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お知らせ(第91回 桃花一樹――幻滅について)

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第91回 2017年10月





桃花一樹 ―― 幻滅について





鈴木創士


エドモン・ジャベス『歓待の書』(エートル叢書15)


最後までユダヤ的な詩人であったエドモン・ジャベスは遺著となった最後の本のなかにこんなことを書いていた。
 《私に追いつけ》、とある賢者は書いていた、《おまえがもう私を探さないところで》

 彼の手紙は、ちょうど私が自分の住まいを去って、彼を探しに行こうとしていたときに私に引き渡された。
 《これらの言葉を列挙する者は》、と彼は私に宛てた手紙に書いていた、《私ではなく、かつて頑固に彼自身のために書き続けていた、私であった人間である。
 《そしてあたかも彼のペンがまだ書きつつあったことすべては、実際にはかつては私の現在であった過去のなかでのみ書かれているかのようなのだ、私にはその日付を明確にすることができない、突然の、そして決定的な決裂の前に。というのも私には憶い出も言葉もなく、多くの困難をもって私が自分を駆り立てようとしているときには、時間は廃棄されるからだ。
 《私の回りには、震えるものは何もない。
 《鉛より重く、空気よりも軽い不動性。
 《書物の外には、空虚だけがある——その諸々の語(ヴォカーブル)を奪われたひとつの書物の空虚、ひと度言われ、それから飛び立った事柄が残した、白色の広大な空間。
 《解きほぐせない最後の諸瞬間。
 《おお、無が告発する無の重荷》。

 そして昼に決着をつける、このおぼつかない手。
(『歓待の書』)
  どっちつかずの昼に決着をつけるようにして、僕は君を、ちょうどこの手紙を書いていた男のように、最後にはもう誰なのかわからなくなる君を、探していたのだろうか。あのはげ山のような小高い丘の上には、桃の木が一本だけあった。桃はまだ花をつけてはいなかった。君を見つけた場所でしか、僕は君を探すことができなかったのだ。木には朝の光が当たっていた。夜明けの薄暗がりのなかに突っ立った裸体などではない。偶然は見つけることと探すことのどちらに介在するのか。偶然は、時の経過とともに、後から考えるなら、使われなくなって引き出しのなかにしまわれたサイコロのように必ずや廃棄されていたではないか。その木の枝には、枯れ枝であっても、決まって小さな鳥がとまりにやって来る。幾人かの君、すべての君は、まだ読んだこともない未知の作家、それでいてそのつど、解きほぐせない最後の瞬間を前にしていたかのように、もう書くことができなくなった作家に似ているのかもしれない。それでも僕には白く霞む広大な空白が向こうにひろがっているのが見える。鷹が旋回していた。ここでは時間が空間になることはないだろう。どんな最後の瞬間も、この手紙を書いた男が言うように、やはり解きほぐせないのだろう。魔法の糸玉を解きほぐしても、脱出できるのは鷹の旋回するあの空虚のなかへだけかもしれない。君はアリアドネではないし(アリアドネはやむにやまれず僕自身を導いた僕の幻影であったかもしれない)、そしてなおさら僕はテセウスではない。迷宮は一本の糸、つまり一本だけしかない線でできているか、存在しないかのどちらかだ。かつては、かつてなかったが、今、今はない。丘の上の明るい木の枯れ枝に鷹がとまることはもうないだろう。枝が折れてしまうことを鷹は知っているからだ。

 主人はどこにもいない。
 明るいだけの部屋。
 絵から抜け出したような本物の静物。
 イーゼルの上の描きかけの油絵。
 散乱する不在は何度となく剥がれ落ちた薄い雲母のようだ。
 もっとも薄いもの。
 テーブルの上はきちんと片付いている。
 壊れた窓の外から見ると
 不在には窪みがあって
 内側に光が当たっている。
 死後の生のような今生の生。
 もう後はない。
 光は沖合に群がる雲のようにすぐに変化するのだから。
 肉のような陶器の上に指の跡が残っている。
 触れることのできるものとできないものがあったのだ。
 この部屋に入ってこようとしているのは
 消えてしまった黄昏のなかでじっとうずくまった
 それとも黎明の焦点のような
 黒猫なのか。
 どの幽霊なのか。
 君なのか。

