ホーム > お知らせ(第97回 アントナン・アルトーと歴史の狂気)

お知らせ(第97回 アントナン・アルトーと歴史の狂気)

第97回 2018年4月





アントナン・アルトーと歴史の狂気





鈴木創士


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
鈴木創士『サブ・ローザ 書物不良談義

20世紀は、手当たりしだいに、そしてもうそれしか残されていない最後の頼みの綱のように、「存在」と「身体」の思想を探し求めました。このことはとても特徴的な事柄でした。もしかしたら20世紀的な身体というものがあったのだと言ってもいいのでしょうが、それには当然のことながら歴史的条件がぴったりと裏面をなしていたと考えることができるでしょう。
 しかしむしろ重大な「病跡」は人類の歴史のほうにあったのではないか。歴史のもつ疾病の経歴と言ってもいいでしょう。世界大戦、強制収容所、原爆、テロリズム、数々の宗教戦争や民族主義などなどがすぐさま思い浮かびますが、私は必ずしも歴史が人を狂気にしたのだと言いたいのではありません。しかし歴史自体もまた狂気を経験したことには変わりありません。精神病理学者でも精神分析家でもない私のような門外漢の目にも、20世紀の歴史はそれほど病理学的に映るのです。この事態はいまでも何ひとつ変わるところはないでしょう。

 少し観点を変えてみましょう。一方には、19世紀に名乗りを上げた医学的知見の爆発的発展がありましたし、他方には戦争その他による大量殺戮による身体のおぞましい「新たな経験」というものがありました。この経験は20世紀までかつて人類が知ったことのない規模のものでした。一方には遺伝子と無意識、他方には新しいとしか言いようのないさまざまな様態の「死体」があったのです。
 メンデルとその後の分子生物学による遺伝子の発見、そしてフロイトによる無意識の発見は、われわれの20世紀にあって、瞬時にして大量生産され、そしてかつては見ることができなかったような、変容を遂げた夥しい数の死体とまるではっきりと対をなしているかのようでした。アントナン・アルトーはまさにこのような時代を生きた思想家なのです。演劇家であり、実際に役者でもあったアルトーが、「身体のテクノロジー」と呼べるような地点まで達したのはこのことと無関係ではなかったと思っています。
 

 周知のとおり、遺伝子と無意識は、そして死体もまた、かつての「人間」の観念にとって完全なる「他者」です。この点はとても重要であると思います。医学的知見の爆発的発展はある意味でそこから「人間」を追い出してしまったかのようです。それは極めて20世紀的な経験です。そもそも病んだ身体も健康な身体も死んだ身体もまた、われわれにとって他者であることに変わりはないですが、無意識や遺伝子や原型をとどめない死体となった身体はなおのことそうです。誰もがそう考えたように、われわれの精神と身体はまったく別の世界のなかで新たな生の意味を求めねばなりませんでした。生の意味? さあ、それはどうでしょう。ともあれ、この意味において、身体が身体である限りにおいて、身体は「他者」の組成からなっていると言ってもいいでしょうが、このことによって20世紀は「人間」についての観念そのものをつくりかえなければならなくなりました。というか別の身体の位相をもった「人間」が出現せざるを得なくなったのです。
 ラカンが言うように大他者の大他者は存在しないにしても、神ではないひとりの人間のなかでは、その人の身体が有してしまうことを運命づけられている別の次元の身体、この身体とはもはや名指すことのできない身体、その人の身体にとっての他者であるとしか言いようのない別の身体というものが否応なく存在してしまうのです。万人にとってです。そしてこれが個人、個体としての身体を決定づけていることは医師であるみなさんがご存知のとおりです。

 身体はいつの時代も「探求」されてきました。われわれは誰なのでしょう。20世紀にあって、同時にこのことは感覚的次元における身体の変容を引き起こさずにはいられませんでした。ここからアルトーの言う「器官なき身体」まではそう遠くありません。話を簡単にしてしまえば、ギリシア彫刻にまで遡らないにしても、20世紀の美術の世界で起こっていたことはそれをかなり明瞭にわれわれに示してくれています。
 例えば、19世紀後半から20世紀初頭にかけての画家たち、つまり古典主義を脱却しようとしていた当時の画家たちに決定的な影響を与えたはずの19世紀のドミニク・アングルの美しい身体や、当時あれほどの世間的スキャンダルを引き起こしたエドゥワール・マネの「オランピア」の身体がありますが、それらの身体と、20世紀の画家であり、しかも第二次大戦後の美術家であるフランシス・ベーコンの身体、デフォルメをこうむった感覚的次元にあるほかはない、しかしあくまでも具象的な身体を比べてみれば、誰にとっても一目瞭然でしょう。「オランピア」のセンセーショナルな裸の身体とベーコンの身体のセンセーショナルな「叫び」は、美術史的観点を捨象するなら、まったく別のものなのです。

