからだ。音楽の贈り物とは、私にとってこのことである。いま言えるのはそれだけだ。ライブは当然のことながら死者を呼び出すこともあるが、歳や体力のせいもあって、ライブと言うだけあって、事はいまだ生きている生命にかかわるのである。
EP-4(写真・二階堂はな)
ライブが終わると、爆音だったにもかかわらず、いつも「天使」がそっとそこを通り過ぎていったような感じになる。空間は必要以上に空っぽになり、何事もなかったかのようにしらけた風が吹き抜ける。いや、風なんか吹かない。ノイズも聞こえない。まったくの凪である。別に気詰まりなことは何もない。不満も満足もない。痕跡は跡形もない。浜辺に打ち上げられた季節外れの残骸のように見える幾つもの楽器の散乱したシールドが床に転がっているだけだ。ほのかに林檎酒であるシードルの残り香が漂ってくる…。
*
そういうわけで、腹八分くらい消尽気味のまま、憂鬱な数日を過ごしていた。ほどよく軽い脳震盪状態からもうほとんど抜け出してしまったからだ。
そんな折、最近再刊された舞踏家・笠井叡の『聖霊舞踏』を読み直した。何十年ぶりかの再読だから、それは新しく読んだことに他ならないが、私は軽いショックからいまだ立ち直れないでいる。それを隠しはしない。EP-4の次が笠井叡…。なんてことだろう、若い頃、俺はいったいどこで何を読んでいたのだろうかと思わずにはいられなかった。澁澤龍彦のエピゴーネンは巷にそれほど珍しくはないだろうが、澁澤氏にとっても笠井氏にとってもあずかり知らぬことであるとはいえ、この本を読めば、笠井叡が澁澤龍彦の最も良き弟子のひとりであったことがわかる。なぜなら彼は最も過激な弟子のひとりであるに違いないからだ。それほど強力だったのだ、十代から三十代前半に書かれたとおぼしい文章を集めた、私が二度目に読んだはずのこの本は!
舞踏家は冒頭からこう記している、「天体の諧音が頭脳の中を輪舞し、思考器官が澄みきった秋空のように明晰であればあるだけ、言葉を用いて、世界の事柄について考えるということは、困難なことであると同時に苦痛である」。
天体の諧音…。それを耳にしたことがあるだろうか。倍音は脳から溢れ出た脳の増幅であり、それは脳が自分を忘却すればするほど天空のある階層に匹敵するのだが、「同じような」音からできている和音は脳のシナプスの接続を累乗し、それを脳の深部で宇宙のどこか、どこかどこでもない場所に似た別の空間に変えてしまう。和音が不協になればなるほど空間の像はダブってくる。何かと何かの間(ま)でもあり、大伽藍になるときもある、あちこちに穴があいたようにして姿を現すスペースは、ムーサの女神たちの神殿に逃げ込んだピタゴラスの断食の喉の渇きや、イタリアの町から追放されたピタゴラス派の哲人たちが定理を発見して垂らした涎のように、ノイズとともに増幅し始める。この爆発的増幅は数学のように美しい。われわれはもはやすでに脳の中にも、ここにも、そこにも、どこにもいないのだ。
だからこそ向こうからこちら側にやって来るものは、こちら側に辿り着く寸前に、言葉の苦痛、つまり言葉それ自体と同じように、肉体のあまりにもぼんやりとした形骸に似てしまうことがある。こうして肉体の影があちらこちらに残存することになる。暗がりの中には暗がりが、闇の中には闇があった。私は聴いている。私の肉体が聴いている。それが音なのか、自分の声なのか、ウィルスのように肉体に寄生する言葉なのかはわからない。肉体は謎であるというよりも、謎は肉体なしではこの世に姿を現すことがなかったのだ。スフィンクスを前にして、かつて肉体があの声を発したなどと言いたいのではない。そんなことはあり得ない! 舞踏家は飛び跳ね、からだをくねらせている。何という違いだろう!
