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お知らせ(第95回 沈まぬ舟)

  第95回 沈まぬ船 - 2018.02.04

第95回 2018年2月





沈まぬ舟





鈴木創士


S・ブラント『阿呆船』上・下

  「あした、あした」と歌いつつ、
  多くの阿呆が死んでった。
  罪悪、阿呆のことならば、
  みんな勇んでとんでくる、
  神やまじめな話だと、
  なかなかそばへは寄りつかず、
  何とか延ばそと苦労する。
  「懺悔はあしたのほうがよい、
  あしたになればちゃんとする」
  放蕩息子の言い草だ。
  同じあしたは二度来ない、
  雪のように溶けてゆく。
  魂が消えてゆくときに、
  はじめてあしたがやってくる。
  そのときゃからだが苦しくて、
  魂どころの騒ぎじゃない。
          ――セバスティアン・ブラント『阿呆船』、16世紀(尾崎盛景訳)

 沈まない舟は舟ではない。だがその小さな舟は砂漠の海原に浮かんでいたりもする。生きたやつであれ、干からびたやつであれ、船虫もいない。寂しい流木もない。季節の移ろいもない。砂浜はあっても、水がない。渡し守カロンは他のことで忙しい。結局、舟は一ミリたりとも動かなかったのだ。
 阿呆船は気違い船でもある。ミシェル・フーコーは、狂人が気違い船に乗り込んで向かう先はあの世であり、船を降りて帰ってくるのもあの世からだと言っていた。いかにこの舟がなかば実在していた空想の地理にしたがっていたとしても、そこにはまぎれもない「狂人の出発点」があったのだ、と。

「元・彼等は良い人たちです。キリストが逮捕されようとしていたとき、マルコ少年は裸で逃げ出しました。でも彼こそが破滅しかかっていた師匠である本物の預言者のそばに最後までいた人でした。のちにあの教会の礎となるペテロだって逃げたあとでした。だから石鹸のなかに隠れれば巫女ちゃんだって泡だらけです。サブローザルクセンブルグ。空っぽになったラベンダーの香水壜の首にくくりつけた紫のリボンだって風邪を引くことがあります。黒塩、烏牛糞、黒沈香、麝香。そこはかとなくうら悲しいのはあの香りのせいかもしれません。元彼等よ、教えて欲しい、何も聞きたくないから、俺とおめえの仲じゃねえか、よう、髑髏(しゃれこうべ)よ!」、と彼は言う。
 どうやって矛盾をきたせばいいのか。平然たる、徹底的な矛盾に憧れたからといって、過小評価してはならない。悪人正機などと言い出す人がいるからどこかで辻褄が合ってしまう。どこかで夜が昼に連なりお互いを裏切り始めたと思ったらすぐに一日が過ぎてしまう。そのまっただなかに居座り続けるのは至難の業である。強靭な精神、あほみたいな矛盾野郎。
 私は悪い人だった私は悪い人である私は悪い人をやめるだろう。これをヘブライ語の神のようにただひとつの動詞で言わねばならない。そんな動詞などなかったのよ、と日本語で言われても、彼の思考のなかにはただひとつの様態として存在するしかない。悪人正機じゃないぞ。親鸞聖人は弟子など俺にはいないと言ったではないか。末世は永承七年(1052年)に始まった。つまり今まで千年近く続いているわけだ。道元と親鸞と明恵は同じ時代の腐った空気を吸っていた。平家物語も方丈記も同じ頃に書かれた。西行もまたその頃ひと気のない吉野の山でひとり桜を見ていた。グノーシスの流れをくむヨーロッパのキリスト教異端カタリ派も同じ頃に隆盛をきわめた。性的なものも含めて現世での欲望を徹底的に肯定したカタリ派は、ご多分に洩れず後にカトリック教会によって殲滅されることになるだろう。同時的に歴史に生々しく登場した悪の問題。ああ、ああ……。
 こうして裏返った手袋が鏡に映っている。左手を上げると鏡も右手を上げるが、そんな右手は鏡の外の左手に似ているだけで実際は存在しない。面倒なのでやっていないが、手袋を裏返しても元の手袋とほんとうは重ならないはずだ。実は裏も表もなく、一気にそいつは裏返るだけだ。世界が裏返るってそんな感じだ。ある一点を境に急旋回が起こる。対称も左右も反転もない。そのように見ようとするときだけ反転が起こる。

