お知らせ(第96回 爪が花粉をこすっている)
第96回 爪が花粉をこすっている - 2018.03.04
鈴木創士『サブ・ローザ 書物不良談義』
「田舎では、注意していると、なんと多くの悪ふざけがあることか… サタンであるフェルディナンは、野生の種子をもって走っている… イエスは緋色の茨の上を、それを撓めもしないで歩いている… イエスは怒った水の上を歩いていた。ランタンの明かりが、エメラルドの波の脇腹に、立ったまま、白く、褐色の三つ編みを垂らしている彼の姿を俺たちに見せた…」(アルチュール・ランボー「地獄の夜」『ある地獄の季節』より)
フィルムのなかで歌手のパティ・スミスが、ランボーが昔うんこしていた壊れた便器を見つめていた。墓が見える。墓のむこうには廃線が一本まっすぐ伸びていた。草ぼうぼうのなかでソクラテスの石膏胸像を叩き割る。廃線の終点はたぶん曇り空の海だ。彼の有名な詩である絶唱「酔いどれ船」を書いたとき、ランボーは海を見たことがなかった。浜辺の強風に赤い帽子が吹き飛ばされる。列車が通った気配はなかった。鎌首みたいに見える岩。へどが出そうな広告を子供たちがびりびりに破いていた。
「そして俺は冬をひどく恐れる、なぜならそれは慰安の季節であるからだ!(…)というのも勝利が自分に味方しているのだと俺は言うことができるのだから、歯ぎしり、ヒューヒューいう火の音、悪臭を放つ溜め息は和らげられる。すべてのけがらわしい思い出は薄れゆく。俺の最後の悔恨は退散する、――乞食たち、悪党ども、死の友たち、あらゆる種類の能なしどもへの羨望は。――地獄に堕ちた者たちよ、せめて俺が復讐できればいいのだが!」(「訣別」『ある地獄の季節』)
ランボーは少年らしく夏の太陽を惜しんでいた。頭上で色とりどりの旗をはためかせている軍艦が幻だということを彼はちゃんとわかっていた。幻覚は数え切れない、と彼は言っていた。だが見えるのだから仕方がない、そいつが、このざらついたまったき現実のなかに! 創造というものはそのようにしてなされる。それは「新しい花、新しい天体、新しい肉、新しい言語」だと彼は言っていた。それから彼は、紙屑でも捨てるように夏の太陽を葬り去った。怒り狂って、葬り去ろうと思ったのだ。彼は自分の手を憎んだ。ペンを持つ手だ。彼が幻の船の上から凝視していた悲惨の港は見たこともない海よりもさらに鮮明だったし、刻々と時は過ぎ、自分が裁かれようとしていることをランボーは感じ取っていたのかもしれなかった。
だが不眠の夜の後には、必ずわらじ虫の朝がやってくる。彼はまだ二十歳にもなっていなかった。ハッシシも阿片もアブサンも周りの人間を困らせる余興にすぎない。これはアングルの問題にすぎないが、どんな重大な結果が待っていようと、痛めているのは彼の肉体でしかない。彼の言語ではない。いや、そうではない。幸か不幸か、少年の彼もまたそれなりに言語を痛めつけた。しかしその瞬間、彼にとって希望が夜明けの町のようにきらめいていたのも本当だろう。この希望、これほどの希望は、生きるに値する希望だったが、致命的なものであったかもしれない。
「いまのところ、仕事をするのは夜だ。真夜中から朝の五時まで。先月、僕の部屋はムッシュー‐ル‐プランス通りにあって、サン‐ルイ高校の庭に面していた。狭苦しい僕の窓の下には巨大な木が何本かあった。朝の三時になると、蠟燭が消えかかる。木々のなかですべての鳥たちが一斉に囀り出す。これでおしまい。もう仕事はしない。このえも言われぬ朝の最初のひとときに心を奪われて、僕には木々や空を見つめる必要があった。静まり返った高校の寄宿舎を僕は見ていた。するともう大通りには、途切れとぎれの、よく響く、心地いい荷車の音が。——僕は屋根瓦の上に唾を吐いては槌型パイプをくゆらせていた、だって僕の部屋は屋根裏部屋なのだから。五時になると、僕は少しばかりのパンを買いに下に降りていった。その時間なのだ。いたるところで労働者たちが動き出す。僕にとっては酒場で酔っ払う時間さ。食べに戻って、朝の七時に横になっていた、太陽が屋根瓦の下からわらじ虫を這い出させるときに」(ランボー「糞ったれのパリ、1872年6月」、エルネスト・ドラエー宛ての手紙)
その希望がなんであったにしろ、これが素晴らししい日記であることに変わりはない。