「人間にとって、至高の特権とはすなわち、肉体が何物によっても救済されない、という事だ」。私は思考している自分を思考している自分を思考している自分を思考している自分を思考し……。私はそれが肉体の形をしてくることに最初は驚喜し、ついでそれがただのまやかしであったことに絶望する。私は神秘学の激流をぼんやりと眺めている。それを足の下にぼんやりと感じ取る。私は何もわかっていない。思い上がっているわけではないが、そう思える瞬間は日常の中にそう頻繁にあることではない。肉体と同じかたちをした橋がそこに懸かっている。聖人たちと罪人たちの行列がそこを通り過ぎる。私は存在を憎悪しているのか肉体を憎悪しているのか次第にわからなくなる。それにしても何という悲惨なのか。
笠井叡『銀河革命』より
そして揺るぎなき師であり盟友であった土方巽の衰弱を批判した一節から始まる文章の中で舞踏家が言うには、悲惨の極北には、ジャンヌ・ダルクの片腕であり後に血塗られた青髯となったジル・ド・レではなく、史上稀に見る悪女、血の伯爵夫人エルゼベート・バートリがいるのだ、と(ランボー、「俺は向こうに女たちの地獄を見た…」)。公開処刑の場で華々しく消え去ったすべての歴史上の男たちよりも、ひとつの謎を一片の塵も落とさず、何も残さず、何も語らず時間のまっただなかに持ち去った彼女の完璧さに舞踏家は賛嘆するのだ、と。私は結局のところ聖アウグスチヌスの『告白』という本が好きではあるが、聖アウグスチヌスに逆らって、肉体は、悲惨を知らない肉体、つまり肉体と巡り巡った肉体の悲惨は、何も告白しないし何も打ち明けはしないのである。神であれ人の子であれ、誰かに告白したからといって、どうなるものでもない。悲惨は芸術を含めたすべての文明の所業と生業を峻拒し続けるだろう。なぜなら文明は歴史のいかなる時点においてもこの肉体に加担しなかったからである。文明はいずれ滅ぶが、(舞踏家の)肉体はどこで死のうとも滅ぶことはけっしてない。塵のまた塵がどこかに残存する。いずれにせよ文明が滅ぶのは男がつくったものだからじゃないか、と誰かが言う。誰に向かって何と言おうと、すべては真っ赤な嘘で塗り固められている。ミラーボールの下で、土砂降りの雨の下で、舞台の上と舞台の外で、立ち上がったスフィンクスのように仁王立ちになって燦然と輝いていたのは、この世の男だったのか女だったのか。
生きた肉体ははじめから死んでいたように燐光を放っている。われわれは冷たい星の光をじっと見ているのだし、その微光を庭でひなたぼっこをしている少女のように浴びている。死は、不埒にも詩人が肉体を迂回できるようには、すでに非人称的であることをとうとうやめざるを得なくなっている。詩が死に向かって純化していくように見えるのはただのお粗末な幻影にすぎない。本質をどこへ探しに行こうとも、詩の中にあらためて詩人の不在など見つからないではないか。なぜなら詩人などはじめからいなかったからである。もし死が、人が言うごとく詩がそうであるとでもいうように、非人称的であるのなら、どこにも、生のどの時点においても、幸せなことに恐怖など存在し得ないはずである。言い換えるなら、死が人称の中にあるからこそ、死は死の恐怖から解放される可能性を持つことができるのではないか。だから誰もが時間の素材を、単なる素材をいじくりまわしていたように、詩が詩によって救済されればされるほど、恐らく肉体が救済されることはけっしてないだろう。繰り返すなら、肉体は、舞踏家のそれについては言うまでもなく、滅びることはないからである。
「人生が泡沫(うたかた)の夢であるなら、「死」とはこの夢の仮寝からの目覚めの瞬間なのだろう。この死によって、目覚めの大欠伸と共にひとりの巨人がゆっくりと起き上がるのだ。水の流れる音が聴こえてくる。冥府の入口に流れるこの紫色の冷たい水で、目覚めた巨人は顔を洗う。けれども、人はかつて自分がこの巨人の瞼のスクリーンに映し出された夢の登場人物であることを、すっかり忘れている。死んだのは確かに自分であったのだが、死によって目覚めたのは自分ではなくて、このひとりの巨人であった。この巨人は眠れる街中に横たわり、また人間のひと齣の細胞の中にも横たわる」。
