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お知らせ(第66回 瓦礫 ジャコメッティとジュネ その二)

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                                                            第66回 2015年9月




                                    瓦礫
                        ジャコメッティとジュネ その二




                                                                        鈴木創士




ジャック・デュパン『ジャコメッティ――あるアプローチのために
鈴木創士『サブ・ローザ――書物不良談義

 



 もう通りのゆるやかな上り坂も最後までのぼりきれないような気がする。坂の傾斜は私に湾曲して涸れた一種の底をつくりだす。底は無底であり、むろん目には見えない。すでにそこへ向かってのぼることも降りることもできない。私の周囲にあるものは一切が生彩を欠いてしまっている。もう明日の脚がないかのように、すべてが目のなかで壊れる準備ができたかのように、私は坂をのぼることを諦める。オベルカンプ通りもメニルモンタン通りも消えている。


 常軌を逸したものが生きていて、光をはね返す梢の下で、カケスが鳴いてやかましい。カケスの真似をして、言うことができることすべてをいまこの瞬間に言うことはできない。私はそのことをすでに言ったのだろうか。


 だが彼は簡単には通り過ぎない。けっして通り過ぎることはないだろう。彼はきっと疲れ切って、あるいは何を措いても急いで戻ってくるだろう。誰のもとへでもない。幽霊が数人だけ足早に通り過ぎる。彼はただ埃だらけの古めかしいアトリエに戻ってくるだけだ。昨日と今日、外では、陽だまりにあったように、言葉がぐちゅぐちゅに腐って悪臭を放ち続けていたというのに。


 あらゆるものが瞬時に違って見える。この感じをどう言えばいいのだろう。毎日見ているこの通りもあの通りもあの曲がり角も異国の風景のように見える。何もかもが、あるときは強く、あるときは弱々しい光を受けて、違っているのだ。そこを歩く女の薄手のスカートの襞の光沢にいたるまで。さっきまで風にそよいでいた金髪の髪はもう消えている。松果体が混乱を起こす。店はなぜか閉まっている。永遠が誰かを誰かに変える前に、永遠は目の前をよぎり、いっときしかめ面をしたのだ。バスから見える通りを行く灰色の老人は、あの隠された類似を受けて、この同一性の揺れと錯乱のなかで、静かに別人から別人へと姿を変える。いま見たはずのすべての印象をぺしゃんこにしてしまうような、もはや彼とも呼べない見ず知らずの人がこちらを見ている。いつもありえないような場所に人が立っている感じがする。錯覚なのだろうか。ここでもあそこでも、夕暮れの行方が誰にもわからないように、画家たちの言う空間と時間は見分けがつかないし、すべての瞬間が周囲からさっと逃げてしまうのだ。どこに逃げるのか。こちら側の灰色で薄茶色の世界のなかには、その溜まりがあるように思われる。それは動かない。


 フランス風に煙草で穴だらけになったツイードの上着を頭からかぶり、斜めに降り込む雨が、肩の上に石が降るように、突如として血の雨に変わったりするのを見てしまったような気がする。彫刻家がいるのだ、雨のなかに。
 愚かなことだ。硫黄が降り注ぐ空の下、「芸術のすばらしい錯覚でしかまだなかったものを雲散霧消させてしまう」雨のなかを走るなどということは。
 だが雨は一本の木ではないし、木立でもないし、二、三人の若い娘でもなかった。結局、彼が見るままに見たその刹那、果てしないもの、不動のもののなかで果てしなくかすかに揺れ動くものだけが、それでいて何か固い核のようなものを持つものがあったのだ。芸術の錯覚も現実の錯覚も何ら変わるところはなかった。違うだろうか。そうでなければ、いかに画家自身の言葉に反してであれ、アッシジのジォットやヴェネツィアのティントレットを穴があくほど見つめることに何の意味があっただろう。
 彼の見た、矛盾に満ち、暴力と呼ぶしかなかったものが充満する幻影を通して、目の前の雨の跳ねがかたちづくる蜘蛛の巣を振り払い、そうしつつ不器用な口ごもりのこちら側で、蒼白い出現に似たものを透明な帳をかきわけるようにして私もまた垣間見たいと思ったのだ。


 脆くて、軽くて、死ぬほど貴重で、望みもなく、羽のあるもの。私はひっそりと静まり返った夜の美術館にいる。何かを無頓着に写しとらねばならなくて…、と彫刻家にそそのかされるようにして、こんな風に反り返った姿勢で地べたに倒れてしまう前に、エジプトの古代彫刻を叩き割る。そんな夢を見る。ガラスのない窓から黄色い土煙をあげて王家の谷のいたるところが陥没していくのが見える。谷からはごーという音が聞こえる。雲間に隠れたアメン神の肩をつかんだネフェルティティの手が粉々に砕け散る。彫像の首が、肩が、脚が、手が地面に落ちている。やつは、隠れた太陽神のほうは、『ゴエティア』の書に記された悪魔だったのか。断片となった片目の残骸が馬の首に突き刺さっている。だが彫像はいまだに無傷のままなのだ。ばらばらになった無傷の断片。ジャコメッティの教えのように、それを見て心底感心したり、口ごもって、他の芸術、とりわけ美術を馬鹿にして笑ったりすることができるのはわかっている。


