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お知らせ(第53回 残酷劇)

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  第53回 残酷劇 - 2014.08.05

                                                            第53回 2014年8月


                                   

残酷劇


                                                                       

鈴木創士


 

ブランキ『革命論集』
ジェフロワ『幽閉者 ブランキ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還



 天体の牢獄が広がっている。パリ・コミューンの頭脳だったルイ・オーギュスト・ブランキは、牢獄のなかでも街頭でも、ジャコバン派のロベスピエールのように「諸君は私を破滅させる」などとは言わなかった。ブランキは牢獄のなかの案山子(かかし)である。牢獄につながれても、革命論集から屋根をぶち破り天体へ向けて突っ立っている案山





子は素敵に見える。動物の骨でできた一本の橋のようなもの。動物の歯のようなもの。何か固い芯のようなもの(石の笛のような音がする)。ブランキは鴉の敵のように頑固一徹である。すぐかっとなるブランキは、見かけによらずいいやつだったが、さっきの橋や歯や芯が永遠の衣を纏っていたなどというのは、詩人のたわ言か、真っ赤な嘘である。パリ・コミューンではたくさんのひとが殺された。明日になれば永遠の真実のなかの真実がわかるということも別にないだろう。あらためて天体を眺めてみても、光が届くのにあまりに時間がかかるので、よくよく考えれば、天体には永遠の昨日しかないのである。おととい来やがれ。


 そんなことを考えながら夜道を歩いていたら、俺はお月様を撃ち落とす、と誰かが後ろで鼻歌を歌っていた。だんだん遠ざかる鼻歌をなんとなく聞き流しながら、天体のほうを眺めていたら、横手の土手で紫色の煙が上がり、ブションという音がした。夜の川がさーさー流れていた。急に川の音が大きくなったように思った。変な臭いがしたので鞄を見ると、鞄のなかのブランキの本から何頁かがなくなっていた。本が熱くなり焦げて真っ黒けになっていた。頁を破ったのはお月様だった。頭にきたので拾った棒切れを振り回すと、あいつはぎゃっといって、土手の向こうまで一目散に逃げて行った。はーはーという息が道の水たまりのなかに落っこちていた。あたりがぼーっとなった。あいつはボール紙だった。銀色のマーカーでお月様とかいてあった。


 ボール紙のお月様ではないが、人形は器官などもたない。当たりまえだが、当たりまえではないこともある。さっき錆だらけの鉄の窓からのぞくと、猫が屋根の上でずり落ちそうになってぐーすか寝ていた。猫だと思っていたら、よく見ると人形であった。寝息がそこいらじゅうに響き渡っていた。一見して、人形には「不都合さ」そのものが棲みついているように思う。生誕の不都合さではなく、むしろ死ねない不都合さであろうか。人形を操っているのは天体なのであろうか。江戸時代から続く糸あやつり人形も、文楽も、マリオネットもこの段ではおんなじである。地に足がつかないのではなく、足に地がつかないのは文楽人形だけれど、それは人形のほうの事情ではない。やはり操っているやつを操っているやつがいるのだ。この操っているやつを見つけ出すのは至難の業である。何にも知らないまま、犯人が能天気なことに自分であったなどということもたまにあるからである。日も暮れたのにいつまでもかくれんぼうをしていて、自分が死んでもまだずっと鬼をやっていたのに気づかないのとおなじことである。それとも操り糸の向こうを張って、雲のように無数の人形たちにそれとなく覆いかぶさっているのは、巨人族ネフィリムのようにばかでかいやつなのか。ただし巨人は、この場合はからだがあってはならず、煙でできていなければならない。からだもなし、頭もなしの、ないないづくしでなければならないのである。引き算は大の得意である。ネフィリムというのは「天から落ちてきた者」という意味らしい。学のあるところを見せて、カバラ風に言えば、「・」から落ちてきたのである。誰もほんとうのことを言わない。すべてのクレタ人は嘘つきである。椅子取りゲームなどしている暇はない。


