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お知らせ(第84回 蒼ざめた女)

  第84回 蒼ざめた女 - 2017.03.04

第84回 2017年3月

 

 

蒼ざめた女

 

 

鈴木創士

  

アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム宣言集』
アンドレ・ブルトン『ナジャ
アンドレ・ブルトン編『シュルレアリスム簡約辞典
鈴木創士『サブ・ローザ

  

 

マルセル・デュシャン

「毎日は調子の狂った振舞いとともにめざめ、
 わが祈りのなかに取り囲まれる
 (…)
 居酒屋でお前ははぎ取る
 お前の悲劇という趣味の悪い服を、
 森はなく、戦利品はなく、大天使たちはいない…」

                    トーマス・ベルンハルト『こんにちはウェルギリウス』

 最近、ダダ・シュルレアリスムについての対談(『現代詩手帖』2017年3月号)のなかで、朝吹亮二氏がロベール・デスノスの詩「ローズ・セラヴィ」で駆使されたcontrepèterieコントルペートリ、つまり語音転換による語呂合わせの技法について言及しているのを読んだ。これは文字や綴り字の順序を逆にしたり、入れ替えたりする言葉遊びのことであり、ダダイストやシュルレアリストの発明によるものではなく、古くから、よく知られているところでは、すでに16世紀にはフランソワ・ラブレーによってしばしば試みられていた。

 「ローズ・セラヴィ」という名前はもともとマルセル・デュシャンの別名であるが(デュシャンの分身というよりはむしろひとつの別人格かもしれない)、このローズ・セラヴィという言葉自体、「Eros, c’est la vie」の言い換えの可能性があるのだし、音としてはたしかによく似ている。エロス、セ・ラ・ヴィ! 「エロス、それが人生だ」……「愛欲? どうしようもないじゃないか」。デュシャンは女装することによってそう言いたかったのだろうか。
 デスノスは当時シュルレアリスム運動の「眠りの時代」の詩人の第一人者であったのだから、デスノスはデュシャンの人格、美術家としてあまりに堅固だったために私生活ではあえかであるほかはなかった人格に憑依し、それと入れ替わることによってこれを書いたのである。デスノスは、後にアルトーを精神病院から救い出すために奔走した後、ナチの強制収容所で亡くなった。もちろん言葉遊びにもそれなりに重々しい時代があったのである。

 「ローズ・セラヴィの眠りのなかには井戸から出てきた小人がいて夜にはパンを食べに来る」(デスノス)。

 デスノスはデュシャンの可憐な眠りの井戸のなかに棲まうひとりの小人だったわけであるが、夜になればパン食う虫も好き好きであるとは言わない小人がここに存在してしまうことになる。『シュルレアリスム宣言』のなかでデスノスの詩についてブルトンが述べるところでは、パンと小人、井戸と夜はそのままシュルレアリスムの分類できないイマージュの一例となるのであって、詩に託されるべき、ふんだんで、時宜を得た、調子っぱずれの諸契機を与えるという点で、詩の「気まぐれ」はシュルレアリスムの「至高点」と関わりがなかったわけではなかった。

 しかしその詩を読んでしまった私にとっては、すでにコントルペートリはどこかへ消え失せていて、これはまぎれもないひとつの「現実」的な意味を帯びざるを得ないものとして現れてくる。それは精神の些細な作用にとっては明白な矛盾である。読者である私にとって詩がひとたび書かれたものとなったのであれば、いずれ小人(nain)はパン(pain)となり、夜(nuit)は井戸(puits)に変わるかもしれないのだし、つまりあるとき小人とパン、夜と井戸は同じものとなり、またあるときデスノスは、デュシャンの口を通して自分自身を食べ、デュシャンとともに自分から出て行ったのだということになるのだ。
 しかもcontrepèterieは否応なくcontre-péterという言葉を連想させる。つまり「近くで、もしくは反対向きに、屁をひること」、誰かにぴったりくっついて、もしくはさかしまに、反対向きに、逆立ちして(?)、おならをすることでもあるのだ。いや、逆立ちではない。そもそもおならは外に向けて発射されるのだから、この場合は、つまり反対向きということは、でんぐり返しをしながらおならを自分に向けて発射することのほうがより正しいかもしれない。まだ小さかった頃、私の姪っ子がみんなの前で勇んででんぐり返しを披露したとき、プッとやってしまい、大人たち全員が爆笑したのだった。しかし詩を読むわれわれ、「私の悲劇という趣味の悪い服」を脱ぎ捨てねばならないわれわれにとって、爆笑する権利はないと言ってもいいのである。