古都はいいお天気だった。首を傾げた長い黒髪が向こうで少しずつ見えなくなっていったように、小川のそばを誰も通らなかった。幽霊をとらえそこなったのだ。せせらぎの音を聞きながら、俺の右脚は消えていた。返してもらった腕も。昨日の痛みとともに新しい少しの痛みを残して。
木枯らしをいかにせむとて夕まぐれあの娘(こ)の片腕藪に隠さむ
削れて粉になり消えてしまった腕はしばらくすると向こうのほうでまた少しずつ現れて小刻みに震えていたが、指の先端でつまんだ煙草が煙とともに再び現れる頃には、腕だけではなくもう顔もぼやけ始めて、このままではまたぞろ消滅の憂き目に会うなと思った途端、燃え尽きたはずの火がからだに燃え移り、揮発性の叫びのような一瞬の燃焼の末にからだは灰になるのであった。彼女は小川のほとりでドビュッシーを聞いていた。焦った俺はわけもわからず無視した。そのことで彼女は一生俺を恨むだろう。今日は、昼下がりに爪が花粉をこすっている。日差しが眩しく温かかった。唇のように。
ここは京都の悪場所にある木造のおんぼろアパートなのだが(ほんとうはどこなのだろう?)、草ぼうぼうの中庭のような一角があって、そこに大きな樫の木と、それから日時計があった。日時計はブロンズ製で、daemonicusとラテン語が彫ってあった。悪魔の日時計なのか。気味が悪いし、君が悪いのだ。隣は船についているような丸窓のある悲しげな元遊郭で、いまは使われていない便所のあたりがもやもやしていた。その便所のなかに入ったのに窓がないじゃないかと思案して便器にまたがっていたら、片方の耳が急に聞こえなくなった。十年以上なりっぱなしの持病の耳鳴りのせいだということはわかっていた。いや、そんなはずはない。昔の友人が昨日携帯電話を川に捨てたよと自慢げに言うから、試しに電話をしてみたら自分の家の電話が鳴ったので、朝から晩まで耳鳴りがしていた。あいつはただの居候だ。自分の意に反して、人格を入れ替えただけだった。
赤頭巾ちゃんがミニスカートから延びた義足の右足を見ると、左足が消えてそこをお婆さんがずっと下のほうまですべって落ちてゆきました。お婆さんの家にはどろどろに燃える溶鉱炉があって、それが部屋の隅々にあいた穴のなかにまで反射して、まるでベナレスの沈む夕陽のようでした。昨日のことだったか、狼は殺され、野辺送りの暗い行列も蹴散らされ、行列に向かって敬虔に傾けたあいつの膝も砕かれました。赤頭巾は、お婆さんなんかいるもんかと喚きながらとうとう頭巾を破り捨てました。磔(はりつけ)になったのは俺の分身だった……お婆さんの部屋では、ラジオからぎくしゃくとしたフランス語がびっこのように聞こえていました。その後で歌声が聞こえました。ゴダール、モナムールと歌う女性の声でした。「愛したいという欲望とは、愛される対象がそれとして捕らえられ、しかも逆にそれを捕らえる側、今度は甘美な孤独のなかで対象としての愛する者となった絶対的単独性のうちに〈鳥もち〉づけられつつも、自分自身は欲望の負荷とともに理由もなしに隷属させられざるを得なくなるような欲望である。愛することを愛されるように熱望する者は、自らに限りなく似た相手の美点のために愛することにはほとんど満足しない」、と泥まみれの赤頭巾に向かってラジオは言ったとさ。赤頭巾は狂ったようにがつがつとリンゴをほおばりました。赤頭巾はとにかく食いしんぼうだったのです。
フェスティナは汗みずくになってエニシダの小道を急いでいた。険しい小道は上り坂で、向こうは見えない。明日、フェスティナのショートカットはもっと短くなるだろう。
半分だけ影のなかにある長い首、そして苛立ち。太めの脚、そして平安。一緒に見たはずなのに、一瞬で消えるラヴェンナの墓碑銘。記憶のなかの彼に墓碑銘はない。ゆっくりと彼女は大人になるだろう。
沖まで泳いだ。沖から振り返って見ると、遠くで砂浜のフェスティナは画帳を開いたまま居眠りしている。俺の頭が波間に沈むと、陸は消え、フェスティナの短い髪も消える。水しぶきとともにすべてがやっと泡となる。誰にも知られることのない午後のひっそりとした栄光。水に潜ると、水面で陽が黒く揺らめいているのが見える。
フェスティナが下宿人の電話の声の向こうで他愛もないことを喋っているのが聞こえていた。ラヴェンナで陽が翳っていく。いや、ここはラヴェンナではない。白い墓石を雲雀がかすめ、そいつを生温い風がえぐっている。誰が死んだのだろう。彼女はきっぱりと拒絶する。何を? 自分を慰めることを……。糸が揺れていた。
