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お知らせ(第73回 彼は死のうとしている―ロラン・バルト)

                                                        第73回 2015年4月





    彼は死のうとしている
              —ロラン・バルト




                                                                        鈴木創士




ロラン・バルト『神話作用』『零度の文学
清水穣『白と黒で-写真と…』『写真と日々』『日々是写真』『プルラモン』『シュトックハウゼン音楽論集




 一度読めば、そこには本質的な事柄が書かれていることが一目瞭然で、つまりもっとつぶさに見れば、どちらに転んでもそれが豊穣な何物かであることがわかっていても、なかなか再読する気になれない本がある。その本を本棚から取り出してなるべく手の届きやすいところに置いてみたり、しばらくするとまた本棚に収めてみたりする。すでに言われた言葉が、口の端に出かかるように、すでにもっと前の過去のなかでこれから起こる未来の錯乱に似てしまうことがある。本は読まれもしないで(再読でも同じことだし、絶えず現在進行形の作品のように肩越しに読まれなければ、読まれたことにはならない)、何かを語っているのか。そんな不埒な! 本がこちらをじっと見ている気がして嫌気がさすこともある。私にとってロラン・バルトの『明るい部屋』はずっとそんな本だった。
 写真論にことさらに興味があるわけではない。この本に書かれている写真についてのあれこれを重箱の隅をつつくように批判できることもわかっている。だがそんなことはどうでもいい。一度読めば、この本には悲痛な真実があることがわかるというものだ。たとえ真実がフィクションの形をまとい、本質においてそれを踏襲していたとしても、小賢しいそのフィクションの全体はこの真実の端緒でしかない。私は真実とフィクションの、深くて、なんというか非常に日常的でもある錯綜のなかに投げ込まれる。この錯綜が一気にからだに浸透してくる。
 私はこの真実から逃れようとしていたのかもしれないなと考えてみる。だが何も変わらない。本は相変わらず静まり返った静物画のように、まるで偶然のようにそこにあるのだし、まだページは再びめくられてはいない。だがそれは後ろ髪を引くように、知らずしらずのうちに私を既知の、危険な親密さのなかに引きずり込もうとする。この親密さのことを思うと、破局を迎え、何かが破綻してしまう前に、空には見たこともないような光が射してくる感じがするみたいに思える。もはや存在しない故郷がそのままそこでくっきりとした輪郭をまだ示していたとでもいうように、誰もがそこへ帰ろうとする。でもそれはほんとうに既知の親密さなのだろうか。それならこのひそやかさはすでに凌駕されてしまっているのではないか。親密さは裂傷や亀裂のなかから現れることもあるし、それらと見分けがつかないこともある。

 
 作家ロラン・バルトが、背中を丸めて、毎日、ライティング・ビューローに向かい、この本の一章一章のメモをカードに書き綴っている姿を目に浮かべてみる。……まだ私は彼の本を再読してはいない……。日によってブルーにも茶色にも見えた彼の眼差しを思い出す(ずっと昔パリで何度か彼を見かけたことがあった)。バルトのこの本自体が、私の(個人的な)「時間」に突き刺さったままの棘が残した「傷痕」になってしまったのか。……いまだに私は彼の本を再読できてはいないし、しかもよくよく考えてみれば、通りやカフェでバルトを見かけていた当時、この本はまだ刊行されていなかったはずである……。普段着の彼は自分の周囲や目の前の青年をいつもじっと目を凝らして見ていた。目を凝らして、というのは少し違うかもしれない。じっと見ていたのに、瞳のなかは空っぽだった。この眼差しはすでに過去のなかにしか時間の尾っぽあるいはその先端を見ていないかのようだった。彼はいつもセーターかジャンパーを着て(実際、そういう印象しかないのだ)スカーフをしていた。その眼差しにはささやかな快楽への期待がひそんでいたかもしれないが、そんなものよりも、そこには何かしら諦念に似たもの、やりきれない疲労に似たものがあったと言わざるを得ない。バルトはうんざりしていたに違いなかった。……まだ私は彼の本を再読してはいない……




 彼もまた私を何度か見たはずであったし、私の目を鋭く覗き込んだし、私も彼を見たのだが、視線はすべてを透過するように、どんな黒々とした記号の上でも停止しなかった。かつてバルトを見ていたときの私は何をしていたのだろう。覗き見をしていたのだろうか。何を覗くのか。世界のなかを、肩越しに? それはディテールなのか。細部もまた崩れ去るではないか。近眼であろうと、望遠鏡を覗くのであろうと……。写真のなかにいるように、〈彼は死のうとしている〉。この日本語は一見不正確に思えるかもしれない。そこには何の意志も含まれてはいないし、含まれようがなかった。彼が現在のなかで死のうとしているのか、それとも過去のなかで死のうとしていたのかもわからない。彼は死ぬだろう。偶然のように。だがこの偶然は必然性がもたらすいくつかの帰結の渋面のひとつにすぎない。バルトはそれから数年して事故死した。

 
 世界を覗いて何になるのか。何も見るべきものなどない、と別の悪魔が耳元で囁く。だが何人かの詩人たちは暗い万華鏡のなかに入り込むようにしてそれ自体が乱反射する世界を見ていたはずだった。疲れ切って、丘の上に座って、夜が明けるところをじっと見ていたはずだった。まだ若者だった彼はただ見ていた、微妙に不確かに曖昧に夜が明けて、夜が裏返り、夜が開けそめるところを。

