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お知らせ(第100回 海辺の家)

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  第100回 海辺の家 - 2018.07.04

第100回 2018年7月





海辺の家





鈴木創士


アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』(エートル叢書22)
エドモン・ジャベス『歓待の書』(エートル叢書15)

 サミュエル・ベケットの散文に触れていると、文章の端々でこれは自分の記憶のなかの一コマに違いないと錯覚してしまう瞬間が不意に訪れることがある。
 「おまえは高い飛び込み板の端に立っている。海の上高く。海には、おまえの父親の仰向けた顔。おまえにむけて仰向けになっている。親しい気さくな顔が下に見える。彼はおまえに飛べと叫ぶ、勇気を出せ! 丸い赤ら顔。厚ぼったい髭。白髪まじりの頭。潮が彼を波間に浮き沈みさせる。また遠くから叫ぶ声。勇気を出せ! みんながおまえを見ている。沖の方から。硬い陸地から」(『伴侶』、宇野邦一訳)。

 私の生家は海辺近くにあった。近所は酒蔵地帯で、菊正宗の門が見えていたし、剣菱も白鶴の酒造倉庫も近かった。西側には日本風の古い家並みがずっと続いていたはずであるが、記憶のなかの家々はただ木の塀のニスの匂いと木の暗い色だけで、昼でも通りにはひと気がなかった。わが家はボルコフスキーという亡命ユダヤ人の広い屋敷の庭の一角にあって、うちはその洋館の離れのような家を借りていたのだが、そのボルコフスキー老人が大家さんだった。ボルコフスキーには名前が三つあり、一つはドイツ名のカッツ、もう一つは、奥さんが日本人だったので、日本名だった。亡命ユダヤ人ボルコフスキー老人は屋敷の二階のサンルームに日がな一日座って、いつも海を眺めていた。一日じゅう椅子に座ったままだった。子供の私にとっても、静止したようなその情景がいつもの庭からの眺めだった。時間は流れない。海を眺めることは望郷であるのだろうが、瀬戸内海の海なのだから、いくら南側の海を見つめていても、見えるはずのないロシアやヨーロッパに彼の視線がたどり着くには地球を一周しなければならなかった。

 浜辺は家からほんのすぐそこで、目をつむっていても、海水パンツを履いたまま庭から歩いて行けた。いつも途切れ途切れに潮騒が聞こえていた。波は光に混じり、潮の音はわずかに光を放っていた。いや、わずかな光ではない。遠い波ではなく、光だけが寄せては返した。昼の海はいつも遠くが晴れていた。日の当たる狭い砂浜があり、緑があった。ベケットが書いているような飛び込み台などはなかったはずだ。父に飛び込めと言われたこともない。打ち上げられた小舟と流木が朽ちたまま砂に埋もれていた。フナムシがいた。私は海に飛び込んだりしたのだろうか。たぶん波打ち際で行水していただけだろう。
 細く想像することはもうできそうにない。私は小さかったので、誰かがきっとそこにいたはずだが、砂浜の人影が誰だったのか思い出せない。いくら写真のなかにちゃんとそれを見つけたとしても、父の姿も母の姿もない。いつも麻の上下を着た祖父はまだ領事館から戻っていなかったし、母はきっと家にいたのだろう。祖父の長唄の練習の声も聞こえてこなかった。覚えているのは渡辺綱の鬼の物語だった。
 誰もいない砂浜。影の伴侶といえるものは、もうすでに記憶のなかの自分と化していたはずの小さな自分だけであったし、何度目かの海水浴の翌日には、隣の人が自殺するという事件が起こったばかりだった。小さな私は不吉な気配を察してなのか、泣き止まなかった。日が翳っていた。誰かの声だけがしていた。海の水は冷たく、いつもよそよそしかった。私はいまでも海が好きではない。海の闇が怖い。海の声のようなものがある。そして海の闇や浜辺には小さな空虚があった。
 「声はわずかな光を放つ。声が語っている間、闇は輝く。声が遠のくとき、闇は厚くなる。声が微かな最大値にもどるとき、闇は輝く。声が黙るとき、闇はもち直す。おまえは、闇のなかで仰向けになっている。もしそのときおまえの目が開いていたら、ある変化が見えたはずだ。」

