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お知らせ(第61回 ある公演中止の余白に)

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第61回 2015年4月


                                        
                                        
                          ある公演中止の余白に

                                        
                                        
                                                                        鈴木創士


                                        


ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』『エル・グレコのまどろみ
アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還




 私もかかわっている、結城一糸率いる江戸糸あやつり人形座による芝居『分身残酷劇 カリガリ博士』が、ここでみなさんに詳らかにする気にもなれない理由で、急遽中止になりました。青天の霹靂というか、どちらかといえば寝耳に水という感じでしたが、ハムレットが耳に毒水を流し込んだのさ、などと嘯いて知らんぷりを決め込んでいることができればいいけれど、そんな恰好の良いものではありません。芝居は今年の九月に東京の高円寺で上演の予定でした。
 

 すでに原作脚本:鈴木創士、演出・上演台本:才目謙二、人形演出:結城一糸、音楽:佐藤薫+BANANA-UG、舞台美術:島次郎、照明:斉藤茂雄、音響:幸田和真、人形・衣装:小林ともえが決定していて、もうこんな時期なのだから、言うまでもなく私の脚本もとっくに出来上がっていました。
 俳優陣はといえば、十貫寺梅軒、笛田宇一郎、木下智恵、吉田朋弘、人形遣いは、結城一糸、結城民子、結城敬太、結城栄、金子展尚、他が決まっていたし、私自身、若い頃に見に行っていた状況劇場の役者だったあの梅軒さんにもお目にかかることができて喜んでいました。演出家と音楽家は私の友人であるし、本はできたし、後は高みの見物、人形、俳優、演出、音楽、舞台美術、等々、さあ、お手並み拝見という気楽な立場になるはずでした。




 こんなことになったのはあまりに突然のことで、その経緯をここに書くつもりはありません。勿論、人形座、演出家、俳優、音楽家、その他私も含めて、このまま終わらせるつもりは毛頭なく、来年の上演実現に向けて、新しい形態も含めた模索がまもなく開始されるはずです。そうしなければならないのです。
 

 それにしても、なぜ分身残酷劇「カリガリ博士」なのでしょうか。なぜなら、と言うことはできません。この場合は、作品の説明など阿呆のすることだと言いたいのではありませんが、たとえそもそも作品というものが恐らく半分以上は批評でできているとしても、上演も出版もされてもいない自分の作品を批評したり解説したりする気になどなれませんし、そういう芸当については能力も忍耐も私にはもともと完全に欠如しているからです。もし「カリガリ博士」の脚本をまだ書いていなくて、もともと書く気もなく、それがまったくの幻、でっち上げの架空の作品であれば、ボルヘスのように、ありもしない本について言及することはできるでしょうが、いまは悠長にそんな話をしている場合ではないことはわかっています(その代わりと言っては何ですが、この戯曲のための趣意書めいたものがあるのでそれを後で掲載しておくことにします)。
 

 だが、どうしてロベルト・ウィーネの無声映画『カリガリ博士』に登場するカリガリとチェザーレのイメージが必要だったのでしょう。ジャン・ルイ・シェフェールが『映画を見に行く普通の男』の冒頭で言っていたように、私にとってこの映画が、映画が始まると世界が不意に一種の無時間のなかに消えてしまう、そのような映画の最たるものだったからです。






 無時間と時間の間でそれこそ一瞬にして事物と身体の縮尺が狂ってしまう。たとえ映画が時間の芸術だとしても、記憶をめぐる何かしらがそこから派生し、延長され、ワープするにしても、私にとっては、そこから映画のなかの新しい時間が始まるわけではありませんでした。そうではなくて、事はただイマージュのさまざまな出現、出現の仕方だけにかかわるのです。この事態のもつ貧しさ、唐突さは一種の原動力です。カリガリのドイツ表現主義風イメージの超越性は私にとってそれほど強烈だった、としか言いようがないのです。私はそれに対して愛情すら覚えているのですから。
 勿論、私の戯曲が、アントナン・アルトーの影響のもとに書かれていることは認めざるを得ません。それが目に見える形かどうかは別問題ですし、アルトーが色んなことをいままで私に教えてくれたわけでもないですが、それでもアルトーは私の梯子を急に外したりし続けてきました。私は墜落を楽しんでいたのでしょうか。そんなことはあり得ない!
 

