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お知らせ(第85回 不動の曲線に永遠が…)

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第85回 2017年4月

 

 

不動の曲線に永遠が…

 

 

鈴木創士

  

宇野邦一『詩と権力のあいだ』エートル叢書6
河村悟『舞踏、まさにそれゆえに
ベルナール・ラマルシュ・ヴァデル『すべては壊れる』エートル叢書23

 

「ひとつの動きの曲線に永遠が押し寄せ…」
ジャン・ジュネ『薔薇の奇跡』

 

 宇野邦一の新著『土方巽 衰弱体の思想』を読んだ。上のジュネのエピグラフもこの本からの孫引きなのだが、土方巽の舞踏と言語をめぐる、注意深く繊細な、急いで書評すべきこの宇野邦一の本について私はいま書評めいたことが何も言えない。私はこの本を最後まで読みながらまとまった思考がまったくできないでいたし、この本で深く掘り下げられた土方の言語作品、もう一度しっかりと何度目かの再読をしようと前々から考えていた『病める舞姫』の読書も果たせないままでいる。

 宇野邦一の土方本を読みながら、私はいわば完全に引き裂かれてしまった。「衰弱体の思想」をめぐるこの本を病院のなかで通読するはめになってしまったからだ。ここのところある病院に見舞い客として通っていて、私は死の床についたある人を毎日ただ眺めて時を過ごしている。ベッドに横たわるその人を見ることに疲れると、病室かロビーに出て、できるだけ集中してその本を読んだのに、私は空っぽのバケツのままである。ずっしりと重ささえ感じる宇野邦一の本を手引きに、土方の舞踏と彼自身の言葉の謎について考えようとしても、土方の「衰弱体の採集」(採集といはいえない採集)のあの暗がり、土方の身体を降りていったところにあったはずのあの深い井戸の在りかは、もうありもしないみすぼらしい舞台の向こうに霞んでしまい、土方の舞踏を何とか思い浮かべようとしても、はじめから迷子になっていた「はぐれた肉体」の幻影がいまは時々この身を霧か透過物のようによぎるだけである。私は思い直して、何とか立て直そうとしてみる。衰弱体の身振りの採集。しかしバケツはいっこうに満ちることはない。この読書に何かしらバイアスがかかってしまったということではない。
 病院の広い窓から光が射している。ひとつの斜光。それがページの紙を照らし反射している。病にも光に似たものがあるのかもしれない。すぐ近くに山の緑が迫っていて、反対側にはいつも穏やかにきらめく海も見える。

 ジュネは先のエピグラフのくだりで、監房のなかでの身の動きについて述べていて、ほとんど無意識かもしれない身振り、悲惨と栄光をまとった囚人としての身のこなし、いってみれば「新しいダンス」によって、監房のなかでの時間と思考を支配し、それを自分のものにすることで、絶望を少しだけ、しかしまったく別のものに変えることについて語っているのだが(よくよく考えれば、ある時期ジュネは生粋の演劇人だったのだし、最初から最後まで彼のルネッサンス的とも言える幾つもの本は演劇の構造を持っていたのかもしれない)、ひとつの動きがあれば、そこにはひとつの不動性があるはずなのだ。
 病のなかに見え隠れするある種の容赦のない動き。そして病人のからだのもつ、偽の、見かけの不動性。それらは両立するかに見えて、鋭く対立し、仮象を退けるように(そのひとつは有機体である)、互いが互いを欺くように分裂を繰り返している。だがジュネのように監房を拡大し、そこに突進するような力はこの明るい病院のなかにはさすがにみなぎってはいない。私は監房のなかにいるわけではないが、それでも病室のなかでまぎれもない一個の身体を目の当たりにしていることに変わりはない。

 からだは曲線を描いている。この曲線に、時間の否定、永遠が押し寄せる。それを見ようとして、それを何とか確認しようとして、私の思考は停止する。私はぼうぜんとする。思考はもう身体から抜け出して、宙をさまよっている。この思考は身体とダブり、それから染み出しながら、ぼんやりと身体の形になろうとしていたはずではなかったのか。だがこの空気状の身体の形はからだ自身の知らない形かもしれない。私のからだ。病人のからだ。衰弱はさまざまな様相を帯びている。交感は起こりそうにない。奇跡はない。だけどここにダンスのようなものは存在しないのだろうか。踊っているものはないのか。

 ここではとんでもなく衰弱しつつあるからだが確かに目の前にあるのだが、寝返り以外にほとんど何の動きもないといっていいこのからだにも、何かが絶え間なく押し寄せているのがわかる。ひとつの動きは曲線を描くが、動こうとしても動けない不動もまた曲線を描いている。横たわったからだは不思議なひとがたの稜線の上で曲線を描くのだ。それは時間を否定するようにして同時に時間のなかにあり、この時間は一見円環をなしているように見えるが、じつはそうではない。永遠が続くことはない。永遠は続かなかったし、これからも続くことはないだろう。永遠が一瞬のなかにかいま見えたとしても、永遠は一瞬ではないからだ。時間と永遠は別のカテゴリーに属している。永遠は一瞬をあざ笑ってさえいる。いや、あざ笑っているのではなく、段違いの生と死の境界を敏感に感じているつもりになっているわれわれ自体を完全に否定しているのだ。曲線はじっとしているか、時間の外でただ無関係に震えているばかりである。
 閉じた目。やにわに開かれ、遠くを見る目。何も見ていないかのように、何も見るものがないかのように(実際、そうなのだ)動かない瞳。瞬き。まるで自分のからだがどこかへ墜落するのを阻止するかのようにベッドの柵をつかんだ痩せさらばえた手。土方巽は「からだの中には、際限もなく墜落してくものがある」と言っていた。重ねられ、折り曲げられた足。寝息。小刻みな呼吸。半開きの口。まだ少し喋ることも少し食べることもできる。しかし言葉はいま見えている幻覚をとらえようとするかのように唐突で、いつも私の知らない別のコンテクストのなかにあるほかはないし、言葉自体の中心から少しずつ、だが完全に逸脱しようとしている。そして食べるという行為はどこか人間離れしていて、酷薄で荒々しいところがある。