  ところで、歴史的条件なるものはたいていが負の遺産ですが、それにしても「存在」の後に決まって「身体」が到来するというのは、どんな時代にあってもじつに奇妙な光景ではないでしょうか。存在は身体を従えているのでしょうか。私はどちらかといえばアルトーは存在を唾棄していたと考えているのですが、まるでアルトーの身体は存在のこちら側と向こう側に同時にあるかのようです。唐突に思われるかもしれませんが、この点からしても、17世紀にすでにスピノザとボシュエが身体について語っていたことは所与の条件などではないように思われます。私は哲学史に興味があるわけではありませんが、実際、われわれは17世紀のバロック的思想から一歩も抜け出せていないどころか、むしろそこに絶えず戻らねばならないかのようなのです。

 スピノザはこんな風に言っています。
 「すなわち精神と身体は同一のものであって、あるときは思惟の属性のもとで、またあるときは延長の属性のもとで把握される。このことから自然が、ある場合にはこの属性のもとで、またある場合にはあの属性のもとで把握されることがあっても、とにかく秩序すなわちものの結合は一つであり、したがって我々の身体の能動と受動の秩序は、本来、精神の能動と受動の秩序と同時に生じている」(『エチカ』第3部定理2注解)。

 スピノザによれば、コルプス、つまり身体(物体)のあるところに精神は発生するが、精神と身体が同時に生じるにしても、身体と精神は相互依存しない、ということです。この場合の哲学的意味における「精神」がいかなるものであれ、身体は精神を前提としていないのです。互いによって互いを思考することはしたがってこの場合困難になるどころか、埒外の問題となります。これはかなり興味深い見解です。初期の頃にはまだ使われていた「精神」という言葉を、アルトーが徐々に限定的にしか使わなくなったことが思い出されます。

 つまり身体の延長は身体なのです。要するに身体と精神は存在論的には同等であるということだけではなく、もう一歩推し進めるなら、身体から精神を、そう言ってよければ、身体の思考から精神の思考を追い出さなければならないのです。スピノザの面白いところは、この心身平行論から、身体は身体にしか関わらないということが帰結されるところです。
 身体は身体にしか関わらない。そうするとこの身体は別の身体なのでしょうか。しかし「この身体」でもあり、この身体でしかないものを考えねばなりません。これはドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の思想にも連結することができるでしょうが、哲学者江川隆男の言い方を借りれば、「身体の身体」というものを措定しなければならないということになるでしょう。哲学的には汎神論的であるとまでは言わないにしても、反解剖学的であるほかはないアルトーの「器官なき身体」はまさにその先にあるもの、極めて生々しいその発展形態であると考えることができます。いくら身体のあるところには精神が発生するといっても、「身体から抜け出す身体」は、「精神」とは似ても似つかぬものであることは言うまでもありませんし、身体から身体が抜け出して「器官なき身体」を生きるためには、身体の身体がなければならない、ということになるからです。

 ルネッサンスは解剖学的な身体のイメージを決定づけました。もっとも大きな貢献を果たしたのは、多分犯罪的な方法で行われたに違いないダ・ヴィンチのデッサンですが、器官の綜合、統合からなると考えられるこの有機的な解剖学的身体が、当然のことながらわれわれも知るところである西洋的な医学的身体のイメージをつくりあげているのはご存知のとおりです。このことはもちろんイメージの領域にとどまるものではないことは医師であるみなさんのほうがよく承知しておられると思います。そしてアルトーの「器官なき身体」は、観念および実際に生きられたものとして、はっきりとこのルネッサンス的な解剖学的身体の対極にあるものだと理解することができます。
 「身体は身体である。それは唯一のものであり、諸器官など必要としない。身体はけっして有機体ではない。有機体は身体の敵である」、とアルトーはノートのなかに記しています。
 空間というものが、表象し得ないものが背後に控える「神の器官」であることを前提とすれば、ルネッサンス的な解剖学的身体はひとつのパースペクティヴのなかにあり、それ自体ひとつの「遠近法」であると考えられます。ミクロ的、マクロ的視点からコスモスのなかで人間と世界を同時に見る、ということから考えるなら、当時の解剖学的ヴィジョンと遠近法的思考はセットなのです。アルトーは自らの経験を通して、別の身体をそこかしこに現出させることによって(それは詩と演劇の中間、言語的観念と身体の中間にあったと考えることができます)、この遠近法を破壊しようとした、いや、破壊したのです。
 別の見方をすれば、詩人であり演劇人であるアルトーは、さまざまな点でたしかに一種の「ルネッサンス的人間」であったと私には思えるのですが、こと身体に関しては、あくまでも反ルネッサンスであったとしか言いようがありません。

