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お知らせ(第79回 絶腸亭日乗)

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  第79回 絶腸亭日乗 - 2016.10.04

第79回 2016年10月



絶腸亭日乗



鈴木創士


 

アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
撰集抄 上 

 

 

 十月二日〔大正十四年〕。午前驟雨来る。天候猶穏ならざりしが日暮に至り断雲の一抹の晩霞微紅を呈するを見る。今宵は中秋なれど到底月は見るべからずと、平日より早く寝に就きぬ。ふと窓紗の明きに枕より首を擡げて外を見るに、一天拭ふが如く、良夜の月は中空に浮びたり。                     
                           永井荷風『断腸亭日乗』


 前口上。別にとりたてて荷風に恩義を感じているわけではないが、荷風のことはいまでも好きである。昔、生田耕作先生にさんざん荷風のことを聞かされたが、私にとっていまも愛惜措く能わざる「雨瀟々」は、難解ではあるが、いつまでも忘れられない捨て難い作品である。時々、不埒にも、酔っ払ってぱらぱら繙くこともある。生田先生と付き合っていた当時、私は下戸で、毎晩しこたま日本酒を飲まされては、勤めていた小出版社近くの小料理屋の表の溝でゲロを吐いていた。酒を飲めるようになったから言うわけではないし、下痢ばかりするということではないが、「脱腸亭日乗」というタイトルのものも書いたことがあって、それでは荷風にあまりに失礼だと思ったので、今回は荷風に敬意を表してこのような題にした。日々絶腸とはいえ、直腸癌のことを言いたいのではない。悪しからず。

 
 九月二日。高田馬場にてアルトーの会。題して「未知のアントナン・アルトー」。会場は舞踏家であった故室伏鴻のアーカイヴ・カフェ。窓からは明るい欅並木が見えていた。喋ったのは宇野邦一、荒井潔、岡本健、私。全員がこの度完結の日の目を見た『アルトー後期集成』(河出書房新社)全三巻の訳者たちである。私が翻訳を行った第三巻に共訳者としてもうひとり佐々木泰幸がいたが、残念ながら彼はすでに故人であり不在であった。悲しいことだが、仕方がない。合掌。

 自分たちをけっして甘やかすわけではないが、アルトーの翻訳は相当にしんどいし、病気になるくらい困難を極める。かつて70年代初頭に錚々たるメンバーによって企まれた『アントナン・アルトー全集』(現代思潮社)は第一巻を刊行した後、そんな話がはじめからなかったかのように頓挫し、消滅した。当時としては、無理からぬことであった。だがわれわれのほうは完結することができた。これは僥倖であると言わねばならぬ。
 会の当日、私はできれば新しいアルトー像を談話の中空になんとか結ぶことができればよいと考えていたが、なかなかそうはいかない。アルトーは結像しない。ずっとアルトーを読んできたが、この人は玄武岩のように存在していながら、たまに机にもたれて腕組みをした恐ろしい顔が空気を透かして見えるくらいが関の山である。アルトーの分身ですら容赦するところはない。もちろんいつも恐ろしい顔ばかりというわけではなく、そこがまたアルトーの一筋縄ではいかないところであるが、そもそも彼の顔自体が謎なのである。見たことがあるようで、見たことがない彼の不思議な顔! 亡霊は見てのお楽しみである。いったいいつの時代の人なのか。いや、アルトーはわれわれの同時代人であり、隣人なのである。


 
 われわれが何を喋ったかは、あらかた忘れてしまったし、ここには詳らかにしない。このような会はライブであり、ライブにはライブとしての意味があるからだ。喋った言葉はしかるべく消え失せるのである。覚えていることをひとつだけ言えば、たしか私はアルトーとギリシア悲劇との関わりの話をしたはずであるが、しかしそんなことがなんになるだろう。

