お知らせ(第69回 病気の窓)
第69回 病気の窓 - 2015.12.04
第69回 2015年12月
病気の窓
鈴木創士
アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『ナジャ』
笠井叡『銀河革命』『天使論』『聖霊舞踏』
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに』
以前、フランスの作家が、窓の外から、寝具の乱れた、誰もいない寝室を写真に撮って、それに「恢復期」というタイトルをつけたい、というようなことを書いていたが、それでいいのだろうか。窓越しに光の射した、誰もいない明るい部屋は、むしろ死の部屋である。タイトルは「死後」か「死臭」にしたほうがいいと思うけれど、それではあまりにあからさまに過ぎるだろうか。
数日前からひどい扁桃腺炎をやってしまった。子供の頃、いつも扁桃腺を腫らしていたことはおぼろげに覚えているが、こんなにひどいのははじめてのことだった。
金曜日に大阪の画廊に行って、そのあと近くでコーヒーを飲んでいたら、ずいぶん喉が痛いな、と人ごとのように思っていた。さっき見た友人の描いた静物画以外のことは何も考えていなかった。つまらない現代美術ではなかったので、とても気に入った。できればほしいし、値段くらい知りたいとも思ったが、画廊の人と口をきくのが嫌なので、諦めて画廊を出た後だった。
コーヒー店は客も一組くらいで、がらんとして、微熱状態にはうってつけだった。ガラスの向こうはもうすっかり暗くなったばかりである。孤独と病いがからだの感覚を研ぎすますことがある。からだが他人そのものではなく自分の他人のようなものと化し、自分が自分を見る他人のようになっている。それでいて当然すべてが自分のなかで起きているのだが、言えることは、ただ時間だけが無駄に流れ去るということだけである。自分が無為のただなかにいることがわかる。これは非常に哲学的な経験なのだが、この感じは案外好きである。ジャン・ジュネは無為のなかで星空を見上げたとき、シーザーが見た星空と同じ空だと思って驚愕したことがあったらしいが、このコーヒー店の窓の外を誰が見たのだろう。相手がジュネなのだから、こんな比較は馬鹿げているが、誰もが、万人が、窓の外を見たのだ。ということは誰も何も見てはいないのか…
電車で神戸に戻った。しみったれた感じのする電車のなかでひどく肩が凝っているのがわかった。三宮に着いて、入ったことのない居酒屋に入った。食べ物がひどくまずく感じられた。喉のせいではなく、たぶんほんとうにまずいのだろうと思った。金曜日なのでかなり込んでいたが、まわりに興味を覚えるような若者も老人もいなかった。魅力的な亡霊も外道(これは仏教用語で、妖怪その他のことである)もいなかった。類似はあった。灰色の類似ならいい。でも灰色ではない。これはけばけばしい、うるさい類似だった。こんなときにひっそりと愛すべき孤独を感じることができるのか。まったく無理である。退屈が嵩じると、しまいにどうしてこんなところにいるのだろうと考える自分にいらいらしてくるだけだ。早々に引き上げるにしくはない。大阪でも少し飲んだので、もうかなり酔っているなと感じられた。顔がやけに熱い。植物の気持ちはわからないが、花が咲いたみたいである。たぶんかなり熱が出ていたのだろう。
よせばいいのに、もう一軒知らないところに入った。一種の悪癖のように何かを考えようとしていたが、頭のなかは空洞で、脳軟化症を起こしそうなほど退屈とつまらなさと疲労が押し寄せて来たので、店を出た。友人のやっているバーへ向かった。こういう感じになると、最近は、軽い病気のごとくさっと引き上げることがなぜかできなくなってしまっている。ナジャのことを書いたブルトンの気持ちがわかると言えばおおげさだが、私はいい歳をして何かを「待っている」のだろうか。だが、私は、ブルトンのように「私とは誰か?」などとは思わない(ナジャを書いたときブルトンは32歳だった。まだ32歳だったとも言える)。自分を棚に上げて、ただの通りすがりの人を決め込んで…。酔っていても、通行している人々や、たまにはまぼろしを眺めることはできる。見ているのはこっちのほうである。雑踏はもともと嫌いではなかったのに、どうでもいい世の中だ。一億総活躍社会だって? 本気で言っているのか。心の底から嗤わせる。臍が大やけどだ。いったいこの国はどうなってしまったのか。この国の文学だってつまらないことこの上ない。もう誰かと誰かは同じ言語を喋ってはいない。ああ、そうだとも、元々そうだったのだから。だが今は危機的だし、歴史的惨状と言ってもいいかもしれない。まあ、いいさ、それにしてもほんとうにうんざりする。