 しかしもう一方には、唯物論的な、どこまでも物象的であるほかはない身体があります。「死」と「死体」は別のものです。最近、ある人の死の床で死について考える時間が私にはあったのですが、生が終わるところに死があったのだとは思えませんでした。死はどこにあるのでしょう。私には死がどこにあるのかわかりませんでした。このような問題の立て方自体が間違っているのかもしれませんが、少なくとも死と死体は常識から言っても異なるものです。
 カトリックの説教家であり神学者であったジャック・ベニーニュ・ボシュエはその素晴らしい説教『死についての説教』のなかで、二世紀のカルタゴの神学者テルトゥリアヌスの言葉を引いてこう言っています。
 「死体はいかなる言語のなかにも名前をもたない」、と。
 「小野小町九相図」などの日本の古い絵巻物にもあるように、たしかにそれぞれの死体の状態には、中国や日本では名前がついているとも言えますが、それらは変化する死体の状態を名指したものであり、変化する「死体」そのものの名前ではありません。死体もまたそれ自体刻々と変化し、ガスが溜まって膨らみ、腐って、骨となり、最後には塵になるからです。原爆の世紀にあっては、死体は蒸発すらします。元の身体はどこに行ってしまったのでしょうか。遺伝子工学の道筋を逆さに、死の側から辿ることはできないのでしょうか。そこに死は存在するのでしょうか。これは極めて20世紀的な問いです。そして身体そのものは生きているのでしょうか。死んでいるのでしょうか。われわれはほぼそこから一歩も抜け出せないままでいますし、そこにあって、スピノザとボシュからあらためて一歩を踏み出さねばならないままであることはご承知のとおりなのです。

  このような身体の観念を前にして、アルトーはそれを生きることによって、どのようにして彼の「身体」、「器官なき身体」を獲得することになるのでしょうか。それはまずは病の状態、次に徹底的な「否定性」において獲得されたのだと考えることができます。彼の生涯はご存知のとおり波乱に満ちたものでしたが、その記録や証言を繙けば、いろいろと思いつくことがあります。
 アルトーのさまざまな「病」、長く続いた頭痛、思考できないという思考の不能性、分裂症、パラノイア、麻薬中毒、そして精神病院への監禁、電気ショック、エスニックな旅を含めた外への旅、戦時中の精神病院での極度の栄養失調、最晩年の癌の症状……。メキシコではタラウマラ族のペヨトルの儀式に加わり、アイルランドでは不可解な言動によって逮捕され、フランスへ強制送還になり、精神病院を盥廻しにされ、その精神病院では臨死も体験しています。アルトーは、かつて何度となくその旅のうちに死んだように、そこで一度死んでいます。奇妙な旅です。先のリストにはアルトー自身によって後に否定されることになる神秘主義をつけ加えることもできるでしょう。

 しかしアルトーの血の滲むような「発見」へといたる経験、あの「場所と公式」の問いは、アルトーのいわゆる精神病の「病跡」を軽々と超えてしまっていると私は考えています。例えば、病跡的に見れば、最晩年の『ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者』というような超明晰な本をどうやって不治の(実際、そのように診断されたこともありました)分裂症患者が書くことができるのでしょうか。それ自体非常に興味深いものであるとはいえ、例えばクレペリンが報告しているような分裂症者の手記と、アルトーの『ヴァン・ゴッホ』が異なる言語で書かれていることは火を見るより明らかです(フーコーは、「アルトーはわれわれの言語の土壌に属している」と言っていました)。なぜこのようなことができたのでしょうか。私にはこの問題が精神医学の世界においても解決されているとは思えません。

