ホーム > お知らせ(第51回 罰せられた悪徳、出版)

お知らせ(第51回 罰せられた悪徳、出版)

1~1件 (全1件) | 1 |

                                                        第51回 2014年6月


                        

 

  罰せられた悪徳、出版


                                                                 

   鈴木創士


 

石井恭二『花には香り 本には毒を』、『正法眼蔵 覚え書』、『心のアラベスク
陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光



 べつに罰せられたりはしない。少なくともわれわれはそう思っていない。サド裁判だって? たとえ現代思潮社の石井恭二、訳者の澁澤龍彦の両氏が有罪判決を受けたとしても、そうである。いまでは『悪徳の栄え』は無削除版が刊行されている。同じ現代思潮(新)社からである。ざまあみやがれ、というか当たり前である。猥褻裁判などちゃんちゃらおかしいのは、臍が紅茶を沸かす前からわかりきったことだった。サドを焚書にしたかった連中はそもそもサドなど読んでも理解できない。それは先天的衝突であり、読む動機や欲求やきっかけは言うに及ばず、読むすべすらどこにもないからである。何かを虚心にまっとうに読むなんてことは奴らには無関係である。





 それにしても親愛なる君たちのなかには、どうしてサドの毒抜きにわざわざ自らすすんで加担したりする者が現れたりするのか。自分の書いている物を棚に上げて(つまり退屈極まりない、たかが詐欺商品なのに)、サドを退屈だと宣(のたま)ったり、つまりは読まないことによって。これはひとつの典型的ケースにすぎないが、そんな風な暴言をどこかで事もなげにさらりと言ってのけていたこの作家、評論家先生は間違いなくサドをちゃんと読んではいない。
 ましてやジャック・ラカンの「カントとサド」を読んだからだなどと反論するのなら、あの邦訳のひどさは人後に落ちないものであるし、いくらフランス語ができるからといって、あなたが書いている他のものから察するに、少なくともいい歳をしたあなたにそんなことは言わせないとはっきり釘を刺しておく。それでもまだそうだと言い張るのなら、それは子供じみた明らかな誤読である。そう言うしかない。あなたは自分ではそうとは知らずにじつは単にサドを禁じる母や姉のように振る舞いたいだけなのだ。逆立ちして考えれば、それこそラカンの言っていたのと同じことになるだろ。ラカンのあの論文の場合、話は逆だ、と言いたいんだろ。タイトルからしてカント、アヴェック・サドだもんな。わかっているさ。そういうお里の知れた小賢しさが大人げないと言ってるんだよ。あなたがいくらブルトン好きでも大目には見られない。誰のために何のためにあなたは書いているのかと訝りたくなるのも仕方がない。売れっ子のあなたのことだから暇がないのはわかっているが、だから暇をつくって、性的健康のために逆立ちでもしながらサドを読んでみるべきだ。第一、そんな振舞いは(逆立ちじゃなくて、サドを退屈だなどと書くほうだよ)謙虚さに欠けるというものだ。あなたはゴロツキじゃないのだから、ご自分を何様だと思っているのだろう。だがサドの話はこの際どうでもいい。
 べつに私は出版が罰せられた悪徳だとは思っていないのにそう書いてしまった。罰せられざる悪徳、出版ならまだましだということもない。誤解のないように言っておくが、悪徳出版ではない。このタイトルは、ヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳・読書』に敬意を表してのことである。読書と出版には何か関係があるのだろうか、と言いたくなるような今日この頃である。だがいまここでラルボーでは飽き足らないという声が聞こえる。誰の声なのか? 俺と君たちだよ。ラルボーには何の恨みもないが、そう言っておかねばならないのだ。あえて断っておきますが、かつて私はほんの少しだけヴァレリー・ラルボーのわりと良き読者であったこともあります。だが読書だって罰せられるのだ。サドじゃないよ。その反対である。非サド的読書はつねにゴミ箱行きと忘却の憂き目にあうことになっている。意識的無視や追放ならまだいいほうである。神に感謝しなければならない。


