お知らせ(第72回 氷の亀)
第72回 氷の亀 - 2016.03.05
第72回 2016年3月
氷の亀
鈴木創士
アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』『シュルレアリスム簡約辞典』『ナジャ』
つい先日、短期の入院から退院した。入院中はまったく眠れないことが自分でわかっていたので、看護師に無理を言って、多めに睡眠薬を服用した。病院では死んだように眠ったが、退院してから二日間、二、三時間しか眠れなかったので、飯を食って昼間に横になっていたら不覚にも完全に寝入ってしまった。
……その駅は地方のどこにでもあるような小さな駅だったが、かなり人でごった返していた。すでに終点の温泉地行きの電車がホームに停車している。僕は女性と一緒だったようなのだが、それが誰なのかぼんやりとしてわからない。母だったかもしれない、それも若い頃の母ではなく、年老いて、杖をついた母だったかもしれない。
その女性は先に列車に乗り込んだらしく、姿がない。しようがないなあと思いながら、列車の一番後ろから乗り込んだ。どこかにいるだろう。列車の窓から日が差し込んで埃が舞っていた。塵のまた塵、という言葉を思い浮かべた。過ぎ去った時間の片鱗のなかでしか舞うことのない粉々になったダイヤモンドのようだ。埃の舞っているあたりだけが現実感があった。他はぼやけてしまっている。列車が混んでいたのかどうかもわからない。そのうち列車は動き出した。僕はどこに行くつもりだったのだろう。心臓を患ってから、温泉に入るのは嫌だった。血液の循環がおかしくなるのか、気分が悪くなって、目がまわる。下手をすると、吐いたりすることもある。
ガタゴト揺れながら、通路を進んで女性を探した。地方の電車だから三、四輛しかないはずなのに、ずいぶん進んだような気がする。列車は延々と続いている。女性の姿は相変わらずない。僕は途中で探すことを諦めた。彼女が途中下車することはないだろうと思いながら、何か焦っていた。何かが、そしてすべてが、うまくいっていない。外は明るく、空は晴れている。それだけはたしかである。空いた席に座って窓の外を眺めていたが、どんな風景だったのかまったく印象に残っていない。考えごとをするでもなく、頭は完全な空白のままだった。居眠りをするわけでもないのに(普段まったくと言っていいほど電車で居眠りをすることができない)、それで電車を乗り過ごしてしまうことがたまにある。はっと気がつくと次の駅だ。空白があれば、空白の外というものはないのだが、現実に戻る前にすでに説明のつかない焦りだけがずっとくすぶり続けていた。
終点に着いた。まだ現実に復帰してはいなかった。プラットホームのはずれまで歩いていると、人がまったくいないことに気づいた。光はどこからともなく燦々と降りそそぎ、空は相変わらず晴れ渡っている。乗客も駅員も誰もいない。見るともなくふと目をやると、駅の出口に向かう道の正面の植え込みに何か光る物がある。近づくと、氷の亀、氷でできた亀が置いてあった。氷の亀は溶けることもなく、日の光にピカピカひかっていた。日の当たっている場所だけに現実感があったように、この氷の亀も妙に生々しかった。……
去年の秋に刊行された、自身詩人でもある朝吹亮二の『アンドレ・ブルトンの詩的世界』にはいろいろ教えられるところがあった。なるほど著者の言うように、ブルトンは何よりもまず詩人なのだ。
ブルトンのフランス語! 高揚して、大きな波が打ち寄せるように激しくうねり、透明で、真摯で、それでいて慎重で、あちこちを警戒し、しかめ面で、時には強い閃光のように詩の激怒を感じさせずにはおかないあれらのブルトンの「散文」は、紛れもないひとつのジャンルをつくり出したのだし、結晶化した波間から無数の怒り狂ったヴィーナスのあぶくが生まれたように、そこからすべてが出て来たのだと私は思っていた。近くで影響をこうむりながら彼に敵対したこともあったフランス人たち、シチュアシオニストからテル・ケルの作家にいたるまで、そのことに反論はできないだろうし、後のシュルレアリストたちは言うに及ばず、ヌーヴォー・ロマンにいたるすべての作家がこの「ジャンル」から出て来たのだと讃嘆とともに私はずっと考えていたが、しかしそのためにはなるほどブルトンはまず詩人でなければならなかったのである。彼の詩は彼のエッセンスである。このことは動かし難いことなのに、それにもかかわらずわが国でブルトンの詩に正面から向き合った本を読んだことはなかった。どんな作家も批評家も、どの時代であれ、どこにいようと、何パーセントかは詩人でなければならないことなど分かり切ったことではないか。だがそのなかでもブルトンは特別なのである。
朝吹氏のこの本にはあらかた目を通していたが、もっとも重量がありそうな詩論の章「ブルトンの詩の読解」だけは後で読もうと思って残しておいた。病院を退院して普通の生活に戻りかけた数日前、頁をめくっているとある言葉に目が止まった。「氷の亀」だって! それはブルトンが書いた詩のなかの「氷の亀」という言葉だった。
ブルトンの詩集『白髪の拳銃』の冒頭の詩「薔薇色の死」の末尾にはこうある。
そして氷の亀からなる汽車のなかで
きみは警笛を鳴らす必要すらない
きみはひとりこのひとけのない浜辺に到着するだろう
そこでは星がひとつきみの砂の鞄のうえに降りてくるだろう
(朝吹亮二訳)
私もまた列車のなかで探すことを諦めたのだし、降りる前の汽車のなかで警笛を鳴らしはしなかった。ひとけのない浜辺は遠くに温泉町を望む駅であり、星はただの日の光だったが、砂の鞄に見えることになるはずのものは一個の氷の亀だったのだ。