 宇野邦一の提案で、室伏鴻のマネージャーだったWさんが企画してくれた小さな会であったが、よい会であったと思う。知った顔があった。知り合いばかりを探しているのではないし、それがよいというわけではないが、ずっと付き合いのある編集者だけではなく、新しい編集者、そして旧知の、長いこと会っていなかった編集者諸氏が来てくれていたのがうれしい驚きであった。他にも編集者や画家をやっている知り合いの女性たち、評論家たち、作家、若い舞踏家、私の参加しているEP-4を聞いてくれている人、学生、研究者、活動家などなど。余談ではあるが、かつての私のように何もしていない人、何もできない人はいないのであろうか。日本には、アルトーに関心があって、芸術や文学などやらずに、飲む、吸う、射つ、だけの人はいないのであろうか。
 終わってから若い編集者のAさんとテキーラを一壜空けてしまった(ここで身の程知らずのことを述べておけば、このテキーラ編集者は、私の最新刊の著書『分身入門』をつくってくれた御仁である)。宇野邦一夫妻と次の店に行ったときには、Aさんの目は動かないままあらぬ方に飛び去っており、まだ底のほうでキラキラしていた瞳の向こうにはサボテンがまっすぐに見えていたくらいである。サボテンはメキシコの大地の上で微動だにしなかった。言っておくが、私はサボテンと言っているのであって、ペヨトルやそれから抽出されるメスカリンの話をしているのではない。棘のたくさんついた美しいサボテン。マカロニ・ウエスタン。エル・トポの世界である。うれしいことにホドロフスキーはいまだ健在である。
 彼らと別れて新宿のホテルへ。Wさんを呼び出して深更の蕎麦を食う。まずかった。Wさんと別れてひとまず部屋に向かうが、それからが良くなかった。悪事。病気なのか。病膏肓に入る。何をやったかはここで言うことは到底できない。人に言えないことは、神のみぞ知る、というわけでもあるまい。悪い事は、最近はめったにやらないが、神といっても、悪の神だったのかどうかは知る由もないし、グノーシス主義の神がどんなものか見たことはないが、いまとなっては猿だって反省くらいはするのである。

 
 九月二十四日。神戸で「アルトーと音楽」の小さな会。最近ちょくちょく私がやっている音楽ユニットEP-4 unitPでノイズとトランペットとテルミンを演奏しているYが企画した会である。彼の新しい事務所兼音楽図書室みたいなロケーション。自分が喋ったことで覚えている話題は、作曲家エドガー・ヴァレーズとアルトーのこと。幻のオペラ。アルトーはヴァレーズのオペラのために「もう大空はない」という台本を書いたが、このオペラが実現することはなかった。

 このオペラは私にとってもはややけに親しげにも思える幻聴にすぎないが(だって存在しないんだもの)、最近、私はノイズ・ミュージックを(他に形容のしようがないのだ)、あるフランス人に言わせれば、エレクトロニック・アヤワスカ・ミュージックなるものをやっていて、いつもこの聞いたことのない幻のオペラが念頭にあると言っても過言ではない。耳の穴、というか頭にあいた穴を吹き抜ける空っ風のようにそいつが聞こえたり聞こえなかったりすることがあるのだ。ありていに言えば、私の聞いているつもりになっているものは偽オペラである。無理矢理耳のなかに音響仮想敵国をつくっているようなものだ。このポストパンク工場式偽オペラ風ノイズバンドで、ほんとうはシューベルトやショパンやカッチーニ、もしくはロネッツやゲンスブールのカヴァーを爆音ノイズで味つけしつつやってみたいのだが、ほぼ練習もしない、基本即興バンドでは、なかなかそうはいかない。メンバーはプロもしくはプロに近い連中ばかりなので、できないこともないのだろうが。
 この会で何を喋ったのか。アルトーが音楽に関心があった、とかそういうことではない。だがこれもライブであったし、自分の分身が喋ったことなど、はっきり言って私の知ったことではない。音楽と同じように、すべては壊れ、何度も言うようだが、すべては消え失せるのである。それでよしとしなければならない。
 健康な妙齢の女性もそれなりの年齢の素敵な夫人も若者もいたが、神戸の不良少年たちが何人か来ていた。少年ではなく、元少年たちである。彼らはみんな教養あるインテリで、インテリを商売にしていないところが清々しい。例外として、ひとりは商売にしていて、ロシア文学者のTもいた。まあ、いいだろう。会の後、そのうちのひとりインテリ・ハーレーダヴィッドソン野郎Tが知っている近所の安くてうまい中華に行った。インテリ和菓子職人もいるし、彼らは私の新しい友人たちである。この歳になって、これを僥倖と呼ばずして何と呼ぼう。古い友人である、つまりフーテン族の竹馬の友だったバーのマスターでミュージシャンのOもいる。彼と最初に会ったのは70年代の道端やジャズ喫茶である。神戸の連中は、どこか時間の流れ方が違うようだ。私は神戸にいなかった時期もあるが、私にとってほっとするところがあるのかもしれない(老人の証し、これは一個のチンケで儚い明証性なのだろうか)。昔の神戸はこの中華料理屋のような店が山ほどあったが、野坂昭如が言っていたとおり、震災以降、惨憺たる状況になってしまった。悲しいかぎりである。私の若い頃は、稲垣足穂や西東三鬼が書いているような神戸がまだ残っていたというのに。
 その後も呑み続け、帰ったのは朝の四時だった。トークショーなどというものをやると、ろくなことはない。トークに限らずライブはしんどいから、神経が剥き出しになるから(そのために怒り始め、手当り次第に喧嘩を始めるなんてことは近年はさすがに控えるようになったが)、後は酒を呑み続けるしかないのである。永井荷風は無論のことながらヘロインとかモルヒネとかLSD25とかはやらなかったのだから、推して知るべしである。