 

 それはそうと、せっかくだからcontrepèterieを辞書で引いてみた。有名なラブレーのこんな言葉が紹介されている。

 

 femme folle à la messe(ミサ狂いの女)

 

 それをラブレーはこう変える。
 femme molle à la fesse(柔らかい尻の女)

 

 私はラブレーに敬意を表してこれを次のように変えてみる。
 femme pâle à la passe(通りすぎると蒼ざめる女)

 

 詩の語句の出来としてはいかにも凡庸すぎるし、ラブレーのユーモアも何もかも台無しにしていることはわかっているばかりか、しかもコントルペートリとしても不完全で出来そこないとしか言いようがないが、いまのところほかにどうしても良き戦利品が思いつかないのだし、悲劇にも色々あるとはいえ、ともかく悲劇その他の悪趣味な衣装を脱ぎ捨てねばならない我々のことなのだから、いまではシュルレアリストではあり得ない私に免じてご寛恕願いたい。戦利品も収穫も盗人のぶんどり品もどのみちどこにもありはしないのである。つまり趣向を変えることだって何だってわれわれには可能なのかもしれないのである。

 

 通り過ぎるたびに蒼ざめる女
 通り過ぎるたびに
 あそこに窓があった
 きっといつかは
 薔薇の内部が
 君を蝕む日没が
 こじ開けられるだろう
 七つの辺が
 同じ薔薇色に輝いてはいるけれど
 この棘のなかに
 この傾きのなかに
 何年も前から君がいたのであれば
 僕は昨日そこからやって来たばかりなのだ
 仮借ないものとは
 最初の日に手袋のように裏返ったものとは
 ルビー色に変色したシャンパンのように
 この広場に続くうらぶれた小道だったのだろうか
 奏でるたびに
 しだいに色香も褪せる
 未知の楽器のように
 指から指へと
 喪失が瞬いているのが見えるのだ
 自分の胸腔の深い淵で
 君は少しだけ笑っていたっけ
 いろんな事があった
 空色をした蝶
 艶のない青銅の梯子
 糸のように細い時間のたゆたい
 まるで何かを浪費するような
 どうしようもない諍い
 告白すべきではなかったカムフラージュ
 それが何かの含有量ででもあったかのように
 君は激怒していたっけ
 僕たちが好きだった森
 あそこから西日が差してはいたけれど
 慈しみとともに
 取り返しようのない過ちとともに
 僕は思い出すのだ
 だが惨憺たる偶然と同じように
 そんなものなど何でもないのよ
 君はそんな風に僕にむかって語気を強めていた
 玄関で靴下を履きながら
 午後二時の陽の光にさらされた
 君の心のなかには
 紫外線のように
 市街戦のように
 穏やかな水のおもて
 ラファエロの自画像のように透明で
 昨日という最悪の日が隠してしまった
 最後には残酷なものとなるほかはない水が
 流れているのだ
 窓はとっくに開けっ放しだった
 銀色の船の航跡が
 むせび泣くように
 遠くに見え隠れしていた
 陰気なくせに呆けた街角だ
 頭上には一羽の烏が旋回し
 鈍色のアンテナの上
 昔の哲学者のように
 そこにいる白い鳥は
 じっと動かない
 だがそれが飛び去るとき
 光を放つ沼沢から望む
 紫色のアーチが消してしまう奇妙な風景
 そいつがここからも見えるのだ
 そのとき君は
 そのぼんやりとした向こう側に
 帰ってくるのだろうか

 

 

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