 「たえず作っては壊す、ということは、減ずること、動作を連続の中、数の中に、おだやかに沈めることになる」(ジャック・デュパン)。そうだ、減ずること。こうして立像が塑像されたのだった。晴れた空の下でも、曇り空の下でも、ペストの時代の大昔に修道院の回廊の蔭に隠れて、遠くから微風に乗ってかすかに聞こえてくる途切れ途切れのホモフォニーに耳を傾けていたかのように、それは確かにかろうじて旋律と言えるものではあったのだが、この切り詰められたような旋律さえも忘れるようにして、けっしてむやみに実体の数を増やしてはならなかったのだから。
 だが見かけの上でだけ現実がそれを強要する動作は、連続のなかに回帰するように見えようとも、しかし数の連なりのなかからそのつど数字をひとつの非連続としてはじき飛ばし、孤立させることになる。それは連続性の外に出てしまう。個々の数字はしどけなく、すべての無理数のようにそれ自体としてはまったく意味をなさなくなる。あたかもすべてが不動の中心であったかのように、こうしてありとあらゆる動作は消えてしまうが、それは、ジャコメッティをよく理解した詩人の言葉に反して、けっして数の恍惚のなかにおだやかに沈んでいったりはしない。後にはかならずや皆殺しの残余が、残骸が、湿った粉のこびりついた藁屑や、針金の切れっ端や、石膏の屑が残される。


 ジュネは、ジャコメッティの彫刻が、ある秘密の場所に、引き潮の海が岸辺を打ち捨てるように引き退いていったと言っていた。それはカフェで白痴のような痩せた盲目のアラブ人が世界とフランス人を罵倒しているところに遭遇したときに彼が思ったことだった。「彼を万人と同一にするあの地点」とジュネは言っていた。その類似の地点は、彼が彼自身のなかにもっとも遠くまで退却するとき(中世のカバラ主義者によれば、世界のなかに世界というひとつの場所を創出するために、かつてユダヤの神は自己から自己のなかへと退却し亡命したのだった)、存続し維持されたのだ。
 このアラブ人はジュネとジャコメッティのあいだにただ気詰まりな沈黙を与えただけだったのだろうが、しかしジュネはこれに似た感想をいたるところで持ったはずだった。この印象はきわめて独創的なものだった。一見、世界のなかにいるかのような彼は、ジャコメッティの向こう側に、画家の目を透過して、崩れ落ちる前の最後の世界を見ていた。画布はとっくの昔に落ち着きを失っていた、とジュネは言っていた。
 遠さによっても近さによっても測れないものがある。そこでは接近と遠ざかりはほぼ同時に起こるからだ。尺度はなく、岸辺は打ち捨てられるのだ。流されなかった流木も、洗われた砂も、残りの世界の一部にすぎなかった。


 立像が、石膏像が、ブロンズ像が、ある退いた地点からやって来ることは確かだった。われわれがどこにいようと、立像はわれわれを巧みに回避し、結局、われわれは一段下にさがってしまう、とジュネは言う。



 昼下がりに、誰もいないとき、ジャコメッティのアトリエにこそ泥のように忍び込むことを私は夢想する。アトリエはひっそりと静まり返っている。外の喧噪が遠くに申しわけ程度に聞こえるだけだ。ここには誰とも交わすことのできない奇妙な親密さがある。親密さはどこまでも孤立している。埃だらけの粗末なテーブルの上に無造作に置かれた立像。小さなものも少し大きめのものもある。腰をかがめ、小さな立像の目の高さにまで私は低くなってしゃがみ込み、立像たちを見つめてみる。私は底にいる。そこでしゃがんで、じっとしているだけだ。冷や汗が背中をつたう。立像の目は私を見ているようでもあり、何かをたしかに見ているようなのに、けっしてどこにも向けられてはいない。目は突き出ることによって虚ろに陥没している。


 ここには、この立像たちの埋葬場所には、何か恐ろしいものがある。誕生と同時に埋葬されたもの。生まれつつあるものは、実際、恐ろしい。神聖ではあるが、何かを剥奪された神聖。ものを言おうとしても、それでも言うべきことなど何もない、ささくれ立った神秘。空間がかすかに振動し始めたのか。一瞬のうちに何かがすり替わり、それとは名指せない変容が起きているのがわかる。女神たちがいたのだろうか。ひとりでに位置を変えたのだろうか。退却した自己の芯は溶け始め、立像はつねに遠ざかる。遠くの平面、それが見える。そして物と物の関係が稀薄になり、あらゆる権利を剥奪され、仮面から別の仮面を剥ぎ取るように裸にされたとき、最後まで退却した地点にあの類似が現れるのだ。すべてが絶対的実在のなかで凝固してしまった、とジュネは言っていた。世界のなかにそのまま置かれていたはずの事物に限りなく似ているのに、ぞっとするほどそっくりなのに、よそよそしく、少し翳った、馴染みがあるとは言えない世界の場所が瓦礫のようにぽっかり口をあけている。そこに立像は立っている。ここは空地なのか。林間の空地。立像の置かれたあたり、すべては彼の造った顔と同じように、じょじょに鋭角的になり、尖り、同時に果てしなくぼやけて、中心から外へと流れるように消滅の線が現れ、しみだらけの灰色を背景にして、私をあのディレンマのなかに突き落とすのだ。

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