 ベケットの次の文章が好きだ。こんな風に書くことなどできないのに、まるで君や私が書いたような気がしてくる。「砂浜。夕方。光は死にたえる。すっかりなくなって、やがて光はもう死にたえることもない。いや。光がないなら、もうこんなことさえない。光は夜明けまで死んでいき、もう決して死ぬことはない。おまえは海を背にして立っている。ただ海のざわめきがあるだけ。とても静かに遠ざかりながら、たえず弱まっていく。とても静かに、それがもどってくるときまで」。
 夜明けなど知らなかった。死もまた。だが光が死にたえるところは何度も見たはずだ。毎日のように。死がうろついていた。そんなことは子供にだってわかることだ。朝起きて、線路の土手に生えている土筆を摘みに行った。庭で行水した。昼間、近所のお姉さんが塀にもたれて私にむかって笑っていた。名前は忘れた。白いブラウスに紺色のスカート。浜辺の気配はいつも私のからだの芯に迫っていた。海を背にしても、私は海が怖かった。

 もう浜辺の家ではなかったが、阪神大震災で当時の家が全壊になり、避難所を出て広島で数ヶ月を過ごした後、町の西側の端にある海辺の住まいに落ちついた時期がある。ほんとうに波打際だった。またしても海だ。窓の外には暗い海しか見えない。夜光虫が青白く光っていた。美しく光った次の朝は、海面は毎回夜光虫の死骸だらけで、海は汚れて見る影もなかった。
 そこに住んでいた頃の話だが、丹生谷貴志と連絡がとれない、もしかしたら死んでいるかもしれないので、見に行ってくれと河出書房の編集者に頼まれたことがあった。丹生谷氏の住まいはそう遠くはない。バイクで彼の家に行ってみたが、部屋から返答はなかった。郵便ポストから部屋を覗いたのだが、書物のカビ臭い匂いがするだけで死臭はしなかった。結局彼は死んではおらず(後でわかったのだが、怪我をして入院していた)、われわれの言葉は空虚だったが、最後の言葉などそこにはなかった。変な風景が日常のように続いているだけだった(後で酒鬼薔薇聖斗があの事件を起こしたのもすぐ近くだった)。自分自身について語る言葉はなかった。そんなものははじめから他人についてのただの作り話にすぎない。
 一九八三年、ベケットは七十七歳だった。半世紀近くも歳の離れた若い友人が書いた言葉を思い出す。
「イカナル生ヲカ選バン
 世間ハ騒擾ニ満チテイル
 わたしたちのあいだには、こうした問いを話題にしないという了解があった。デカルトが夢のなかの本で見た、アウソニウスの問いだ。ベケットとわたしはとても違った場所から、反対の向きで、しかし同じ身振りをしていた。デカルト以来、騒擾はさらに激しさを増している。だが、騒擾はそこから帰結する沈黙を覆いつくすことはできない。どの時代でも同じことだ。道はない。然り。測りしれないもののなかにいつ沈むとも知れぬ、つかの間の道程を除いては。ときおりベケットは、逝った友人の運命を思い起こすことがあった。そんなとき、かれは決して亡き友の相貌を固定してしまうような観点をとらなかった」(アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』、安川慶治・高橋美帆訳)。

 この海辺の住居の近くには行くところがなかった。私は海が嫌いだったのに、それで仕方なく浜辺へ行ってしまうのが常だった。仕事に打ち込めないような日(当時は、いろいろ頭の調子が悪かったし、事故や何かで怪我ばかりしていたし、いつものことながら不摂生で体調も悪かったので、そんな日が続いた)、所在がなくなると、舞子近くの狭い砂浜に座っていつも海を見ていた。この災いは誰の災いに似ているのだろう。誰かが叫んでいるのだろうか。いや、誰も叫んではいない。私は叫んでいないが、失望しているのはこの私なのだ。道を誤った感じがしていた。誰もいない砂浜を低い太陽が照らしていた。新しく物事を始めることに疲れていた。私は海を見ていた。何かが濫費されていた。押し寄せる波を見ていると、ぐるぐる目が回り始める。虚しい幻影などそこにはないのに、遅かれ早かれすべてのイメージは一点に集中するだろう。寄せては返す波。永劫回帰。ニーチェは海を見たことがあったのだろうか。たいていは気分が悪くなって、私は何度となくゲロを吐いた。しまいに嘔吐するのが楽しくなったほどである。吐瀉物の美しい抛物線が見えた。地震の震源地はそのとき見ていた海のすぐそばだった。

