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お知らせ(第48回 映画館から出るといつも裸足だった)

第48回 2014年3月

 

映画館から出るといつも裸足だった

 

鈴木創士

 

四方田犬彦『俺は死ぬまで映画を観るぞ』『蒐集行為としての芸術
ニコル・ブルネーズ『映画の前衛とは何か

 

 

 アラン・レネが昨日逝去した。巨匠がまたひとり姿を消したことに違いはないが、ちょうど数日前、なぜかアラン・レネの映画『去年マリエンバードで』を見たところだった。このことに別に驚きはない。あっそうかと思った。彼の死ぬ前に見たのだから、風が吹いて桶屋が儲かったわけではない。問題は私の日々の暮らしであるのだし、20世紀の巨匠に関して言えば、単にそういう時期だった。鳥の羽がひらひら落ちてきて窓ガラスにべったりくっついていた。誰もそれに目くじらを立てたりはしない。スクリーンの中の人物は、実際に生身の彼が死んだ後もフィルムのなかでずっと同じ動作を永遠に繰り返しているのだから、それに比べれば何の不思議もない。(映画のなかのイマージュは分身と見分けがつかないのさ)。
 『去年マリエンバードで』は、昔、映画館で見たので、二度目だった。だけどというか、やはりこの映画が今回もどうしても好きにはなれなかった。(鏡の回廊が出てくるからといって、それで分身の映画になるわけじゃないだろ…)。とりわけアラン・ロブ・グリエの脚本がすごく嫌いだからだ。わざと狙ったことは誰にでもわかるにしても、それにしてもあまりにわざとらしい台詞。誰にでもそれがわかるし、わかってもらえることをあらかじめ想定しているなんて、そんなものなどどこにもありはしないのに、映画についての(他のものもだけど)知的共同体があらかじめ存在するのだと考えるのと同じくらい滑稽である。(分身は、それがどんなものであれ、つねに共同体を離脱するものでしかないのだし、それは根なし草であり、帰属するところがないのだから、彼の主人は? といっても、そんなものは上辺だけのことさ)。
 おまけに哲学的であることを(何しろ当時は流行っていたんだからさあ)ことさらに誇示しながら、実は唖然とするほどまったく哲学的内容を欠いてしまっている。(分身の身分はそもそもそれ自体哲学的であるのだけどね)。ロブ・グリエには才能がないのだろうか。そうとしか思えない。この脚本は、言葉が硬いだけ。お話はただのつまらないメロドラマ、言葉はメタドラマ風(あくまで風だ)。
 勿論、メロドラマを馬鹿にしているわけではないが、この映画の脚本がメロドラマなのは、そうであれば表面上は約束として誰にでも理解できると高をくくっているからである。そうすれば単に哲学的であることの裏をかくことができると思っているからである。浅くて、さもしい考えである。これではメロドラマですらないし、びっくりするほどセンスに欠けるというものだ。われわれ観客もずいぶん見くびられたものである。(分身には感情があるかどうかは知らないが、少なくとも感情的になることはないし、人を見くびったりはしないはずだよ)。
 その点ではこの映画のほとんどの俳優たちについても同じようなことが言える。まあ、私の好みなんかどうでもいいし、俳優自身のせいではないのだろうが(でもこれは映画なのである)、気になる役者は男優のうちのひとりだけ(よくは知らないが、サッシャ・ピトエフ?)。女優デルフィーヌ・セイリグの演技も、この映画に関しては、とてもじゃないがいいとは思えない。デュラスの『インディア・ソング』の彼女の方がずっと魅力的ではないか。
 わざと深刻さと退屈を狙った演出をやったにしても、ほとんどの役者の演技は深刻なまでに下手くそだ。ラシーヌの、いや、モリエールの国だというのに、この手の深刻さや倦怠はただただ滑稽の極みであるし、作る側のこの手のやり方は見ていて恥ずかしい。(分身は汚辱にまみれてはいるが、それ自体には恥辱的なところなんかちっともない)。
 素晴らしいのはタイトルだけと言ってもいい。こんなことを言うと、おまえは映画をわかっていないと言われそうだが、わかるというのが何のことなのかわからないし、実際、わかっていないのだから仕方がないじゃないか。