 なぜこんな無駄にも思える前振りがあるのかといえば、新刊の『「現代思潮社」という閃光』という本を読んだからである。私もまた現代思潮社の創立者である石井恭二氏と現代思潮社のことに少しだけまた触れてみたくなった。
 著者の陶山幾朗氏はかつて60年代半ばから70年代初頭にかけて現代思潮社の編集者をやっておられた。ところで、私は高校生だった。それが人の一生で最も醜い年齢だなどとは誰にも言わせまい。当時の現代思潮社を取り巻く状況そのものを表しているように、著者は、かつて石井社長も嬉々としてその一員であったアナーキズム集団「東京行動戦線」のメンバーであり、九州の炭坑にいた谷川雁の謦咳に接し共に闘った人でもある。現代思潮社内の組合闘争の話も、現在の出版状況を思うにつけ、ある意味身につまされるが貴重だった。
 時期的には、トロツキー文庫や、その多くがその後他の大手出版社の文庫シリーズなどのなかに下手な手品のように散逸してしまった、あの素晴らしくも堂々たる「古典文庫」(いまや大古典となった異端の地下水脈である)、第一巻で頓挫する運命にあった『アルトー全集』の発刊や、稲垣足穂の大復活に大いに貢献した『稲垣足穂大全』や、そして石井社長が初代校長であり、埴谷雄高や澁澤龍彦、赤瀬川原平や土方巽といった錚々たるアンチ大学的、アンチ教育者的講師を擁した「美学校」開校の頃である。
 陶山氏が編集者として在職していた当時の現代思潮社の上司というか編集長には松田政男氏や川仁宏氏がいたのだし、何をか言わんやである。余談だが、故川仁宏氏は赤瀬川原平のグループに属する前衛芸術家でもあったが、なぜか私は彼のCDを持っていた。そのCDは煙のようにどこかに失せてしまったので確認できないのだが、たしか彼は小杉武久に近い前衛音楽家でもあり、当該CDの中身は、私の思い違いでなければ、ゴム紐で演奏された、どう頑張っても一回しか聞く気がしない、非常に、なんというか、奇妙奇天烈なシロモノであった。


 この時期の現代思潮社の他の印象深い刊行物を私の偏見で思いつくままに挙げるなら、ジャリ『ユビュ王』、カー『バクーニン』、『ブレヒト詩集』、クラウゼヴィッツ『戦争論』、オーウェル『カタロニア讃歌』、サヴィンコフ『テロリスト群像』、バルト『零度の文学』、ロープーシン『蒼ざめた馬』、唐十郎『腰巻きお仙』、ブランショ『来るべき書物』、クロソフスキー『かくも不吉な欲望』、ルフェーヴル『日常生活批判』、土方巽+細江英公『鎌鼬』、ブルトン『シュルレアリスム簡約辞典』、寺田透『ランボー着色版画集・私解』、バタイユ『有罪者』、『内的体験』、レリス『成熟の年齢』、ホッケ『文学におけるマニエリスム』、などなどである。
 現代思潮社の社訓は「悪い本を出せ」だったのだから、面目躍如どころの話ではない。あまり言われないのでことさらに強調しておくと、こんなやり口は素晴らしくも日本の出版史上最も特筆すべき事柄のひとつでもあるのだ。澁澤龍彦、出口裕弘、粟津則夫、白井健三郎らを編集ブレーンとする先ほどの古典文庫や、埴谷雄高、吉本隆明、谷川雁を筆頭に、血気盛んにして昂々たる当時の日本の戦闘的左翼の論客の出版は言うに及ばない。人跡未踏の冒険ともいっていい異端的外国思想文学の紹介を精力的にやったのだから、嫉妬深く翻訳の質がどうのこうのと言う向きもあったが、何よりもまずその先駆性において現代思潮社は、フランスでいえばジャン・ジャック・ポーヴェール書店やエリック・ロスフェルドといったシュルレアリスム系出版社に、スイユ社などの思想系出版社の刊行物を足したような危険な活躍を見せていたことになる。いまにして思えばギー・ドゥボールと縁浅からぬジェラール・ルヴォヴィシがやっていたシャン・リーブルというハイクオリティーにして孤高の出版社に匹敵するものがあったかもしれない。知名度においては遥かに現代思潮社が勝っていたけれど。


