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お知らせ(第101回 生はどこに?)

第101回 2018年8月





生はどこに?





鈴木創士


アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍
鈴木創士『アントナン・アルトーの帰還
ジョルジュ・バタイユ『ニーチェについて』無神学大全3

 偽の生はあるのであろうか。

 マラルメの生涯を記したアンリ・モンドール教授のマラルメの伝記について、作家で編集者だったジャン・ポーランはこんなことを言っていた。「マラルメは自分にひとつの人生があったことを知って大いに驚いたことだろう」。
 マラルメは糊口の資を得るための職業と非妥協的な前人未踏の詩作のバランスを必死に取るために、その生涯に波風を立てない平凡な生活を送った。人生という観点だけからすれば、マラルメは凡庸と晦渋、月並みさと韜晦の間を孤独なまでに行き来したにすぎなかったのかもしれないが、それは彼の生きた時間が彼自身に命じた、あくまでも過酷な振舞いであり身振りであった。それが彼を彼自身に変えたのであろうか。彼を彼自身に変えたのは永遠ではなかった。マラルメは言っていた、「ひとつの危機は健康状態である、悪=病と同じくらいの」。
 手紙のなかでマラルメがランボーのことを、結局はただの「通行人」であって、天才詩人でありながら、彗星のように誰にも何の影響ももたらさずただそこを通り過ぎただけであると言ったのには、明らかに同時代人としての羨望の念と嫉妬のようなものが込められていた。たとえ「瞠目すべき通行人」であったとしても、それはただの通行人である。だがランボーは自分の人生そのものを、まさにそのただなかを通り過ぎたのであって、ランボーがほんとうにそこを(どこを?)通り過ぎたのかどうかをランボーになり代わって実際に知った者は、マラルメを含めて誰もいなかった。ピエール・ルイスが言ったように、マラルメが作家ではなく文学そのものであったとしても、マラルメの詩が「壊乱」それ自体であったとしても、マラルメは、自分にとっての思考の軋轢の範疇に接する生というあまりにもありふれた一点において、ランボーを理解することはできなかった。ひとつの人生のなかをただ通り過ぎること、故郷のシャルルヴィルからアビシニア(エチオピア)まで、詩の危機の絶頂から砂漠での商売の失敗、右足の切断まで、通り過ぎてしまうこと、普通そんなことはあり得ないのである。

 ジャン・ポーランはモンドルー教授の「マラルメ」に対して皮肉を込めて批判的言辞を吐いたのであろうか。それがかなり誇張であったとしても、当然、そうである。だがポーラン自身の見かけの生はどうだったのか。
 彼はガリマール書店の『NRF』誌の編集長を一九四〇年まで続けたが、対独協力を拒否して辞任。レジスタンスに加わる。その後も編集者として活躍し、すぐ戦後には『新NRF』誌の新編集長として返り咲いた。作家としてのジャン・ポーランについては、文学のテロリズムについて論じた有名な『タルブの花』はさておき、エッセーなどに見られる彼の作品の筆致は冷静沈着で、地味で、それでいてとても奇妙なものであるが、編集者としてはずっとフランス文学界の名うての黒幕的存在であった。
 アルトーやセリーヌを含めた、自分が発掘したとも言える一筋縄ではいかない作家たちと交わした書簡も多く残されている。最も売れた本である『演劇とその分身』ですら二千部そこそこだったアルトーの全集が、なんとアルトーの生前にガリマールから刊行されることに決定したのには、ジャン・ポーランの力が大いにあずかったことは言うまでもない。ポーランはアルトーに金の工面をし、密かにアルトーの阿片解毒治療代まで払っていた。少なくともポーランは自身の立場や生活をすら巻き込んでしまう危険な作家たちの生に接し、間近からそれを注視していたのである。

 いや、たしかにポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアがそうであったように、他人のごとく、どれが誰かもわからない無数のアルテル・エゴのごとく、あるいは、そうではないと主張する人たちが大勢いるように、紛れもない張本人として、犯行現場に戻った犯罪者のごとく、あるいは世界という見えざる機構の動力である天使のごとく、こちらとあちらを分けるように、人生のなかを通り過ぎることができれば、それはそれでたいしたことである。しかし結局、本人はどこへ行ってしまったのか。だがどちらかといえば、本人ではなく、他人のごとく……。人生のなかのあらゆる身振りがそれを示しているではないか。しかしペソアの場合は勿論のこと、「君」でもなく、マラルメでもなく、「私」の人生のなかでは、「私」自身が通り過ぎたことに変わりはなく、「私」は別の「私」、あるいは「それ」と入れ替わることができるだけである。

