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お知らせ(第46回 アルトーのスリッパについて その2)

                                                            第46回 2014年1月


                     
アルトーのスリッパについて その2

                                                                       
鈴木創士
                                    



アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還』『魔法使いの弟子』『サブ・ローザ

 

 

 


 土方巽が、その肉体の錬成、それによる肉体自体の内的な破断によって、そして自らの肉体とは別の何かになることによって、それが茫洋とした時間の中にある肉体と肉体の分布以外の何物でもないのだということを発見したように、そして、すなわち一人の舞踏家として、見たことも触れたこともないアルトーの肉体の中に何かが起こったことを直観したように、アントナン・アルトーは若い頃にいったい何を目撃してしまったのだろうか。肉体には慈悲などありはしない。何もしないで、何も考えないで、それがたやすく別のものになるのは、せいぜい肉体の「狂気」によってである。肉体の「病気」はその誘因のひとつにはなるだろうが、それで事が済むわけではない。


 スコラ神学者である聖トマス・アクィナスは死の少し前、第二リヨン公会議に列席するために旅の身空にあったが、その途上、健康を害して滞在していたイタリアの田舎町にある聖ニコラウス礼拝堂でミサの祈りを捧げているときに何かを見てしまい、恐らくは衝撃のあまり、その後死を迎えるまでただただ祈り続けるだけの時を過ごすこととなった。その何かを見たのは、1273年12月6日のことだったが、そのために歴史上の大仕事といっても過言ではなかった彼の『神学大全』の執筆は中断され、未完のまま終わることになる。



 この大神学者は、大スコラ学の体系をつくり上げただけでなく、キリスト教神学の土台のみならずほとんどその全体性に決定的なかたちを与えたとも言える体系を築き上げつつあったのだが、気の遠くなるような自らの長い努力と禁欲の果てに、もうまもなくだったはずの完成の日の目を見ることなく、その寸前で、自らが築き上げた大伽藍のような仕事を「ワラ屑のようなものだ」と言い放った後、死の瞬間を迎えるまで完全に沈黙の中に閉じこもったのである。
 彼が何を見たのか、われわれはいろいろと想像を巡らすことはできるが、聖トマス・アクィナス自身が黙して語らない以上、それが何であったかを名指しすることはできない。はたして聖トマス・アクィナスは恐怖を覚えていたのだろうか。はっきりとはわからないが、そう考えることはできる。彼は自らの生涯と引き換えに築き上げたものがワラ屑のように無意味だと言ったのだから、それほどのことが起きたことだけは間違いない。とにかく聖トマス・アクィナスは最後の最後になってとんでもない何かを見てしまった。17世紀にスペインのバロック詩人ゴンゴラが「私が見たものを見た者がいるのか、私が聞いたものを聞いた者がいるのか」と語っていたように、この世界で最も名高い神学者が名状し難い何かを見てしまったことは確かなのである。


 アントナン・アルトーは恐らく十代の終わりか、二十代のはじめ頃に、土方巽が書いていたように、何かを「目撃」した。彼はその出発において何かを見た。恐怖は肉体の中に復元されていた。この場合、見ることは知ることであったはずだが、アルトーは何かを知ってしまったのだ。彼が目撃したものは具体的に何だったのか。「目撃」という言い方が適切で、きわめてぴったりくるものであるかどうかはわからない。アルトーはそれを見たとは言っていないのだから、聖トマス・アクィナスのように何らかのヴィジョンではなかったと考えることもできる。それはヴィジョンであって、同時にヴィジョンではなかったと言ったほうがいいかもしれない。