 それはそうと、私はカリガリのイメージを「自身の身体なのに僕自身には見ることのできない部分のように」(シェフェール)用いた、というか用いるつもりで、ある無手勝流の使用法を戯曲のなかに解き放ってみたくなったのかもしれないですが、いずれにしろこの映画からは、カリガリに限らずとも、「分身」のイメージが最初からふんだんに発散されていて、それを黒い太陽の見えない光線のように、つまり何かの固定されたイメージ群とイメージ自体がもつ時間の反映を穴だらけにするように、浴びないわけにはいかなかったのです。分身という、光への回帰を果たせない者たち。遅れてやって来たのか、先にいたのかわからない者たち。このほの暗い影の底を、世界の断片が、叫びが通り過ぎ、言葉、すでにわけのわからぬものとなったそれらの言葉、誰のものとも知れぬ、どこから来たのかもわからぬ言葉が、その底にひらひらと舞い落ち、積み重なって、腐り果ててでも繰り返し誰かの口から再び発せられることになるかもしれない……と。そのためには、そしていくつもの声がそれぞれ語り始めるには、戯曲が必要だったのです。

                                      *

                      分身残酷劇「カリガリ博士」趣意書

 始めにあったのは、そして始めから終わりまで度し難く居座り続けるのは、ロベルト・ウィーネ監督による映画『カリガリ博士』の、突飛としか言いようのない、いまでも色褪せることのないイマージュ群である。ヴェルナー・クラウスによって演じられたカリガリ博士、コンラート・ファイトによって演じられた夢遊病者チェザーレの完全無欠のイマージュである。そして、言うまでもなく、アルフレート・クービン、ヘルマン・ヴァルム等によるドイツ表現主義風の舞台美術、映画内における、つまりスクリーンの内側に、ボール紙の黒いお日様もかくやと思われる、エドガー・アラン・ポーの黒猫さながらに塗り込められた書割りである。それらは一種の謎の光源から射す影のように機能した。これらの美術的効果はカリガリとチェザーレの全存在、全イマージュの一部をなしている。
 

 舞台という現実のなかに大股で侵入するこれらの実現された幻影は、すでにして決定的である。劇場の闇と同じように暗いわれわれの脳髄のなかのスピーカーは、記憶に頼らずともそんな風にわれわれの耳元でわめいているのだし、大声で教えを垂れにかかっている。いかにしてカリガリ博士は、三角形の家、歪んで閉じたままの扉を出たり入ったりするのか。いかにして箱のなかのチェザーレの恐慌(パニック)は、蓋も閉まらない棺桶に憧れるのか。世界が、われわれの世界が、20世紀初頭このかた斜めに傾いているのであれば、いかにしてさらに傾き続ける一本道を、糸巻きオドラデクの断末魔のきりきり舞いのように、迷宮のなかの眩暈がするほど急傾斜した細道をよたよたと行けばいいのか。ねじ曲げられ、ばらばらにされ、崩壊し、へしゃげた幾何学は、われわれの舞台のために何を語るのか。それらをついでに見てみなければならないのである。
 

 とはいえカール・マイヤーとハンス・ヤノウィッツの原作脚本も、フィリッツ・ラングによって後に手直しされた脚本も、もはや部分的にしか、いや、まったく問題とはならない。語られた物語は、すでにカリガリとチェザーレというこれら二人の登場人物のイマージュの片側だけを反射する残骸にすぎない。反射されたイマージュの光は、われわれの散漫さのあまりズタズタになってしまった世界の散文にも似た断片の上に映し出されるだけである。そしてこの映画をめぐって後にドイツで巻き起こった論争、カリガリがヒトラーのような人物であるかどうか、などということにわれわれがほとんど関心がないことはあえて言うまでもない。ヒトラー自身も人類の歴史の死んだ傀儡(くぐつ)にすぎないからであり、一方、カリガリは、ご存知のとおり、フィルムのなかで永久に動き回り、生き続け、そしてわれわれ自身は崩壊後の、断片化された後の世界をいまも生きているからである。
 

 すでにカーニヴァルはおひらきだ。引き潮の後に舞台は成立するかもしれない。地面の上には紙屑しか落ちてはいないけれど、まだ風くらいは吹いているだろう。少しの仕草、大仰でギクシャクとした身振り、そこには天地創造にも比すべきものがある。カリガリ博士と夢遊病者チェザーレは殺人を犯したのだろうか。カリガリは薄闇のなかに血がほとばしるのを、ほんとうに笑いながらチェザーレと一緒に見ていたのか。カリガリはチェザーレを愛しているのか。チェザーレはカリガリを憎んでいるのか。カリガリの、チェザーレのからだは何でできているのか。なぜガリガリでなければならないはずのカリガリが太っていて、なぜ箱のなかでじっとしているチェザーレが痩せているのか。カリガリが診察室のなかでひそかにチェザーレを食っているからなのか。
 夢遊病者などというのは仮の姿である。ではチェザーレのからだは煙でできているとでもいうのか。そもそも、ここはどこなのか。夢遊病者が夜を彷徨う人であれば、彼は黒焦げになった回文のようにそこをぐるぐると廻り続けているだけであり、夜が、暗闇の囁く文章が、チェザーレを生かしているのである。カリガリ博士は狂人なのか。精神科医とはどこの鼠のことなのか。カリガリが機関車の運転手であってもバナナの叩き売りであっても自転車乗りであっても私はいっこうに困らない。診察室のなかでは博士の愛情の末路などどこ吹く風。人に裁きを下す墓場に愛などない。観客に愛がないように…。おっと、話題を変えよう。
 では、どうして映画のなかのカリガリはメタ・レヴェルの物語をすいすいと泳いでゆくのに、夢遊病者チェザーレはチェザーレのままで居続けることができるのか。実のところ彼はとっくに死んでいるのかもしれない。舞台に構造はない。構造は構造が降り立った街路のものだということになっている。少なくとも舞台の上では映画のように階層的幻覚を一瞬のうちに実現することはできない。積み重ねられたメタ・レヴェルは一巡して元に戻るだけである。そのことはわかっている。
 もう物語はなしだ、と20世紀フランスのさる前衛作家が言っていたが、そのことに私も同意しよう。物語はもうなしだ。あるのは、さっきも言ったように、イマージュを反射する散文の黒焦げになった残骸だけである。だが厚顔無恥な物語はいつまでもしぶとく強靭である。物語はわれわれと同じように始めから破綻していたはずだというのに、いったい何が起こっているというのか。物語というこの化物は、別の物語の末路を装いながら、向こうに見える洞窟のように真っ黒い口を空けてわれわれの方をじっと見ているだけである。
 