 しかしここでひとつの疑念が生まれる。
 たしかにアントナン・アルトーの生は波乱に満ちたものであった。幼少期の病気、シュルレアリスムの最も過激な詩人としてのデビュー、シュルレアリスム運動からの離脱とかつての盟友である友人たちとの絶縁、映画俳優、演劇理論家であり舞台役者としての活躍、度々暴力沙汰まで引き起こした劇団のいわゆる失敗、経済的問題、ヘロインの禁断症状をともなったなかでのメキシコの山岳地帯への旅、インディオの儀式への参加、アイルランドへの旅、はっきりとは理由のわからないそこでの騒動と逮捕、フランスへの強制送還、その後の精神病院への九年間にわたる監禁、戦時下における入院生活での想像を絶する辛酸、電気ショック、栄養失調、かつての友人たちの尽力による精神病院からの解放、生涯にわたる麻薬との抜き差しならぬ深い関係、そして全身癌などなど……。
 しかしこれらの出来事がアルトーの生涯のなかで実際に起こったことだとしても、アルトーがむしろ「生の欠如」に苦しんできたというのもほんとうであった。La vieという不可解なフランス語は、「生」とも「人生」とも「生活」とも「生命」とも訳すことができるが、アルトーはその人生において、その身体の生身の生において、生の根本的欠如をあのあまりにも具現化された生の根幹のなかでつねに感じ、その原因とおぼしき敵に戦いを挑み、地団駄を踏み、激怒し、攻撃の手を緩めなかったが、その穴を埋めてしまうことは勿論アルトーにもかなわぬことであった。アルトーは明らかに全身全霊でそのことに苦しんできたのである。
 詩人としての、物を書く人間としてのアルトーの出発は、彼自身が若い頃に言ったように「思考の欠如と崩壊」にあったのだから、生涯続くことになるアルトーの言葉と生との関係は、生理的にすらどうにもできないこの否定性から出発したものだったことになる。生の欠如……、この点でアルトーに曖昧さはない。
 それでもしかし……、思考には穴があいているが、この恐るべき間隙から絶えず漏れ出てくるのは同じく生の暗い力であり、この裂け目から不可解な光がぼんやりと射してくるのだ……。アルトーが書いたものにはそのようなところがある。この場合は、生の欠如が、閃光のような生のまったき現前として現れているとしか考えようがないのもまた確かであろうが、これは「書く」という特殊な状況のなかでだけ起こっていることなのか。書くことによって、そして書くために、生は欠如として現前するのであろうか。いや、必ずしもそうではないだろう。
欠如と現前のこの乖離、この如何ともしがたい隔たりのなかに、アルトーの人生の息詰まるような諸瞬間が通り過ぎ、そして彼の演劇理論をつくり上げたはずの、それらの瞬間を通り過ぎる彼の身体の振動が絶えずひしめいていたのであり、それこそがアルトーの固有の生を形づくっていたとも言えるのである。

 バタイユは『ニーチェについて』のなかでこんなことを言っている。
 「幸運は既視の印象と結びつく。
 幸運の対象は、純然たる一なる存在ではなく、個々に分離した存在である。分離した存在は分離を否定する力を持つが、この力は、分離した存在としての、この存在に偶然訪れる幸運によってのみ与えられる」。

 バタイユの文脈から勝手に逸脱するならば、それともそれほど的外れではないかもしれないが、これをニーチェの永劫回帰の定義として受け取ることができるように思われる。永劫回帰のヴィジョンがひとつの既視の経験であることは誰もが知っているではないか。ただしこの既視の基盤は「この存在」に対してなされた反復にあるのではないように思われる。いくつもの人生のなかに幾度も現れる「あの蜘蛛も、あの枝間から洩れる月の光も、そしてまさにこの瞬間と俺自身も」、そのように思えたとしても、二度目の経験ではなく、何度繰り返されようが、いまここでは、一度目の、この生における、他から分離されたただ一度きりの経験でしかない。この経験が純粋な「一なる存在」でないことは、これが繰り返し反復されることからあくまでも事後のこととして帰結されるが、しかしこの経験はすでに存在の全体からも分離されてしまっているのである。一なる存在でないのは、この経験が全体に属さないからである。
 ニーチェの見たヴィジョン、そのイマージュは、たしかに他から分離された経験にほかならない。全体から分離された存在は、イマージュがそうであるように、全体に属することなく、しかしそのことによって消えることはない。バタイユが言うように、分離された存在は分離自体を否定するのだから、既視がわれわれに与えられる幸運であり、つまり骰子の一振りの結果と受け取られてもそれはそれでうなずける。幸運……、だが誰がそれをわれわれに与えるのか。しかし幸運をもたらすのは不幸の全体それ自体ではないのか。そして生全体から、というかむしろ存在の全体から分離された生はひとつの力、ひとつの不幸の力であることをわれわれは知っているではないか。不幸が僥倖として与える幸運の力であると言ったほうがいいかもしれないが、それは単刀直入に言って、不幸が与えた力なのである。

 永劫回帰はほんとうに分離された何かしらの存在に偶然もたらされた幸運だったのであろうか。一八八一年八月に、ニーチェがスイスのシルヴァプラーナ湖畔を散歩していたとき、岩の上で得たこの永劫回帰のヴィジョンが、しかしバタイユの言う幸運のように、ただの偶然としてニーチェにもたらされたのであれば、つまり外からやってきた啓示のようなものであったとすれば、約八年後のニーチェの発狂とそれを結びつけることは可能であるかもしれない。言うまでもなく、幸運のあまりわれわれは発狂してしまうこともあるのである。ニーチェは宗教を激しく否定することによって、ある種の宗教的段階に達してしまったと言う人たちもいるからである。だがもうそんなことはどちらでもよいことである。偶然であれ何であれ、このニーチェのヴィジョンはひとつの思考である。これはまぎれもない生の経験のなかにある、われわれの生と似ているほかはないひとつの生のなかにある、ひとつの思考の力だったのである。

 アルチュール・ランボーはまだ詩を捨て去っていなかった頃、自分は「場所と方式」を見つけ出そうと焦っていたと言っていた。自分の生はどこにあるのか。生の定式はどう考えても、どうあがこうとも不可能のなかにしかなかったのか。まだ少年だった彼はどこにいようと、どんなていたらくであっても、酔っ払っていても、絶望の極みにあったとしても、来る日も来る日も歩きながらずっとそれを考えていたのである。
それにしても私の生、君たちの生はどこにあるのであろうか?

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