 もちろんそれだけではありません。当然、観点をすっかり変えることもできます。あるいはドゥルーズとガタリが言うように、アルトーは分裂症だったからこそ、あれほどの仕事を成し遂げ、あれほど高緯度にある思考に達したのだと言うこともできるでしょう。同時に、別の身体の仕業ででもあるかのように、精神病院への監禁以降、晩年の膨大な『カイエ』に見られるように、アルトーの言語もまたすさまじい変形を加えられることになったからです。それは『ヴァン・ゴッホ』などの本が書かれたのと同じ時期にも続けられました。そしてそれがアルトーによってはっきりと意図されたものであったことは、アルトーの生前に一冊の書物として構想された『手先と責苦』のような作品を見れば窺い知ることができます。
 言語はハンマーで殴られ、叩きのめされ、砕け散り、また切断され、分断され、解体されて、別のからだのなかに分娩されるかのように、まるで新しい生を生き始めたのです。ある意味で、アルトーは言語の極限を登攀しようとしていました。いや、そこで、それによって沈思黙考し、激怒し、咆哮し、それを生きていました。これらの言葉は彼の「身体」の言葉であり、その乾いた叫びであると同時に彼の中心をなす寸断された身体から発せられた「思考」、まるで物質のような思考でもありました。これは身体の穴から発せられたのだと言っても同じことですし、こんな言語があらゆるものに対抗する「護符」であり、「呪い」に似てしまうのは致し方のないことなのでしょう。アルトーは絶えず世界のなかに「呪いのネットワーク」を見て、それを告発していましたが、彼は独特の言語によってそれに対して全面的攻撃をしかけたのです。

 だがそれはただちに別の意味を帯びます。アルトーにとってこの「書く」ということが、生理現象を含めて何かを分泌したり、あるいは唾を吐いたり、歩いたり、食べたり、麻薬をやったりすること、つまり「生きる」ということとほぼ同義であったことには大いに注意を払うべきでしょうが(晩年のアルトーは絶えずノートに何かを書いていました。散歩しているときですら)、それが彼の「病跡」を超えてしまっているだけではなく、これだけをよくよく考えれば、このことは優れた幾人かの詩人や作家や芸術家においてすでに見られたことでもあったのではないかとも思われます。しかし彼らとは異なり(例えば、ヘルダーリン、ヴァン・ゴッホ、ニーチェ、ベケット…)、アルトーが特異であるのは、言語と生、書かれたものの形式と内容の極端な一致が、ある種の「身体のテクノロジー」のようなもの、まずはある種の「公式」によって鍛えられ、それを原理としていたように思われるところなのです。この「公式」の生成にはアルトー自身の長い苦難の歴史が関わっていることは言うまでもありません。
 誤解のないように急いで付け加えておきますが、このことは芸術や文学の形式や形式化とは何の関係もありません。そしてそのことがどうして土方巽のような日本の舞踏家たちの琴線に触れないわけがあるでしょうか。優れた舞踏家はダンスの「技法」ではなく、どうしても不可能な「身体のテクノロジー」のようなものを意識せざるを得ないからです。優れた舞踏の身体もまた身体から抜け出すことになるからです。暗黒舞踏だけではありません。仮面の身体から徐々に身体が染み出してくるような優れた能の演者の身体も、うまくゆけばそのようなものであるでしょう。

  言うところの「身体のテクノロジー」はどのあたりから始まったのでしょうか。その萌芽はすでにアルトーの演劇についての観念のなかにあったと考えることができると思います。アルトーはすでに1930年代に演劇とペストの相同性を宣言する演劇論のなかでこう言っています。
 「どこかの精神病院の一人の狂人の捌け口のない絶望と叫びがペストの原因となることが不可能ではないのと同様に、感情とイメージの一種の転換の可能性によって、外界の事件、政治的衝突、天変地異、革命の秩序と戦争の無秩序などが演劇の次元に移って、それを見る人の感受性のなかで、伝染病のような力を持って放電するのだ」(「演劇とペスト」)。
 奇しくも、アルトーの精神病院への監禁、そこからの解放の時期が、第二次世界大戦の推移と終結と時を同じくしていたことを思わずにはいられません。切迫する第二次大戦の推移、戦争の終結へと向かう日々は、一日ごとにアルトーが監禁からの解放を渇望し、友人たちがそのために奔走した毎日でしたし、それまでにアルトーが書いた数年間にわたる(監禁は九年に及びました)当時の「手紙」などから察せられる凄まじい日々と、そこでアルトーの身体に内乱のように起きていたことは、まさに言語と身体的現実の次元において、「外界の事件、政治的衝突、戦争の無秩序」と軌を一にしていたばかりでなく、ある種の相同性を示さざるを得ないものとしてあったのです。アントナン・アルトーはそれを生き延びました。歴史の病跡、歴史の狂気は、アルトーの身体から新たな身体が抜け出すために、フーコーが言ったとおり、作品と、狂気である作品の不在が「同時に」生起するように、アルトーの身体の歴史、その生涯と「同時に」起きていたのです。

 あるいはこういう指摘もできるでしょう。まず「身体のテクノロジー」の出発はアルトーの歴史についての観念のなかにすでにあったのだ、と。なぜならアルトーにとって演劇とは歴史の破綻であり、歴史は演劇の破綻であるように思われるからです。先ほどの「演劇とペスト」が収録された『演劇とその分身』とほぼ同じ時期に書かれた、歴史小説とも戯曲とも見なすことのできる本、『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』にはこうあります。これは歴史家たちによって史上最低の暴君と蔑まれたローマの少年皇帝について書かれた本です。