 彼の脳髄には「磁気を帯びた活性の空白」が穴のようにあいていた。彼自身は後にそう言っていた。これは肉体の中で生起していた肉体のヴィジョンである。もう一度言うが、恐怖は肉体の中に必ずや復元されるのである。そしてこのヴィジョンはアルトーの思考を何度となく破壊した。彼はそのつど思考できなくなり、思考することに、それをやり遂げることに失敗し、言葉を失った。これはしたがって言語の体験の領域で起きていたことでもある。言語の限界領域はほぼ例外なく言語の領域にあり、それを拡大するものとしてあるのだから、それはとりもなおさず決定的な言語体験であった。
 アルトーは思考の中で思考の完全な不能性を思考するという思考の出発、思考という何かが形をなし始める端緒において、こうして塗炭の苦しみを味わうことになったのである。この苦悶は、しかしアルトーにとって、言葉を用い、それを操り、それを酷使する作家として、また舞台役者として、映画俳優として、素描家として、踊ることのなかった舞踏家として、やがて彼の「肉体」を発見し、再発見し、それを再構築する手がかりとなっただけではない。脳髄に開いた空隙のもたらす苦しみは肉体そのものの苦悶であり、アルトーにとって、彼の全生涯がそれを証明しているとおり、言語の苦悩は肉体の苦しみとともにしかなかった。
 アルトーにとって、言語の、言語による、言語に加えられた責め苦がそのまま肉体の拷問に近いものとして現れることは、すでに始まりにおけるアルトーの思考の特徴であったのではないか。このことにはまだ言われていない多くの事柄が隠されているはずである。彼の書いた膨大な書簡や彼自身の著述の中の数々の証言からすれば、アルトーはこの思考の欠如、腐蝕、思考の不能性を、それらすべてを生理的次元をも含めて肉体的に苦しんだのだと言うことができる。いや、それだけではない。この苦痛をともなう不能性は、肉体が肉体の穴から励起するための分子状態を準備するどころか、それには不可欠な条件だったのだと私は考えている。

 

 しかし、アルトーの詩人としての独特さが、言語の観点からしても、肉体の観点からしても、したがって始まりにおいてすでに異様なものであったことに同意はするが、このこと自体を私はアルトーの狂気のせいであるとはまったく考えていない。例えば、アルトーの証言の言葉の「抑揚」、それは「構文」というものをもたざるを得ない呈のものだが、そう言ってよければ、彼の言葉のもつ身体的「抑揚」や「分節」は非常に論理的で明晰であり、ましてやこの問題が彼の脳の病気や、麻薬中毒の側面から、つまり病跡学的観点から否定的に解明されるものであるとは私はまったく考えていない。それどころか、むしろ彼の幼少期の脳の病気や長きにわたる麻薬の経験は、アルトーという人物と言語の形成において、奇跡的なまでに大いなる「利点」であったかもしれないのだ。これは非常に稀なことである。


 「私の詩のあのまとまりのなさ、形の上でのあれらの欠陥、私の思考のあの恒常的な衰え、これらのものを習練が足りないせいだとか、私の操る道具を自分のものにしていないからだとか、「知的な展開」のせいにすべきではないのです。それは魂の中心で起こっているひとつの崩壊や、本質的であると同時に束の間のものでもある思考の腐蝕、私の展開が獲得した物質的利点の一時的喪失、思考の諸要素の異常な分離のせいであると考えるべきなのです(…)
 というわけで、私の思考を破壊する何かがあるのです。私が何であるにせよ、そうであることを妨げはしないけれど、言ってみれば私を宙吊りのままにしておくような何かがあるのです。こいつは、こそこそと人目をはばかるしろもので、私から、「私が見出した」語を奪い去り、私の精神的緊張をゆるめ、私の思考の塊りを形づくる実質を次々と破壊してしまうのです。そればかりか、人が自分の考えを言い表すのに使うあのさまざまな言い回し、思考の、最もわかちがたく、最も局限された、最も実在性に富んだ種々の抑揚を、正確に伝えるような様々な言い回しの記憶までをも私から奪い取ってしまうのです」(「ジャック・リヴィエールとの往復書簡」)。
 このアルトーの証言に、ドゥルーズとガタリのように、「分裂症」の「積極的意味」を、それのみを見出し、求めることは言うまでもなく可能だが、これらの言い回しのどこに通り一遍の意味において「狂気」の徴候を病跡学的に認めることができるというのだろうか。


 この書簡を書いた頃、面白いことに、アルトーはまだ「精神」と言う言葉を多用していた。ポール・ヴァレリーは彼の先輩の世代にあたるが、この「精神」には、当然のことながら、まだヴァレリー的な響きが残存していたように思われる。アルトーだって人の子だった。彼は火星から突然変異のように落ちてきたわけではない。だからこそアルトーはあれほど「文学」を唾棄していたのである。
 「私は「精神」が生の中になく、生が「精神」でないことに苦しむ、私は、器官である「精神」、翻訳である「精神」、あるいは事物の威嚇である「精神」に苦しんでいる、それらを「精神」の中に入り込ませようと苦しんでいる。(…)文学と同じように、「精神」にけりをつけねばならないのだ」(『冥府の臍』)。
 生に対立するものとしての「精神」についてのこのような思考は、当然のことながら「肉体」の誕生を力づくで促した。精神はどちら側にあるのか。この点でアルトーには妥協は微塵も感じられない。この「肉体」は新しいものだったのか。このことによって精神と肉体の二元論は完全に行き場を失ったのだから、そんなことは問題ですらなかった。アルトーはそれを「産みの苦しみ」に喩えさえするだろう。肉体のエピファニー。ゴルゴタは肉体の死に場所ではなく、分身の分室であり、実験室である。アルトーが晩年に言うことになるように、私はパパとママが生んだのではなく、私は私が生んだのである。

