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お知らせ(第93回 夜なき昼)

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  第93回 夜なき昼 - 2017.12.04

第93回 2017年12月





夜なき昼





鈴木創士


ミシェル・レリス『夜なき夜、昼なき昼
ミシェル・レリス『闘牛鑑
ミシェル・レリス『成熟の年齢
ジャン・ルイ・シェフェール『エル・グレコのまどろみ』(エートル叢書19)
ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(エートル叢書20)
イヴ・ボヌフォワ『ありそうもないこと』(エートル叢書14)
宇野邦一『詩と権力のあいだ』(エートル叢書6)

 ミシェル・レリスは「夢の記述らしき」本である『夜なき夜、昼なき昼』のなかで言っている。「現に見つつあるぼくの夢は、間もなく終わろうとする覚醒状態に似たものとなる。ぼくは、夢自体の中で抗いがたい眠気に襲われながら、まさにこの夢が終わろうとしているのを感じている。その後は、現実へ回帰するのではなく、無意識の虚無の中へ再び落ちることになるだろう」。
 夢の経路は断続的で断片的な離脱からなっているらしい。そこから次々と欲望の離脱が起こる。この覚醒の経路にはつねに「破れ」があって、これは時間の破れでもあるのだが、最初の欲望の編成からの離脱がたえず生じている。ただこれが夢だとしたら、夢中夢からまた別の夢へと移行する刹那にいるように、たしかにこれが「情景」としてはあまりにも夢の情景に似すぎているにしても、この夢から醒めることはないだろう。現実に回帰するには及ばない。どう抗おうと、それはまったき現実のさなかで起きているからである。あの虚無のなかで叫び声をあげているのは誰なのか。ずっと下の方には、彼、つまりたぶん私の姿が見える。
 この無意識には夜がない。昼の残滓は昼の情景であり、白昼夢はいつも白っぽく、陽の光が射している。陽だまりのなかには腐ったリンゴがあったのだから、それは昼間の出来事だったのだ。夜は優しく、偽りのヴェールに覆われていた。そして蒼白くなってしまう昼の手は光のなかへの「転落の敷居」の向こう側に出てしまっている。この手が物に触ろうとする。明るい墓場に来てしまったみたいに手持ち無沙汰だ。レリスが言うように、そこにあったのはひとつの「あら筋」である。墓の上に記されたあら筋。数行に要約された故人の生涯は彼の見る夢のなかでほぐれてバラバラになり、分散し、広がってゆく。彼は夢から覚めたのかもしれないのだ。

 きっとそこにはグレコの絵画のように別の光源らしきものがあって、ピエロ・デラ・フランチェスカの厳密な遠近法的画面にあるように、ぺしゃんこになって現実性を失った形態が淡い色彩を帯びているのだが、この光源自体を目にすることはできない。だがかつて十五世紀にピエロが形態を見て、それを信頼したように、それは見えていて、信ずべき重み(それとも軽さ?)をもっているはずなのだ。しかしこの夢のなかの目撃は、そこで起きている行為と同じ速度でなされるのだから、夢に対するひとつの不在証明にほかならない。光の秩序は保たれているように見えるが、失われたのはプロポーション、均衡、比例である。

 
ピエロ・デラ・フランチェスカ

 眠っているのだから、この眠る人だけが起きていて、目撃者となる。そしてこの解けない照明の謎が、世界が現にここにあることをなんとなく証している。それが照らし出されることによって、それを見ることによって、つまりある類型を、萌芽状態にあるひとつの類似を目撃し発見することによって、それでも暗がりからまったく別の人の姿や物が浮かび上がってくるのが見えるだろう。それが類似性の眩暈である。よく見ると、この光源のまわりの情景は、引っかき傷や汚れや埃や色彩に重ねられた色彩、あの灰色でできているのがわかる。突然、背景が遠のく。そう、私はそれを見たのに、瞬時にすべてを忘れてしまったのだ。

 「たまたま単一の実体の無限の数によっていわば同じ数だけの様々な宇宙があるのだが、それにもかかわらずこれらの宇宙は、各モナドの種々の視点による、ただ一つの宇宙の幾つかの眺望に過ぎないのである」(ライプニッツ)。
 だが、モナドには出たり入ったりする窓がないにしても、夢のモナドにはいくつも窓がある。明るい窓辺からモランディの風景画のように無骨な外が見えている。
 ある日私はいつものように丘に登って町を見下ろしていた。見たこともない町の姿があった。大通りは消えていたし、森の位置も変わっていた。丘へ行くのをしばらくよした。再び思いなおして丘へ行ってみた。町は以前と同じ佇まいを見せていて、柔らかい光の感触も同じだった。あの情景は他人の目が見た町の姿だった。