ヘンリー・カウエルのような音楽家がいたのは奇跡に近いが、音楽の歴史からいえば偶然ではなかった。不眠における覚醒のなかの半睡眠状態のための音楽。彼には音楽がフィクションであることなど問題ではなかった。それは警察的問題にすぎない。実験のための非実験。カウエル蛙は男の子に対する猥褻罪で刑務所に収監中にバンドを結成した。バルトークは彼に手紙を書いて彼のピアノ・ピースを使う許可を得た。彼はジョン・ケージの師匠だった。後のブラックマウンテン・カレッジも精神的に無関係ではないのだろう。やっていたことはまったく違うといっていい。それでも彼はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの祖父だったとも言える。ペルセウス座流星群のための音楽。ペルセウス座流星群とともに降り注ぐ殺人ウィルス群のシャワー。飛来する災厄の非生命の種子。ノイズの種子と主旨。形なきものである生命は非生命でもあり、外の地獄からやって来る。生は小僧のような娘のスカートの折り返しのように気まぐれだ。襞、プリーツ。音はすぐに消える。外部、外の内のありとあらゆる非形状を被弾した生、その複雑さは哄笑の後にあり、あくびとともに身体と世界の滓となる。
むこうで狼煙が上がる。低く、かすかなピアノとサックス。南スペインのツィガンの地よりもっと古い土地。淋病。狼の遠吠え。雨が水面に小さな輪を作っている。小舟は上流へ吸い寄せられる。太古の太鼓。ギターの調べ。雨はやがて嵐になるだろう。右手で引っ掻かれるピアノ。弦が戦き、喉を切り裂き、下に落ちる。点描された声。カウエルを聞いたこともないのに、ワルツを踊る犬の末裔。
論破できないものはこの土地のようにつねに美しい。ヘンリー・カウエル以外にも色々ある。ミケランジェロのピエタとベルニーニの聖女像、ティントレットのサン・ロッコの壁画、ランボーのイリュミナシオン、すべての民族音楽、ピタゴラスのいう天界の音、エジプトと古代ギリシアの彫刻とか、石、砂、木、風、土、陽の光、清水とか。木屋町で大暴れするベレー帽の女はどうなのか! 脱ぎ捨てられ、蝙蝠のように飛び去る黒革のコート!
音楽のように、粗末なゴシック窓から夕暮の光が一瞬だけ絶対にそこを通り過ぎたことがあるという幻覚を内陣のなかに映し出す。懺悔する黒服の日本人。彼は脇目もふらず小さな入口からどかどかと入ってきた。ヘンリー・カウエルとはなんの関係もないし、彼が音楽など聞いたことがないのはわかっている。男は本物のやくざにしか見えない。上等のスーツと靴、そしてその顔つき。人生と同じように、持ちこたえている途上にある否定性の極致だと俺は思った。モモは固唾を呑んで男を見ていた。俺は懺悔しない。彼は懺悔している。必死で祭壇の前に膝をついて祈っている。俺たちがそばにいることにさえ気づいていない。人を殺したのだろうか。ついさっき? 教会の外の階段では片足のない第三の男が前を見て笑っていた。階段に座った彼の前はただの中空だし、彼は何も見てはいなかった。風がここからは見えない木の葉を揺らし、夏枯れの葉を巻き上げていた。ジュネは風は立ったまま眠ると言っていた。醜悪な老人が、八十八歳まで生きてしまった美人の妻を厭わしく思いながら、二十二歳の若い娘に恋心を抱いて、彼女が落とした手帖を盗み見たりする。そのためには自らが老人になっていなければならず、人生はままならないものである。生きている人間はこうしてしばし悲劇のなかにいることを忘れるのである。こんな老人に比べれば、このやくざは非凡なフィルムにほかならなかった。
小野篁が夜毎地獄へ行った井戸は静まり返っていた。彼は閻魔の補佐をしていた。六道の辻、六波羅蜜寺界隈は特に深夜はいまだに妖気漂う場所なのに、この井戸のある庭はまったく違う印象だった。空間は縦に割れている。近くに何度も寝泊りしてもなぜかその時までここに来ることはできなかった。役人でもあった篁は嵯峨天皇や当時の知ったかぶりの貴族を馬鹿にしてからかったりしていたのだから、思うに、知識人の鑑だったのだ。そのために隠岐島に島流しになった。百人一首では蝉丸の次に坊主めくりのように登場する。蝉丸の永遠の離別、篁の追放。そうだ、井戸は縦に掘られる。天空の井戸。地獄の入り口は苔むしていて、空はよく晴れていた。
