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お知らせ(第58回 仮面の生涯)

  第58回 仮面の生涯 - 2015.01.04

第58回 2015年1月




                                仮面の生涯




                                                                        鈴木創士





澤野雅樹『数の怪物、記号の魔





                    作者不詳「イナゴの禍い」(サン・スヴェール修道院ベアトゥス黙示録注解)


 「たぶん〔経験機械〕の利用者は難問を突きつけられている。彼らが自分の思い通りになる人生を経験すればするほど、彼の人生そのものは機械の思い通りになってしまう。コードに繋がれた人間家畜は、むしろ日陰に生えた苔であり、ぬるま湯に浸かったタブラ・ラサと呼ぶのが相応しい。バロウズ翁だけは「クソ野郎」と呼ぶ。クソ野郎には人生がない。」(澤野雅樹「仮面の生涯を命名する」)
 ぬるま湯に浸かったタブラ・ラサ(白紙還元)というのは高級官僚の白痴状態のようでもあり、なかなか無様ではあるが、まあ、そんなことはどうでもよい。


                                      *


 クソ野郎には人生がない。
 もうひとつだけ澤野氏の文章から孫引きを。「〈私〉とか〈彼〉とかは部分を持たないと言った方が良いかと思います。なぜなら同じ実体もしくは自然学的な〈自我〉が実在的に保存されると言いますし、またそれは正しいのですが、しかし事物の厳密な真理にしたがって言えば、部分を失って全体が保存されると言うことはできないからです。それに物体的部分を持つものは絶えずそれを失わないわけにはいかないですから」(ライプニッツ『人間知性新論』)。
 ライプニッツはドゥンス・スコトゥスやデテキントを読まなかったのだろうか。デデキントは無理にしても、部分が全体と同型だということもある。しかしながら、臓器をひとつ失ったくらいでは人はなかなか死なない。一方、薔薇の刺が人差し指に刺さっただけで、死ぬ人もいる。だが人というのは何のことであるのか。生命なのか、生なのか、人生なのか、人格なのか、顔なのか、身体なのか、はたまた出来そこないの自我なのか、歴史の通時性にあいた穴なのか。それとも心? 魂?
 古代エジプト人は、霊魂は七つあると信じていたらしい。つまりこれらの霊魂のなかには最高位の魂があって、それはレンと呼ばれていて、「秘められた名前」を意味するそうである。この秘められた名前が君たちの映画のタイトルである、とウィリアム・バロウズは言う。君たちが死ぬとき、今度はこのレンが(目には見えない煉瓦の角石のように)登場するのだ、と。映画とはよく言ったものだ。バロウズは心得ている。動き回る分身イマージュ。だがこのイマージュに対して、何を、どう命名すれば良いのか。「指示」されたものは支持されなかったものである。秘められ、忙殺された私事のようにも見えるあらゆる指示、そしてこの指示による、この指示それ自体がつくり出す同一性。しかしそんなものはただの見てくれにすぎないのである。幾人もの俳優には幾つもの名前がある。それは唯名論の言う「犬なるものは存在しない、この世にはこの犬、あの犬しかいないのさ、すなわちポチであり、コロであり、太郎であり、ガブリエルであり、ミカエルであり…」と同じような事態を指しているのだろうか。だがその幾つもの名前のどれひとつとして魂の命名として重要なものはないはずだ。名前も千年くらいはもつかもしれない。終末論は千年を単位とする。だが一万年なら? それらはすべて忘れ去られる宿命にある。


                                      *

                                        

