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お知らせ(第44回 誰かが見たはずの夢について)

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                                                          第44回 2013年11月

 

                      誰かが見たはずの夢について


                                                                        鈴木創士

 

ミシェル・レリス『夜なき夜、昼なき昼』『成熟の年齢』『闘牛鑑
笠井叡『天使論』『聖霊舞踏』『銀河革命


 

 「さあ、いよいよ俺の企ても峠にさしかかった、魔法は破れないし、
妖精どもは言いつけを守る、そして時はその荷馬車ともどもまっす
ぐに進んでいる。いま何時頃だ?」   (シェイクスピア『嵐』より)   

 
  告白の専門家といわれたシュルレアリストであり、人類学者で美術評論家でもあったミシェル・レリス。彼の『夜なき夜、昼なき昼』は奇妙な本だ。
 ジェラール・ド・ネルヴァルは『オーレリア』という小説を「夢は第二の人生である」という有名な文章から始めているが、レリスはこの一文をその本のエピグラフとして掲げているのだし、何月何日から何月何日にかけて書かれたという日付がすべての章のタイトルになっていて、これこれの「夢」を見たとレリス自身が言っているくらいだから、どこにもそんな触れ込みは印刷されていないとはいえ、誰もがそう思うように、この本はレリスの見た「夢の記述」を集めたものであることはほぼ間違いない。
 ほぼ? しかし最後までよく読んでみると、これらの夢の記述に混じって「実際にあったこと」と但し書きのついた文章がいくつか散見されるのである。この本が『シュルレアリスム革命』誌当時の典型的な初期のシュルレアリスムの散文のかたち、当時としては非常に斬新に見えたに違いない散文の、スタイルの破壊を装うスタイルを示していると言えばそれまでだが、私にはこれらの夜のない夜の文章、これらの昼のない昼の文章が同じ文法をもっているどころか、同じ素材で織り上げられているとしか思えないのだ。
 夜がなく昼がなかったのに、夜々がありいくつかの昼があったのは、夜の底にあったものが、目覚めたままの白日夢の時間を成り立たせているものと同じであり、夢と白日夢がともにそれ自体が悪夢のような、夢を見てはいなかったはずの現実と地続きになっていたからにすぎないのではないか。現実のなかに降って湧いた文章の素材は、たしかに夢の素材からとられていながら、いや、それどころか逆に夢の素材そのものでありながら、じつはこれらの文章は、最初から白日夢との深い類縁関係の中で、そうではないと言い張りながら自分を探すしかなかったのである。
 枕元に手帖をつねに置いていたにしても、レリスがこれほど詳細に夢を覚えていることは私にとってひとつの驚きである。ここには恐らく二重、三重の、複雑に絡み合った記憶の成層とその忘却のせめぎ合いがあるのはたしかなのだが、夢と記憶のあまりにも錯綜した関係によってレリスの文章が成り立っているというよりも、むしろこの関係こそが原理的にレリスという人格、レリスという人物をつくり上げているのではないかとすら思えてくるほどなのだ。それに話はより単純なことなのかもしれない。この関係はそもそも夢幻的な(オニリックな)関係なのであり、そんなことを言い出せば、昼の意識と記憶の関係といえども、結局のところ同じようなものでしかないことは、われわれがすでによく知っていた規定事項だと認めざるを得ないではないか。