 ロブ・グリエが嫌いだからといって、ヌーヴォー・ロマンが嫌いというわけではない。クロード・シモンはいまでももっとちゃんと読みたいと思っている作家であり続けているし、エディション・ド・ミニュイ(フランスのヌーヴォー・ロマンの出版社)の作家たちのなかにはいろいろ好きな人もいる。ソレルスの本の翻訳者だから言うのでは断じてないが、ヌーヴォー・ロマン時代のソレルスの小説『ドラマ』はいまでも傑作だったと思っている。
 ずいぶん前の話で恐縮だが、京都の日仏にロブ・グリエが講演にやって来たことがあった。若かったわれわれは三人で冷やかしに(これは言葉のアヤです)行った。講演の内容はまったく思い出せない態のものだったが、後の質疑応答の際のイザコザはよく覚えている。(分身に聞いてみないとわからないが、というか私の知ったことではないが、この場合は、分身が講演を聞きに行ったのではないのよ)。
 「五月革命の興奮覚めやらぬ頃、あなたはシュルレアリストの極左であるジャン・シュステルやモーリス・ブランショと一緒にカストロに会いにキューバへ行ったそうですが、いったい何をするつもりで行ったのですか?」
 われわれが礼儀正しく(だったかどうかは覚えていないが)そう質問しただけで、ロブ・グリエは露骨に嫌な顔をして、大人気なく怒り出した。
 「フランスにも君のようなゴーシストというか過激な若い連中がいるのを百も承知しているが、私はそういうのにうんざりしているんだ」
 なんて失礼な奴だと思った。度量がないだけならまだかわいらしいが、顔も表情もただの意地の悪いインテリ・フランス人の典型といった感じで、かわいくないどころかみっともなかった。不愉快でつまらないオッサンだ。知識人じゃないのか? えっ、何かコンプレックスでもあるのか? その後、少し言い合いになったと思うが、残念ながら、いかにロブ・グリエの作品に見るものがないかという豊穣な文学的議論を交わすことすらできなかった。
 「あっ、そうですか、退屈だからもう帰るわ」と捨て台詞を残して、われわれ三人は早々に会場を引き上げた。最低限の礼儀として。
 ドゥルーズは講演会やシンポジウムをやるなんて死んでも嫌だというようなことを言っていたと思うが、フランスの知識人の講演会などに嬉しそうに出かけて行くこと自体がとんでもない間違いだった。ましてや、言っときますが、質問など絶対にやるものではない。何の益もなし。


 ここ一週間くらい前から、『去年マリエンバードで』以外にも続けて幾つか映画を見ていた。ジャン・ジュネが脚本を書いたトニー・リチャードソンの『マドモワゼル』、ブニュエルの『皆殺しの天使』、ロバート・アルトマンの『三人の女』、ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』。(ファスビンダーも見たが、ファスビンダーはまたの機会にね)。なぜこれらの映画かということについては他意はない、たまたまそうなっただけである。上演の偶然は運命を混ぜ合わせるものだとある俳優が言っている。ごちゃ混ぜにするのだ。自分でもわからなくなるくらい。
 私には脚本家としてのジャン・ジュネとロブ・グリエを比較するつもりはさらさらないので、ジャンヌ・モロー主演の『マドモワゼル』は除外する。論外である。


 映画館を入れて二度目だった『皆殺しの天使』は、ちょうど『去年マリエンバードで』と同じように、ブルジョワたちと、ある館の話である。晩餐会にやって来たブルジョワたちがその館から、理由はわからないがどうしても出ることができないという不条理な映画である。