 江戸時代の漢詩人、大工の棟梁をやめて漂白と遊行の詩人となった柏木如亭に倣うなら……

 青邨(せいそん) 喜び対す 好風光
 復(ま)た雪花の草堂を囲む無し
 岸脚(がんきゃく) 波を生じて魚は躍在し
 田頭(でんとう) 麦を露(あら)わして鳥は飛揚(ひよう)
 桃源記裏(とうげんきり) 渓山老い
 盤谷(ばんこく)図中(ずちゅう) 日月(じつげつ)長し
 筆を援(と)りて 明窓 適意を書す
 研池(けんち) 日暖かにして未(いま)だ昏黄(こんこう)ならず

 晴れた村里にいて心地よい風光に向き合っていると嬉しいものだ。舞い散る雪が私の草堂を囲むことはもうない。岸辺には波が打ち寄せ、魚は跳ね、田んぼから麦が芽を吹き、その上を鳥が飛んでいる。晋の陶潜の「桃花源記」にあるように、山川は長い年月を経てきたのだ。唐の李愿が隠居したというバンコクを描いた画がそうであるように、月日はゆっくりと流れる。いま筆をとって、明るい窓辺で、この心地よさを書いているが、夕方までまだ時間があるし、硯の墨だまりに暖かな日差しが差し込んでいる。

 僻地 年来 新(しん)ならざるを奈(いか)
 芳(はな)を栽(う)ゑて苦唫(くぎん)の身に伴はんと要す
 無名の野草 顔色有り
 且(しばら)く当(あ)つ 桃花一樹の春

 辺鄙な土地で何年か過ごしていると、毎日がちっとも変わり映えしないので、どうしたものか。花でも植えて詩作に苦しむこの身に添えたほうがいいかもしれない。名もない草にも美しさはある。花が咲けば春の到来を告げる桃の木のかわりに、しばらくはこの草でも当てがっておこう。

 詩集から行き当たりばったりに拾ってみたが、先の「硯の墨だまりに差し込む暖かい日差し」も、この「無名の草」も、詩人にとって時間に逆らうものとして現れている。ゆっくりと時が流れ、山河にそのような悠久の時間が流れていることを諦め気味に喜ばしく思ってはいても、突然、硯に光が当たる。如亭がそれを見る。見ざるを得ないのだ。だからといって彼や私はその事態をうまく書くことができない。桃花一樹の春を今はまだ感じることができない。あるいは桃の木は枯れてしまっているかもしれない。少なくともいまこの瞬間にそれを感じることができなければ、このぱっとしない生活はいかんともしがたい。代わりにあてがわれた無名の草などといっても、そいつは変わり映えのしない生活のなかで呻吟する俺にそっくりではないのか。如亭の言う心地よさとは何なのだろう。ただの春眠なのだろうか。遊び暮した後の如亭の諦念は幻滅へと変わるのだろうか。

 あるいは、唐突だが、芥川龍之介の『或阿呆の一生』の一節を思い出す。
 「彼は大きな檞(かし)の木の下に先生の本を読んでゐた。檞の木は秋の日の光の中に一枚の葉さえ動さなかつた。どこか空中に硝子の皿を垂れた秤(はかり)が一つ、丁度平衡を保つてゐる」。
 これだけの一節である。尊敬すべき先生。だが秋の木立の下で、幻滅の向こうに秤が見える。弱々しい秋の光が射している。この透明な幻覚には理由らしきものはないが、秋の日の光のなかの秤にはどこか厳しさを感じさせるものがある。最後には結局自殺した挽歌詩人たちが自分のことをかつては棚に上げていたように、思わず芥川にも感覚の十月が到来したのだろうか。皿は、ありえないことだが、透き通ったガラスでできていて、上には何も載っていない。ジャベスのように語るなら、分銅より重く、空気より軽いもの。せめて風に揺れていればまだしも、風はそよともしない。何を天秤にかけるのか。何を天秤にかければいいのか。何を天秤にかけることができるのか。秤は息を呑むような平衡を保って静止している。この静けさは狂気じみている。