 だがはたして記憶が夢を見ているのだろうか? 無意識が夢を見ているのか? ほんとうにそうなのか? なぜセックスがいつも関係しているのか? 夢が欲望と抑圧を解放しているだって? 夢の中で無意識が解除されるって? あの否定性の権化、誇らしげにわれわれの宿業のすべてを未来永劫担っているつもりで、われわれの鼻面を引きずり回してくれる「無意識」というやつが? ろくでもないことだ! 私としてはできればごめんこうむりたい。なにも私は無意識が存在しないなどと言いたいのではない。それどころか私は無意識を糾弾する。自分のやつも含めて。できればそいつを首にしてこの巷の安稼業から追放してしまいたいと思っている。
 日だまりで夢も見ないで眠りこける犬や猫に私は憧れる。だがデカルトとデカルト派には悪いが、言語をもたない動物たちだって夢を見ていることは、まともな、というか普通の観察眼があればほぼ一目瞭然ではないか。それなら言語としての言葉を喋らない犬や猫に無意識はあるのだろうか。そいつはどうかな。まあ、いいさ、人間の話をしよう。
 でも夢は無意識を透かし絵のように持っていて、夢が無意識なるもののひとつの統合を、ひとつの物語のかたちをなしていると君たちはずっと主張しているじゃないか。統合された物語だって? でもいくらそんなことを言われても、残念ながら私には、夢は「物語の破綻」を指し示す現実的可能性の最たるものとしか思われないのだ。
 もしみんなが、いや、とりわけ精神分析家や精神医学者や占い師たちが言うように、夢の素材が記憶のうちにあり、つまりたとえそれが宇宙規模の何かに刻印されたものであれ、過去がどこでもない場所に保存したものに存しているとすれば、夢はすべての過去を内包していることになる。そう、そう、すべての原罪は過去の賜物であることはわかっているさ。でも忌憚なく言って、あらかじめ過去を支配しているという触れ込みの、この無意識に対する絶大なる「信仰」には、いったい何の根拠があって、とりわけどんな実証的証拠があるというのか?
 たしかに人間にも物にも過去があるさ。アリバイは成立しているかに見える。でももし夢がすべての過去を、すべての過去の情報を内包しているとすれば、われわれは遅かれ早かれ発狂するだろうということは請け合ってもいい。それともすでに発狂済みなのかな。過去の光陰矢の如し。そしてこの矢はつねに壊れかけのオツムを貫いてどこかへ飛んでいこうとしているというわけだ。聖人と罪人の行列がしずしずと進むのが見える。キチガイの行列が通り過ぎるのが見える。葬列が通り過ぎる、ロートレアモンよ、二つの膝小僧を地面に向かって傾けよ。私はそこにいてあれこれのことをやっていたのにそこにはいなかったのだ、と思わずにはいられないときがある。私には過去の記憶に関して何の確信もない。それはそうだ。だが夢についても、人は人生の三分の一は眠っているというのに、誰ひとり何の確信も持てないままじゃないか。
 だがどうして過去なのか? どうして夢は現在ではないのか? 何故に論理的に未来はそこに内包されてはいないのか? そういうことだってたまには普通に日常的に起こっているのでは? 事例なんていくらでもあるじゃないか。夢の終わりはいつも現実の断片の始まりであるし、なんの支障もなくそれらは接続される。不快感、あるいは多幸感とともに。日常なんてことは抜きにしても、われわれの代表であるすべての予言者がひとり残らずインチキの詐欺師であり、デタラメを言い続けていて、すべての宗教的言辞の基盤をなすものは知識とエピステーメを捏造し、大いなる歴史自体を欺いてきたのだとでも考えない限りは、夢もまた普通に未来の時間を部分的に先取りしているようにも思われる。それとも未来はデタラメの上に築かれているのかな?…そうであれば、望むと望まざるとにかかわらず、われわれの言葉の機能自体がインチキとデタラメの上に立脚していることになりはしまいか。
 はじめに言葉があった、とヨハネも言っていた。われわれは昼も夜もペテンにかけられているのだろうか。昼なき昼、夜なき夜に。私はなにも宗教の味方をしようとしているのではないが、マルクスですら、宗教は阿片であると言ったが、すべての宗教がデタラメであるとは言わなかった…。あるいは夢は、宗教とまったく同じように、デタラメ自体がぶつぶつと際限なく喋り続けている稀には精妙なるたわ言だったのだろうか。
 シェイクスピアは「われわれは夢と同じ素材でできている」と芝居の中で役者に言わせていたが、この言葉をロマンチックな響きにおいてではなく、もっと厳密に物理学的に理解すべきであることは言うまでもない。夢はフィジカルなものである。実際、夢の話を聞かされても、われわれにはもう飽き飽きしているきらいがあるのだし、無意識と言語の悪循環の話はもういいだろう。文明は何で出来ているかって? 夢で出来ているのか? たぶんそうなのだろう。だけどそれなら、きわめて破壊的効果を及ぼすことはきっと避けられないだろうし、実際いまやますますそういう事態に相なっていることは誰もが熟知している。すべての文明は滅びる運命にあるのだし。だからこそほとんどの知識や学問が尻つぼみになって、躓くのはまさにこの夢見る地点においてである。