 朝からぼんやり空欄を見つめていた。新聞の空欄だったのだろうか。新聞に空欄などない。見つめていたなどと言うのは言い過ぎだ。彼は何にも見ていなかった。青色を見るときのように、目の焦点が合っていなかった。戯れに、いや、彼は別に戯れてなんかいなかったが、何度かひんがら目をやってみた。白目と言うくらいだから、瞳の周囲にも空欄があって、そいつが見ているのである。最も波長の短い色はしたがって空間をつくり出す。ぼんやりと、即座に、ガランとした広大な場所を。
 われわれは月のなだらかな丘の上にいる。向こうのほうに地球が浮かんでいる。暗黒のなかを太陽が昇り始める。見ていると、少しずつ少しずつ地球に陽が射し始める直前である。あたりがぼんやりと明るくなる。すべては微かなブルーのなかに存在し始める。色彩とは空間の謂いである(フランスの哲学者の書いた美術論であるカルパッチョ論にそうあった)。セザンヌは、色彩とは脳と出来事が出会う場所だと言っていた。この素晴らしい画家の言葉にしては、何という言い草だろう。だがさしあたりここでは色彩は関係ない。
 青はほとんど色ですらない。何かがぼんやりと存在していたのだ。そんな感じである。病院の窓から雪が降るのが見えた。このあたりはめったに雪が降らないのだから、昨日はとても寒かった。強い風がときおり唸り声を上げていた。元旦の深夜には、神社のトンド焼きの灰が車のボンネットに雪のように舞い落ちていた。目の端に白いものがちらついていた。雪ではない。彼などいない。空欄が俺を見ていた。


 ホテルのような病院のデイ・ルームからはよく雲が見える。140年前に元々フランチェスコ派がつくったらしいこの病院は高台にある。元をただせば、何しろドゥンス・スコトゥスやウィリアム・オッカムのいた派閥だぜ。隆起した土地。隆起した化石。余談だが、化石堀りは少年時代の武勇譚である。隆起して固体化し、蒸発して気化する前に、その周囲を人が映画のコマ送りのように動き回ることになった蜜蝋のような精神(たしかにフーコーとデリダは狂気をめぐって、デカルトをデカルトとは別のものにした)。精神は何の役にも立たない刻印である。署名したまえ。魂に署名したまえ。映画のひとコマのように。この署名はきっと読んだ端からすべて忘れ去られるだろう。それは忘れられた。これでおしまい。雲のように。さっきから広い窓からアンドレア・マンテーニャの描く雲を探していたのだが、見つからない。はじめから狂っているとしたら、どうなのか。コギトは発狂し、「私」は発狂などしない。今はそんなことはどうでもいい。ルネッサンスは完璧な狂気のなかにある。することが何もない。私が入院しているわけではないので、することもないし、何かをされることもないのだ。病んだ通行人がいる。病気は見出されたものなのか。もともと病気であるわれわれは何をどう命名するのか。名づけ親であったのは実は肉体のほうだったということだってある。優しい病人たち、優しい看護人たち。どうしようもない病人たち。雲を眺める。空調はいつも息苦しい。私は思考を集中させない。チャクラは閉じたままだが、からだは穴だらけなのである。顔のような雲。いや、雲のような顔、雲のような横顔、雲のような体。雲のような馬車、雲のような鬣(たてがみ)


                                                                                              マンテーニャ「磔刑」



 生涯の映画はずっと続いている。誰も死んではいないからである。ここ、人が死ぬ病院でさえ。ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』の最後のほうに出て来たように、登場人物がオペラでも歌い始めることができればまだいいほうだ。主題は悲劇であっても、喜劇で終わる感じが少しはするからだ。混乱は倍加したり収束したりする。退廃にはたぶん複雑な意味がある。あっちにはヨーロッパ映画があり……。だがここのところフロイトもラカンもちっとも読む気が起こらない。その暇もない。ジォットがかつてアッシジの聖フランチェスコ教会に描いた「聖フランチェスコの死と昇天」というフレスコ画には悪魔が描かれているらしい。全然たいした話じゃないが、右側の天使の足下にある雲のなかに、角を生やした悪魔の顔が。アナロジーの遊びをやろうとしているのではない。ここの静かな高台の雲のなかには悪魔を見つけることはできなかった。黄色く反射する雲、たぶん死者たちの住まう、それでも古くて新しい都市がある。朝の光に薔薇色に染まるネクロポリスだと言いたいんだろ。そこで蠢くもの。あれは人間の姿だったのか。彼がいなくても物語そのものが失われることはない。「事件は誰のものでもないが、運命は必ず誰かの人生なのである」。だがここには、この病院には、経験というものがない。もう一度、雲を見る。龍が首をもたげて背伸びしたまま崩れて流れて行く。アジアの龍はやがて見えなくなり、消えてしまう。