これでは詩の辻褄が一巡したことになるのだろうか。私は詩の意味を追いかけてしまっているのか。私にとってこのブルトンの一節はウロボロスの蛇のように自分の尻尾を噛んでいる。ここには唯物論的にして神秘的でもあるアナロジーがあるのかもしれないが、もちろん一気にそのアナロジーの向こう側に「倫理的意味」を読み取ることは私にはできない。だがこの逆転というか転倒は、朝吹氏が言及していたように、ブルトンが「上昇記号」というエッセーの最後に引用した芭蕉とその弟子其角のエピソードをちょうど思い起こさせるではないか。
弟子の其角が詠んだ「あかとんぼ羽をむしれば唐がらし」という残酷な俳句を、芭蕉はこんな風に直したのだった。「唐がらし羽をつければ赤とんぼ」。時の経過を越えて(そんなものは何でもない)、してみるとブルトンの詩もまた私の夢の辻褄に改変を加え、手直ししたことになるのではないか。
『白髪の拳銃』はもうずいぶん前に読んで内容はすっかり忘れてしまっていたのだし、そのときに「氷の亀」に目が止まったことはなかったはずだった。私の無意識のなかにこの言葉が入り込んでいたのだと言えばそれまでだが、もちろんこの言葉を普通の意味で覚えていたわけではなかった。これはブルトンの言う「客観的偶然」の一例だったのだろうか。もちろん私の出会ったのは言葉であるし、ブルトンが『ナジャ』のなかで次々にその事例を示したような「現実」の事件や出来事そのものではなかったが、この夢の亀は目覚めの後も異様なほど目の前にちらついて現前していて、その光る氷は特殊なクロマチスムさえともなっていた。夢の情景のなかで手が触れんばかりのものが、これから読む読書の一種の核心を形づくる「現実」を準備したのだと言えないこともないのだ。しかもこのことは、こんな毎日を過ごしている私にとっては、非凡ともいえることだった。
「客観的偶然」。詩はたしかにそれを誘発するものとしてある。それはシュルレアリスム的思想の要のひとつであるが、「客観的」という形容詞にも、「偶然」という決定的な言葉にも私はずっと引っかかりを覚えていた。どのように客観的なのか、事物と事物、なかんずく人と事物の出会いは偶然によって包囲されているとしても、それは単なる「通常の」印象にすぎないし、どうしてそれは偶然でしかない偶然であって、必然ではないのか。マラルメが何と言おうと、それは思考のゆるやかな敗北ではないのか。だがそれは恥ずかしながら長年にわたる私の早とちり、誤解にすぎなかったようである。誤解は朝吹氏の本によってあらかた氷解した。
読んだはずなのに読み飛ばしていたのか、ブルトンは『通底器』のなかでエンゲルスを引用してすでに「客観的偶然」についてこう述べていたのだ。「因果関係は、必然の顕現形態である客観的偶然のカテゴリーとの関係においてしか理解されない」、と。はじめからブルトンは、それは「必然の顕現形態」であると言っていたのである。「この種の偶然は、無意識の道筋においては、偶然ではなく必然ということになる」、と朝吹氏も述べている。そうであれば話は早いし、話はより複雑なものとなる。
……しかも偶然が必然性の個々のエピファニーであれば、これらのちぐはぐに次元の異なる必然が錯綜する因果律のなかで、客観的偶然とは、研ぎ澄まされた、説明不能の、極端な主観性の錐揉みのような切っ先が、現実のなかに穴をあけ食い込み、あたかも観測者の存在が、観測している世界に根本的な影響を与える量子論的世界のように、現実というものに何らかの決定的最終的影響を及ぼすことだと思っていた私の考えもあながち間違いだとは言えなかったことになる……。
だがアンドレ・ブルトンは客観的偶然をもっと高緯度に位置づけてもいた。かつて私はシュルリアリスムは一個の政治思想だと考えていたが、この政治思想が現実との関わりにおける詩の衝撃からなっていたという至極当然なことをいくら強調してもしすぎることはないだろう。もう誰ひとり言わなくなったことではあるが、この点をいまこそ何を措いても全面的に肯定しなければならない。
ごらんのとおり、このイメージが、前にはまだ不確実だったかもしれない点に関してどれほどはっきりすることか。光を創造しているのはまさに反抗そのものであり、反抗だけなのだ。そしてこの光はただ三つの道しか知らない、すなわち同じ熱中を吹き込み、この熱中を永遠の若さの断面そのものにつくり変えるべく、人間の心のもっとも秘められた、もっとも照らし出すことのできる地点に集まることになる詩、自由、そして愛。
(ブルトン『秘法十七番』)
こんな文章を読むと、ブルトンのように語ってみたくなる。愛は、アナンケーへの愛と自由は、ひまわりの夜に沈んだ、裏箔のない、裏側のない鏡に映し出されるオブジェの方程式が示しているように、つる草のごとく巻きついた私の偶然からなる必然の打ち震える待機に、優雅な揺れる手をそこで差し伸べていたのか。ああ、詩、自由、愛。だがブルトンやゲーテの真似はよしておこう。むしろ暗く、不吉である事物の様相においては、例えば、なかんずく女性との出会い、それだけが悲しいかな私に客観的偶然を授けてくれるわけではないからである……。
先ほどの文章のすぐ前にブルトンはこう書いていた。
《ルシファーが墜ちてゆくあいだに彼を離れた一枚の白い羽根から生まれた自由の天使は、闇のなかにわけ入ってゆく。彼女が額に戴く星はまず流星に、ついで彗星と猛火になる》。
ところで氷の亀はもうすっかり日の光に溶けてしまったのだろうか。