 

 「精神」は幾度となく姿を変える。アルトーは「精神」の変身すら否定したのだと言っていいだろう。そのことはほとんど明白である。この「精神」は、メキシコのインディオやバリ島演劇、アイルランドへのある意味で不可解な興味を示していた彼の人類学的時代、オカルト時代には、「霊」のニュアンスを帯びることになったが、「精神」は結局、己れの星雲を「肉体」の中に再発見するに至り着くほかはなかった。

 それが飛び散るのが見えるだろう。精神の星雲、肉体の中で蠢いていたかに見えた星雲。精神は死んだ、万歳! 肉体はばらばらになり、再び寄せ集まる。だからこそ肉体は器官に分割することはできないのだし、肉体の飛散は精神の飛散でもあったし、その逆でもあったが、もはやアルトーには「精神」という言葉を使う必要もなかったということになる。思考の不能性、思考することの不可能が「肉体」の側にあるということ、脳髄に開いた空白は肉体の虚無とともに肉体の側に、肉体の内にあるということ、こう言ってはなんだが、これほど自然なことがあるだろうか。つまりアルトーが生涯を通じて語った「肉体」はわれわれの肉体でもあるのだ。繰り返すが、アルトーはミュータントではないのである。


 蛇足ながら、私にとって初期のアルトーに関して気になることがある。15世紀フィレンツェのルネッサンス画家パオロ・ウッチェロとアルトーの関係である。なぜかは明言できないにしても、何らかの類縁性とも言っていい。

 アルトーの『冥府の臍』にはパオロ・ウッチェロについての奇妙な文章が収められていて、それはとても唐突な感じのするものである。アルトーはマルセル・シュオッブの『想像上の伝記』から少しのインスピレーションと少しの知識を得たのかもしれないが、そんなことでは説明のつくテクストではないし、当時のブルトン、後のバルチュスをのぞけば、アルトーの周囲にウッチェロにそれほど関心を抱いていた者がいたとは思えない。
 「舌を取っちまえ、パオロ・ウッチェロよ、おまえの舌を取っちまえ、おれの舌を、おれの舌を、くそっ、喋っているのは誰なんだ、きさまはどこにいる? もっと向こうへ、もっと向こうへ、「精神」よ、「精神」よ、火よ、火、火、火の舌よ、きさまの舌を食らえ、老いぼれ犬め、やつの舌を食らえ、食らえ、等々。俺は自分の舌を引っこ抜く」(「鳥のポール または愛の広場」)。
 この文章は晩年ではなくアルトーがまだ若い頃に書かれたものであることに興味が引かれる。訳は後ほど述べよう。

 ところで、ウッチェロには「大洪水」と呼ばれる名高いフレスコ画があって、フィレンツェのドミニコ派の教会サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「緑の回廊」にそれはある。この絵にはノアの洪水の情景が描かれているのだが、その絵の前景には、ゆったりとした衣を纏った人物がひと際目立つようにひとり立っている。彼はおりしも祈りを唱えているところである。
 この絵を最初に見たときから、私はこの人物が晩年のアルトーによく似ていることに気づいていた。このテクストを書いた若かりしアルトーではなく、死ぬ前のアルトーにである。そう思う人は他にもいるらしく、フランスのアルトー特集号の雑誌の頁には、このウッチェロの絵が何の説明もなく挿入されていたりして、なかなか洒落たことをやっていた。先に引いたアルトーの不思議なテクストを読んでいると、若い頃のアルトーがすでに晩年の自分の顔をウッチェロの絵の中に見ていたのではないかとさえ思えてくる……
 「パオロ・ウッチェロの衣のなかには何もない。心臓のかわりに一本の橋があるばかりだ」。
 ちなみに、「大洪水」に描かれたこの人物がいったい誰であるのかについては、古今東西の美術史家たちは意見の一致を見ていない。

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