 足りないのは、文法的構文の捩れでも、愛の言葉に潜む後先のない震撼でも、憎悪の発端でも、出発することを夢みる徒労でもなく、また実りのない悔恨でも、神秘を奪われた罪障でも、お喋りでもない。いつも欠けているのは、一文無しのジュネが金の無心のためにジッドに宛てた手紙のなかで言っていたように、いつも、いつも、この生なのだ。ヘルダーリンがまるで高貴な詩のうわごとのように言った、「死がひとつの生である」ようなこの生なのだ。
 ポルトガルの大詩人ペソアが書いていたように、天気は天気ではないし、朝の光は朝の光ではない。大災厄のさなかには、そこにいるすべての人間がそれを理解することをほとんど無理やり強要される、つまり破局的出来事においては極度の「繊細さ」が自明のものとなるのだが、ペソアはそれを知性と呼んでいた。リスボンのコーヒーショップで、仕事が終わったあとに。ああ、そうなんだ、知性!
 われわれは時間のなかでごろつきのように、益体もないチンピラのように振る舞っている。あの臨終のゲーテみたいに、時間よ止まれとは言うまい。瞬間よ、お前は醜いからだ。お前の知らない屋根のない神殿の崩れ落ちた円柱は、盛岡の北上川のほとりで白鳥の羽ばたきを目で追う彼女のスカートの襞のように美しい。
 正午を探せ。不死身の、ハヤブサのような、鉄の偶像を食べるアイドルを探すみたいに。午後二時に正午を探す人がいる。彼は散歩の途上である。丘は突然エニシダに覆われる。なぜなのか。そんな風に見えたのだ。大気はじっと動かない。「俺は自分の血をかき混ぜた。俺の義務は免除されている。そのことを考えてみることさえしてはならない。俺は実際に墓の彼方にいるが、伝言などない」(ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー)。
だからランボーとニーチェを讃えて。世界を、没落したあとの世界を逆光のなかでまるで複雑なものにしてしまう、無数の塵が舞っている。だからジュネを讃えて。眠りを探すほんの少し前に。だから少し息をして空気を吸うように、舞台では演じられない(いくら頑張ろうと舞台でなんか不可能だ)シェイクスピアの「嵐」を讃えて。讃えて。

 さなきだに ぎざぎざに 蟹のやうに 横向きに 地の果てに 水浸しのにぃにぃ蝉の抜け殻に 似て非なる 贄のごとく 新高山より落ちきたり おお日々に疎ければ さらにさらに日めくりを捨て 何を捨て 花巻宮古気仙沼に陽沈み 陽を射り 陽を焚き 陽暮れなずむとも さもあらばあれ 捨てたるものはなし
 ふらふらと舞台の上でありもしない科白をわめていているのが昔の死んだ知人だとしてもその科白ですらおまえが昨日どぶ川に吐き捨ててすでに忘れてしまった言葉の唾にすぎず舞台の眺めだってあらぬほうから吹いてくる風など吹けば塵と一緒に舞い上がってどこかに消えてしまう光だけでできた破けた絵葉書の切れ端にすぎないらしいしそいつは誰にも拾われることなく人の住まなくなった埃だらけの玄関にいつも落ちている。
 「取引はもうやらない。分け前をよこせば、俺は立ち去ってやる」。古い門柱に書かれた言葉には赤い印形のしみがついていて、この古代の村が皆殺しの天使によって根絶やしにされたことがわかるが、この門柱の主の姿もすでにそこにはなかった。いじ汚く言葉を拾い集めては紙をねぶるようにそれを涎で汚していたあの品のない色気違いの姿もない。お前は全部わかっているとうそぶいているがお前は未来に存在しないのだからお前には何もできないと預言者を罵る女もいない。誰もいない。

 「存在の諸様態とは、その内在的限定であり、《無限なるもの》のなかでは無限である」。あるいは、「《無限なるもの》のなかでそれと同じく無限なものは、すべて現実的に同一である」(ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス)。20世紀の数学者のカントールやデデキントが考えていたこと、言っていたこととそっくりである。ドゥンスというのは敵による蔑称で、「うすのろ」という意味である。無原罪でこの世に生を受けたとされるマリアの教義の基礎をつくった「精妙博士」スコトゥスは、パリの彫像の聖母がお辞儀をするほどだったのだから「マリア博士」とも呼ばれたが、彼はフィリップ美男王によってソルボンヌを追い出され、フランスを追放された。最後はケルンで没した。殺害されたという説が有力である。

 ざわざわと揺れる緑一色に生い茂った草原を低い稲妻が走りそのまんなかに佇む桜の古木の下に子供が立っている。横殴りの雨だけど狐の嫁入りなのかまったく濡れずに顔を顰めて腕を組んだまま動かない。俺はびしょ濡れになって手を振ってみる。手が消える。何百枚ものスナップショットに写っていた風景が一ぺんに中空でモンタージュされると道端に落っこちていたはずの梯子がもう一度空から落ちてくるのが見えるのだがきっと発狂したにちがいないヤコブの残り香もないしヘブライ文字もヘブライの遺産も何もないばかりか水仙の花が一輪ぽつんと咲いて後は味気のない凄惨な瓦礫の山が続くばかりだし目玉のなかで雲が切れたかと思うと大量の土砂が流れて俺も俺の目玉もめくじらも流れて草が一面に波立ったのにこの話は終りようがない。

 最後に、再びセバスティアン・ブラント。
  世間でいわれる悪人が、
  神に好かれることもある、
  この世で尊敬うけながら、
  地獄へ落ちてく者もある。
  俺は清廉潔白と、
  大きなことを言う奴は、
  背のびをせずにはいられない、
  身のほどしらずの阿呆者。

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