 からだが踊り出さないようにしたのは神だとアルトーさんは言う。裏返しのダンスを踊れ、とアルトーさんは怒りまくって言うけれど、これがなかなか厄介なのだと隣の和尚も妙に納得していた。踊りに貴賎はないのだ、と。そんな余計な知ったかぶりの言い草を最後にいつもつけ足すものだから、隣の和尚はいつまでたっても俗物のままだし進歩がないのである。和尚は炎天下の地べたで勝手にわめかせておけばひとりで喜んでいるクチだし、隣の和尚のことなどどうでもよろしいが、そんなことより、人形ははたして永遠の健康を返してもらったのであろうか。からだが踊り出すのは健康であるからである。病気というのは一種の健康であるから、悪魔の世界ではない。あんまり食い過ぎたり、飲み過ぎたりするのもよろしくない。踊るのを忘れてしまうからである。人形だっておんなじではあるが、というのも人形も悪魔の世界に片足を突っ込んだりするからであるが、人形は食べたり飲んだりはしないのである。もしくはその振りをし続けることができるのだよ。


 永遠の健康を返してくれたのは神なのか。人形は誰も見ていないとき、自分で自分を修理し、養生しているのである。摂生し、殺生しないのである。人形は慎ましい。あの慎ましさにはぞっとするものがある。あいつがじっとこっちを見ていると思うと逃げ出したくなる。韻を踏んでいる場合ではない。あいつって誰だ。あいつだよ。からだのなかに梯子を呑み込んだひともいるくらいだから、思春期のはじめ頃、傘でも呑み込んでみようと思っていた。というかだいぶ前に適当なことをぺらぺら喋っていたら喉を詰まらせて、傘をもう呑み込んでしまっていたことに気づいたから、すでにからだが痙攣を起こして、固まってしまい、ピノキオのようになっていたのである。ほしいままの悪業というのはあるが、ほしいままの硬直というのはちょっと聞いたことがない。こういう人を馬鹿なおひとと言う。清水寺があったら、落下傘をつけて飛び降りたいのさ。落下傘だけが落ちて行くのを見るのは壮快である。この前救急車に乗せられたときも、上から吊られたまま、車に揺られて運ばれて行くしかなかった。救急車が壁に激突しても、きっとずっとゆらゆら揺れているだけだったろう。ぴのきおや吊られるままに救急車。大変な思いをしているのである。


 アルトーさんによると、コーカサス山脈、カルパチア山脈、ヒマラヤ山脈、アペニン山脈の、人の来ない、陽も当たらない斜面では、くる日もくる日も、朝も昼も晩も、からだの儀式が行われているらしい。からだの儀式というのは猥褻な感じがするだけではない。なんとなく嫌な感じである。これはアルトーさんの持論であるが、うんこの臭いだってしてくるみたいである。岩陰から隠れて見ていると、ぶるっとするくらい恐ろしい光景が繰り広げられているらしい。見つかったら、お陀仏である。ナチスの悪人どももそのへんの事情に気づいていて、探検隊を組んだりして、余計な茶々を入れていた。ところで、黒い儀式って黒人の儀式という意味じゃないぞ。黒い命というやつがいて、そいつが忌まわしい食い物をがつがつほおばっているのである。食い意地のはったやつはたいてい下品であるとだいたい相場は決まっている。忌まわしい食い物って何だ。頭とか手とか足とか腹とか、人のからだだろ。たぶんね。


 アルトーさんは臍が問題であると言っていた。オムファロス。アルトーさんの言っている臍がこの臍かどうかは知らないが、というかたぶん違うだろうが(でもアルトーさんにはトルコの血が流れているようである)、臍の石があるのである。世界の中心だという噂である。その石に手を当てて、気狂いの真似をしたデルポイの巫女がむかし予言をぶつぶつ呟いていたんだからな。ピュティアっていう女の子である。予言が当たらなくてハズレばっかりだったのかどうかはわからない。あてもんじゃないけれど、世界はあてもんみたいなものだから、黒い命も必死だったのである。アルトーおじさんには顔とかを見ると預言者みたいなところがあったが、予言など猥褻であるとまた玄関先で怒り狂って





いた。このひとはお墓の反対側というか裏側という裏側で息をしていたくらいだから、複雑にできているのである。それはそうと、この臍石のまわりでは大勢の人が踊り狂っていたに決まっている。だいたい想像はつく。隣の和尚にだってそのくらいのことはわかるだろう。踊る以外にほかにすることがないからである。裏返しの踊りというのはこの猥褻な踊りを踊りから追い出してしまうことである。叩き出してしまうことである。