 
 九月二十五日。二日酔いの状態で、東仲一矩と娘さんの東仲マヤのフラメンコ・リサイタルに行った。「オイディプス王〜最後の日〜」である。何を隠そう、自慢するわけではないし、自慢にもならないが、私が原作脚本を書いたのだった。オイディプス王は、母と息子の近親相姦である。だが、今回の東仲親子フラメンコは父と娘である。ソポクレスの『オイディプス王』をそのまま使うわけにはいかない。親子の愛憎劇にしろ、というのが東仲さんの注文である。もちろんそれに近親相姦的色合いを加味することは暗黙の了解であった。関西フラメンコ界の重鎮である御大直々の申し出だったので、嫌ですと言うわけにはいかない。仕方なく『アンティゴーネ』を参照し、『コロノスのオイディプス』を混ぜ合わせて、まったく違う話をでっち上げた。

 自分で目をくりぬき、追放され、諸国をさまよい、尾羽うち枯らしたかつての王オイディプスは乞食となってコロノスのはずれに辿り着く。近親相姦によって生まれた娘アンティゴーネは甲斐甲斐しく父の世話をしている。父は娘を溺愛している。だが、娘の憎しみは? 彼女は不義の子なのだ。このラブダコス王家は呪われている。いや、彼女自身の怒りを越えて、父につき従うアンティゴーネはすでにして亡霊だったのである。その後、父オイディプスは死者の国ハデスへと召される。……
 ソポクレスのオイディプスは自分の運命とともに神をほんの少し呪いかけては、改悛する素振りを見せる。いっときの呪詛は改悛とセットになっている。天の象徴的秩序がオイディプスを縛っている。少なくともソポクレスにはそういうところがある。『コロノスのオイディプス』もそうである。ソポクレスは実際オイディプスを救っているし、最後に救おうとしたことは明らかである。そういうソポクレスはなまぬるいし、はっきり言って全然つまらない。それに比べて、画家のフランシス・ベーコンも言うように、アイスキュロスのほうが断然残酷である。私の場合はもちろんオイディプスを救わなかった。カタルシスはない。運命を嘆くのではなく、オイディプスは運命と戯れている。その点で私のオイディプスはけちょんけちょんである。彼はさっさと冥府ハデスへ死にに行かねばならなかったのである。
 私の戯曲は言葉だし、これはダンスなのだから、実際の上演はまったく違うものとなる。極度の抽象化が新鮮であることは言うを俟たない。紙に書かれた二次元はダンスと音楽によって三次元になり、あわよくば四次元に突入できるかもしれない。それは演出家の手腕によるものでもある。娘を演じたほんとうの娘であるマヤさんは、父への憎しみを美しくも激しく踊っていた。死にゆくよれよれのオイディプスを演じる東仲氏の踊りには鬼気迫るものがあった。歌も音楽も良かった。フラメンコ音楽とストラヴィンスキー。私は昔ヨーロッパにいた頃、スペインのグラナダでフラメンコを踊っていたジプシーの娘に恋をしたことがあったが、フラメンコはいつ見ても絶望と怒りの仕草が素晴らしい。死にゆく王の忘れ難い手、指、そして足さばき。
 一緒に行ったHは感動したと言っていたし、めったにないことだが、フラメンコを見たいと言っていた私の老母も私の姪っ子と一緒に会場に来ていて、死にかけの東仲さんが素晴らしかったと言っていた。会場には多くの顔見知り、親しくしている知り合いがいた。私が10代だった頃の、ジャズ喫茶バンビ時代からの古い知り合いのOにも会った。彼は私の最新刊の本の感想も言ってくれた。うれしいことである。われわれはみんな生き残りなのである。神戸だとこんな感じになるのかもしれない。