 レバノン出身のフランス語作家サラ・ステティエはランボー論である『ランボー 第八番目に眠る人』のなかで、ランボーに幻滅はなかったと述べていた。
 「ランボーには幻滅はないが、あの怒りがあって、それは不良少年であり見者である彼とともに生まれたように見える、しかもそれをランボーは自分の作品と生のなかに引きずって行ったのである、あたかもその怒りが、彼の言語の奪取と餌食の澄み切った非実体性に、それらの合体不能性に、ついで世界の過酷な合体可能性に、唯一の可能な答えをもたらすかのように」。
 真の生が不在であれば、真の作品も不在だったのか。詩人ルネ・シャールは「よくぞ出発した、アルチュール・ランボーよ!」と言っていたが、この繰り返された「出発」は、しかし私にはとてつもない幻滅をともなっていたとしか思えないのだ。ランボーの言語の獲得は自分を餌食にしたのだし、あらゆるもの(田舎の暮らし、学校での毎日、母親、先生、読んだ本、自分自身が行った失敗続きの出奔、あらゆるものからの自発的逃亡、敗北したパリ・コミューン、自分の知り合った有名無名の、うぞうむぞうのパリの詩人たち……)に対する彼の怒りは、つねにこの出発の真の裏面をなし、つねにこのやみくもの出発の原因であった長い幻滅に裏打ちされていたとしか思えない。ほんとうのところは誰にもわからないにしても、幻滅とそれにともなう怒りの発作は彼を道からそらせ、彼の行く手を誤らせたかもしれないが、たしかに「ランボーは自分を欺かなかったし、自分に嘘をつかなかったのだ」。別の観点からすれば簡単なことだった。だから少年の彼は出発したのだ。少年ではなくなったときにいたるまで出発は繰り返された。言葉は外に投げ捨てられた。言葉は刺青のようにすでに彼の肉体に彫られていたのだから、余計なものは捨ててしまえばそれでよかった。彼は、この繰り返された出発を停止したとき、三七歳で死ぬことになる。
 ほんとうによくぞ出発したものだ。ほれぼれするような出発だったよ。『イリュミナシオン』(そして『ある地獄の季節』)の輝かしい詩句には、砕け散ったガラスの乱反射のきらびやかさと、みずみずしい怒りと、発作をともなった熟慮があり(彼の思考のスピードはとても早かった)、やがて砕け散ってしまう「透明なガラスの皿のついた秤」のように冷徹なところがあるが、その反射が世界を散文によって引きずりまわし、「自由な自由」を地で行く散文を、われわれにとっていずれ未知の秤となる散文を、要するにこれ以上ない「世界の散文」を生み出す万華鏡となるには、大いなる幻滅をともなったあの彼独特の観察が必要だった。その観察は不良少年のくせに老成してしまった者のそれだった。
 ランボーは歩き回って丘の上まで来ると、疲れ切って腰を下ろした。朝になっていた。彼は薔薇色に染まりはじめたまだ眠る街々をじっと見ていたのだ、このあまりに非現実的な現実のまっただなかで、幻滅の向こうに、不眠の言葉とともに何が到来するのかを。そしてそれは、語の真の意味において、そのつど、ほぼ一度きりのことだった。そうであれば、後には書くべきことが何も残らなかったとしても驚くにはあたらないだろう。

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