                                      *


 隣の和尚が穴子の押し寿司があるから食いに来いと言う。そんな置き手紙が玄関にそっと置いてあった。いつものやり口である。玄関など冥途に送ってやる。和尚はハデスの前に引ったてられて右往左往するだろう。俺は天気予報を見て、雨が降らないことを確かめてから、その手には乗るもんか乗るもんかと心のなかで反芻した。たいがいこいつの誘いは噓に決まっているのである。この手の話にだまされて、隣を訪ねてみると、誰もいないお御堂で線香の煙が立ち上っているだけなのである。猫が座布団の上で寝ている。穴子のかわりに鰻が供えてあることなどまったくない。ふざけるな。一杯食わされて、のこのこ出かけて行った日には、俺は怒りのあまりお経の本を縁側に持って来て、蛇腹のようにぱらぱらめくっては、そいつを延びたアコーディオンのように投げたり、引いたり、鳩がその上にフンをするのをじっと待っている。おっと、これには時間がかかりすぎて、家に戻っても仕事ができないことは承知の上だ。和尚は上田という。承知の上田。鳩はくぅーくぅーいってばかりではない。上手い具合にお経の上にフンを落とすこともある。その類いの僥倖にはスキっとする。我鳩に感謝するが故に我在り、などとは言うまい。俺はその程度のものさ。鳩はスペイン語でラ・パロマというらしい。今日は、いつものごとく腹が立ったに決まっているので、声のなかには声の形骸があり、そのなかで俺はわめきたいだけわめいた。しかし美声が台無しになるのでやめた。声亡き民である。うんこをしながらオペラを歌わねばならない悲しみの蒼氓がいる、と口癖のように言う奴がいる。
 和尚のところに行くのはやめて、手首を見ると、爪で引っ掻いた傷があった。血液非凝固剤を服用しているので、血が革のコートにまで滲んでいた。十二月の暮れも押し迫った頃、誰かが殴りかかってきたのだ。怒鳴り声が聞こえたような気もする。椅子が投げられた。コートが宙を舞う。わが父だったのか。わが父ピエロと言える日が来るのだろうか。気狂いピエロめ、親孝行は三文の徳であり三文オペラである、と彼女は言う。みんな家族小説に関しては噓ばっかりデタラメばかり言っているようだ、とトーマス・ベルンハルトは言った。どいつもこいつも、自分のことだからな。そんなことは先刻承知の上である。父の否認、それをカフカ風にやる方法はあんまり当てにはできないし、ほんとうのことを言えば、そんなものは金輪際うまくいかないのかもしれない。たかが、ほんの秘密の父である。一時期カフカは愛読書だったが、みじめすぎる。減反の麻、いや、元旦の朝、頭を臓器移植するというアイデアについてテレビで激論が交わされていた。アマゾン河の近くでは、心臓だって神の食い物の時代があったくらいである。食い物の話ではないが、第一、テレビで食い物の話ばかりやっているのは下品だから大嫌いだが、そんなことより、おまえは誰ですか、ということになって、頭を取られた奴、頭を植え付けられた奴が、同じ女性を愛せるはずもないし、植え付けられた頭が「私」などと言った日には、誰が私ですか、私はどこにいるのですか、誰がしゃべっているのですか、などとややこしくてかなわないからである。存在しない地図のように双六を拡げた。お正月だからだ。文句あるか。噓をついた。双六など拡げてはいない。双六は意地汚い仮面のように金輪際存在できはしない。和尚の犬だってそのくらいのことは知っている。

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