 そうは言っても、穴をあけられ、あるいはひっ搔き傷をつけられた時間もまた、それ自体における過去のあれこれをそのつどつまらぬ妄想のように廃棄してしまっていたのではないか。時間は流れてはいない。停止もしない。君も私もある一点において過去のなかにいたはずなのに、もう今はそこにはいないのだ。もとあった場所は消えている。この過去と、そこは、ぜんぜん違う場所だった。


 そもそもこんな駄文を書くきっかけは、ある人のブログをたまたま見たからだった。人のブログをあまり読むことはないが、この辛辣でちょっとイカれた、現代風のディレッタントのブログをたまに覗くとはっとさせられることがある。ほとんどの職業的評論家や作家にはっとさせられることなど最近ではまったくないというのに! 勿論、ディレッタントという言葉を悪い意味で使っているのではない。バルトがどこかで言っていたように、われわれは全員がアマチュアなのである。そこにはバルトの『明るい部屋』のなかの文章が引用されていた。引用された文章は「39 プンクトゥムとしての「時間」」の一節だった。
 私はついに『明るい部屋』を手に取った。何十年ぶりだろう。ページをめくってみる。千夜一夜物語のようにアラブ風のジンが現れるわけではない。日本語訳があるのはもちろん知っているが、せっかくなので自分で訳してみたくなった。


 「いくつかの写真に対する私の愛着について自問していたとき(この本の冒頭で、すでにずっと前に)、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりこの場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様を区別できると思っていたが、私はその縞模様を〈プンクトゥム〉と呼んでいた。いま私は、「細部」とは別の〈プンクトゥム〉(もうひとつ別の「傷痕」)が存在することを知っている。この新しいプンクトゥムは、もはや形式ではなく、強度であるが、それは「時間」であり、ノエマ(「かつてそれがあった」)の悲痛な誇張であり、その純粋な表象なのである」。
 何を誇張しようというのか。それに続けてバルトはこう書いていた、



 「一八六五年、若きルイス・ペイン〔パウエル?〕はアメリカの国務長官W・H・スワードを暗殺しようとした。アレクサンダー・ガードナーが独房のなかの彼を撮影した。彼は絞首刑を待っている。写真は美しい、青年もまた。それは〈ストゥディウム〉だ。だが〈プンクトゥム〉は、「彼はいまにも死のうとしている」である。私は「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」を同時に読む。私は恐怖をこめて前未来を見つめるが、死はそれにかかっている。ポーズの絶対的過去(不定過去)を私に伝えることによって、写真は未来の死を私に告げるのだ。私に兆しはじめるのは、この等価性の発見である。子供だった母の写真を前にして、私はこう思う。母はいまにも死のうとしている、と。私は、ウィニコットの精神病患者のように、〈すでに起こってしまった破局〉に身震いする。被写体がすでに死んでいてもいなくても、どんな写真もこの破局なのである」。


 写真は偶然のように破局を示すのではなく、破局である、とバルトは言っている。写真とは、われわれひとりひとりをそのうちに捉えて離さない、それどころかそこにわれわれを釘づけにする破局そのものなのだろうか。分岐した偶然性のラインはそこで停止し、破局に向かってひとつのラインが決定される。
 私はやっとこの二ページだけを再読することができた。それ以上は読まずに、本を閉じた。最初からこの本に真実があることは知っていたのだから、ページをめくったからといって、何かが変わったわけではない。見るべきものはない、とまた悪魔が囁く。私は本から目をそむける。写真は閉じられる。
 プンクトゥムが、思いがけずピンの先であけられたような穴や、ひっ搔き傷、かすかな裂傷であるなら、光がそこから漏れ出たはずである。光学的に言って、「彼はいまにも死のうとしている」のだとすれば、すでに光はいまにも通り過ぎかかっていたことになる。光はもうない。前過去は消滅し、現在は前未来と過去完了のなかに食い込んでしまったのか。
 だが「それはそうなるだろう」と「かつてそれがあった」は、同時に写真のなかにあって、それをたぶんいささか悲痛な思いで今見ているのは、そうなることもできず、かつてあったとしても、そうであったかどうかもわからない今の私でしかない。私が見なければ、写真は選り分けることのできない膨大な思い出のひとつにすぎなくなる。それは幸福な忘却のなかに落ちてゆく。私は必ずしも未来と過去に引き裂かれているわけではない。悲痛なのは、かつてあったものすべてが破局を前提とし、それをすでに含んでいたというそのときの現在である。ずっと続いてきた結果、現在になりかかった過去は、恐らくこれから前未来のなかへと続く現在と見分けがつかないが、このような時間はすでに断ち切られて、消滅している。過去完了も前未来もほんとうは存在しないのかもしれない、とまた別の悪魔が囁く。
 私は死ぬだろう。私はかつてあったのだから。
 だがもうそんなことはどれも写真の話に限ったことではない。
 私はここにいる。しかるに私はかつてあった。故に私は死ぬだろう。でもイマージュの真実を別にすれば、つまりこれは写真のイマージュという分身の話であるのだから、この三段論法が真実である保証はどこにもないのである。

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