夜がそっと皮膚の上にまで降りてくる。この巨人は冷たい星の光でできている。
笠井叡が舞踏するのは、さっきも言ったこの悲惨という観念を「この肉体」で愛するが故であると言う。外で起きている惨劇(ドラマ)はまったく同等の資格で肉体の中でも同じように起きている。歴史には稀にそういうことが起こるのだし、アルトーの精神病院への監禁の日々はまさにそういうものだった。そうとも、悲惨なことに、だから舞踏家は飛翔しながら肉体の中に降りていく。肉体が肉体の中にゆっくりと降りていくのだ。闇の中の闇はぼんやりと光り、ひとつの井戸が掘られ、一方、梯子は中空で消えてしまう。暗黒舞踏も聖霊舞踏も若造だった私にそのことを教えてくれた。
「思考が宇宙を頭蓋の中にしか封じる事が出来ぬ以上、思考は宇宙に対して、遠心、求心の両エネルギーを持たない、それ自身の限界を露呈する事になろう。思考する権利、それがあるかないかを知る事が問題であったアルトーがその思考の闇の中に自らを委ねようとする強力な意志は頭蓋の中にちりばめられた星雲群がそれを破って散ろうとする苦渋に似ている。精緻な錯乱に見舞われた頭部から、思考の雫は肛門括約筋上の皿に落ち、全身の力がその雫に吸い取られて、二本の足で身体を支える事が出来なくなる」。
思考の腐蝕によって、どうしても思考できないという本質的無能力によって頭蓋にあいた穴、その穴から肛門までの垂直のまっすぐな狭い道は肉体を監禁するための数々の罠を仕掛けて、われわれにそれらを示してくれる。それは足穂が言ったように驚くほど単純なかたちをしている。翼をもった肛門は大団円ではなく、円筒形の終わりであり、要するに空間は此処に失墜し、此処に眠るのだ。
大爆発を起こした星雲が飛び散るように、肛門から糞が飛び散る。息も絶え絶えの超新星の最後の爆発は一個の穴となり、宇宙の肛門となる。N次元の肛門は吸い込むのも吸い出すのも自由自在である。晩年のアルトーは、糞が臭うところには存在の臭いがする、と言っていた。肛門から角を持った怪物が迫り上がってくるのだ、と言っていた。「糞便性の探求」とは、星が一個死滅し、また生まれ落ちるのと同じくらい無意味である。アルトーは、存在を、原因でしかなかった存在の結果を激しく憎悪するのと同じように、最後にはあらゆるフェティシズムを、あらゆる有機性を破壊したかったのだと私は思っている。ごつごつした岩だけが見える。器官なき身体はあらゆる呪物を排するのである。
「芸術とは、しっぽを出した謎である。芸術とは物質の黙秘権の行使の失敗である。芸術とは「不満と満足」の模型である。芸術とは個から物質への見えざる技である。芸術とは現代の古代である」。
そして私は舞踏家の語るこの命題にいかなる留保もつけようとは思わない。
この本を読みながら、ふと幾たびかあらぬ考えが脳裡を雷光のようによぎった。笠井叡という舞踏家は、氏に対して大変失礼な言い草ではあるが、もしかしたら「狂人」ではないのか、と。カンテラをかかげていたかどうかはわからない。私にはこんなことはめったにない。誰かのことを狂人であるなどと思うことは、どこかの人物を神であると思うことがまったくないように、ほとんどあることではない。
最近の笠井叡氏の舞台をずっと見たいと思っていたのに、念願は果たされていない。京都で行われた古事記から着想を得た舞台も、麿赤児との共演も残念ながら見逃してしまった。見逃した肉体は二度と拝することはできない。
この舞踏家の舞台を最後に見たのは70年代の終わりだった。私の記憶が間違っていなければ、それは「ソドムの百二十日」と題されていた。舞台の上には木製の椅子が一脚置かれているだけで、バックにはミシェル・シモンによる、セリーヌの「なしくずしの死」の朗読が流れていた。段々になった有楽町(だったと思う…)のこのホールの客席の中ほどには、前の席に足を投げ出したサングラスの澁澤龍彦がいた。
覚えていることがある。私は私の知る限りそれまでの舞台とは何かが少し違っているという印象を受けた。普段着のままの舞踏家は、踊りながら明らかに激怒していた。私は天使が激怒するのだということを知った。少なくとも私にはそう見えたのだ。