 呂律の回らない幽霊… がりがりで見る影もない… こそこそトイレに立ってしまいにはその場で別の一人が追加される… 幽霊はまだ生きている病気の彼と入れ替わったのだ… ワーグナーをね、エンドレステープに入れてみたんだ… 別の幽霊が口をきく… 彼はフロックコートを着た昔の友人だった… ワルキューレのふらふらの騎行… くそっ、さっき買ったばかりの本をドブに落としちゃった… さっきから水たまりに青空が映ってて、それをじっと見ていたの… ここではパブロフ犬も反応なし… 外に追い出されて、後ろ足にウンチがついている… どしゃぶりの雨… 雨なんか降ってるもんか… 昨日とおんなじ真昼の月が出ている… いつも助けてくれる人がいる… 途方に暮れていると、山麓の夜道に突然現れる天狗たち… 頭のなかでペソアが薄暗い階段を登っていく… なんと彼には脚がある… 灰色の劇場の階段を七階まで上がると、廊下の床板のいい匂いがして、窓からいくつもの赤い屋根と煙突が向こうに見える… ジプシーが手相を見ている公園のほうから風が吹いてきて、黒い洗濯物がギベリン党の白旗のようにはためいている… ついに彼自身が彼を本物の幽霊に変えたのだ… 異名たちが表の通りを通り過ぎていった… ムージル『特性のない男』の冒頭、「何も起こらない」章のお天気の記述を何度も読み返す… まだほのかに香水の匂いがする車中、車の革張りシートの煙草の焼け焦げの穴と同じくらい好きだ… おお、羊歯のようにしなやかなアル中のピアニストの指の震えのように美しい、踏みつぶされ、ゴミ箱に捨てられてしまった、灰色にくすんだ黄金のスカラベの胸飾りのように美しい… クソ虫がよちよち砂の上を歩いていった… 咳をしたら血が混じっていて、血が騒いだのか心臓の鼓動がおかしく気分が悪くなった、少し横になって目覚めると、自分が今どこにいて今日が何曜日なのかわからなくなる… 夢うつつで考えていたひとかたまりの粘土のような文章を思い出そうとするが、どうしてもだめだ… それでトイレに入ってトンカチで頭を殴るのだが、氷のように冷たいピッケルがすでに幻影のように脳天に刺さっているのがわかる… 俺は昨日蝙蝠傘を飲み込んだのだった… 目に飛び込んでくる電球がどれもついたり消えたりしている… 大杉栄という名前に改名したと言い張る友人とその女房に、新宿の末広通りの洋食屋に飯を食いに行こうと連れ出されたのに、お前の服はみっともないので着替えに帰れ、と彼らはのたまう… すると迎えの車が来たのだが、車中にいたのはテロリスト風情の三人の青年たち… あ、僕がうんこをしに帰ると思ったんでしょ?… それは違うね… 昨日、アリウスの便器、ギリシア式戦争機械の話をしたのは、父と子のペルソナの同一実体性、ホモウシオスとかいうやつをだな、その同一性に疑義を挟むには、キリストがうんこをしたかどうかが鍵になるということのみを言いたかったのであって、しかるに、よって聖人の血はまもなく体内を奇跡のように駆け巡り、蘇りの時に望んで、ごわごわの法衣をたくし上げ… 「偽だ、偽だも、好きのうちである」(『アレクサンドリア諸聖人言行秘録補遺』、紀元一八四年より)… 作者不詳(一説によると「世界の乙女」なる人物の手になる、ともされている)のグノーシス文書はこのように続いている、「おまえたちは、偽だ、偽だ、と叫ぶがよい。似せている間に鬼は洗濯をするのである」、と… いや、違う、と護教論者somaedesumusは言った… それはベアトリーチェの勝利の名前なのだ… 緋色のドレスの襞はやがて蒼ざめた唇にも似て、ドレープの波のうねりのなかを接吻の小舟が木の葉のように舞っている… 世界の乙女よ、嵐よ、来たれ… 来て、よく見てみるがいい… かわいそうだな、ん子は… 海老さんと一緒に池かお風呂でちゃぷちゃぷするがいいさ… およそこのチャプチャプは鬼がかりなり… 「何となく恐れるよそほひあれば、進退きわまりて、鬼がかりにならんも苦しかるまじ」(世阿呆)… 聖堂で祈りを捧げていると天使が降りてきて言った… 「貴様は俺の足をどうしちまったんだ?」