 アルトーさんは黴菌を憎んでいた。最後の頃はずっと黴菌への攻撃をゆるめなかったくらいだから、よほどのことである。ずっと前からきんたまに湿疹ができて治らなかったのである。アナイス・ニンはアルトーさんのために軟膏を買ってきてあげなかったのだろうか。黒い儀式の黴菌がからだのなかに下降してきて、下半身で止まってしまったのである。ぶらぶら。いつもぶらぶらして、うろついていたのは黴菌のほうである。これはからだ全体にとって一種の急降下爆撃でもある。隣の和尚に聞くと、なにせ、かゆいらしい。さもありなん。黒い儀式はペストの起源でもあるのだから、ドラキュラもノストラダムスもそのへんの研究は怠らなかったはずである。ノストラダムスはペストを治したことで有名である。険しき快癒という本を書いたひとがいた、というかそのように日本語に翻訳したひとがいるが、変な日本語ではあるけれど、面白い言葉である。まさに険しき快癒である。ドラキュラとノストラダムスのきんたまにも湿疹ができていたのだろうか。かゆかったのだろうか。軟膏を買ってきてくれるお嬢さんが近くにいなかったのだろうか。ドラキュラもノストラダムスも掻きすぎのあまり血が出たりしたのだろうか。血はやはり出でいたのである。青い血だけではない。ドラキュラだって黴菌だらけの血をだらだら流していたのである。かゆいが、汚いし、不都合なことこの上ない。ペストはかゆみであると言い換えても罰はあたらないほどである(おっと、これはまさに失言である)。血が世界中から少なくなってしまっていたはずである。血はほとんど剰余価値であるのだから、流通しなくてはならない。真面目なはなし、献血に行かなくてはならないのである。


 それで柩の行進があった。だらだらと行進していた。こういうのを見ると、ほんと人生が嫌になる。もっともっとさらに人生が嫌になると言ったほうが当たっているのだろうか。まあ、薔薇色の人生を送っているのだからそんなことはないのだろうが、だけどもっと怖いのは、柩をかついでいる人たちが一人もいないことである。昼の日中なのに誰もいない。がらんとした通り。砂埃をかぶって白茶けてしまった大通り。枯れかけの街路樹。ぎらぎらとした太陽が照りつけているばかりである。大通りなのにあたりはしんとしている。この感じは俗物の和尚には理解できないだろう。柩だけが連なって行進していた。やばい。箱だけ。ずるずる音だってたてていた。柩は木でできているのだから、壊れたりしないかとひやひやしてしまう。柩のなかにはたまに夢遊病者が紛れ込んでいたりするが、ほんとうのところ、なかにいったい何が入っているのかは知れたものではない。夢遊病者ってもともと死んでいるひとの生まれ変わりなのだろうか。入っているのが鼠だといいのだが、異次元から湧いて出たような超限数のゴキブリが走り回る巣だったりするとちょっと困ってしまう。だがほんとうはもっと恐ろしいものが入っているのである。隣の和尚も入っていたりして。可能性は大いにある、と見る向きもある。近所の人たちだけれど。蛇足ながら、そんな噂話に世間はほとほと困惑しているのである。


 たまに柩からは声がしたりする。柩を運ぶひとはいないが、からの柩に砂が入っているわけではなく、柩のなかでじっとしているひとがやはりいるのである。誰の声かはわからない。というか最初はわからない。声はすぐに消えるからである。他のやつが喋っていても一向に気にならない。がやがやいっている。ほっとけばいい。かすれるような声のこともある。がらがら声のときもある。拡声器でがなりたてるような声のときもある。たいてい大通りは静かだから、これにはびっくりしてしまう。近所の人たちも、大人も子供も、何事だろうかとおもてにぞろぞろ出てくる始末である。そのほうがよっぽど怖い。よせばいいのに、また隣の和尚が、よっしゃ、よっしゃと言ってしゃしゃり出たりもするからである。でもほんとうは誰の声だったのだろう。ひょっとしたら、鼠でもゴキブリでもドラキュラでもノストラダムスでもなく、なかに入っているのは人形なのだろうか。ひとがたという意味ではない。もうそんな時代ではない。人形の声。ひひひ。ふふふ。ひいふうみつよう。ひょっとしたら柩をがたがたと動かしたり、揺すったり、柩のなかに入ってごはんを食べる振りをしてみたり、柩を壊したりしているのは人形なのかもしれない。もしかしたらもともと全部を操っているのは人形かもしれないのである。
 おととい来やがれ、とルイ・オーギュスト・ブランキは再び言うのであった。

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