 それよりずっと昔のことだが、この辺りの海で泳いだことがある。この辺りの潮の流れはとても早い。私はラリっていた。どんどん沖に流されて行くのがわかった。まず岸辺が、それから遠くに見える六甲山の山並みがずんずん遠のき、しまいにはそれも見えなくなった。見えるのは黒々とうねる波だけだった。空しくどのくらい泳いでいたのだろう。もう駄目だなと思った。焦りはなかった。水がとても冷たかった。海で死ぬのは嫌だと思ったのかどうか覚えていない。死にかけた人が見る人生の走馬灯は出てこなかった。波、また波だけだった。目だけが全面を満たしていた。ただ見ているだけなのだ。垂直の目はなく、遠くにしか空は見えなかったと思う。もう動けなくなりかけたとき、どこからともなく小舟が現れて、私と友人(たしか友人と一緒に泳いでいたはずだ)は助けられた。

 以前、この町にはユダヤ人が大勢居た。浜辺の家主ボルコフスキーもユダヤ人だったが、のちにユダヤ人村と言われる集落跡の近くに建つぼろアパートにいたこともある。当時、もうユダヤ人たちはそこで暮らしてはいなかったが、廃墟の残骸があったように思う。ずっと後になって、エドモン・ジャベスというユダヤ詩人の本を何冊か翻訳したが、ユダヤ人とのかつての接触がそれに影響を与えていたのかどうか私は知らない。翻訳に打ち込んでいたとき、少なくともそのことを意識したことはなかった。
 夕方、山あいの急な坂道を降りて、いつも夜のバーへピアノ弾きのバイトに行った。その坂道を山にある学校の女学生たちがぞろぞろと帰って行った。ドブ川のような小さな川が道に沿って流れていた。アパートから逆に坂道を登りつめると、港町らしからぬ禅寺があり、山頂には明治維新の謀議が行われたと言われる場所があった。明治維新に興味はなかったし、そこは個人の土地だったので、行ったことはない。禅寺を通り抜けて、山道をさらに少し登ると大きな滝がある。滝近くの尾根には朝早くからやっている茶屋があった。ハイカーの老人たちがつどっているような茶屋で、早朝から酒の燗の湯気が立ち上り、甘酒やおでんが美味しかった。冬の茶屋は暖かく、急ごしらえのような粗末な窓ガラスはいつも水蒸気で曇っていた。
 当時は朝の四時くらいに起きる習慣があって、私はいつも朝の散歩に行った。禅寺の広い境内まで行ってみることもあった。尾根にある茶屋で甘酒を飲みながらボードレールを読むのだ。赤裸の心。だが裸にされるものなど何もない。禅寺の境内はその観念ともどもすっ裸である。
 ある真冬の朝、四時ごろだったと思う。禅寺にいつものように行った。茶屋でボードレールを読むつもりだった。まだ夜明けは遠く、境内は漆黒の闇だった。冬の山あいは身を切るほど寒かった。オーバーコートを羽織って、マフラーを巻き、ボードレールの本を小脇に抱えて歩いた。ほんものの闇なので、禅寺の庭を記憶を頼りにそろそろと手探りで歩いた。自分を成り行きに任せることは快感だったに違いない。さぞかし滑稽な姿だっただろう。明かりはない。まったく前が見えない。四方から闇が迫っていた。性急なイメージが頭のなかを足早に通り過ぎた。通り過ぎるものはただあてどがない。当時、私は自分が発狂するのではないかと思っていた。発狂は一種の風景だった。それでも私の思考は幸福なことに私の肉体のなかにあったかもしれない。だが自分の無と無知を和らげる手段はありそうでなかった。あっ! 突然、水を感じた。凍えるような水。私はオーバーコートを着たまま水のなかにいた。境内の池に落ちたのだった。池があることを忘れていた。水がコートのなかにまで押し寄せていた。ボードレールは書いている、「痴呆の翼の影が私の下を……」。その日はボードレールを読むのをやめにした。

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