… 敬虔な信者に姿を変えていた格下の悪魔が正体を現し、言った… 「切断したさ、俺が医者をやってた頃に」… 天使がまた言った… 「司祭は何をしている?」… 「さっきまで外で物乞いしながら祈っていたさ」… 「貴様のために、また悪魔祓いか?」… 「いや、あいつはあまりに臭くて聖堂に入れないんだ」… しゃべれ、しゃべれ、おまえは美しい… ずっとしゃべってろ!… 冬の夜の華のしるしは紅くともまた生きんとてカメムシ臭ふ… 「俺はもうけっしてうんこをしないだろう」(アントナン・アルトー)… 唇のまわりを血で真っ赤にして… 唇のまわりを、お相手の女が塗りたくっていたルージュかアイスクリームでべとべとにして… ラ・ラガッツァ・ピュ・ベッラ・デル・モンド・コン・ジェラート(アイスクリームのある世界で一番美しい女)…だが口のなかは、砂漠の説教家の呟く言葉のように苦い灰か砂の味しかしない… 「諸々の言葉、大義、服、喪服の場合さえある変装の下に、骸骨を、そして準備を整えている骸骨の粉末をのぞかせてしまうのも、やはり一冊の書物の野心である。彼が語る人々と同じく、作者もまた死んでいるのだ」… ジャン・ジュネはそう言っていた… あゝ麗しいデスマスク、つねに遠のいてゆく風狂、悲しみの彼方、鬼への、捜り打つ夜半のフォルテッシモ… こんな駄文はただの冒瀆的行為にすぎない… 吉田一穂は水平線の上に一直線に並んだ語句をアルペジオのようにつま繰り、パティオの噴水の水しぶきのように眩しく、あるいは陽の照る日時計の上のトカゲのように地上で惰眠をむさぼっていたわれわれを垂直に攻撃しにやってくる、鷲のように… 「昼は退屈だ。夜も退屈だった。人生が擦り抜けて行く、野鼠のように。草葉ひとつ揺らさずに」(エズラ・パウンド)… 死の間際、エズラ・パウンドはヴェネツッイアの陽光の下でじっと自分の手相を見つめていたのだった… これを書いたのが吉岡実の命日であれば、つつましい静物画のなかにあっては、やはり「小鳥」と「蜘蛛女」のどちらの命をとればいいのか… 「夜の器の硬い面の内で/あざやかさを増してくる/秋のくだもの/りんごや梨やぶどうの類/それぞれは/かさなったままの姿勢で/眠りへ/ひとつの階調へ/大いなる音楽へと沿うてゆく」(吉岡実)… いまは亡き詩人を訪ねることもなく何千里、隠微な倒錯の呼び声生まれるあの腐爛の青空の下、あの浜辺に近く、下手な自分の「静物」画をよくは見えない眼ででたらめにきっと描いてみせると、裏の寺の和尚に声をかけてはみるものの、思い出すのはひっそりとした果物ではなく、ただ髑髏の発するしらじらとした叫び声ばかりなり… おじいさんとおばあさんを縛って小屋に閉じ込め、かわりに川に洗濯に行ったが、桃は流れてこなかったのである… 以下同様…

 閑話休題。もしかしたらランボーにはカフカのようなところがあるのかもしれない。どこまでも不毛な大地の土地測量師。
 「イエスはさらに人通りの少ない道を歩き続けた。昼顔やルリヂシャが敷石のあいだから魔法のようなほのかな光を見せていた。最後に彼は、遠くに、埃っぽい牧場と、日の光に許しを乞うキンポウゲと雛菊を見た」(ランボー「福音による散文」)。
 「俺は重い熱病にさいなまれて何もしないでぶらぶらしていた。動物たちの至福がうらやましかった、――辺獄(リンボ)の無垢を象徴する毛虫たちや、処女性の眠りであるモグラが!(…)おお! ルリヂシャ草に恋して、旅籠の公衆便所で酔っ払った羽虫よ、そいつも一条の光線に溶けてしまうのだ!」(「ある地獄の季節」)
 こんな風にして詩人はいつも目覚めたのである。

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