 だがまずは細部の意匠が全然違う。ブニュエルの美術的センスはもともと素晴らしいが、鏡、扉、回廊、木や花のない石だけのフランス式庭園といった、退屈なだけの『マリエンバード』のバロックの館と比べて、こちらにはふんだんにバロック的寓意(記号論的にも、むしろカトリック的、さらにカバラ的、フリーメーソン的、さらに無神論的にもね)が施されているし、映画的な仕掛け、思想的宗教的魔術的絵画的時事的薬物的法医学的な仕掛けもある。この仕掛けは暴いたり隠蔽したりする。
 そしてこのようなことすべてをある種のユーモア(ブラック・ユーモアだよ)とともに、どこか投げやりにも思える後味を残しながらやってのけるなんて、格の違いを見せつけられているとしか言いようがない。ブニュエルは映画セットの蔭やスクリーンの背後で笑っている。たぶん大笑いしているのだ。
 そんな風でありながら、四方田犬彦がその大著『ルイス・ブニュエル』に書いているとおり、この映画の細部のどこを省略しても、たちまちこの映画が理解不能なものとなってしまうくらい『皆殺しの天使』は緻密に構成されているのだ。こんなことは誰にもできない。そしてこの緻密さは「現実的」なものが(そう、現実的なものが)、さまざまな側面、審美的、政治的、趣味的、気息的、情緒的、メロドラマ的、暴力的側面、などなどをともなって、ぎりぎり要求するものなのである。
 アラン・レネには悪いが、さすがブニュエル!


 はじめて見たアルトマンの『三人の女』のあの嫌な女たちはどうなのか? 嫌としか言いようがない。画家はいざ知らず、他の二人とは絶対に付き合いたくない。これほど一挙手一投足に嫌な感じを受ける主演女優たちに出会ったのは、私にとってそうざらにあることではない。彼女たちは『マリエンバード』や『皆殺しの天使』の人物たちようにブルジョワではなく、今でもたぶんどこにでもいるようなアメリカ女性たちだ。


 
 だがこの「嫌」な感じ、「不快」な感じはどうだろう。誰かも言っていたように、文明の、文化の不快と言ってもいい。嫌な感じを与えることができるというのは、これらの女優たちのキャリアがどうであれ(そんなことにはそもそもまったく興味がないね)、演技と演出とカメラのなせる業である。と同時に、この不快さは底知れぬ不吉さでもあり、つまり文明的な病やわれわれの破滅の醸し出す不吉さでもあり、知らず知らずのうちにそれに感染するかのように、太古の象徴としての「蛇」のごとく、すでに心理的次元を越えて驚くほど深いものを含んでいると思う。われわれはその不快さとつねにすれ違わなければならない。そこここで。映画の内と外で。
 ここから、象徴論的であったり文明論的であったり社会学的であったり心理学的であったり、新聞の映画評論家がやるように(ほんとかな?)大風呂敷を広げたり、中身が空っぽの大袈裟な話にもっていくことはいくらでも可能だろうが、私にはそれをやるつもりはない。そんなことはすでに全部無意味である。第一、無粋である。この映画はきわめて日常的なプロットからできていて、アメリカの田舎町の普通の風景のようでもあるからである。映画は逆に日常のなかにもまたすっぽりと収まってしまうのだ。まさにそのように思わせることこそ、他の芸術にはない映画独特の、なんというか、「技術」というか「技芸」である。アルトマンのこの映画にはそれを少なくとも感じ取ることができる。
 「人が変わる」。字面を追っていると、妙な言葉だ。別人のようになる。日常的にわれわれが出会うこの不吉な事態。映画のなかではどうということもない、このアルトマンの映画の微妙な変化、その感じや雰囲気を、もし小説で描くとなれば至難の業である。そうであるなら、『マリエンバード』のつまらなさは、ロブ・グリエの小説、シネ・ロマンをそのまま映画化してしまったことに尽きるという、くだらない映画にはよくあるような、原作と映画の関係が持つかなり凡庸な次元に存しているのではないかとさえ思えてしまう。


 『ラ・パロマ』? 映画館を含めてこの映画を見たのは五回目くらいだが、私には『マリエンバード』と比べることなど到底できない。ファスビンダーと個人的に縁浅からぬダニエル・シュミットが撮った、まだ二作目の劇場映画だったのだから驚きだ。主演は、生きていても死んでいても目をぱっちりと見開いたままのイングリット・カーフェン。