 ところで、ネルヴァルは冒頭に引用した言葉に続けて次のように言っている。
 「私は、目には見えない世界からわれわれを隔てている象牙あるいは角の扉を、戦慄を覚えずにくぐることはできなかった。睡眠のはじめの数瞬は死の映像である。どんよりと曇ったような痺れがわれわれの思考をとらえ、しかもわれわれは、「自我」が異なる姿で存在し続けることになる瞬間を正確にとらえることができない」。
 それが自我であるのか超自我であるのかどうか私は知らないが、われわれとまったく同じでありながら、まったく同じであるとは言えない、二重の、異なる姿で、「私」とは同じものでありながら「私」とは決定的に袂を分かつものが、存在し続ける瞬間がげんに存在していることはわかっている。
 死の映像? ネルヴァルは『オーレリア または夢と人生』を書いてすぐに自殺することになるのだから、夢が第二の人生であるのなら、それが死の映像だったことは十分うなずける。われわれは夢を通ってどこに行こうとしているのか? すべての「象徴」は死の象徴である。夢が象徴を語れば語るほど、われわれは墓場にいる気分がしてくる。しかし夢そのものの中に、どうやら「墓の反対側から見られた」ような、それ自体まったく逆のベクトルがあるらしい。
 さすが肉体のエキスパートらしく舞踏家である笠井叡氏はこんなことを書いていた。
 「例えば、アフリカから持ち帰ったマホガニー製のヘルメットのあご紐が切れそうになっている夢を、去勢のシンボルと彼が受け取るとき、レリスにとって夢は、自らの手では変形したり、破壊したりすることの不可能な絶対的な象徴性を持ち、あたかも、彼は難問を発するスフィンクスの前を通らなければならない旅人のように、夢の時間を通過して行く。そこで夢に対して「去勢のシンボル」という分析を下すのは、あくまでも「現実のレリス」であり、そのとき、夢と現実を結びつける水路はまったく閉ざされている。もし、夢と現実を一元化しようとするなら、夢に対して自分を能動的なところに置き、アントワーヌに近づいた悪魔のように、夢の方が退散していくような意識状態をそのとき保持していかなければならないのであり、夢と自分との間の距離を取り去って、強引に夢の出発点まで遡り、それをある抽象的な身体感覚に封印してしまわなければならない。
 ──ドラゴンが住んでいる深い森に、四方を囲まれたブルゴーニュ地方の小さな町。そこは堅固な城壁が森と町を区分けしていた。──こうした中世的な風景はそのまま夢の構造ともなり、ドラゴンはひとつの「原恐怖」として、さまざまな形で夢に現れてくる。けれども、町も、城壁も、森も、取り去られるなら、ドラゴンは自然消滅し、そこにはただ、白光に満ちた虚無だけが残されることになるだろう。この虚無とは、おそらく夢の感覚的な抽象化と「原恐怖」に通じるものである。夢とは、夜ひそかに開示される「肉体的シンボル」として、それを体験し、解釈したりするものではなく、ただこの「虚無」にまで人を導いて行く、案内人にすぎないのである。つまり、夢に「意味」を賦与したとき、人は夢に敗北しているのである」(「夢の裏」)。

 何もない空っぽの状態に辿り着くこと、肉体の悲惨に通ずるあらゆる象徴を追い出してしまうこと、夢の裏側に抜け出してしまうこと。
 ……とにかく私は焦っていた。町のどの通りを矢継ぎ早に歩いてみても、どの曲がり角を曲がろうとも人っ子ひとり見当たらない。大気はどんよりしているのに、太陽の光線がやけに強く感ぜられる。まるで呼吸しているような建物が目に入る。私は建物の中に入ってみる。その古い建物はくすんだ緑色だったか、黄色がかった灰色だったのか、よく思い出せない。二階か三階への階段を駆け上がる。真鍮のドアノブを回す。部屋に入ってみても誰もいない。木製の書斎机か事務机がひとつだけあって、引き出しが半分だけ開いているが、中に何が入っているのか私にはまったく興味がない。それどころではない。とにかく時間がないように感じて私はひどく焦っているのだから。反対側に扉があるので、目覚めのまさにそのときに現実の出来事と夢の辻褄が合ってしまうようにして、再び扉を開けて次の部屋に入る。廊下はない。自分のからだが引き延ばされたような感じがする。汗だくだ。また次の部屋に入ってみる。誰もいないし、何のための部屋なのかまったく私には理解できないことはわかっている。空っぽの部屋があるだけ。……
 だがこんな風にだらだらと続けていると、夢に意味を与えて、夢に打ち負かされそうになるかもしれないので、このあたりでやめておこう。ところで、われわれは人生というあまりにも長く短い夢から抜け出すことができるのだろうか。
 最後に、16世紀ドイツのルネッサンス画家デューラーの日記より、夢にはつきものであるらしい象徴というものがまったく見当たらない夢の記述をひとつ。

 


 


 「ペンテコステの祝日の後の水曜日から木曜日にかけての夜[1525年6月7日から8日にかけて]、私はこのスケッチに描かれているとおりのことを夢に見た。空から降ってくるもの凄い土砂降りの雨である。最初の豪雨は四里ほど離れたところで大地を叩きつけた。振動と騒音はすさまじく、一帯は水浸しになった。耐えがたくて目が覚めた。それから、続いてさらに恐ろしい激しさと量の土砂降りの雨が、遠くやもっと近くで地面を叩きつけた。雨はあまりに高いところから落ちてくるので、すべてがゆっくりと降ってくるように思えた。だが、最初の雨が地面のすぐそばにあったとき、その落下速度があまりに速く、あまりにすごい音と暴風をともなうようになったので、体中をわなわなと震わせながら私は目覚めたのだし、それから立ち直るのに長い時間がかかったのだ。それで一度起きて、見てのとおりのこのスケッチを描いたのである。神は最前を尽くしてあらゆる事柄をうまく操っているのだ」。
 マルグリット・ユルスナールはこの夢に黙示録的解釈や、黒い雨からの原爆や大災厄の連想といったあまりにも安易な見方を諫めているが、本格的に制作されたデューラーの「黙示録的」作品の傾向から鑑みても、このスケッチとの違いは歴然であり、たしかに彼女の言うとおりだろう。いくら精神分析家がデューラーには水への強迫観念があったのだと言い張ろうと、そんなものは彼の「ただの意見」であり、証明などとてもおぼつかない。

 むしろ、このデューラーの夢で最も奇妙なことは、それならいったい誰がこの夢を見ていたのかということにある。夢から覚めたのは誰なのか、夢を見続けていたのは?…

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