 
 十月一日。つい最近、詩人正津勉の好著『乞食路通』(作品社)を少しずつ読み始めた。路通は芭蕉門下の乞食坊主の俳人であった。乞食俳諧師といえば山頭火や井上井月のことが思い浮かぶが、路通のことはよく知らなかった。著者の正津勉は若い頃から路通に親しんできたらしい。ああ、そうなんだ。ほんとうのことを言えば、私は若い頃、日本の現代詩なるものを馬鹿にするきらいがあったかもしれないが、私の大いなる間違いであった。現代詩人といえども、心して姿勢を正し、刮目して読まねばならない。

 路通に戻ろう。

 
 死(しに)たしと師走のうそや望月夜

 草枕虻(あぶ)を押へて寝覚(ねざめ)けり

 
 浮浪者、放浪者を地で行く者の句としか言いようがない。路通は蕉門下では嫌われ者だったらしい。著者はそこには差別があったと言っているが、まさにその通りだと小生も愚考した。ここには深い問題がある。私も襟を正さねばならぬ。まだこの本を半分くらいしか読み通せていないので口幅ったいことは言えないが、師匠に対する路通の葛藤、そのもじもじとした心の機微、悲しみ、愛、諦め、放擲。そして同じように弟子に対する俳聖芭蕉自身の葛藤、戸惑い、怯懦、慚愧、悲しみ、そして男色…。

 ずっと前、フランスのハイ・クォリティーな詩の雑誌『ラ・デリラント』というのに芭蕉の『嵯峨日記』の素晴らしいフランス語訳が載っていて大いに驚愕したことがあったが、フランス人もさすがに路通は知らないだろう。それにしてもこの正津勉の本は良い本だなあ。いろいろ書くべきことはあるだろうが、それはまたの機会に。

 
 日乗には日常の旅のようなところがある。日記を書いていると、他人の旅のようで、心を絶ち、意を絶ち、身を絶ち、その場にとどまって酩酊のような旅ができるとでもいうのだろうか。できるような気がすることもきっとあるだろう。そんな風にも思う。でもこの日記は他人に見せるために書いているのだから、いま言ったことにはほんの少しの嘘が含まれているかもしれない。

 路通の代わりといっては何だが、同じく果ては乞食坊主と変わるところがなかったはずの旅の人西行を最後に引用しよう。
 西行はいろんなものを見てきた。反魂の術を使って山中に散らばった死体の骨から人造人間もつくったが、怖くなって壊してしまった。諸国漫遊などというが、なまやさしいものではなかったろう。西行その人自身はどうだったのか。ねがはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ。西行は詠んだ歌のとおりに死んだ。やったね! いろんなものを見て、西行はさぞ面白かったであろう。

 
 ……此事無限哀(かぎりなくあはれ)に覚(おぼえ)侍り。何と、げに世を捨(すつ)といふめれど、身の有(ある)程は、き物をばすてずこそ侍るに、哀にも賢(かしこく)もおぼえ侍る哉(かな)。凡(およそ)、此聖人は万(よろづ)物ぐるはしき様(さま)をなんし給へりける也。或(ある)時は、清水(きよみづ)の滝の下に寄(より)て、がうしと云(いふ)物に水をうけて、かくれ所をなむあらひ給ふこと、つねの態(わざ)也。いみじくしづかに思澄(すまし)給ふ時も侍るめり。一(ひと)かたならず見え給(たまひ)し。すみ渡る心のうちは、いつもおなじさきらなれ共(ども)、外(ほか)のふる舞は百(もゝ)に替わ(かはり)けるは、無由(よしなき)人の思を、我のみ一方(ひとかた)にはとゞめじとおぼしけるにや。

                           『撰集抄』

 
 明日、十月二日はEP-4 unitPの神戸でのライブがある。先日、古い知り合いのTがやっている京都のバーで、ルネッサンスの専門家である大学教授のYと一緒に飲んでいたのだが、泥酔してひっくり返ってしまい、突き指した親指がまだ治らない。あまりよく覚えていない。明日は、満身創痍の親指姫みたいな親指その他の身体パーツとともに轟音のなかに私も鍵盤で出演しなければならない。冒頭に引用した荷風の風情ある十月二日の日記とはえらい違いである。

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