 『去年マリエンバードで』(1961年)から『ラ・パロマ』(1974年)まで、すべての細部、色彩、カメラワーク、ショットの切り取り、切り返し、音、音楽、脚本の展開、演技の質、などなどにおいて、つまり芸術性において、退廃の質において、誰かの言い方を借りるなら、「映画」ははるかに進歩したのだと言うことができる。違いをいちいちあげつらっても虚しくなるだけである。それにジャーマンシネマがどうのこうのと私は言いたいわけではない。むしろこの映画には、作者の意には反しているだろうが、ロシア文学のようなところもあるのではないかと思う。
 趣味というか好みの次元もなおざりにはできない。すべてはそこにかかっている場合だってある。狂気もそこに含まれるほどである。映画なのだから。といってもこの一点は重要である。映画自体の狂気というものを考えざるを得ないからだ。狂気、知っているようで、知らない、いや、知っていて、同時に知ることのできない狂気。ところで『マリエンバード』には狂気はないと言ってもいい。おしゃべりがあるだけである。『ラ・パロマ』の場合は、いちいち断るまでもないだろう。


 映画は第七芸術なのだろうか。歴史的に七番目に登場した芸術というのはそうである。フランスの哲学者クレマン・ロッセは、映画はある意味で他の芸術すべてのなかで第一のものになったと言っているが、たしかに映画は他の芸術すべてを自らのエレメントとすることができるし、したがって他の芸術すべてが羨むような「直接性」を持っている。(物質と観念の間で宙吊りになっていることを装いながら、同じくわれらが分身も知られざる直接性を持ち合わせているんだぜ)。このことはとても無視できない事柄である。
 直接性? それはイマージュの物質的ともいえる直接性であり、この直接性とは、現実的なもののイマージュが、イマージュという点でも現実という点でも、それ以外の何ものではないということであり、実際問題として、実在性のさなかにある現実的なものの直接性によってしか映画はつくれないというほどの意味だ。映画は、それが何であれ、どのように撮られようと、現実的なものとのつながりを断ち切ることはできない。だから映画はずっと民衆のものであったのだし、と同時に普遍的な芸術が何であるのかをわれわれに考えさせるものでもあるのだ。
 アルトーは映画の黎明期に「魔術と映画」というエッセーのなかにすでに書いていた。「映画はますます幻想的なものに近づくだろうし、この幻想的なものについては、それだけが実際には現実的なものであることに人はますます気づいている、さもなくば映画は生き残れないだろう」、と。
 この幻想的なものとはイマージュ自体のあまりにも現実的な幻想性であり、妄想を超える半分物質と化した妄想であり、それは現実を否が応でも映すものであって、20世紀以降の人間にとって、現実はこの幻想的なものを現実的なもののなかから捨象することはできない。
 だが柄にもなくいまさらヘーゲルのシンガリをつとめるのはやめておこう。


 それに第一であれ第七であれどっちだっていい。私の好きだった俳優ピエール・クレマンティの言葉のほうが真に迫っている。それにしてもブニュエルの『昼顔』でのクレマンティの演技は、実際にそれを真似したがるふらちな輩が出てくるくらい素敵なものだった(私はそういう人を一人か二人知ってるよ)。
 「私はとても映画が好きだ、君が忘れてしまったことの痕跡であり、君が失ってしまった君自身のあの部分の痕跡であるイマージュが好きだ。すぐさま、一瞬のうちに、再び君は君の過去の常連となる。私はあの男だったのであり、走ってスクリーンを通り抜ける。そして君が演じているまさにそのとき、すでに君は後になって君に会うことになるだろう男なのだ。映画はひとつの絆であると私は思っているが、それは、君自身にも他の者たちにも、君がかつてそうであったものにも君がげんに今そうでないものにも、君を結びつける…」(ピエール・クレマンティ「さらばアイドル」)。


 君はかつてそうであったものに、いまそうでないものになる。(分身の次元の話じゃなくて、怪我をすれば血を流す、現実のなかで四苦八苦している生身の君や私の話さ)。そうなることができるということではない。可能性の話ではない。潜在性の話でもない。映画館から出るといつも裸足だった。後ろでライターのカチッという音が聞こえた。映画館から出るといつも血まみれだった。映画館から出ると……。『昼顔』のピエール・クレマンティはエナメルのブーツを履いていて、そいつを脱ぐと靴下には大きな穴があいている。

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