文字を燃やす。文字から煙が立ち昇る。篁の地獄の井戸の前で。ひとりの巫女が煙のなかにいて錆びた刀を振り回している。絶対に俺を切ることはできない。文字なのだから。紙から文字が浮かび上がって焦げ跡だけが雨に濡れる。呪いのように艶かしい麝香の香りのする古い着物。ひとつの罪科が沈殿する澱のように現れ、地獄はすぐ間近だった。誰もが、夕方になると衣のひらひらするあの廃墟にやられてしまったのだ。袖を通した途端に消え失せる手首。煙のなかの六波羅の女……彼女は平家の武将を愛したあの傾城だったのか。
ある名状しがたい様態のもとに個体化された最終段階の形相が、真冬の夜のまだ見ぬ夢のなかに、昼を喪失した薄暮に潜むあのぼんやりとした錯乱のなかに、そっと忍び込む。美しいスクブスたちよ。俺と俺ではないものが井戸のそばできりきり舞いしている。あれらのいにしえの神学者たちは最後に何を言おうとしていたのか。
死者たちの街にいると、木立が風にそよぐのを見ているだけで、自分のやむにやまれぬ欲望が実はとても古い他者の欲望だったということに気づくことがある。俺ははっとする。この乖離、このズレのなかに巷の些事は蠢いていて、ただそこを通り過ぎる者の資格を剥奪していく。六道は揺れている。紫式部は色情の罪で地獄に落とされかけたが、知り合いだった篁が閻魔に取り入って助けたのだそうだ。たしかに饅頭のような二人の墓は仲良く並んで今もひっそりとある。だがそれよりももっと重大なことがある。六道の外にいる奴は外道と呼ばれた。道と道が交叉して、ここをかつて弔いの葬列が幾度となく通り過ぎたのだ。どちらへ行こうか。幽霊飴のようにあの世の通りで溶けてしまう道。それは外道なのか。死体の山のかすかな名残り。もう臭うことのない腐臭。辻は消滅し、だが今は生活がある。なぜ辻なのか。十字路は白昼にはいつも白茶けて誰にも気づかれない。篁はここをまず通ったはずだった。そして鳥辺野から嵯峨野へ抜ける地下の道。狂言師の未来の演目はこうして嵯峨野で「生の六道」と向き合うことになる。
冷たい錆びた鉄棒が青い血管の浮いた首筋に触れる。気がふれる、というのはそんな感じだ。蜘蛛の巣についた雨の水滴。アルペジオ。三本指のせむし。夕暮れには聖堂の反射は弱まり、喉の奥に消える。青い光。ア、ア、ア、アンダンテ。ソステヌート! 緩やかに弧を描いて落ちていく狂言師のお面。割れ目のなかに古い粉を探してみる。なんの象徴もなんの慚愧の念もない。小瓶の外で、外道は外に出されているのか。
不思議な中間地帯があった。そこには何もない層があって、われわれは、私は、そこを漂っている。中間層を肉が降下すれば、それに触れようとして、私は何十キロもの距離を一瞬で無に帰せしめる電離層のようなものと化してしまう。怒りや悲しみや嫉妬だってその電離層からやって来るというのに。たとえどんなに愚かに見えようとも、無の地図製作者がいつもそこで息をひそめて、ぼんやり空を見上げている。
紺青の空を呪ったのだ。深いインディゴ・ブルーの空、闇に落ちてゆく前のほぼ完璧な空虚、何もないことだけが救いであるような長い沈黙の後の一瞬の全面的な空白を呪ったのだ。明滅しているのは遠くの記憶などではなく、もう手にすることのできない持続だ。あるがままでいるのはひとつの冒瀆だった。暗い地球。地獄の井戸は一種の賭けだったのかもしれない。鳥がそこをめがけて落っこちる。
ガルシア・ロルカのように黒犬に聞いてみる。オリーヴの実はどこにある? 赤い満月が見えた。俺は道を続けた。如月の明星。酩酊は涙のように遠く瞬いている。塔は見えても、死が塔の上から覗き込んだ二つの道に人影はない。行きも帰りも。皮袋のなかにはほんの少しの毒酒。羊皮紙の上を黒い馬が救いにやって来る。ニーチェが馬の首に抱きついて道端にくずおれた日、十字路で雨に濡れてしまったトリノの手相見が早々に仕事を切り上げ家路に着いたあの晩だった。俺は何も見なかった。何も。 アレキサンドリアの四十万冊の書物だと? その本を読んだふりをした修道士のことなどどうでもいい。廃墟のなかで焼けただれた半分の旗が風にはためいていただけだったし、それさえも嘘の上塗り、存在しなかったかもしれないのだ。