 「しかしこの回転するイメージのなか、受肉したウェヌスの血をひくこの魅惑的で二重の性質のなか、彼の驚くべき性的矛盾のなかには、両性具有的なものよりはるかにずっと、最も厳密な精神の論理のイメージそのものに見えるものがあるが、それこそはアナーキーの観念なのである」
 「ヘリオガバルスは生まれつきのアナーキストであり、しかも王冠をうまく支えられないし、王としての彼のすべての行為は、公共の秩序の敵、生まれつきのアナーキストの行為である。だがそのアナーキーを、彼はまず自分自身のうちで、自分に対して実践するのだが、彼はそのアナーキーをローマの政治にもち込み、自らを手本にして示し、それに対して必要な代価を払ったのだということができる」。

 アルトーは、ヘリオガバルスが政治を行うにあたって、たとえヘリオガバルス自身がそのことによって破滅することになったとしても(最後に糞尿のなかに飛び込んだ少年皇帝は、自分の護衛の兵士たちによって母とともに惨殺され、死体を切り刻まれて、ティベリス河に投げ込まれました)、その古代的、詩的、宗教的、性的、アナーキスト的観念をまずは皇帝としての自分自身の身体的行為として実践したのだということを強調したのです。これはまさしく「残酷の演劇」のひとつの原型なのです。

 アルトーの提唱する「残酷の演劇」とは、必ずしも舞台で血が流れるということではありません。演劇は生であり、生の発露そのもの、まさに生の一端を担うものとしてあり、そして生の根源、すべてのものの根源には「残酷」があるからです。アルトーはそんな風に考えていました。
 「残酷の演劇」は、アルトー自身がいうように、舞台上のことに関しては、エリザベス朝演劇をそのモデルのひとつとしていたのでしようが、演劇の観念を構想するアルトーの念頭には、『ヘリオガバルス』がそうであったように、恐らくはじめからアテナイのギリシア悲劇が息づいていたのだと私は思っています。ソポクレスやアイスキュロスやエウリピデスがその原型なのだと言いたいわけではありませんが、アルトーのなかには明らかに古代ギリシア的なものが流れていたように思われます。アルトーがそこで逝去することになった最晩年の部屋の写真を見ると、デッサンや、紙や、ローダノム(阿片チンキ)の小壜にまじって、エウリピデスの本がそっと置かれていたのがわかります。アルトーは死の直前までギリシア悲劇を読んでいたのです。

 われわれはアルトーの演劇について、それもアルフレッド・ジヤリ劇場をはじめとして、どの上演も「失敗」だったなどと簡単に語ってしまいますが、演劇家としてアルトーに影響を受けた寺山修司を含めて、日本人でアルトーの芝居を実際に見た者はひとりもいないでしょうし、現在ではフランスにおいても変わりはないでしょう。カール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』やアベル・ガンスの『ナポレオン』など、残された映画フィルムのなかの映画俳優としてのアルトーの素晴らしい演技から舞台の上のアントナン・アルトーを想像するしかないのですが、この「失敗」は先に述べたようなアルトーの演劇についての考えからしても偶然ではないと思われます。アルトーの最初の演劇のイメージがペストや北方ルネッサンスの終末的絵画にあったことを考え合わせると、それは失敗を余儀なくされることを運命づけられていたのです。外を抱え込んだ身体が身体から抜け出そうとして「失敗」しないはずはありません。そしてだからこそ、すべての演劇、さらにとりわけ日本の暗黒舞踏が(言い足すのを忘れていましたが、そもそも「身体から抜け出す身体」という考え自体、土方巽から借りたものです)、この「失敗」、「開幕からの決裂」、身体自体が抱え込んでしまった不可能な始まりにおけるこの「失敗」から始めねばならなかったことはうなずけることなのです。

 役者の「身体」には「外」が乗り移り、憑依しなければならない。同時に身体は身体から外へ出ていかねばならない。それは至上命令であり、公理です。そしてアルトーはまずそれを自分の身体に対して実験ともいえぬ実験のようにして行ったのだと考えることができます。書かれた言葉は身体の上におのずと浮かび上がる刺青のようなものでした。
 アントナン・アルトーは、書かれたその言葉によって、その演劇の身体によって、彼自身の生身の身体によって、彼ひとりでそれをやってのけたのです。

京都にて  

関連書籍はこちら

このページのトップへ