 全体像をさらに詳しく知りたければ、本書『「現代思潮社」という閃光』や、何よりも石井恭二『花には香り本には毒を』を読んで頂ければと思うのだが、本書のタイトルの「現代思潮社」にカッコが付いているのは、この本がそれでも「私的回想」であるからだろうか。回想に私的でないものがあれば、アナール歴史学派にでも問い合わせれば良いが、いままで列挙してきたお名前の主(ぬし)たち、張本人たちに比べれば若造のなかの若造であるには違いない私としては、いったい何を言えばいいのだろう。市田良彦の言葉を借りれば、何が私的なものであるのか、そうでないのかを表明するこの土俵の上では、「思想になろうとする思想性と、意図的・非意図的を問わず思想性を隠している思想がいつも不可避的に闘うことになる」からである。だがいまはやめておこう。
 付け足しのような世代に属しているから言うのではない。世代など関係ない。ろくでもない世代だし、世代などという考え自体がろくでもない。ほんとうのことを言おうが言うまいが、誰それには関係なしに、とにかく単純直腸径行型だった若い頃の私は、これらの本によって人生を滑稽なほど決定的に変えられたクチであるし、これらの純粋に反事件的である思想的文学的出来事や、あるいはただただ本という存在がひそかに語る公然たる秘密の言葉が私に及ぼした素粒子的超生理学的バケ学的アイオーン的その他の効果だけを頼りにいまも生きているからである。衷心から、というのはそういうことであるし、このこと自体は、余人にはあずかり知らぬ、地味なまでに消え入りそうなことである。実際、そのことにしかほとんど興味がないのであれば、事実、そのとおりなのだが、私には過去の回想的次元などというものはそのつど存在するのをやめてしまうような気がしてくるほどであるし、そのような次元が実際に存在するのをやめてしまっても一向に構わないのである。自分のこととして言わせてもらえば、日本をこの体たらくに貶める片棒を担ぐどころか中心的役割を担っている私の世代またはそれより上の世代の多くの裏切り者や醜いお調子者たちとは違って、人には今という時しかない。そのことをたまには自分に言い聞かせて、時には思い起こしてやらねばならない。自分など一掃してしまわなければならない。そんな時だってたまにはあるのだ。


 石井恭二氏と出会うことができたのは、氏が晩年になってからである。石井さんが私のことを二回りも年若の友人などと書かれたものだから、あんな怖い人とよく付き合えますねなどと知り合いの編集者に言われたりしたが、私は穴があったら入りたい気持ちである。やはり最初に石井さんにお目にかかったとき、私が畏敬の念で石井さんを眺めたのは確かだが、ちっとも怖くはなかったからである。めったにないことだが、不思議なことに、そして大変失礼ながら、この大大先輩の老人に対して友情というか友愛の気持ちを感じたのもほんとうである。理由はわからない。不良の嗅覚だったのかもしれない。石井さんの言葉を聞いていると、そんなことを喋ってはいないのに、その渋目の声のなかにはいつも本と人生があり、同時にそんなものなどたいしたことではないという何かしら強力なユーモアの靄のようなものがあった。いまは亡き石井さんのハンサムなご尊顔を思い浮かべると、あの怖い石井さんは私の前頭葉のあたりでいつも笑っている。そんなことは君、無駄だよ、と言われているような気がする。東京に遊びに来いよ、と誘われても、当時の私は精神状態も体調も悪く、どこに行くのも億劫で、ちっとも遊びに行かないものだから、不遜にも時々電話を頂戴した。たいてい石井さんは出来上がっておられたようで、呂律も怪しく道元や一休や古文書や国文学の話をされるのだが、私に国文学の学が無いものだから、大変申し訳ないことをしたと思っている。たいていは窮余の策として、女好きで男色にも目がなかった一休の話が出たのをこれ幸いに、私が女性の話などに話題を幻術のように切り替えてワープさせると、挙げ句の果てにお互い何を喋っているのかわからなくなった。時おりあれやこれについて石井さんは激怒しておられたこともあった。君、どう思うか、と言われて、そうですね…、と私はたいてい絶句していた。石井さんは現代思潮社を去られた後、道元や一休和尚の仕事に打ち込まれていたが、無学なくせに生意気を言うようだが、電話でお話を傾聴しながら、その頃からそれらの仕事がわれわれの宝になるだろうということは私にもわかっていたのである。

関連書籍はこちら

このページのトップへ

1~1件 (全1件) | 1 |