バーで、喉の消毒になると思ってテキーラを何杯も飲んだ。私よりずっと若い友人のTがやって来たので、気分がよくなり、飲み過ぎてしまった。二人で次の店にも行ったのだが、どういう経緯なのか、何が悲しいのか、何が悪いのか、よく覚えていない。悪いのはたぶん私なのだろう。帰ったのは朝方近くになっていた模様だ。その日が最悪だった。土曜なので、もう医者はやっていなかった。寝ないまま午前中に医者に行く元気はまったく失せていた。真夜中を過ぎると、喉が腫れすぎて息が苦しくなった。鼻も詰まっていたので、息ができない。まったく眠ることもできない。救急車を呼ぼうかと思ったが、扁桃腺くらいで救急車を呼ぶのもアレだろうと思ってやめた。月曜朝一番に医者に行ったら、そういう場合はすぐに救急車を呼んで下さいと叱られた。死ぬことがあるらしい。
以前、文楽について「息をつめる」という文章を書いたことがあるが、こちらは、浄瑠璃や人形が、息をこらす、息をこらえる、息を殺す、息を吞み込むということである。浄瑠璃の歌というか科白が途切れ、そして人形が絶句するのである。だけど今回は息をつめたのではない。文章が絶句するように、言葉と言葉のあいだで絶句したのではけっしてない。パニックは言葉を全部消し去ってしまう。
以前、心臓が悪くなり、肺に水がたまって息ができなくなったことがあったから、二度目だった。二度あることは三度あってほしくない、とつくづく思う。
息ができない。この怖さはそんな経験をするずっと前から感じていた。阪神大震災を経験してからよけいに窒息を恐れるようになったかもしれない。でもエドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」という短篇が昔からめっぽう怖かった。棺桶のなかに生埋めになる話である。落語にも河豚毒(テトロドトキシン)で仮死状態になって棺桶のなかで目が覚めるという似たような話もある。アルトーは、棺桶の四つの板があるから人は死ぬのだと言っていたが、一理ある。
ずっと床に臥せっているので、俺のからだはどうなっているのだろうと考えざるを得なかった。昨今は喉だけではなく、ご愛嬌のように、あちこち悪くなっているが、最初にひどくからだが悪くなり、ほとんど歩行困難になった頃、ダンスを見たことがあった。笠井叡の弟子筋に当たるとかいう人が振付けをして(失礼ながら、お名前は失念した)、クラッシック出身の女性ダンサーばかりで構成されたモダン・ダンスだった。美しい跳躍。伸びた脚。軽い肉体。空中というものが、空気が、そこにあった。私はひどく感動した。舞踏を見て感動したことはそれまでにあったが、そのときは少し違った。変な気持ちだった。私は、どうやってその会場にまで行ったのか、この人はどこへ帰ればいいのか、というくらいひどい状態だったはずである。その感動はたぶん野蛮人の感情だったのだろう。繊細と野蛮はもちろん両立する。
だが病いは何らかの欠損や欠如ではない。じつはほとんど充溢の状態である。タマゴのように充満している。マルセル・グリオールの本にドゴン族の宇宙タマゴのことが書かれていたが、そんな感じである。そんな感じと言われてもわからないかもしれないが、こんなからだは日常のなかにもいくらでもある。アルトーがそうしたように、つまり組織や構成や構造のないからだというものを考えることができるし、実際われわれはそれを生きている。病んだからだ…そこから始まるものがあるのだ。
病んだからだは不動であるが、不動は動とまったく対等である。今年急逝した舞踏家室伏鴻の映像を見ていて、彼の美しい肉体が地面で動かなくなったとき、はっとしたことがあった。動かないこのブロンズのようなからだは、日時計の上でじっとしている蜥蜴のようだった。蜥蜴は冥府から戻ったばかりだった。すぐれた彫刻が不動のなかから浮遊や揺れや上昇や沈下、逃亡や消滅をつくりだすように、そこでも同じようなことが起きていた。だがやはり実際には動いていないのだ。
世阿弥は足さばきがうまく、上手に歩く人だったらしいが、年がいってそれが嫌になったのか、少し考えに変化があったようである。現在、われわれの知る能の動きはむしろこちらの考えが元になっていると言える。なるべく動いてはならない。『花鏡』の冒頭近くには、「心を十分に動かして、身を七分に動かせ」とある。「立ちふるまふ身づかひまでも、心よりは身を惜しみて立ちはたらけば、身は体になり、心は用(ゆう)になりて…」。「用」とは、働き、あらわれのことである。動かなくても、心はさらにもっと現れるのである。河村悟の土方巽論は「裏の身体」について語っていたが、裏の身体がつくりだす裏の動きがある。つまり動かないことから始まるものがあるのだ。舞踏家と病人。
疲れたのでもう筆を擱く。恢復期。なるべくなら動きたくない。