 カリガリ博士とチェザーレ。彼らは一種の「概念人物」、人物としての「概念」に成りおおせることができるのか。舞台は物体でできているのだから、映画風のイマージュなどと言っても何も始まらないのは承知の上である。われわれが行うのは演劇なのだから、映画のイマージュはちぐはぐな身体を得て、ここ、舞台の上で立ち往生しなければならない。映画のイマージュ? いや、ほんとうのことを言えば、そのようなものはどれも映画のイマージュですらない。私がここで言っているイマージュは、物理的意味においての、時たま光で出来ているようにも見える身体イマージュでしかない。演劇や美術、そしてそもそも映画は、それを偽装し、仮構するものなのか。それは嘘っぱちなのか。数々の留保がつくとはいえ、勿論、そうではない。われわれは喜んでそうではないと考えるほうに賭けることができる。なぜなら現実のなかで汗し、愛し、あくせくし、あくびし、あそび、あやまちを犯し、それでいて現実を手玉に取っていると、丘の上の阿呆のように思い込んでいる愛すべきもしくは憎むべき実在のわれわれ自身もまた、イマージュで出来ているからである。
 

 そのことを最も哲学的に語るのは、あやつり人形自身の確固たる存在である。これは厄介であると同時に、喜ばしいことである。とりわけここでわれわれはそう考えることができる。儚い存在であるのは、その消息を風さえも知らないのは、そして砂まみれの、切れてしまいそうな一本のアリアドネの糸すらもはや手に握りしめていないのは、残念ながらわれわれの方である。一本の糸、無数の糸。重要なのはそれである。演出家と脚本家は途方に暮れざるを得ない。どこのどいつが無責任にそう言っているのか。大変なことになったものだ。あやつり人形は誰に操られているのか。操っているつもりの人形遣いを操っているのはいったい誰なのか。むしろ黒子に結わえられた見えない糸は誰に握られているのか。人形になのか。役者になのか。
 操り人形と黒子の関係は分身と分身の関係である。分身が分身を操っていたのか。分身と分身の関係に主人は介在することができない。ところで、主人はどこかにいるのだろうか。よくよく考えてみなければならない。私は私と出会うことはできない。少なくとも四六時中は。私が死んでも、私の中にいるあいつは死なないのと同じことである。舞台の外にまで広がる茫洋としたこの空き地にいるのは、結局のところ分身だけではないのか。生身の役者はどうなのか。彼はほんとうに生身などと言えるのか。彼の声は分身の声ではないのか。分身はかりそめのからだを持つだけだとしたら、役者もまた同じことではないのか。
 だから舞台の上であれどこであれ、神出鬼没であるはずの顕現としての身体は、栄光の身体の奈落の淵で、すでに瀕死の状態に陥っている。だが、われわれがすべての本を読んだとしても(それは嘘だ)、肉は悲しんでばかりいるわけではない。そもそも人形は肉を持たないではないか。人形たちはそれを喜んでいたのか。悲しんでいたのか。そうであれば、人形が黒子となりかわり、役者とすりかわり、今度は彼らを演じ続けているとでもいうのか。じつに美しく、恐ろしい事態ではある。はたしてわれわれ自身が誰かによって演じられているのか。われわれが息をしているなら、息を吹き込まれたのなら、人形はどこで息をしていたのか。われわれだって?
 そんな風にわれわれに言っているのはじつは人形の方だったのである。霊的なプロンプターを装う黒子は黒子であることをいつやめるのか。彼はいったい誰に科白を大声で伝えていたのだろう。人形になのか? 役者になのか? そうであれば、蘇ってはみたものの瀕死のままである栄光の身体が操っているのは、人形遣いである黒子自身の、役者自身の、つまりわれわれ自身と観客の、どう見積もっても悲惨としか言いようのない身体なのだろうか。
 

 われわれの師であるアントナン・アルトーが言う「身体の橋」とは、ひとつの幻想などではない。形而上学ではない。この橋が、現実の大盤振舞いとして、アリアドネの糸のあえかな結び目として、揺るぎない公理として、まずは人形と役者のあいだにいかに架橋されるのかをじっくりと見てみようではないか

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