 ある力が身体に及んでいることは確かである。死の欲動のことを言っているのではない。この力は論理的に不可解なものだが、なぜこの場に及んで、それは速度を増しているように見えるのか。身体には実際の欠損、そうでないものも含めて、穴が開けられ、そこに生命とは恐らく別種のものが侵入し、部分的に壊死し、小さな死を繰り返し、誤作動を起こした細胞があちこちでゆるやかな増殖と占拠を開始している。意識などただのカカシにすぎない。だが誤作動といっても、それは生がもたらした賜物なのだろうか。そのように考えることもできるが、身体には物質から遠ざかる一方である深みのようなものがあるのかもしれない。生がときには急降下のようにカーブを描きつつ、それが露わになろうとしている。そしてそれはからだの表面に、からだの内部の表面に浮かび上がり、自分で自分を食い破ろうとしているのがわかる。
 こんなにも多くの出来事がからだのなかで起きている。それにつれて時間が振動を繰り返し、ただ脳のなかでだけそれが起きているかのように、その人にとっての時間の質が完全に変質しているのが手に取るようにわかる。不動のまま、その人のものでありながら、非人称的で、もはや素材ですらない何かがからだのなかに開かれ、本人が知らないうちに、からだ自体が無言のままそれを凝視している。私もまたそれをぼんやりと見ているだけだ。だがこのいうところの眼差しでさえ、時間の渋面、ただの見せかけがもたらす錯覚のなかの斜視でしかないのかもしれないし、むしろ絶えず断言を繰り返し、それを反復しているのはその人のからだのほうである。その人は、痛みを訴えているときでさえ、寝返りを打つときでさえ、そのことによって時間に打ち勝っているようにすら見える。私はそのことに安堵する。

 ここはひとつの劇場だ。幕は上がった。もはや手遅れだ。幕はすでに上がったのだ。幕という漢字は、目が悪いのか、墓という字に見えなくもない。そうはいってもここにあるのは生の力なのか、それとも死の力なのか私にはよくわからない。この何かへの移行、この何かの過程は、美しく、残酷で、穏やかで、悲しい。それが生の過程であることはたぶん間違いない。醜悪な生。臭気。いびき。血。悪血。そこにはまぎれもなく生が混じっている。あの鬱陶しい生が! だが私は消えゆく「生」を見ているのか、それとも死に侵された、死という病に冒され、衰弱の下降線をたどる身体、前段階の姿をした死体を見ているのか、もうよくわからないのだ。

 だがここにはやはり死体があるわけではない。からだは刻々と変化する。死ぬ前も、死の瞬間も、死後も。
 十七世紀にボシュエは、『死についての説教』のなかで、「からだはもうひとつ別の名前を持つでしょう。死骸という名前でさえも彼のもとに長くとどまることはないでしょう」と語っていた。「それはいかなる言語のなかにももはや名前を持たない得体の知れないものとなるだろう、そうテルトゥリアヌスは言っていたのです」。なぜならそれほどまでに実際すべてが彼のうちで死に絶えるからである。死に絶える? そんなことは承知の上だ。だがボシュエはほとんど脅迫じみた言葉で畳みかける。「ただ一瞬がそれらを消し去るのであれば、百年や千年が何だというのでしょうか」。やれることをやりなさい、それすらも無駄になるでしょう。「あなたの日々を重ねなさい」。美化しなさい。やってみなさい。虚しいことです。私の「実体」はあなたたちを前にして何ものでもない。わかってるさ、わかってるさ。
 いまここで、その人の実体が私の目の前で何ものでもないことを自ら証明していることを私はよく知っている。私は無知のなかでそれを確かめようとさえしている。だがそれらを一瞬で消し去るのはほんとうにあなたたちがよく知ると主張する「死」なのだろうか。それはどこにあるのか。どこからやって来るのか。いま私にそれを言ってもらいたい。ジャック・ベニーニュ・ボシュエはかつての自分の壮麗で犀利な説教によって、自分の死に際して、自分を救ったのだろうか。自分で自分を救うなど、言葉の矛盾でしかないではないか。なぜならこの自分とその自分は一致しないからである。
 身体はない。身体の制度はない。肉体はない。肉体の言語はない。身体が実践したことなど夢うつつの四肢、あのカカシがやったことにすぎない。衰弱がはじめにあった。後からは、死が迫ったときに、からだからじょじょに抜け出すからだがあるだけだ。
 私は病院の窓の外を眺める。その人のからだは、光のなかにあっても少しばかり悲しげな風景に似ていて、抜け出す前のからだが空中に描いた殴り書きのようなものかもしれない。

 

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